穴守稲荷神社

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穴守稲荷神社

鳥居と拝殿
所在地 東京都大田区羽田五丁目2番7号
位置 北緯35度33分01秒 東経139度44分59秒 / 北緯35.550389度 東経139.749639度 / 35.550389; 139.749639座標: 北緯35度33分01秒 東経139度44分59秒 / 北緯35.550389度 東経139.749639度 / 35.550389; 139.749639
主祭神 豊受姫命(稲荷神)
社格 羽田要島(現羽田空港)鎮守・旧村社・関東一流祠・東京八大稲荷
創建 化政時代(西暦1804年1831年)頃
本殿の様式 権現造
別名 あなもりさん・羽田稲荷・穴守神社・いろは稲荷
札所等 羽田七福いなりめぐり 第七番
例祭 11月3日(文化の日)
主な神事 初午祭(2月初午の日)・献灯祭(8月下旬の金・土)・航空安全祈願祭(9月20日)など
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穴守 稲荷神社の位置(東京都区部内)
穴守 稲荷神社
穴守
稲荷神社
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穴守稲荷神社の位置

穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)は、東京都大田区羽田にある稲荷神社祭神豊受姫命東京を代表する稲荷神社であると共に[1][2]羽田空港内に鎮座していた歴史[3][4]や航空黎明期の大正時代から続く飛行安全の信仰、最も空港に近い神社[5][注釈 1]という立地から、航空安全旅行安全空港鎮護の神社としても知られている[6][7][8][9][10][11][12]

概要[編集]

社名[編集]

波浪が穿った穴の害より田畑を守り給ふ稲荷大神(堤防に空いた穴がもたらす災いから羽田の土地を守る稲荷の神さま)」という意味から「穴守稲荷神社」と称され、単に「穴守稲荷」、鎮座地から「羽田稲荷」とも呼ばれる。戦前は稲荷を外して「穴守神社」とも呼ばれた[13]。また、明治時代日本最大の牛鍋チェーン店であった「いろは」の経営者木村荘平が神社の発展に貢献したことから、「いろは稲荷」とも称された[14]

また、京浜地域の稲荷信仰の拠点として「関東一流祠」「城南の伏見稲荷」とも称される[15]

祭神[編集]

豊受姫命 - 「穴守大神」「穴守稲荷大神」「あなもりさん」とも称される。

御利益・信仰[編集]

祭神が、稲荷神である上に、豊受大神宮伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受姫命であることから、五穀豊穣・大漁満足・商売繁昌・各種安全祈願・災難除・開運招福・必勝祈願・心願成就・芸能上達・病気平癒など幅広いご利益があり、場所柄や歴史的背景から旅行安全・航空安全のご利益も有名である。そのご利益の強さから、伯爵東久世通禧によって、

「ねがひごと かならずかなふ 穴守の いなりの神よ いかに尊き」

という和歌も詠まれた[16]。また、古くから伝わる羽田節の一節にも

「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」

と謡われている[17]

東京横浜川崎産業界芸能界を中心に[18][19]在外邦人も含めて各地に崇敬者を有し、場所柄ゆえ空港関係者の信仰も篤い。また、後述の神砂信仰や霊水信仰、俗説ではあるが「穴守」という名前から、「『』を『(性病から)守る』」に通じると考えられて、江戸時代より花柳界女性病に悩む人々の信仰を集めたり[20]、「大『』」を願ってのものか、競馬競輪宝くじなどのファンからの信仰も集める[21][22][23]など、様々な特殊信仰も有する。競走馬イナリワンの名前の由来となったことから、昨今はゲームアプリウマ娘 プリティーダービーファンの間で聖地にもなっている[24]

家内安全を祈り、商賣繁昌を念願するものが、商人、職人、花柳界に多いことは勿論だが、今の非常時内閣に、海相の椅子を占むる大角大將が、親任式の翌日遙々自動車を飛ばして穴守樣に參詣して居るところを見ると、穴守樣の信徒層は、竪にも深く、橫にも廣い。社掌金子胤德氏の所謂「神人水魚の親しみ」は、唯り羽田發展の基調である — 菊地政雄 編『蒲田区概観』より
祭神についての奉納歌
いなりといふは稲生いねなりと、いふこころなりかみの御代みよ
たべもの衣物きものすむいへの、もとみなしたまひにし、
かみにまします其御名そのみなは、倉稲うか御魂みたまやとゆけひめ
おほ宜都比売げつひめ保食うけもちの、かみとしかみとあふぐなり、
わきて登由祁とゆけ大神おほかみは、雄略ゆうりゃくていのおほ御代みよに、
伊勢いせにましますあまてらす、すめおほかみの御誨みさとしに、
より丹波たには真名井まなゐより、いでまさしめて百伝ももつたふ、
度会わたらひごほりあしきの、山田やまだはらにみやばしら、
太敷ひとしきててあめつちの、むた永久とこしへのひとを、
めぐみたまふぞ有難ありがたき、
神風かみかぜ伊勢いせのうちのと大宮おほみやの ちぎはみそらそびえぬるかな — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より

神社拝詞[編集]

掛けまくも畏き、穴守稲荷大神の大前に恐み恐みも白さく、神代の昔大神の御功績の随々飢ゆる事無く凍ゆる事無く、食物、衣物、住家の事を始めて八十禍つひの禍事無く、家内安全に和び睦びて朝夕に、勤み務ぶる営業を緩む事無く怠る事無く、弥進めに弥進め給ひ、弥助けに助け給ひて、家門を起さしめ給ひ廣しめ給ひ、常磐に堅磐に命長く、子孫の八十続きに至る迄、五十橿八桑枝の如く立栄えしめ給ひ、過ち犯す事の有らむをば、神直日大直日に見直し聞直し坐して、夜の守日の守りに守り幸はへ給へと、恐み恐みも白す — 『穴守稲荷神社史』より

由緒[編集]

創建以前[編集]

今、羽田といえば、「空港」の存在を思い浮かべる人も多いでしょう。しかし、羽田には漁業や海苔養殖を営み、海辺の暮らしを続けてきた歴史があり、参詣行楽地としての穴守稲荷神社の賑わい、さらには京浜電気鉄道による沿線開発などにより発展してきた歴史があります。 — 大田区ホームページより
多摩川にさらす手作りさらさらに 何そこの児のここだ悲しき — 詠み人知らず 『万葉集』より
此地の眺望、最も秀美なり。東に滄海満々として旭日の房総の山に掛かるあり、南は玉川泥々として清流の冨峯の雪に映ずるある。西は海老取川を隔てて、東海の駅路あり、往来絡繹たり、北は筑波山峨々として、飛雨行雲の気象萬千なり。此島より相州三浦浦賀へは、午に當たりて海路凡そ八九里、南総木更津の港へは巳に當たりて海路八九里、南北総の界は卯に當たりて海路十三里計りを隔てたり、冨峯は西の方に見ゆ — 『江戸名所図会』より

穴守稲荷神社の鎮座地である羽田地区は、「羽田郷土誌」によれば源義朝平清盛に敗れた平治の乱の後、源氏落武者7人が羽田浦に漂着して開村したと伝わる。以来漁村として発展したが、比較的早い段階で現在の東糀谷辺りが干拓され、六郷領用水が羽田地区まで引かれたこともあり、農村として発達した側面ももっていた[25]

地名の由来には、以下の説などがある[26]

  • 地形説 - 多摩川河口で海に接する地を「ハネ」という。
  • 地名説 - 古代の荏原郡に特に多い田のつく地名。
  • 半田説 - 方言で半分のことを「はんだ」ということから。
  • 地形説 - 海老取川を境に二分され、その形が海上から見ると鳥が羽を広げたよう見えることから。
  • 土質説 - 赤土・粘土地などの「はに」に由来する。
  • 開墾地説 - 新開地・墾田を「はりた」というが、その転訛

1693年(元禄6年)頃には、羽田村のうち、多摩川に面した一帯は羽田猟師町と呼ばれる漁業専業の町となり、人家が集中し活況を呈した。羽田猟師町は、漁村部が農村部と分かれる形で分村したもので、当初その境界はあいまいだったとされる。近代の羽田猟師町は概ね、現在の弁天橋通りの南側で、西の中村地区(現大師橋の上手、流水部が堤防に接近して河原が無い辺り)から、東の大東地区(海老取川の際)までの範囲となる。中心に「羽田の渡し」を有し、多摩川水運を利用した材木船、砂利船、年貢米輸送船などが多く、経済力を背景とした商人も多く存在していたという。羽田は多摩川の河口にあって魚貝類が豊富に採れたため、江戸城に新鮮な魚貝類を献上する「御菜八ヶ浦」の一つとして幕府から指定を受け、羽田猟師町は江戸湾における漁猟の優先的特権を有して繁栄した[25]

新田開発と稲荷大神の勧請[編集]

穴守稲荷神社の本来の鎮座地である場所は、現海老取川の東側で今の羽田空港一丁目・二丁目付近にあたる「羽田浦」である。羽田浦は多摩川の河口で江戸湾にそそぐ三角州の窪地であり、元禄天明の頃にはが一面に密生した干潟であった[27]

(文化五年十二月)十七日、空くもりて日の出るを見ず。巳の時ばかりにやどを立ちいづ、野羽織半天を服し股引を穿ち草鞋をつく。六郷のわたりをこえて、八幡塚村の内ところどころ堤のくづれたる所おさむべきために、名主案内して、間棹をもて丈量す。 雑色村より羽田村までの道あししとて、日よけ船にのりゆく。ややありて猟師町にいり、羽田の方にむかふ。蝦取橋といふを渡りて、羽田の弁天の前なる棚橋をわたり、社に入る。 玉川弁財天といふ額を掲ぐ。ここは要島といふ所なり。別富を金生山龍王院といふ。年頃此神の宮居を遠くのぞみて一度もまうづる事なし。今日はからづもここに来れるを思ひて、白銀一つぶをささぐ。宇賀神の小祠あり、御穴宇賀神といふ。ここに常燈籠の高きありて、入来る船の目じるしとせしも、近頃はたえて、そのかたばかりを残せり — 『調布日記』より

当時の羽田一帯は、江戸近郊の漁師町として栄え、東に江戸湾を隔てて房総諸山を望める海浜の地であり、西には富士山を仰ぎ、南は多摩川に接し、北には品川越しに江戸市中を目にすることができる風光明媚な土地であった[28]。当時の羽田猟師町には鈴木彌五右衛門という人物がおり、天明年間(1780年代頃)、この彌五右衛門は羽田浦の東方にある干潟に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした[29]

そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村(現在の本羽田付近)の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという。1815年文化12年)頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[30]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本のの木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から「扇ヶ浦」とか、元々一つの小さな島があったことから「要島」と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さなを建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願して、稲荷大神を祀ることにする[29]

穴守稲荷神社は、文政年間此の地の名主、鈴木弥五右衛門と云ふ人、数町歩の海沼を埋め立て、附近の農夫をして盛んに其の業に従事せしめしが、水害を恐れ堤防を築き、数千株の稚株を培植し、其の辺傍に小祠を建て、五穀守護神として、豊宇気比売命を祀る — 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起 全』より

1829年文政12年)、この開墾地は羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた。その後、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田の三集落を合わせて「羽田三ヶ村」といわれるようになった[29]

文政の末あるいは天保の初め頃、襲来した大暴風雨津波によって、堤防の土手の横面に大穴が開き、海水が侵入して、懸命に丹精した田圃もまさに荒廃する危険に直面した。その様子を監視していた農夫はすぐさま名主の彌五右衛門に知らせると共に、法螺貝を吹き、篝火を焚いて、五十余名におよぶ農民たちで、鋤や鍬などの農具を持ち集まると、彌五右衛門の指揮の下、死力を尽くしてその土手を守った。その甲斐もあって、海水の侵入を免れることができた[31]

しかも、その後は全く水害に遭わなくなり、凶年の兆しも見えず、一帯は良質な田園地帯となった。これは農民たちの努力のためばかりではなく、神の助けがあったに違いないという声が出て、それはおそらく土手上の祠に祀られた稲荷大神の神徳と人々に考えられるようになった。そのためその祠を敬う人々が増え、また「波浪が穿った穴の害より田畑を守り給ふ稲荷大神」の祠ということから、「穴守稲荷大神」と尊称されるようになった。それから、彌五右衛門はそのようなありがたい祠を土手の上にそのままにしてはおけないと、自分の屋敷内に遷し、丁重に祀ったという。なお、もともと祠は無く、大暴風雨の後、稲荷大神が水害を防いだことに感謝して、土手の上に祠が建立されたという説もある[31]

また、堤防や水害は関係がなく、鈴木新田に住んでいた周達という医者が、人に化けて村人を騙す悪い狐を看病したところ、狐は医者を騙すことなく恩返しをしたので、村人が社を建立し、狐を崇め奉ったのが始まりという説などがあるが[32]、いずれにしてもこれが穴守稲荷神社の起源となった。基本的には、鈴木家の邸内にある屋敷神という形であったが、近隣住民の信仰も集めた。その当時の社殿の大きさは不明であるが、今でも民家の敷地に小さな社殿と鳥居が鎮座しているような、文字通りの小祠であったと想像される。

創建についての奉納歌
みやこのたつみ四里よりあまり、はねだのさとのあふぎうら
あふがぬひといまぞなき、みいづかしこき穴守あなもりの、
稲荷いなりのかみのそのはじめ、物知ものしりびとにたづぬれば、
文政ぶんせいそれのとしとかよ、このぬし鈴木氏すずきうぢ
ことあるときそなへにと、あらたにきづく堤防ていばうに、
千株ちかぶ小松こまつちとせまで、みどりいろそひさかえよと、
おほしたてたる其許そのもとに、こく成就じゃうじゅかみとして、
豊宇気比売とようけひめくしみたま、わきみたまをばいささけき、
秀庫ほくらいはひたてまつり、ちよに八千代やちよ諸人もろひとを、
まもりたまへとねぎまおし、のみまをしたることの、
むなしからぬぞありがたき、
おふしたてし小松こまつとも奇霊くしみたま 千代ちよよろづよもさかえますらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より

行楽地としての発展・繁栄[編集]

明治34年頃の境内全景図

明治から終戦(昭和20年)までの穴守稲荷神社と羽田地域は、隆盛とその後にくる戦渦に翻弄された大激動の時代であった。

明治の初年村民某なるもの漁業の帰途偶々堤頭に老狐の数児を擁し遊ぶを見戯れに獲る所の小魚二三を投じて去る

漁夫即夜夢に老狐の来るを見る曰く汝先に投ずる所の魚少数にして数児に分つに足らず望むらくは尚ほ数多を與へよと 漁夫夢破れて之を奇異とし翌日又海浜に漁業す獲る所前日に数倍するを以て再び数尾を穴中に投入す 是より先き漁夫の妻宿痾に苦み数月の間病褥に在り加ふるに坐臥自由を欠き殆ど薬餌の施す可きなく再び起つ能はざるの悲境に遭遇せり 漁夫謂らく昨夢果して正なれば寔に是れ霊狐なりと試みに祈りて以て妻の病癒を乞はんと夫より日々漁す所の魚介を供して祈願を凝らす 果せる哉日幾許たらすして不起の宿痾頓みに快癒し加ふるに営む所の漁業日々夥多の収獲ありて家計も又随つて饒かなるに至れり

是に於て益信仰の念を起し日夜敬崇参拝を怠らす旦己れ既に受くる所の霊験を談示せるに依り里人耳相伝へて村郷到る所に喧伝し衆諸争つて祈願を籠むるに又一として霊験あらさるはなし — 穴守稲荷の霊狐について明治初期の伝承 藤井内蔵太郎編「羽田穴守稲荷由来記」より

明治時代になると、明治政府伊勢の神宮を頂点としたいわゆる国家神道体制を構築し、あらゆる神社をその体制のもとに再編成する取り組みを始めた。そして、1872年(明治5年)8月、大蔵省通達により、地蔵堂鎮守社などの社寺を届出のないまま建立する事を禁止。また、翌年12月、教部省通達により、私有地に鎮守神や仏像を祀ったり、周辺住民がそこに参拝する事を禁止すると共に、建物を処分しなければならなくなった。穴守稲荷も当然取締りの対象となるものだった。このような状況下、強制的な取壊しはなかったものの、私的祭祀からの脱皮が急がれることになった[33]1884年(明治17年)9月15日には、いわゆる将門台風により全壊してしまうが、土地の古老橋爪英麿や金子市右衛門、鈴木寒之助、石川又一郎らは、これを復旧し、一挙に「衆庶参拝(公認)」の立派な神社の資格を得たいと思い立ち、「稲荷神社公称願」を東京府に出願して、最初は却下されたものの、11月18日再度詳細な嘆願書「稲荷神社公稱に付再願」を東京府に提出して、1885年(明治18年)12月26日には社殿完成後検査の条件付で公衆参拝の独立した一社として許可を得ることができた[31]

該社は鈴木新田の草創の社にして本村は文政二年同村鈴木常三郎一己所有にして開墾す落成の際稲荷祠を勧請す依て農漁村の村民等豊作大漁を祈ること積年なりしも明治十七年九月十五日暴風の害に罷り旧社大に破壊す昨年の秋より不漁打続くか故に参拝するもの多く随て信徒も増殖仕候に付再建の義を企望する信徒惣代等協議の上共有の一社を建立せんことを奉願候也 — 『稲荷神社公稱に付再願』より

9月の「稲荷神社公称願」の主旨は、文政年間より「崇敬罷在候処近来信仰者漸次増殖シ既ニ数百名ノ多キニ至リ参拝ヲ請フ者陸続」としているので、正式に「衆庶参拝」が出来るようにするとともに、 「明治十七年九月十五日暴風ノ害ニ罹リ旧社大ニ破壊」してしまったので、社殿を再建して永続をはかりたいというものであった[34]。また、信徒名簿が添付されており、この名簿に記載されている信徒は、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田を中心に、大森蒲田雑色八幡塚糀谷川崎品川等の住民で、752名にも上っており、すでに地域を超えた信仰の広がりをもっていた[34]。11月に提出された「稲荷神社公稱に付再願」には、「最前出願候趣聞傳へ新に信徒加入の者四百餘名の多きに至り各應分の寄附金等仕り頻りに再願熱心するに依り誠に以て奉恐縮得共別紙永續方法並に繪圖面信徒名簿等相副連署を以て再願仕候」と述べられている[35]。こうした急速な崇敬者の増加によって、「公衆参拝」が出来る神社として認可されることになったものといえる。

同年には、彌五右衛門の婿養子・鈴木常三郎が、鈴木家の土蔵に住んでいたが、常三郎の娘の病気を治したとして、秋に祭礼を行った。それがきっかけとなって、近隣の農漁民の参拝が一層増えていった[31]

1886年(明治19年)11月には、「穴守神社」という社号が官許され、鈴木新田内の広大な土地に萱葺の社殿が再建された[36]1887年(明治20年)3月には、東京府知事に「穴守稲荷神社落成検査願」及び「神社落成ニ付遷座式願」を提出し、翌月認められている。

再建された穴守稲荷神社は境内も広くなり、公衆参拝の認証があってからは急激に講社結成の申し込みが盛んになった[37]。明治30年代半ばには東京、横浜だけで講社数150、講員10万人以上を数えるようになり、講の所在する地域は、東京府下はもちろん、神奈川千葉埼玉茨城静岡などの近隣県、そして福島新潟北海道に至るまで、日本各地に講が誕生するほどであり、参詣者で境内は殷賑を極めた。特に旧東京市内の講社は数多く、都市住民の熱心な受容を集めた。また、郵送などの方法によって、台湾朝鮮中国西洋諸国に住む日本人が、知人に頼んでの代拝も盛んに行われ[38]、、大正時代の講社名簿には海外の講社として、シアトルの『北米シヤトル講』の名も見受けられる[39]。花柳界の講社もいくつか結成され、東京では『東京洲崎廓講』(深川廓講、洲崎遊廓)と『浅草新吉原賛成員講』(新吉原講、吉原遊廓)が結成された[40]。更には横浜(外国人居留地)在住者を中心とした欧米人中国人の参詣も数多く、狐の石像や鳥居などを奉納する者もいたという[41]

崇敬についての奉納歌
あつ御稜威みいづをうちあふぐ、あふぎがうらの御社みやしろへ、
にそへとしごとに、まうひといやして、
いまやみやこのまちまちは、いふにおよばず皇国こうこくの、
みなみは台湾たいわんきたはまた、ほく海道かいどうてよりも、
遥々はるばるきたるのみならず、とほくへだたるとつくにに、
きて商業なりはひするものも、をりをりかりの玉章たまづさに、
おのがねがひの真心まこころを、かきておくりてしりひとに、
ねぎごとたのひともあり、されば御国みくに寄留きりゅうする、
外国とつくにびとのみやしろに、まうづるものもかずおほし、
にやみいづのしるしとて、あけのとりゐのかずしれず、
建列たてつらなるぞありがたき、
穴守あなもりのみいづはいま扇浦あふぎうら とつ国人くにひとあふぎぬるかな — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より
橫濱市山下町九十七番舘に英利西人が住んで居る、その妾に「ゼーネン」と云ふ若き婦人が先頃から病氣で何か心が魔はれる樣で、食事も一向食ふ事が出來ないところが或日穴守稻荷樣の事を聞いて然う云ふ利益の顕著な稻荷樣なら信心して見やうと夫婦連れて參詣した。すると其日から「ゼーネン」の病氣が大變快くなつて、間も無くすつかり平癒したので、夫婦は驚き且つ喜び御禮として石で六尺餘の狐一對を奉納して現に社殿の背後の靈山の麓に飾り付ける事とせり。 — 『穴守稲荷 : 信仰美談 外人靈験に驚く事』より
京橋區新榮町四丁目四番地に清國料理店黄香樓號と云ふ家がある。即ち支那人の料理屋で、そこの家に「河沂東」と云ふ支那人と、廣東廣州府香山縣人民小兒長何德泉と云ふ支那人が居て、この二人にも穴守稻荷樣の靈験顕著なるに感じて、明治二十六年二月二十日石の大鳥居を奉納して今も社前に立つて居る。 — 『穴守稲荷 : 信仰美談 支那人靈験に感ずる事』より
信者は日本人だけではなく、横浜南京町の支那人街にまで及んでいた。彼らは、お得意の中華料理の腕をふるい、ニワトリやアヒルの丸揚げを神前に供えた。稲荷といえば供物は昔から油揚げときまつているのに、なんというデラツクスな供物だつたろう。 — 松尾静磨(元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長 東京商工会議所著「東商(196)穴森の鳥居」より)
木村荘平(撮影年不明)

また、1886年(明治19年)に当時日本最大の牛鍋チェーン店であった「いろは」の経営者木村荘平[42]他23人ほどで「イロハ講」をつくり、神社の入り口に講の名を刻んだ真っ赤な鳥居を奉納したことから、神社へ朱鳥居を寄進することが盛んになり、1892年(明治25年)3月になると1067基、1900年(明治33年)には7502基もの鳥居が参道に建ち並び、毎月150基ずつ増えているような状況となっていた[43]。そして1911年(明治44年)には4万6797基、1918年大正7年)には遂に6万307基にも上り、関東地方の一名物と謳われ、「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われるほどの隆盛ぶりだった[44]。また、鳥居以外にも燈篭狐像旗幟などが寄進され、林立していた[45]

満都の士女は恐らく穴守稲荷を知らぬものはあるまい。穴守稲荷は今や都下を始として地方に多くの信徒を有し川崎の大師と対峙して非常に繁昌して居る。此の穴守稲荷は府下荏原郡羽根田村鈴木新田の並木土手に在り、以前は人跡すら絶えゞいと古びたる祠であって、一時は土地と共に抵当流れとなりかけて居たのであったが、氏は風の便りにこの稲荷の功験の著しき由を聞き、信徒及び世話人を集めて新たに祠を建て、穴守神社と云ふ額を掲げ、一大鳥居を建設し、講社を結び穴守元講なる信者の団体を組織して約一千の講員を募り、氏自らが京都伏見に赴きに御神体を受け来って祀り、神官に乞ふて時々神道講義をさせて居たが、軈て名は遠近に聞へて参詣するもの次第に多く、始め鳥居は氏が建設せしのみであったのが今では数千万を以て数ふる鳥居となり、寂しき漁村であったのが賑やかなる村落となり、参詣の善男善女は四六時中絡駅たる有様となった。之れぞ全く氏の力で、村民は氏を尊敬する余り同神社をいろは稲荷と呼んで居るさうであるが、近々君が徳を頌して穴守稲荷の境内に其銅像を建設するといふことである。 — 明治41年刊 松永敏太郎編『木村荘平君伝 氏と穴守稲荷』より
荘平氏は自分で筆を執つて大畧の寸法を定め、偖歸宅してから直に日頃出入りの棟梁向井、市川の二人を呼寄せ、深川の木場へやつて材木を探がさせると共に、自分の處の空地へ七五三縄を張り渡して、棟梁連には烏帽子直垂を着せて古式に依り墨縄の式を行ひ、一ケ月餘を費して出來上がったのを牛車五臺で持運んだのが、現に石橋の所に蘇然と立つて居る華表である。 — 『穴守稲荷 : 信仰美談』より
御穴の隣にあった奉納された鳥居で出来た山

現在、千本鳥居で著名な伏見稲荷大社の鳥居の数が3千基、稲荷山全体でも約1万基と言われているので[46]、それをはるかに上回る鳥居が存在していた。なお、「イロハ講」は穴守稲荷最初の講社となり、後に「東京元講(穴守元講)」と改称し、3年ほどで東京市芝区の講元を中心に麻布区京橋区などの住民数千人の講員を擁する有力講社となった[47]。その発展を讃えて、1886年(明治19年)には社殿と瑞垣を、1888年(明治21年)には絵馬舎を奉納している[48]

由来本祠に祈願の善男善女等は万さに本願成就の徴を得れば 禮賽満願の證として一の華表とりゐを奉献するを恒例とす

故に路傍に又は社殿背後に奉納する大小華表とりゐの夥しき實に幾千百に上り 一ヶ月の奉納平均百五十餘基あり

今や社殿の改築、神苑の設備其の外何、何と神域内外設計企畵の案、亦た多し其の隆盛繁榮豈に驚かさるを得んや 蓋し此の神の利験顕著なるの致す所にして 都下無數の神祠に於てすら未た見さる所の好況を呈せり

鳴呼、祭祀の霊、洋々乎ようようことしてさかんなる哉 赫々然かくかくぜんとしてあきらかなる哉

— 明治34年刊『穴守稲荷神社縁起』[49]
当社鳥居の多きこと一見人をして驚かしむ。 其状数町の間に互り。赤色のもの比々相倚り続々相連る。洞を成し隧を致す処。散ぜざるは何の霞ぞ。霽ざるは何の虹ぞ。実は羽田の一奇観なりといふべし。 — 明治44年刊『新撰東京名所図会』より
穴守稲荷に渇仰随喜して、赤い鳥居を寄進するもの今尚ほその跡を絶たず、終に境内に之を建つるの余地なく、いつも社の後ろへ数丈の高さに積みあげられて山を成すところを見ても、如何に多くの信徒をもつかゞ窺はるゝであらう。 — 菊地政雄 編『蒲田区概観』より
立並ぶ 朱の鳥居の 数見ても ひろき神徳の 程ぞ知らるゝ — 国学者 井上頼圀
羽田穴守稲荷神社の偉徳鴻大にして之を信する者は必ず幸福を受け子孫長久家内安全真に疑なし其神徳に感応し明治十九年始て東京元講を組織し敬神愛国の聖意を重す爾来此講社に加る者追日増加し僅々三年を出すして数千名の多きに至る豈盛なりと云はさる可けん哉茲を以て有志者相計り社殿の周囲に石垣を設け永く神徳を崇敬す其費を義捐せし者の名を刻し別に此紀念碑を建て以て其敬神愛国の誠意を不朽に伝ふと云爾 — 『東京元講碑文』より

鳥居奉納の推移(大正元年刊『穴守稲荷神社縁起』より)[50]

10,000
20,000
30,000
40,000
50,000
1886
1887
1888
1889
1890
1891
1892
1893
1894
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1898
1899
1900
1901
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1905
1906
1907
1908
1909
1910
1911
  •   鳥居甲
  •   鳥居乙

1889年(明治22年)5月1日には町村制の施行に伴い、鎮座地の鈴木新田も麹谷村萩中村羽田猟師町羽田村と合併、東京府荏原郡羽田村が発足し[51]、鎮座地が羽田村大字鈴木新田となった。

明治20年代中頃には、新聞にも穴守稲荷の名が見えるようになり、「第一家を繁昌させ、第二お金に困った時無尽を引く」「奇妙不思議な御利益」などと紹介されている[52]

1894年(明治27年)、鈴木新田の一部を所有していた和泉茂八が旱魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを内務省東京衛生試験所に成分鑑定を出願したところ、1896年(明治29年)9月4日に実地検査、9月23日に湿疹貧血胃腸カタルなどの諸病に効くナトリウム冷鉱泉塩化物泉)と認められた[53]。そこで茂八は泉館という温泉旅館を起こした。その後、付近のあちこちに鉱泉が掘られ、要館・羽田館・西本館などの旅館が神社の傍らに開業した。また、それ以前より営業していた料理店も風呂を設け、後には百余軒もの社前店が並ぶほどに発展した[38]。この温泉宿と割烹旅館の出現は、神社一帯が東京の花柳界などの保養地となり、神社参拝を兼ねた東京近郊の一大観光地として、一層の注目を集めるきっかけとなった。

鳥居前町の繁昌についての奉納歌
しづりませるくしみたま、くしきみいづのたすけにや、
ななとせ八年前やとせまへのころ、良水よきみづむとゆくりなく、
ひとつ井戸ゐどりければ、礦泉くわうせんたちまち湧出わきいでて、
たほく病者びゃうしゃいやしけり、さればそののちたれかれも、
これならひてりて、たかどのててきゃくつ、
社前しゃぜんにつらなる種々くさくさの、みせもひとしくきゃくぶ、
よりて益々ますますたよりよく、にはそむかぬいなづまの、
くるまもはやかよふなり、嗚呼ああありがたき穴守あなもりの、
かみ御稜威みいづをかかぶるは、いく千万ちよろづのひとならむ、
かくいやちこの神御霊かむみたま、かなめのしまのあふぎうら
みすゑひろくぞさかゆべき、
みやしろのためすべての営業なりはひを いとなむひとやいかにおもふらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より
鳥居前町の様子

1896年(明治29年)7月には、要館に出入りしていた廣井兼吉が 「御神水講設立趣意」の届出を神社に提出しており、この鉱泉は病気平癒・心願成就に導く霊水であり、鉱泉の発見そのものが穴守稲荷の霊験であると述べられている[54]。のちの講社名簿には、その御神水元講をはじめ、東京市内の神田区赤坂区麹町区・麻布区・芝区・北多摩郡立川村南多摩郡八王子町・千葉県東葛飾郡野田町・埼玉県北足立郡膝折村などに「御神水講」の講社名をみることができ[55]、鉱泉の発見が穴守稲荷に新たな霊水信仰をもたらし、講社の発展にも寄与した。

東京府武蔵国荏原郡羽田村鈴木新田ニ鎮座スル所ノ穴守稲荷大神ハ曩ニ明治 十八年ノ秋官ニ出願シテ公衆参拜ノ認可ヲ得タリ自来敬神ノ人々群集シ参拝ハ日ニ月ニ増加シ講社モ亦随テ数十講ノ多キヲ致ス時ニ一得一失ハ世ノ免レザル所ニシテ此ノ地ヤ一面清水無ク適井ヲ求ムルモ皆濁水ニシテ門前居住ノ者ハ更ナリ参詣人ニ至ル迄不便ヲ感スルコト既ニ久シ故不肖儀当社ヲ信仰シテ清水湧出センコトヲ冀フニ年アリ神地ニ一ノ清水アラシメハ幾個ノ什器数点ノ奉納品ニ増スベシト日夜辛苦シテ寝食ヲ忘レ此ノ希望ヲ達センコトヲ憂慮シツツ在リシガ精神一到何事ヲカ為サン殊ニ赫々タル神威ノ在ス處所何ゾ之レヲ躊躇セント今回吉晨ヲ卜シ最良地ヲ覘ヒ神井ヲ鑿チタルニ果シテ一ノ霊水ヲ授ケラレタリ始メ慮ニ数百間ヲ鑿下ゲ得ズンバ必ズ良水ノ有ル事ナシト日モ亦随テ幾十日或ハ幾百日ヲ経過セズンバ最低地ニ到ラズト而巳思慮セシモ量ヲザリキ地上ヨリ僅々数十尺ヲ鑿下シタリシニ霊水滔々噴出シ殊ニ其ノ時日ノ如キモ従テ少時間ノ中ニ此大効ヲ致サントハ是神ノ賜物ニシテ凡人ノ喋々スルヲ得ンヤ然リ然レバ此奇水ヲシテ内務省東京衛生試験所ニ出願セシニ迅速同所主任ノ技手来車アリテ先ヅ現場其他ヲ視察シ之レカ定量分折セリ該成蹟ハ別紙ニ挙グ熟覧シテ虚説ナラサラン事ヲ知リ給フベシ浴用内用トモ人体ニ大効ヲ奏シ諸病ヲ治療ス加之之レニ点火スレバ忽チ水面火炤トナル等実ニ奇々妙々ノ神水ナリ恭ク神術ヲ拝感スレバ此ノ御神水ヲ以テ随意ニ水垢離ヲ行ハセ神湯トナシテ広ク諸人ニ満足ヲ与へナバ一ハ神徳ヲ発揚シ一ハ心願成就ヲ導キ一ハ大寿ヲ全フスル等積年ノ志願貫徹セリト云ハズンバアラズ仍ナ今ヨリ御神水所ヲ新設シ併テ同講社ヲ募集セントス願クハ敬神ノ諸君陸続賛成セラレテ本講ノ盛大ヲ期セン事ヲ懇望スト 敬白

  明治二十九年七月

御神水志願発起人 羽田村鈴木新田六百十番地 廣井兼吉 — 大正元年刊 穴守稲荷神社縁起『御神水講設立趣意』より
穴守の稲荷と、川崎の大師は六郷川(多摩川の下流)河口の左岸と右岸に相対して、その繁盛ぶりを競うところの流行神と流行佛である — 相川二郎著『趣味の旅 名物をたづねて』より抜粋
平間寺もまた昔日の比にあらず、ただそれ東天朝日の勢ひあるものは、我が穴守稲荷神社あるのみ — 金子徳次郎著『穴守神社の縁起及び其の繁昌(下)』より抜粋

明治30年代に入ると、川崎大師と張り合うほどの有名神社となり、正月三が日の参詣は、穴守稲荷と川崎大師の両社寺を掛け持ちで巡る人が多く、早舟や渡し舟を使って動いていたという。また、2月の初午10月17日例祭は賑わい、日本でも著名なお祭りとして名を馳せるようになった[56]。熱心な信者や講社によって、掛軸太刀等の宝物や、灯籠等の神具の類の奉納が相次ぐようになり[57]1897年(明治30年)1月、要館などの社前店[注釈 2]や京浜諸講社の出資により、社殿の裏手に高さ33(約11メートル)の稲荷山(御山)が完成した[58]。一説には築造費用は、穴守稲荷神社の講社が5297.3円、木花元講(羽田にあった富士講の講社)4672円の折半によるものとされ[59]、富士講の資本が入っている事から、たびたび富士塚と誤認されているが、穴守稲荷由来記(明治34年刊)、穴守稲荷縁起(明治34年刊)、穴守稲荷神社縁起 全(明治36年刊)などの広く出回った資料を見ても、すべて「稲荷山」と説明されている事からも、一部の出資者が富士塚と喧伝していたものの、世間では稲荷山として認識されていたといえる。1904年(明治37年)11月には、稲荷山の高さは60尺(約18メートル)であったとの記述もあるが、写真資料や他の記録も無く、その存在ははっきりしていない。

戦前の稲荷山

1898年(明治31年)10月には、横浜にあった劇場羽衣座で歌舞伎『穴守稲荷霊験実記』が[60]1899年(明治32年)2月には、浅草の小芝居劇場宮戸座で『穴守稲荷霊験記』が上演されている[61]。いずれも歌舞伎作者瀬川如皐の新作とされ、神社の知名度を上げるのに貢献した[43]

参拝者が増える中、1899年(明治32年)には「穴守道」や「稲荷道」と通称される、現在の大鳥居駅付近から海老取川の稲荷橋を経由して、穴守稲荷神社の南側に至る新道が開かれた[57]。入口には指道標として大鳥居駅の駅名の由来となる鳥居が建立され[62]、右側には料亭がひしめき、左側は芸者屋が軒を連ね、日本橋から移転してきたものが多かったという[63]。そして料亭や芸者屋とともに、複数の大きな鳥居が設置され、脇にも小さな鳥居がトンネル状に並ぶように奉納された[64]

1900年(明治33年)、赤坂から黒田侯爵家鴨場が移転し、羽田鴨場が設置された[65]。黒田家14代目当主黒田長礼によると、飛来するの種類が多く、1915年(大正4年)の最盛期には4,200坪の池に1万5000 - 1万6000羽、時には2万羽を数えたという[65]。また、黒田家の鴨場以外に料亭要館経営の鴨場や横浜の実業家・渡辺良平所有の鴨場も設置され、羽田は鴨猟の場としても発展した[65]

黒田家の鴨場は東郷元帥とか、ああいう人たちが来ると猟をする。だから、上流の人の社交場だった。要館の鴨場の方は料理屋ですから、鴨を獲ってはお客に食べさせた。(中略)要館の客は穴守稲荷の参詣者などだった。穴守周辺は鴨猟の穴場だったんですよ。 — 季刊わが町 あれこれ 第15・16合併号より

1901年(明治34年)には、春秋の大祭時の参詣者が多く、女性の参詣もままならないほど境内が混雑するようになったことを受けて、境内東南の隣接地4900坪を買収し、新たに神苑を開設している[66]。この神苑は「池を堀り築山を築き種々の花や木を植え」[67]た庭園を造成し、海水を池にたくみに引き込んだ、かなり凝った造りとなっていた[68]。こうした神苑の整備に伴う神社の公園化は、川崎大師と並ぶ郊外の巡礼地兼行楽地化に繋がった[69]

同年には、中央新聞社が主催した東日本の避暑地「畿内以東十六名勝」のコンクールで「府下羽田穴守境内」が、「常州大津 八勝園」「横須賀 開陽軒」「東京芝浦 芝濱館」などを抑えて、最高点33万5934票を獲得した。その賞品として境内に総高46尺6寸の「四方面径四尺の干支附大時計台」が中央新聞社より奉納され、11月8日に落成式が行われた。また、避暑地投票後には、全国神仏各教派信者数募集が行われ、「三千四百十二 東京羽田 穴守稲荷信者」と、1位ではなかったが上位に入っている[70]

當日天氣晴朗、加ふるに要館内に新置せる出世稲荷の遷座式を執行せしかわ朝來参拜に参観を兼ねたる老幼男女堵の如く正午頃には殆んど二万人と註せられぬ

 大時計臺は海老取川の渡船場より八町餘元講寄附の大鳥居を越えて約十間の先き穴守参詣者の通路に當り屹然として高く聳えたり總高四十六尺六寸、灰色のペンキ塗鮮かに工を巧める五ツ棟の家根は二十餘町の四方より望見し得べく錚々として時を報する毎に無数の参観者が拍手する様勇ましくも亦樂しかりし

 午前十一時落成式事務所要館にて神官橋爪英麿氏を始め數十名豫定の序列を整へ時計臺に向って徐ろに歩を通びぬ行列は太鼓、切麻、大麻、祓主、樂人(五名) 大玉串、半櫃、斎主、來賓、有志等にて壮嚴謂はん方ゐく大時計臺の下に到るや先ず斎主の祓詞あり次に餅抛の式を行ひ新古俵數十貫文並に小餅七十二桶を群衆に投じ之にて式を終へ穴守社殿を經て出世稲荷新殿に到り遷座式を執行せり餘興として馬鹿囃子、藝者手踊等ありて午後一時要館にて盛大なる祝宴を張れり — 明治三十四年十一月十日 中央新聞記事より

1903年(明治36年)には、御神宝として五辻子爵家伝来の二尺三寸五分の太刀 三条宗近が崇敬者有志より奉納[71]され、5月28日には御宝剣遷座式を挙行。200を越える諸講社の講員等からなる大行列を成し、盛大に執り行われた。

京浜穴守線開通[編集]

1901(明治34)年2月1日、品川延長線として、六郷橋〜官設鉄道の大森停車場前(現JR大森駅前)間を開通させた。京浜間全通に向け、六郷橋から川崎、横浜方面ではなく、品川、東京方面に向かったというのは、もちろん許認可の問題も絡むが、第一には早く東京市内まで路線を延長させること、そして第二に、穴守線(現空港線)開業の目的をもっていたからである。穴守線については、穴守稲荷神社の繁栄にともない、開業の5か月後には大森から穴守稲荷神社への路線開通の計画を立てた。これは諸般の事情で実現できなかったが、このときから現在の空港線に結びついていく私たちの歴史が刻まれたのである。 — 「京急グループ110年史 羽田への道」より)

そして、この穴守稲荷神社の繁栄ぶりを見逃さなかったのが、京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)であった。鉄道を走らせることにより、徒歩か人力車に乗るかしかなかった参拝者の便を図ることを目的として、穴守への鉄道開業へ向けて動き出した[72]。当時は、まず川崎大師への参拝を済ませると、多摩川をはさんで対岸にあった穴守稲荷神社への参拝を兼ねて、遊びに行くという人が多かった。その人々は多摩川を渡し船で渡り、穴守稲荷神社へと向かっていた。そこで、海老取川の岸から南側に曲がり、多摩川に突き当たった所で土手沿いに西へ進み、今の大師橋(その手前に羽田の渡しがあった)を越え、現在大師橋緑地になっている所にあり、川崎大師に最も近い渡し場であった中村の「新渡し」から渡し船を利用して、大師線に結ぶという構想がたてられた[73]

明治時代の旧拝殿

その後、当時の京浜電鉄の駅で最も穴守稲荷神社に近い京浜蒲田から延伸することになり、1902年(明治35年)6月28日には、日本初の「神社の」参詣者輸送の為の「電気鉄道[注釈 3]である穴守線(現・空港線)が開通し、海老取川の手前に穴守駅を開業した。品川駅への延伸より先に穴守線が開通したのは、川崎大師への参詣客輸送の大成功が大きく影響し、これ以降、京浜電鉄は川崎大師と穴守稲荷の回遊を呼び物として、新聞での広告、回遊割引券の発売などあの手この手で集客を図るようになった[74]。「川崎大師へ詣でるなら、穴守稲荷へも寄らなければ片参り」といった宣伝も行われたという[75]。また、海老取川手前までの開通になったのは、神社周辺が既に住宅密集地であったことと、1903年(明治36年)に架橋された 稲荷橋 [76][77]から穴守稲荷神社までの続く道中の商店主や人力車稼業の人々が、商売にならなくなると反対した為といわれている[73]。とはいえ、この鉄道の開通は、羽田の地が東京や横浜の市民の日常的な参拝地兼行楽地になる事に繋がり、鳥居前町の一層の繁栄に寄与した[78]

品川より電車にのりて大森蒲田を経て、羽田に至る。橋をわたれば両側数町の間、物うる家、立ちつづき、赤き鳥居密接してトンネルを成す。そのきはまる処小祠あり。穴守稲荷とて、近年にはかに名高くなり、その参詣者の多きことは、ここに電車が通じたるにても知らるべく、鳥居のトンネルにても知らるべく、鉱泉宿、料理屋、商店など僅々十年の間、洲渚に市街を現出したるにても知らるべし。(中略)十年前、稲荷に接近せる鉱泉宿の要館に数日逗留して、著述に従事したこともありしが、その時は二三の鉱泉宿が出来て居り、祠前に十数軒出来て居りしのみなるに、十年の後には、かくまでに市街が出来るものかと、茫然として、しばし祠前に彳立す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋

10年前(1890年代)は、鉱泉が発見され、鳥居前町の発展が始まりつつあった頃だが、それからの10年間で急激にしたことがうかがえ、そしてその動きを可能にし、加速させたのが、穴守線の開通であった[78]

此より社殿迄は四町余り、無数の鳥居相倚り相連れり、遠くより之を望めば実に一体の霞とばかり、此の鳥居の隧道を中に挟んで掛茶屋は軒を列べぬ、名物は貝料理、張子の達磨、河豚提灯、土製の白狐と供餅とは神の供献の料と知るる — 遅塚麗水著『京浜遊覧案内』より抜粋

この頃の京浜電鉄大鳥居駅から穴守稲荷神社の辺りは、一面の畑が広がり、神社の鳥居は4丁余り(約400メートル)にわたってトンネル状に連なっていた。この左右には掛茶屋割烹土産物屋が軒を並べ、新鮮な魚介料理を提供する一方、海藻果実、貝細工や張子達磨、河豚提灯、煎餅葛餅、そして供物として土製の白狐や小餅などを販売していた。当時は穴守駅で下車して、稲荷橋を渡り、社前町を眺めながら、連なる朱の鳥居のトンネルをくぐり、穴守稲荷神社に参拝するのが、関東屈指の流行であったという。私鉄王小林一三も、穴守線開業の翌年1903年(明治36年)4月に、京浜電鉄が発案した大師線と穴守線で周遊するプランを実際に体験し、感心をしたという[79]

奉納された鳥居で出来たトンネル
8時頃、米谷君を誘ふて汽車で大森まで電車で穴守へ遊ぶ — 『小林一三日記 第1巻』より
元旦初大師として京浜電車によりて川崎へ詣でたるもの多く、序に穴守稲荷へ廻りしもの尠からず。電車会社にては此日絵葉書に初詣記念スタンプを押捺したるを切符に代用せしめ、以て参詣人の一興に供へたり — 『東京朝日新聞』明治40年1月3日付けより
川崎大師にお詣りする人で停留場は黒山だ。そして何れも川崎と穴守の廻遊券を買つて居る。 — 『東京日日新聞』大正2年1月2日付けより

穴守線の開通を契機として、参拝者はより著しい増加を見せ、ついに境内自体の大規模な拡張を迫られるようになり、1906年(明治39年)には700坪以上敷地が広げられ、一挙に1000坪以上に拡張された[80]

当神社は毎年三月例祭執行致し来り候処近年は右例祭当日には東京横浜及ひ各地方より数万人の信者参詣有之候然るに現境内僅に弐百九拾八坪にして此等の参詣人群衆雑踏致し危険不尠尚祭典執行上に於ても境内狭隘のため大いに差支相生じ候 — 神社境内地区域取広願より

その後、境内の整備はしばらく続き、1906年(明治39年)10月からは銅葺き総ヒノキ造りの拝殿・幣殿の造営が進められ、1912年(大正元年)9月になって、ようやく一通りの完成をみるに至った[81]。同時期の成田山新勝寺や川崎大師も大きく発展していたが、その土台は江戸時代やさらに以前からの蓄積であり、穴守稲荷は近代になってから体裁が整えられた事を踏まえると、よりドラスティックな発展であった[77]。また、1907年(明治40年)10月8日には鎮座地の羽田村が町制施行して東京府荏原郡羽田町となっている[82]

神社の拡大と並行して、当初穴守稲荷神社への参詣者輸送を主眼としていた京浜電鉄は、文芸評論家の押川春浪や押川の友人で文芸評論家ながら京浜電鉄に勤めていた中沢臨川の働きかけにより、1909年(明治42年)に陸上トラック・野球場・テニスコート・弓道場・土俵のほか、花壇や遊園地も兼ね備えた羽田運動場(野球場)を神社裏手の江戸見崎に設置したことを嚆矢として、羽田地域の独自の観光開発に乗り出し、境内には動物園までつくられた。

1910年(明治43年)3月には、穴守線の複線化が行われ、1911年(明治44年)7月5日には、京浜電鉄は羽田穴守海水浴場を開設し、報知新聞社と提携し同社の主催で、元内閣総理大臣大隈重信伯爵や渋沢栄一樺太探検で有名な白瀬矗中尉などを来賓に迎え、開場式を挙行した。宣伝効果もあって、会場直後の同年7月16日には、1日1万人を越える入場者が来場したと新聞の記録に残されている[83]。その後、羽田穴守海水浴場には、毎年5万人の入場者が来場し、後には海の家浄化海水プールも新設されている[84]。これらの施設は、当時の海水浴場としては群を抜いたものであり、海上休憩場のほか陸上にも休憩場2棟、収容人数は1万人、特別休憩室64室、3500人分の更衣室、東洋一と謳われた海水プール、海の遊泳場には飛込台やボートもあり、総タイル張りでシャワー設備等も設けた温浴場、滑り台やシーソー等を設置した陸上遊戯場、余興場、各種売店等、あらゆる施設を備えた一大娯楽施設だった[85]

稲荷といふ神様は、吾人の生活上最も親しき関係を有せらるるのである。その神様に家内安全商売繁昌を祈り、そしてこの五万坪も有る運動場や海水浴場に於て諸種の運動をなし、以て身心の健康を計るは、蓋し人生の一快事である云々 — 大隈重信(『大正元年刊 穴守稲荷神社縁起 海水浴公開式場での演説』より)

同年10月、京浜電鉄は穴守線を神社のすぐ近くまで延伸することを計画し、東京府に申請を行った[86]。しかし、この動きに対して再び「稲荷道」関係者が150名以上による延伸反対の陳情書を東京府知事に対して提出するなど反対運動を展開[87]、これを受けて警視庁などが調停に乗り出し、稲荷橋駅から穴守新駅までの間は別に運賃を徴収するということで落着し、延伸が決まった[88]

羽田穴守海水浴場
京浜電鉄(現・京急)の広告

また同年11月18日から11月19日には、1912年ストックホルムオリンピックに日本が初参加することになったことで、予選会を都心から近くて交通の便がよい羽田運動場で開催することになり、野球場を1周約400メートルの運動場に転換して、国際オリムピック大会選手予選会が開催された。

1913年(大正2年)には一帯が三業地花街)に指定され、そして同年12月31日には、遂に穴守線が海老取川を渡って神社前までの延伸を果たし新穴守駅が開業、穴守詣でと羽田の遊覧に弾みを与えた。夏季には観光客輸送のため本線と直通する急行列車も運転されるようになり、一層の賑わいを見せるようになった。一方で、それまで繁栄を極めていた「稲荷道」沿道は、客足がぱったりと途絶え、僅か一か月後の翌年1月には、延伸前合計80軒以上存在していた土産物屋や飲食店などが一挙に3軒を残すばかりになっている[89]

このような、明治半ばから始まる穴守稲荷と羽田の行楽地化は、日清日露の両戦争に勝利して、ようやく近代国家として歩み始めた時代と社会の反映でもあった。東京を代表とする都市の新興市民は、日曜休暇というそれまでの農間休暇とは明らかに質の異なる新しい生活リズムの休日を持つようになり、郊外に日帰りあるいは一泊で手軽に遊べる行楽地を求め出したわけである[90]。信仰と娯楽を混然とさせつつ、近郊オアシスとして羽田は姿を整えていったのである[90]。羽田穴守が優れていたのは、花街のような妖艶な空間、運動場や海水浴場といった幅広い層に向けたレジャー施設、東京湾や多摩川河口の優れた景観や神社のような聖域が共存していたところにある[91]。明治時代末期には、人口約1万5000人の羽田町の町税の内、人口700人の羽田穴守地域が2割以上を納めていたという[92]

このように、穴守稲荷神社周辺を中心とした羽田地域一帯は、神社への参拝や鳥居前町での観光ばかりでなく、競馬や羽田運動場でのスポーツオートレース自転車競争、海辺では春の潮干狩り、夏の潮浴み、秋のハゼ釣りと、多くの人で賑わっていたという。また、近くには個人経営のゴルフ場黒田侯爵家や料亭要館の鴨場などもあり、典型的と呼べる以上の第一級の鳥居前町であると共に、東京・横浜間の一大観光地保養地(総合リゾート地)の様相を呈していた。

橋の袂へかゝると、あゝもし〱橋銭をと傍らの番小屋から声をかけられ、大枚往復一銭の切符を買って橋を渡ると、赤い華表が算へ切れぬまでぎっしり建て隧道をなしてゐる、又其間には芸者や役者や落語家などの名を記した無数の献灯が行列してゐる、片側には名物の宝玉煎餅、飴、 蛤や土産物の玩弄物を売る店が軒を連ねて客の懐ろを狙ってゐる、一丁計りも真っ直ぐに行って左へ直角に折れると、両側の茶屋からコツテリ塗った口の光つた穴守だけに狐に縁のありそうな怪しい女が出て来て、お休みなすって入らつしやい奥もすいて居ります、お支度も出来て居ります。 お風呂も出来て居ります、お休みなすつて入っしやいと殆んど手を捉へんばかりに呼び込む — 『横浜貿易新報 穴守詣で(上)』明治41年2月27日付けより
社の後辺へ出ると松風と波の音とが先づ聞える、これから奥の院の人造が嶽に登つて、何処か絵になりそうな場所は無いかとレンス眼を睜つてゐると、傍らの四十恰好の男、鋸山が見えませんかえ、今日は生憎沖が霞みましたね、此見当が横浜で、彼処が高輪でさアと聞きもせぬ講釈をする(中略) 兎に角穴守第一の観と云へば、此処から東の海を見たところであらう、コバルト色の空と水との継目を、其間に点綴せる沖の白帆が楔のや(ママ)うにも見えて、一寸した洲鼻を黄ばんだ蘆が水を隔て向ふの岸を穏(ママ)して、その蔭を近く行く船の帆ばかりが松の隙から見える工合は、瀟洒してのび〱した光景で、俗の俗なる此境域には珍らしい眺めである — 『横浜貿易新報 穴守詣で(下)』明治41年2月29日付けより
花柳社會は勿論、縁起商賣、諸藝人抔が擧って信仰するのは穴守稻荷である、流行神の番附を調製へたら大關の位置は得られるだらう — 近藤蕉雨『新小説』「穴守稲荷」より抜粋
稲荷祠多きは古来、東京の一名物なるが、ここの稲荷は最も繁昌す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋
穴守稲荷」 羽田村の鈴木新田の潮除守護神として、江戸時代から祀られていた稲荷の小祠が、明治18年(1885)、公許を得て穴守稲荷と称し、商人や花柳界の信仰を集めた。35年(1902)には、京浜電車が参詣用の支線を敷設。赤鳥居や茶店が門前に並び、盛況をきわめた。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』「穴守稲荷」より抜粋[93]
穴守神社 羽田町字鈴木新田にあり。俗に羽田稻荷又は穴守稻荷と稱す。祭神豐宇氣比賣命。文政年間の創立。都下全般就中花柳界藝人等人氣商賣の者に信徒多く、參詣者常に絶へず。諸願成就御禮に人々の奉納せし赤鳥居は延長八九町の長きに亙りて一種の壯觀を呈す。附近の羽田沖は六郷河口に接し、風景頗る佳なり。 — 角田政治編『続最新大日本地理集成 上巻 交通名所之部』より抜粋
羽田 川崎 羽田の猟師町は六郷河口の一つの漁村だが、穴守稲荷があるので、京浜も人がよく遊びに出かける。 穴守稲荷も繁昌するが、以前はその近くに羽田グラウンドが出来てベースボールの競技場となつたので、学生諸君にもおなじみの多い土地であつた。 — 河井醉茗著『東京近郊めぐり』より抜粋
羽田といえば、昔は漁師町と辨天とできこえたものだが、今では穴守ばかりが人口に膾炙してゐる。そしてこの穴守稲荷が賑はふやうになつたのは、まだつい二十年前で、(中略)東京近郊の屈指の流行神になつたといふことは、不思議な現象である。つまり、花柳界方面の信仰を先づ最初に得たといふことが、かう繁盛していつた第一の理由である。 — 田山花袋『東京近郊一日の行楽』より抜粋
よくよく考えて見るとそれは御三の顔である。ついでだから御三の顔をちょっと紹介するが、それはそれでふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷から河豚の提灯をみやげに持って来てくれたが、丁度あの河豚提灯のようにふくれている。 — 夏目漱石『吾輩は猫である』9章より抜粋
府下で有名の稲荷は一々数うるに暇あらず。(中略)近来は羽田の穴守稲荷が大いに繁昌するという。 — 岡本綺堂『風俗江戸東京物語』より抜粋
いまの大鳥居駅のところに大きい赤色の鳥居があり、信者が寄進した大小の赤鳥居がトンネルのようにつづき、子供たちはおもしろ半分にくぐって行った。

穴守のお稲荷さんは、粋な商売や芸人たちの信仰を集め、参道の両側には料亭や土産物屋が軒をならべ、夜ともなれば芸能人の名入りの灯籠には石油ランプが点火され、賑やかに絃歌の流れる情緒があった。

お稲荷さんには、狐がお使いとされて、呼び捨てにして、𠮟られたことがある。お狐さまと敬称をつける風習があった。ここには狐の棲息する穴が数ヶ所あった。油揚げを供えて祈願すると、万事がかなうという霊験あらたかなものだ。 — 相羽有(昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ちより)
穴守稲荷は近年恐ろしい御繁昌で、京浜電鉄は予備の車をことごとく繰り出して盛んに人の山を運搬するが、穴守停車場はこれでも十重二十重の人垣を作って、押し合いへし合い、まるで火事場そっくり。中には運徳一番目にお礼を頂こうと前の晩から川崎あたりに泊り込んで、四時五時頃から詰めかけるものがあり、今年の如きは日曜と暖かったのとで八年来ない珍しい人出があったとやら。 —  若月紫蘭著『東京年中行事1』より抜粋
神社一帯の風景についての奉納歌
いく千代ちよまでも末広すゑひろく、あふぎがうらみやばしら、
太敷ふとしきたててうしはける、ところはながめところ
きよき羽田はねだのたまがはは、まへながれてわかれては、
海老取川えびとりがはにしたふ、きたは品川しながはわんにして、
くしよりもなほしげき、とうきやう市街しがい唯一目ただひとめ
ひがしは海原うなばらいやひろく、かすかにゆるやまやまは、
房総諸山ばうそうしょさんられたり、西にし富士ふじいやたかく、
白扇はくせんのさまにて、はねだのかはうつるなり、
夕日ゆふひおうげて、かへるやあまのいさりぶね
なみのまにまに友千鳥ともちどり、よびかふこへ長閑のどけしや、
これぞ此地このちながめなる、
かくばかりながめよろしき扇浦あふぎうら かみうれしとそなはすらむ — 詠み人知らず 明治37年刊『穴守稲荷神社縁起』より
要島八景
扇浦の暮雪、東崎の落雁、
江戸見崎の夜雨、鈴納の晩鐘、
蝦取川の夕照、玉川の晴嵐
宮下の帰帆、明神崎の秋月 — 大正元年刊 『穴守稲荷神社縁起』より

空の町・羽田の始まり[編集]

大正時代に入ると京浜間の工業地帯化が始まり、東京湾岸の埋め立てが進んでゆく中で、穴守地域にも行楽地以外の要素が生まれてくるようになる。その最たるものが、こんにちの羽田を象徴する航空好適地としての存在である。

きっかけとなったのが、「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」の穴守稲荷門前への設立である。1916年(大正5年)、麻布に鉄工所を持ち発動機の研究開発をしていた友野直二と千葉県稲毛海岸で飛行練習に明け暮れていた玉井清太郎が日本飛行機製作所を立ち上げる[94][95]。同じ頃、飛行家を志すも強度の近視のため断念し飛行雑誌で記事を書いていた相羽有あいばたもつも友野を通じて清太郎と出会う[96]。飛行機に夢を賭ける二人はすぐに意気投合し、日本民間飛行界の隆興のためにも一旗揚げようと共同で飛行家の養成学校を創ることを決めた。当時は清太郎が24歳で相羽は21歳、正規の飛行場など用意できるわけもなく、千葉の稲毛海岸にならって練習場は干潟。好適地を探した結果多摩川河口付近の川崎側、通称・三本葭(さんぼんよし)と呼ばれる三角州の干潟をその場所に決め、対岸の羽田町に学校を開くこととした。そこで二人は穴守稲荷神社総代で鉱泉宿・要館当主の石關倉吉へ直談判し、石關は航空に志を立てた二人の若者の熱意に感じ入って、 元料亭の古い建物を校舎として、隣の建物を機体製作の作業場として提供した[97]

そして1916年(大正5年)8月16日付で清太郎が「日本飛行学校」の設立を申請[98]、同年10月5日、玉井清太郎の操縦によって羽田の空を初めて飛行機が飛び[99]、翌1917年1月4日に日本飛行学校が正式に開校した[100]。尚、初期練習生の中には後にゴジラを創る円谷英二もいた。

相羽有・玉井清太郎と日本飛行学校の練習生
千葉県の稲毛海岸を海水浴客が危ながるからと追い出され、飛行機滑走が可能な場所を探し求めて移ってきたのが穴守稲荷の向こうの六郷川(多摩川)の三角州だった。穴守に日本飛行学校を開設したことが羽田飛行場の起源となった。 — 相羽有(1936年5月・日本交通協会定時総会の晩餐会での発言より)
穴守随一の有力者、石関さんと初会見した私は、「将来の国防は飛行機が第一線に戦う武器となる。この製造と飛行士の育成はもっとも緊急を要する」と臆面もなくまくしたてた。大地主の石関さんは、どこの馬の骨とも知れぬ一青年の、おこがましくも航空に一身を捧げる覚悟を披露したことに感動せられた。老侠客のような石関さんの快諾は千鈞の重みがあった。立派な玄関のついた建物を本館とし、元料亭の離れ家を教室として開校した。これは無償提供されたものだ。かなめ館の女中が上等の料理を運び込んで、主人からの進物ですといわれて、食い気ざかりの一同が欣喜雀躍したこともある。 — 相羽有(昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ちより)

多摩川が海にそそぐ海岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になり、平坦で、軽い飛行機の滑走には好適であった[101]。この羽田の地を飛行場好適地と見出した彼らが居たことが、後の東京飛行場建設に繋がり、今日の東京国際空港発展の礎となった[102][103][104]。また当時、日本飛行学校の練習生が単独初飛行する前夜、ひそかに油揚げを献じたところ上首尾だったのでお礼参りをしたという逸話があり[105][106]、航空業界の穴守稲荷神社への崇敬もここから始まっている[107]。一方で、開校当初は周辺の漁師が飛行機の音が漁の邪魔になると学校に抗議したという[108]

大正五年(一九一六)、弱冠二十一才で、東京府荏原郡羽田町穴守の稲荷神社の近くに、日本飛行学校と日本飛行機製作所とを創立した。(中略)六郷川の海にそそぐ両岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になる。平坦であり、軽い飛行機の滑走には好適であった。(中略)それから十余年の空白期間を過ごした羽田穴守が、東京国際空港として再び浮かびあがる奇縁をもったのは、昭和四年のことである。(中略)そこへ日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だからとて特別の承認を得、(中略)昭和二十年、終戦とともに、米軍命令で、えびとり川以東の穴守一帯は、稲荷神社、数百戸の住居全部が一夜にして立退きを強制された。弁天橋と稲荷橋も交通を遮断された。この前代未聞の不測の運命に泣いた方々に、ここに半世紀前に飛行場を創始したことに発端することを顧み、申しわけないと思っている。 — 相羽有(昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ちより)

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の際には、羽田近辺は推定震度7の揺れに見舞われた[109]。大正震災志によると鈴木新田は荏原郡内で最も被害が甚だしいとされ、神社北方の堤防が破潰したことで、満潮時には浸水、全体に渡り0.2-0.3m低下し、神社周辺や多摩川沿いで液状化が発生[110]、穴守線も終点付近に亀裂多数、海老取川橋梁が崩壊、稲荷橋南方堤に沿い地盤に亀裂等の被害報告が残っている[109]。また、関東大震災により鉄道が壊滅的被害をうけたことで、帝国飛行協会副会長及び帝都復興評議員の長岡外史が、11月15日の帝都復興第一回評議員会の席上で飛行機による物資輸送の重要性を主張し、羽田に飛行場が必要だと提言した[111]

所沢と立川は(飛行場として)遠きに過ぎます。少なくとも羽田付近、青梅街道上の荻窪付近、中山道の赤羽根付近の三か所に約二〇万坪(約六六万平方m)の飛行場を設ける必要があり、この他大山街道上の世田谷ならびに千葉街道国府台付近に一朝事ある場合を考え、臨時飛行場(不時着陸場)を設ける必要があります。この飛行場のなかで、どこを国際飛行場にすべきかをいえば、私は羽田付近を選ぶに躊躇しません。羽田は東京に近く、交通も便利、しかも国際飛行場として水・陸飛行機の発着に好条件を備えています — 長岡外史『21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ』より

1929年昭和4年)には、昭和の御大典を機に村社へ昇格し、名実ともに鈴木新田地域の鎮守となった。同年10月には、京浜電鉄の重役から一の大鳥居として朱鳥居(後の羽田空港に残された大鳥居)が、穴守駅前に奉納されている。

そして、逓信省航空局が神社北側の土地(現在の整備場地区付近)を、前述のように飛行機の適地であり、東京都心部に近く、京浜間の中間に位置し、水陸両用飛行場として利用可能だと目を付け[112]飛嶋文吉飛島組)から買収、1930年(昭和5年)1月に空港施設の建設工事が始められた[113]1931年(昭和6年)8月25日にそれまで立川にあった東京飛行場が移転開港した。面積は16万坪(53ha)で、300M×15Mの滑走路1本を有し、新飛行場には、日本で最初に旅客輸送をはじめた日本航空輸送研究所(のちの大日本航空)のほか、各新聞社や海防義会の格納庫が作られ、木骨羽布張りの複葉機から金属製の単葉機までが離発着し、民間航空のメッカとなった[114]。これ以来、羽田の街は今日に至るまで空港城下町として発展してゆく事になる。

1932年(昭和7年)には、相羽有が設立した民間航空会社東京航空輸送社が、日本初の客室乗務員「エア・ガール」を3名採用し、羽田からの航空便に搭乗した[115]。その後、東京航空輸送社は飛行場上空を一周するコースや京浜コースをはじめ、羽田から江の島・箱根・富士五湖・日光・銚子・水戸などへの遊覧飛行コースを運航、集客と安全性の宣伝効果を狙い、小泉又次郎逓信大臣が清水までの飛行を楽しむ様子が取材され、ニュースにもなった[115]。穴守稲荷神社の神職が航空機の修祓式を執り行ったり[116]、穴守門前町の芸者がフォッカー機を背景に記念写真を撮っていたなど、羽田飛行場は穴守稲荷神社と共に発展した[115]

◇羽田穴守稲荷 東京空港を飛び出すと、すぐお稲荷さンがみえる。ソモ稻荷さンなるものは、緣起の神様。だから、緣起かつぎ屋が續いて常に賑ぎやかだ。サテ稻荷さンの御神体の狐と午とがどんな關係にあるか、知らないが毎月午の日は賑やかだから不思議だ。文句はともかく、空から東京見物の折だ、同乘の客と手を合せて空中參詣する。 — 阿緒木浄(著作『空の怪奇』より)

一方で、飛行機の騒音被害により、鴨場に飛来する鴨が減少するという事態も生じた[65]。日本飛行学校を支援した石關倉吉及び要館は、東京飛行場開港前後に横浜へ移転している[65]

さしも優良なる鴨場といわれた羽田鴨場も、文化の発達により人家の増加に従って人車の往来頻繁となり、また飛行機操縦の音響等の影響を蒙り、他の鴨場にて見られなかったオナガガモの数万の大群も、マガモ群もその渡来数は3分の1位に減少し、ついには鴨場としての価値を認めえざる状態となった — 黒田長礼(著作『雁と鴨』より)
空中からみた羽田競馬場

同じく1932年には、羽田競馬場が近隣の羽田入船耕地(現東糀谷付近)から、鈴木新田の東にある御台場(羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場)へ移転してくることになった。予定地である御台場は多摩川の河口にできた広大な干潟で、天保年間には江戸幕府が砲台をつくろうとして中止したところでもあった。現在の東京国際空港第3ターミナルあたりがその場所である。ただ、同地は土地台帳上こそ畑地とされていたものの、満潮時にはほとんどが水没してしまう湿地帯だった。そのため、主催者側は東京湾埋立株式会社に施工を発注。同地を埋め立て、盛り土をして競馬場を建設するという当時としては一大プロジェクトを敢行した。完成した新競馬場の総面積は、10万坪(約333平方メートル)・1周1600メートル・幅員30メートルと、現在の大井競馬場の外回りコース(1周1600メートル、幅員25メートル)と同規模であった。新競馬場での最初の開催は7月3日から5日にかけて行われ、55万4229円の売上を記録している。さらに、1934年(昭和9年)7月の開催で売上は初めて100万円の大台を突破、その後も地方競馬では全国一の盛況が続き、羽田の地に新たな名所が誕生することになった[117][118]。当日、最も科学的で物珍しく新鮮な存在であった飛行場と射幸心を満たす競馬場の出現は、行楽地の非日常性の維持には十分な存在であった[119]。信仰と娯楽、科学を混然とさせつつ、近郊オアシスとして羽田は姿を整えていったのである[119]

また、1932年10月1日には、鎮座地である荏原郡羽田町が東京市へ編入され、新設された蒲田区の一部となった[注釈 4]。あわせて、鈴木新田も羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町・鈴木御台場に改称・分割、穴守稲荷神社の所在地も「荏原郡羽田町大字鈴木新田」から、「東京市蒲田区羽田穴守町」に変更され、名実ともに東京の街を代表する稲荷神社となった。京浜電鉄が1934年(昭和9年)に出した沿線案内では、穴守稲荷を「関西の伏見と並び称せらるゝ関東第一の稲荷社」と大々的に宣伝されている[75]。一方、穴守の名が世間に広がったことで、穴守稲荷の祈祷師を騙った人物による詐欺事件も発生した[120]

本區は蒲田町、羽田町、六鄕町、矢口町の合併したもので、市の西南壁を成し隣接川崎市と對峙してゐる。役所は舊蒲田町役場を使用する。市會議員は増員選擧も總選擧の場合も同じく定數二名で、區會議員は定員三十六名の豫定である。神社には鈴木御臺場に穴守神社がある、俗に穴守稻荷と稱して賽者の絶へないのを以て有名である。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區』より
本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。(中略)町内の神社佛閣を通じて著名なものは穴守神社だけである。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町』より
近代科学の殿堂を誇る羽田飛行場があり、また、世にも有名なる『穴守様』を中心にトテモ賑やかな街がつづいていて、料理屋、待合、旅館の紅燈、いやが上にも花やかに、カフェーではモダンスタイルの女給が潮干狩の若者相手にグレタガルボの噂に花を咲かせていたりしている — 『都新聞』昭和8年5月7日夕刊「東京色」より
蒲田區羽田穴守町。京濱電車穴守終點下車。品川から直通電車運轉、所要二五分、賃片道二四銭。蒲田から七分、一一銭。 豊宇氣比賣命を祀る稲荷神社があり、穴守神社とも云ふ。四時参詣者多く、午の日には殊に賑はふ。祠を去る五十米許りの海濱は風光よく、海は遠浅で潮干狩及び海水浴に適し附近に東京飛行場がある。また穴守神社後の近くには東京附近に珍らしい鵜の群棲林がある。 — 「旅程と費用概算」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋

戦時下[編集]

東京を代表する観光地として繁栄を謳歌していた穴守稲荷神社と羽田地域であるが、当時の日本(大日本帝国)が1931年(昭和6年)の満州事変を機に、戦争への道を歩んでゆくことで、その荒波に翻弄されることになる。

1937年(昭和12年)10月には3代目宮司金子一が徴兵となり、翌1938年(昭和13年)7月に出征先の中国安徽省三河口鎮で戦死した[121]

町の様子も様変わりし、日中戦争の勃発に伴い立法された軍馬資源保護法の施行によって、羽田競馬場が1937年(昭和12年)限りで休催、翌1938年(昭和13年)に廃場へと追い込まれた[118]。跡地には日本特殊鋼の羽田工場ができ、海岸線寄りの跡地には高射砲陣地が置かれた。日本特殊鋼のほか、荏原製作所明電舎大谷重工等の大手企業が1935年あたりから次々進出してきて、下請け工場も出来た[122]。競馬場廃場の同年には、満洲国建国以降、満洲へ旅客や貨物輸送が増大したこともあり、東京飛行場の拡張用地として羽田運動場が買収され、消滅した。1939年(昭和14年)6月には、国民精神総動員運動の中で、料亭等の営業時間が短縮され、9月1日興亜奉公日が設けられると、以後毎月一日は酒が不売となり、次第に入手も困難となった[123]。参拝者も行楽客も激減し、料亭は工員相手の食堂になり、鉱泉宿は社員寮へ姿を変えてゆく等、穴守稲荷神社周辺の娯楽施設は急速な衰退を迎え、一帯は工場が立ち並ぶ軍需産業地帯として工場に働く労働者のための街に変貌していった[124]

1941年(昭和16年)10月1日には、茨城県霞ヶ浦より海軍航空隊の一部が飛行機20機・士官70人・兵員1250人の東京分遣隊として東京飛行場に移され、大手企業の工場も全て軍需品を作らされるようになる。穴守の町には軍人が闊歩するようになり、穴守線も軍需産業で働く人の通勤路線となった[125]

1942年(昭和17年)には更に戦争の影響が表れるようになり、5月1日には陸上交通事業調整法に基づいて京浜電気鉄道東京横浜電鉄と合併し、穴守線も東京急行電鉄大東急)の路線となった[126]。また、最後まで残っていた羽田穴守海水浴場の営業も中止になった。一方で、1943年(昭和18年)の洲崎遊郭接収により、1944年(昭和19年)初めに洲崎の遊郭関係者が移転してきたため、工員目当ての慰安宿が新たに誕生している[127]

当時、マリアナ基地からの米空軍B-29が頻繁に本土空襲にあらわれる頃であった。 羽田への通勤は主として蒲田駅から定時に出る会社のバスである。古い社員の中には松竹蒲田撮影所へ通う女優さんを見たという人もいた。バスによらない時は京浜蒲田駅まで歩き穴守線に乗り、終点穴守駅から歩いて10〜15分、穴守神社の赤鳥居の前を通り、いっぱい飲み屋や旅館などの並ぶ街を抜けて羽田空港のターミナルヘ着いた。 — 元日本航空 航空士 渡辺 勇(羽田航空少年団機関誌『はねだ』第46号より)

1944年(昭和19年)秋頃を境に、サイパンから出撃した米軍機による空襲が激しさを増した。穴守稲荷神社の近辺も間引き疎開ということになり、一時はそこに暮らす人はせいぜい20人に満たないほどになったという[128]1945年(昭和20年)に入ると、日本の敗色は次第に濃厚になり、東京もたびたびの空襲に曝されるようになった。穴守稲荷神社境内にも公設の防空壕が掘られ、近隣の避難者に供された。しかし、境内はもともとが低湿地であり、地面を掘ればすぐ水が出る状態で、浅く掘った防空壕しかできなかったという。神社自身の防空壕は、関東大震災の瓦礫を利用し、大きな御影石の陰につくって、神社の人間は空襲を避けようとしていた[129]。 そして同年4月3日から4日には、重要工場を中心とした爆撃が行われて羽田全域の3分の2が焼失[130]、社前にも爆弾が落とされ、4代目宮司金子主計が巻き込まれて命を落とした。その空襲では何とか焼失を免れた客殿社務所も、蒲田区の約99%が被災した4月15日から16日の城南京浜大空襲で被害を受けた。神社は米軍にとって鈴木新田地域の格好の標的だったらしく、爆弾の跡だけでも24もあったほどである[131]。更に敗戦間近の7月12日には再び爆撃を受けて、隣接する東京飛行場施設が破壊・消失し、飛行場機能の大半が失われた[132]。そのため金子直吉(金子主計の弟)とその長男寿は、ご神体を本殿地下に埋めてお守りすることになった[131]

昭和二十年四月十五日夜半より、十六日未明にかけて城南地区(旧蒲田区・大森区)を中心に大空襲があり、羽田も大半が焦土と化した。

(中略)

当日は、船上にて一夜を過ごし、翌払暁、処々にくすぶる煙り残る中、天空の明るみと同時に我が羽田の町の全容が目視されてきた。

九十パーセントに近い焼失で残存した一部は奇跡とも思う位であり、特に印象的だったのが、大森の「ガスタンク」が遠いと思っていたのが、近くに見え、大森方面の小高い丘陵、そして、池上本門寺の五重塔が鮮明に目視出来たことだった。 — 1945年4月15日‐16日の城南京浜大空襲の回想(あのとき…羽田地区における戦争体験より)

結局、神社の被害は甚大であり、宝物や神輿が失われ、多くの貴重な記録も灰塵に帰した。また、神職や崇敬者の多くも戦地に赴き、戦争のために大きな犠牲を強いられる結果となった。

強制遷座と戦後復興[編集]

マッカーサー司令部では羽田飛行場を連合軍の日本駐屯軍に引き渡すよう十二日我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋め立て設備を提供するよう要求してきたが、飛行場再建のためには二箇月乃至三箇月を要すると見ている。なお、飛行場付近の一部住民に対して立ち退きが命ぜられることになった。 — 『朝日新聞』昭和20年9月13日付けより

第二次世界大戦が終わった直後の1945年(昭和20年)9月12日連合国軍(のちのGHQ)はアメリカから人材や物資を投入する為、日本政府に対して東京飛行場の引渡しを命じ、翌13日朝には自動小銃を持った連合国兵がジープで乗付け、飛行場にいた人々全員に立ち退きを命じた。こうして東京飛行場は軍事基地「HANEDA ARMY AIR BASE」と改称された[125]。日本人は翌日より敷地内に立入禁止処分となり、駐機していた輸送機群は緑十字飛行用に空輸を認められた一部機材を除き、占領軍利用による飛行場拡張工事のためブルドーザーにより、鴨池に投棄・破壊された[132]

米軍の巨大なブルドーザーが大日本航空㈱の三菱式MC-20型旅客機を3機、無造作に鴨池に押しこんでいるのを目撃し、見てはならないものを見た思いで目を覆いたくなった — 1945年9月14日 飛行場関係者の談(平木国夫著 羽田空港の歴史より)

そして9月21日、HANEDA AIR BASEを拡張するため、連合国軍は蒲田区長との連名で日本の警察を通じて、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町の三か町内約1200世帯、約3000名の全住民に12時間以内の強制退去命令を下した[133]。敗戦後、まだ1か月も経たない中では、新聞記事を読んでいた住民は極僅かであり、読んでいたとしても、具体的な範囲が挙げられていなかった為、自分達が当事者であると考えた人は殆どいなかった。「飛行場付近の一部住民」に説明があったのは前日のことであり、警察から口頭で知らされた。そこで住民代表が、12時間とはあまりにも理不尽で到底全住民に周知出来ない事や、立ち退き先も決められないまま路頭に迷う人が出て来る事等を挙げ、蒲田区役所や警察を仲介して交渉が行われた。そうした決死の訴えにより、立ち退き後に立ち入った者の生命の保障はないという厳しい条件付であるものの何とか2日間となったのだが、人手も機材も時間もすべてが不足している、まさに身一つでの立ち退きであった[134]。また、強制退去令は海老取川の東側全域が対象とされたが、「史誌第40号」(蒲田-羽田空港間連絡線)によれば、接収された地域は3か町に止まらず、「占領した飛行場の要員などの宿舎を建設するため、現東糀谷1丁目,西糀谷2丁目の一部、同3丁目の全域、萩中3丁目から本羽田3丁目にかけての大部分の住民も同様に立退きを命じられた」こと、などの証言が記載されている[135]。また、穴守線(当時は大東急の一部)も稲荷橋駅以東の末端部が営業休止、残る区間も貨物線を建設するため単線化された[136]

現在の羽田空港は、旧羽田島住民の皆様の犠牲の上に成り立っているものであり、我々空港関係者が決して忘れてはならない出来事である。 — 元国土交通省航空局 衣本 啓介(日本地図学会「地図」2010 年 48 巻 4 号 p. 7-14より)
人びとが羽田空港あるいは東京国際空港と呼んでいる敷地の基礎は、この三つの町の住民の犠牲によって生まれた。 羽田の飛行場は、かつてそこに住んでいた人びとには怨念の的となった。 飛行場が日本のものでなくなったときから、ハネダの名が世界中に知られるようになったのは歴史の皮肉だろう。 しかもその羽田の悲運を、日本人のほとんどは知らない。 同じ大田区の羽田とは目と鼻の先に戦後ずっと住んでいるような人でさえ知らない。(中略)ハネダが日本に返還されたからといって、土地がかつての住民の手に戻ったわけではない。 かつての住人の多くはいまだに海老取川の西側の町に住んでいて、空港の変転を見つめている。 — 小関智弘(大森界隈職人往来より)
昭和5(1930)年生まれの私の家は、空港に向かう弁天橋を渡ったあたりにありました。戦前まで一帯は、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町という約3,000人が暮らすまちでした。穴守稲荷神社は元々そこにあって、その界わいは、にぎわいと情緒のあるまちでしたね。広い境内では三角ベースなどして遊んだものです。

ところが、終戦を迎え、空襲の被害からもようやく立ち直ろうとしていた矢先の9月21日。空港を接収した米軍から「拡張のため、48時間以内にここから立ち退くように」と突然の通告を受けたのです。代替地もなく、寝耳に水です。しかし途方に暮れている暇などなく、家財道具を荷車に積んで、橋を渡るしかありませんでした。私は知人の家に身を寄せた後、羽田に戻りましたが、友だちも皆ばらばらになってしまいました。

ふるさとを追われた人々の想いがあるからこそ、羽田には世界一の空港になってほしいと思います。そのためにも歴史を語り継ぎたいものです。 — 橋爪克實(元穴守稲荷神社総代会長)

突如として町を追われることになった人々は、行く当てもないまま荷車に家財道具を括り付けて、稲荷橋・弁天橋を渡った。48時間後、橋のたもとには連合国軍の兵隊が立ち、街へ戻ろうとする住民に対し、威嚇射撃まで行う横暴ぶりであった。ブルドーザーパワーシャベルが家や店を押しつぶし、そして大林組間組などの土建業者と「占領軍労務者」として雇われた約2000人の日本人労務者を使って町は徹底的に破壊され、軍用機向けの滑走路となった[135]。こうして、東京を代表する観光地として、多くの人々が訪れ、また生活を営んだ三つの町は、終戦から僅か1か月で跡形も無くなり、地図上から抹消されたのである[137]。これは、穴守稲荷神社もまた同様であった。

穴守稲荷神社の一隅で御霊を守っていた金子直吉・寿父子は、早くから進駐軍と接触があり、羽田飛行場拡張の話を事前に聞かされていた。初めの案では羽田穴守町を避けて拡張する案も検討されたが、結局それは叶わず、御霊の遷座を早急に思案しなければならなくなった。宮司を空襲で失ったこともあり、蒲田区職員・福岡幾造、羽田神社宮司・橋爪英尚、氏子・横山安五郎の三者が相談の上、御霊を羽田神社に仮遷座[注釈 5]することになった[138]

このため、ご神体神輿神刀等の神宝数点などを除いて、当時の神社の施設や設備は放棄させられ、後に連合国軍によって取り壊された。尚、更地にされた神社跡地にしばらく放置されていたものを地域住民が掘り起こして運び出された一対の狐像[注釈 6]、羽田空港沖合展開の際に元境内地にあたる部分から出土して神社へ返還された石碑類[注釈 7]、後述の大鳥居など、のちになって神社へ戻ってきたり、残されたものもある。また、ごくわずかに持ち出すことができた神宝類は、羽田神社の他に池上本門寺の末寺にあたる池上常仙院にも移されたという。

運び出された狐の像

穴守稲荷神社と共に鈴木新田内に鎮座していた玉川弁財天や鈴納稲荷神社なども同様に強制退去となっており、玉川弁財天は羽田水神社[139]、鈴納稲荷神社は羽田神社へ移されている[140]

また、駐留間もない占領軍は、付近の状況に疎く、様々な誤解による事件が生じていた。例えば、地元の漁師が目の前の海で魚を獲って暮らしていることを知らなかった為、羽田沖を航行する船を尽く捕まえ、蒲田警察署に連行した。その為、金子直吉・寿父子が事情を説明しにゆき、釈放してもらったこともあったという[141]

こうした戦後の混乱の中、1946年(昭和21年)には早くも龍王院自性院が再建され、地域の核のなる社寺の再建が少しずつ始まっていた。1947年(昭和22年)に入ると、ご神体を羽田神社にいつまでも預けてはおけないと有志が集い、「復興協議会」「神殿建設委員会」「穴守稲荷神社復興奉賛会」などさまざまな復興のための組織ができた。その復興への意気込みは大変なもので、羽田神社で行われた会議は連日連夜に及んだという[142]

なにしろ江戸の名所であり、つづいては東京の名所であつた穴守が、終戰後新日本建設のためとはいへ、間借り住居となってはいとあはれなことといはなければならない。また靈驗あらたかな穴守稲荷たるものが、さういふあはれな狀態で、おめおめと默つてゐるはずもない。そこでここにたちまち新しい神話が生れ出たのであつた。(中略)操縦士が、鵬程萬里の旅を終へて、いよいよ着陸といふ段になると、不思議なことに白狐のやうな白いものがちらちらりとうごいてみえて、どうにも勝手がわるい。そこで操縦士はそのことを上司に訴へる。上司がそれをだんだん探索してみると、穴守稲荷は舊地を去って今や間借りの憂目をみてゐるといふことがわかった。これはうち捨ててはおけぬとあつて、換地に新社殿新築の運びといふことになったといふ、かういふ新縁起である。 — 奥野信太郎『随筆 東京』より

7月には移転先となる稲荷橋駅(現:穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地に仮安置所を設け、8月にはその土地700(2310 m2)を有志の奉賛により購入、取得している。10月には、空港内に残されていた大鳥居を搬出しようと労務者を連れて出かけたが、駐留軍の許可がなく、搬出できなかった。また、まだまだ資材不足が続いており、飛行場内に残留された石材を搬出しようとしたが、それさえも叶わない状況であった。それでも、神社関係者と蒲田区職員が羽田神社に集まり、神社再建について懇談・協議した上で、10月26日には地鎮祭を斎行するまでに漕ぎつけた[143]

1948年(昭和23年)1月には仮拝殿の増築も決まり、2月には、ようよう待ちに待った仮社務所と本殿も落成。2月24日の夕刻、羽田神社よりご神体を御遷宮し、遷座式が挙行された。本殿の広さは僅か一坪半であったが、その遷座の様子を見ていた古老は「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」と西行法師の御歌を引き、その日の感無量の気持ちを伝えている[144]

昭和二十年九月進駐軍による飛行場設営の爲遠く文化文政の昔より百数十年鎮座の地扇ヶ浦を疎開して暫く羽田神社境内に仮遷宮を余儀なくせられたる處崇敬者有志によりて穴守稲荷神社復興奉賛會の創立を見るに及び鋭意画策一致協力遂に稲荷橋畔に神域を卜して仮社殿を造営し昭和二十三年二月遷宮の式典を挙ぐること得たり

 爾来星霜茲に十年境内漸く神寂ひて参詣の信徒絶ゆる暇なく復興の機運将に熟すると到る神德の廣大無偏(表記ママ)なること炳として日星の如し崇ぶべし

 昭和三十二年丁酉二月 — 穴守稲荷神社境内の遷宮記念碑より

この年の5月には、神社復興の中核となって働いた奉賛会を発展的に解消し、新たに世話人会を設け、世話人40名が委嘱された[145]

1949年(昭和24年) - 1950年(昭和25年)には、仮拝殿の落成や奥之宮の復活などがあり、世情も復興の気配が濃厚となり、それにつれて参詣者数はもちろん奉納額も増加していった。1951年(昭和27年)には、遷座後はじめての節分祭が行われた。40人の年男年女が神社近くの「梅月」や「すずめ屋」、「出川屋」などを宿として借り受け、其処から繰り出し、神社まで練り歩く姿が復活した。また、7月には神輿渡御も行われている。食料不足はまだ続いており、食料調達の苦労は常につきまとい、節分祭それ自は赤字であったり、神輿が毀れたりと、幾分の不具合もあったが、この頃より穴守稲荷神社の復興も本格化している様子が現れてきている[146]

羽田穴守町の旧境内を正式に政府が買い上げることが決まったのも、この年である。それまでは、旧境内地約9656坪の借り上げ地代が支払われていた。それをやめ、2000万円弱の補償金で接収地買い上げが政府決定された[147]。これにより、旧境内地は正式に飛行場の一部となった[148]。そして1952年7月1日[149]、HANEDA AIR BASEの滑走路・誘導路・各種航空灯火等の諸施設がアメリカ軍から日本国政府に移管され[150]、同日に「東京国際空港」に改名した[151]

1953年(昭和28年)には、神徳の高揚を目的に、新たな試みもはじまった。1月には、花月園競輪場へ6日間出輦したり、3月からは神前結婚式も執り行っている。4月に入ると、百万人講結成の気運が盛り上がり、その名称を「百万人講」とするか「奉賛会」とするかの討議がなされている。1954年(昭和29年)に入ると、3月には参集殿も無事落成した[152]

また、この頃に池上常仙院に穴守稲荷が祀られているという噂が流布し、崇敬者が参拝するという珍事もおこった。戦後、穴守稲荷のご神体は羽田神社に遷座していたので、常仙院への参拝はおかしなことであったが、常仙院の庫裡を再建した時、穴守稲荷神社の拝殿に使われていた古材を使ったことが、この誤解のもとであったらしい[153]

羽田空港の旧ターミナルビル屋上にあった頃の穴守稲荷空港分社(現・航空稲荷社、左)と羽田航空神社(右)

1955年(昭和30年)5月17日には、羽田空港内のターミナルビルが、穴守稲荷神社の旧鎮座地に建設され、屋上展望台(展望食堂と気象観測施設の間)に分社を奉斎することになった。ターミナルビルの篤い崇敬もあって、17日には大祭が挙行され、それ以降毎月17日には月次祭を奉仕するようになった[154]。その後1964年東京オリンピック開催に伴う、羽田空港旧ターミナルビル増改築工事を機縁として、1963年(昭和38年)7月11日には新たに作られた特別展望回廊の屋上に移され、同時に財団法人日本航空協会(当時)の航空神社より分霊勧請した羽田航空神社が創建された[155]。以降、平成時代に羽田空港の沖合展開がはじまり、同ビルが撤去され、遷座されるまでの40年間、羽田空港の安全と繁栄を見守る2社が鎮座していた。

進駐軍から空港が返還された4年後の31年に、旧社殿地付近に空港ビルが完成する。その時屋上に新たに航空神社を祀り出すとともに、穴守稲荷の分霊を祀った社も建立した。 そして以後今日に至るまで、祀り始めの17日を両社の縁日として、毎月穴守稲荷社の神官による祭祀が欠かさず続けられているのである。 — 大田区史編纂委員会編 大田の史話 その2より
昭和三十一年穴守稲荷の跡に国際空港ターミナル・ビルが建てられた。その入口にちかく行き先きのない穴守稲荷をしのぶ赤い鳥居が建てられた。穴守はいまも昔もにぎやかである。日に数万の人が去来し、かつては参詣人に土産物を売り、いまいろいろの国ぐにの人にスーベニヤをひさぐ。ただ異なるのは、かつての客呼びの声にも、三味の音にもリズムがあったのに、いまは金属的なジエットのごう音と変っていることである。もし、この鳥居に霊があり、かつ昔のことを知つていたならば、さぞかし憮然たるものがあるだろう。 — 松尾静磨(元運輸省航空庁長官および元日本航空社長・会長 東京商工会議所著「東商(196)穴森の鳥居」より)
穴守稲荷の本体は、この時、疎開したが、その分祠はいま、ターミナルビルの屋上にまつられてある。はじめビル側では、一日の見物客を約五千人とふんでいたが、実際にふたをあけてみると、多い日は一万二、三千人、普通の日でも予定の二倍は入ることがわかり、これも、ひとえに穴守稲荷様の御利益、と大喜びしている。 — 運輸省航空局 上村元春(航空研究会著「航空 3(6) 東京国際空港七つの物語 穴守稻荷の靈験」)より
昔は粋な方々のお詣りで有名であつた羽田村の穴守神社も、国際空港の開放という二十世紀の風に煽られ、その鳥居を残して旧お社から海老川を越して対岸の漁民部落に避難を余儀なく、させられてしまった。

駐留米軍が空港を使っていた頃、何回となく穴守神社のセメントの紅柄色鳥居の取除け工事をやつたが、遂に神様もお怒りになつてか、直接の工事関係者が次々と怪我をする破目になつた。そこで鳥居はその儘残すことになり、今もつてポツンと空港ビルの前の広場に立っている。然し乍ら紅柄色の鳥居も、背景の青空に映えて浮き立つて見え、余り味気があるとも思われない灰色のビルと調和し、仲々の風情を添え空港の一つの象徴にすらなつている。

六年前に現在の空港ビルが建設された時、ビル会社も四階の屋上に穴守神社の分社を造営し、毎月の例祭と、春秋二季の大祭を催して穴守様をおなぐさめして、その霊顕を祈つている。 — 元羽田入国管理所長 岡崎 熊雄(経済と外交366号「羽田だより 東京国際空港」より)

1956年(昭和31年)4月20日 には、稲荷橋駅が穴守稲荷駅に改称され、さらには1958年(昭和33年)の正月より穴守線が終夜運転をはじめ、参拝者に歓迎された[156]。尚、穴守線は空港返還後には再び空港連絡鉄道として使用されることもあり、1963年(昭和38年)11月1日には空港線に改称されたが[157]1964年(昭和39年)の東京モノレールの開業後は、もっぱら地域輸送や穴守稲荷神社への参拝者輸送に徹することになった。

本殿・拝殿の再建[編集]

再建された穴守稲荷神社
私たちが瞠目するのは、その後の穴守稲荷神社の御復興ぶりです。

占領下のこととて、立ち退きに対する充分な補償も得られず、宮司さん以下崇敬者の方々が大変な苦労をされて、昭和二十二年、まず六坪の仮社殿の建設から始められ、その後、数度にわたる再建工事の末、昭和四十年代になってようやく現在の御社殿が完成したのです。その間、実に二十数年の歳月が流れました。平成十一年には、永年の懸案だった大鳥居の移転も完了し、穴守稲荷神社にとっての〈永い戦後〉もようやく終わりをつげたのでした。

それは建物という形の上だけのものではなく、祭儀をはじめとして崇敬者の組織、行事、教化活動等々においても、戦前にも勝る充実、発展を遂げられたことは、まことに敬服に値することでありました。 — 元東京都神社庁長 平岩 昌利(穴守稲荷神社編「穴守稲荷神社史」より)

昭和30年代に入ると、新たな地に遷座した穴守稲荷神社は本殿や拝殿の再建を果たすべく、精力的な活動をはじめる。

1958年(昭和33年)の5月には、本殿・拝殿の再建構想が持ち上がった。当時、近隣の神社の再建が続いており、富岡八幡宮蒲田八幡神社素盞雄神社などが立派に再建され、穴守稲荷神社もそれに遅れてはならじと再建計画がなされた。7月には、「本殿拝殿再建基本案」が提出され、検討に入っている[156]

この案を元に、建築家の大岡實が早速境内を調査し、展望図を提示している。これを受けて、3月には工期や資材の手当てなどの詳細をつめ、夏には趣意書も出来上がり、早期着工を望む気運が盛り上がっていった。しかし、資金計画などの詰めや総予算の確定などの作業もあり、本殿・拝殿再建工事が着工されるには、1962年(昭和37年)9月まで待たなければならなかった[158]

そして1962年(昭和37年)9月29日には新社殿の起工式が執り行われ、工事は順調に進み、1963年(昭和38年)10月3日上棟式1964年(昭和39年)6月27日28日には現社殿がほぼ完成し、遷座祭が斎行された。その時、工事を請け負った大成建設株式会社から京急穴守稲荷駅前に鋼鉄製の朱の大鳥居を、元大田区議会議長佐藤良平から社殿正面前に鉄筋コンクリート製の大鳥居がそれぞれ1基奉納された[159]

穴守稲荷駅前の鳥居

8月には新社殿完成を受け、旧仮社殿を戦災を被った天祖神社に無償譲渡の上移築するなど、境内の整備が一挙に進んでいった[159]。一方で同年12月には、羽田空港を中心とした東京内湾埋立事業により、国及び東京都の発展に寄与するため、羽田の漁業組合も漁業補償協定が成立したことで自らの漁業権を全面放棄することになり、数百年(千年近い)にわたる羽田の漁業史は事実上終焉することになった[160]

1965年(昭和40年)5月ついに念願の社殿が竣工し、28日から3日間にわたり、落成奉祝祭を斎行した。連日雨に降られ足元が悪い中、横綱栃錦の手数入りをはじめ、宮内庁楽部による舞楽、稚児行列、飯能囃子などの後奉納演芸が賑々しく執り行われた。また、折しも神楽殿の復興計画も持ち上がっており、神楽の奉納も行われた[161]

その後穴守稲荷神社では、「遷座記念祭」を毎年5月28日に斎行している。つまり、戦後間もなく現在地へご神体を遷座した日ではなく、新社殿の落成奉祝祭の日を記念して祭典を行っているわけである[162]

社殿の完成後の7月には、表参道入口に築地市場の東京魚河岸講の手で石社号標が奉納され、12月には、切妻造の拝殿や入母屋造の幣殿もでき、現在の穴守稲荷神社の姿形が整えられていった[162]

その後、1968年(昭和43年)には、遷座20年を記念して、総欅造銅板葺きの神楽殿や奥之宮が竣工している。また、手狭になった社務所を客殿裏に増築する計画も起こり、1970年(昭和45年)5月には鉄筋2階建ての新社務所が完成している。こうした神社復興のための建築事業は、1974年(昭和49年)に、宗教法人法施工20周年記念事業として御神輿庫、展示場、納札所が竣工するまで続いた[162]

なお、1966年(昭和41年)3月29日には日本航空松尾社長が読売新聞に穴守稲荷神社復興に関する記事を発表したが、事実と相違するものがあり、神社の厳重抗議により社長が陳謝している[163]

社殿再建後から現在[編集]

1966年(昭和41年)2月及び3月に立て続けに起こった全日空羽田沖墜落事故カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故英国海外航空機空中分解事故では、穴守稲荷神社の旧「一の鳥居」が羽田空港に遺され放置されていることを取り上げ、その祟りであるかのような噂が流布し、まことしやかな新聞記事さえ現れた[164]。そのような中、品川区にある講社の講元が「穴守稲荷神社を空港の中に祀らないと、事故がこれからも多発する」と世間に訴え、神社の復興を国会議員に陳情した。この陳情に「祟りはともかく、神社復興は必要だ。」と、当時の中村寅太運輸大臣瀬戸山三男建設大臣なども賛同し、大臣等を会長・顧問とした「穴守稲荷復元奉賛会」が設立された[165]。結局、社殿再建後であることやターミナルビルの屋上に分社が祀られていることなどから、空港内に穴守稲荷神社を復興する計画は頓挫したが、同年8月10日に三愛石油株式会社(当時)が、羽田本館ビル屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けている[164][166][167]

1967年(昭和42年)年1月1日には日本空港ビルデング主催の航空安全大祈願祭が執行[168]、以降毎年1月1日(のちに1月4日の仕事始め)には、穴守稲荷空港分社と羽田航空神社の毎年交替の当番制でその年の航空安全祈願祭が執行された[169]。尚、現在でも穴守稲荷神社の神職によって、羽田空港安全祈願祭として毎年1月4日に第1ターミナルのギャラクシーホールにて続けられている[170]

また、社殿再建に沸き立つ中で、1967年(昭和42年)5月1日には、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町及び鈴木御台場が、住居表示によって羽田空港一丁目及び二丁目となり、地名としても消滅することになった。(詳しくは後述の#町名の変遷を参照。)

一方では、戦後のベビーブーム期の子どもたちが成人する時期であり、その結婚式が多くなった。穴守稲荷神社では、1964年(昭和39年)8月に羽田東急ホテルが完成し、その結婚式場に穴守稲荷神社の分霊を奉斎している[159]。また、羽田東急ホテルだけでなく、1970年(昭和45年)からは横浜東急ホテルにも出張奉仕することになった[171]

1975年(昭和50年)、1976年(昭和51年)頃から、大「穴」を願ってのものか、多くの競馬・競輪などのファンが詣でる現象が起こった[172]

穴守稲荷の近くにおばあちゃんの姉が住んでいて、そこを訪ねた折に与一さんが穴守稲荷に寄り、その翌日に馬券で大穴を当て、それ以来、与一さんは穴守稲荷を馬券の守り神として信仰したというのである。 — 吉川良著『人生をくれた名馬たち〈2〉』より

1971年(昭和46年)頃になると、成田空港への国際線移転後も国内線の需要が増大し続ける中、羽田空港の沖合への拡張について検討が行われ始めた[173]。そののち1980年代に入り、新B滑走路整備の障害になるため、空港内の大鳥居を撤去する計画が出たが、地域住民らから穴守稲荷神社や強制接収の憂き目にあった旧住民らの象徴として残したいとの要望があったこと等から、神社の強制遷座から半世紀以上経った1999年平成11年)2月に移設されることとなった。(詳しくは後述の#羽田空港に残された一の大鳥居を参照。)

1984年(昭和59年)1月26日には、運輸省東京空港工事事務所長、東京国際空港長、大田区長、品川区長、東亜建設工業東京支店長、鹿島建設土木本部副部長ら関係者約20名が参列し、東京国際空港沖合展開事業着工安全祈願祭が穴守稲荷空港分社で執行、引き続き着工式典が本社社務所において開催され[174][175]、沖合展開事業が開始された。羽田空港の新A滑走路の供用が開始され、空港の沖合展開がかなり進んできた1988年(昭和63年)には、鳥居移築の話し合いがつづく一方、旧羽田鈴木町の住民代表が空港内に穴守稲荷神社を遷座するよう、鈴木俊一東京都知事に陳情している[176]。実際に沖合展開後の羽田空港跡地の利用計画として、東京都が取りまとめた「羽田の杜」構想でも神社の設置が検討されている[177]

その後、政教分離の観点などから空港内への遷座は実現しなかったが、「羽田の杜」構想自体は東京都に代わって大田区が主体となり、2008年(平成20年)3月には国土交通省、東京都、大田区、品川区による羽田空港移転問題協議会が、羽田空港の沖合展開事業及び再拡張事業の結果として発生した跡地について、「羽田空港跡地利用基本計画」を策定し[178]2010年(平成22年)10月には、それを具体化した「羽田空港跡地まちづくり推進計画」をとりまとめた[179]。政府は、羽田空港周辺を訪日客の受け入れ拡大や国際競争力の強化を目指し国家戦略特区に認定し[180]、「HANEDA GLOBAL WINGS」と名付けられ[181]、第1ゾーンには羽田みらい開発[注釈 8]が「HANEDA INNOVATION CITY[182]、第2ゾーンにあたる当地区には外国人観光客の増加を見込んだ住友不動産グループが「羽田エアポートガーデン」を整備した[180][183]。尚、羽田エアポートガーデンの開業によって、羽田の地に再び「温泉宿(ホテル ヴィラフォンテーヌ 羽田空港・泉天空の湯 羽田空港)」「土産物屋街・飲食店街(ショッピングシティ 羽田エアポートガーデン)」が復活することになった[184]

穴守稲荷駅前のコンちゃん

1991年平成3年)9月には、京急穴守稲荷駅前に狐の石像、愛称「コンちゃん」が京浜急行電鉄株式会社等により奉納された。季節ごとに篤志家の手によって衣装が替えられ、駅前の象徴として鳥居と共に親しまれている[185]

1993年(平成5年)9月22日には、運輸省・日本空港ビルデング・航空各社が集い、新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)にて、穴守稲荷神社の神職による安全祈願祭、供用開始式典、および祝賀会が実施された[186]。そして羽田空港新国内線ターミナルビル(現・第1旅客ターミナルビル)の供用開始に伴い、旧ターミナルビル屋上に祀られてきた羽田航空神社のみ同年10月29日に新ターミナルビルへ遷座され、穴守稲荷空港分社は同年11月15日に穴守稲荷神社本社へ合祀されることになった[187]。なお、航空関係者からは隣り合って祀られてきた2社を別々にする事に対して、心配や反対する声もあったという。そして、翌1994年(平成6年)1月6日には、旧ターミナルビルの解体安全祈願祭が執行された[188]

1997年(平成9年)には、御遷座50周年記念事業の一環として、御社殿と飛行機(四発型ジェット機)を刺繍した記念御朱印帳が頒布された。これが今日多く見られる飛行機をモチーフとした御朱印帳の嚆矢である。なお、2014年の御縁年午歳記念事業の返礼品として、御社殿と飛行機(双発型ジェット機)を刺繍した復刻版が再頒布された。

2010年(平成22年)10月21日には、羽田空港が再国際化を果たし、24時間運航を開始。名実共に東京の“空の玄関”としての役割を再び果たすようになった。

拡張してもこの大鳥居だけは残された。私達は戻れないから、羽田空港には世界一の空港になってもらいたい。 — 羽田空港再国際化にあたって、元住民で穴守稲荷神社総代会長の談(2010年10月20日放送、JNN系列『Nスタ』より)

2018年(平成30年)11月から「御縁年午歳記念事業 奥之宮改修工事及び境内整備」工事が行われ、奥之宮や航空稲荷をはじめとした摂末社や千本鳥居など境内が整備され、奥之宮の上には新たに伏見稲荷の稲荷山を模した「稲荷山」が造られた。尚、施工業者はかつての強制退去の際に神社や鳥居前町の撤去に携わった大林組である。

2020年令和2年)には、大田区が進めていた羽田空港跡地第1ゾーン整備方針の重点プロジェクト「羽田の歴史の伝承」の一つとして、羽田空港一丁目に建設されたHANEDA INNOVATION CITY内に、氏子地域(旧羽田穴守町・旧羽田鈴木町・旧羽田江戸見町)の繁栄と悲劇の歴史を伝承する「旧三町顕彰の碑」が建立された[189]

2021年(令和3年)4月5日には、羽田穴守町鎮座時代の氏子宅で用いられていた水甕が奉納され、水琴窟「東国一」が作られた。

2022年(令和4年)5月17日には、空港分社時代に行われていた航空稲荷の祭礼が、9月20日空の日)には全日本空輸日本航空スカイマークソラシドエアAIRDOスターフライヤー東邦航空朝日航洋など航空各社の参列、羽田空港国際線ターミナル(第3ターミナル)の江戸舞台こけら落としで演奏を行った穴守雅楽会の奏楽奉仕の下、昭和50年代以来途絶えていた航空安全祈願祭が復興した[8]。以降、航空安全祈願祭はハワイアン航空エバー航空川崎重工業航空連合羽田航空宇宙科学館など、国内航空会社はもとより外資系航空会社やメーカー、航空関連団体といった幅広い航空関係者が参列する祭典として続いている[190][191]

2022年(令和4年)12月21日、穴守稲荷神社の祈願によって湧泉した羽田空港泉天空温泉(ホテル ヴィラフォンテーヌ 羽田空港・泉天空の湯 羽田空港)が開業、かつて羽田穴守の地で湧き出していたものと同じ塩化物泉であり、約80年ぶりに羽田穴守の温泉が復活する事になった[192]

同年12月25日には、明治時代の稲荷山築造に際して造成用の土を奉納し、日本飛行学校開設に対して支援を行った鉱泉宿要館の主人石関倉吉の子孫によって、稲荷山登拝口に「稲荷山」の扁額の掲げられた鳥居が奉納された[58]

羽田空港(航空業界)との関係[編集]

旧鎮座地である羽田空港
羽田空港の成り立ちについて語るとき、この絵葉書に描かれた「穴守稲荷」の話を外すわけにはいきません。なぜならば、現在の羽田空港の敷地の一部は、まさにこの神社の境内だったからです。 — 曽我誉旨生(20世紀時刻表歴史館「羽田空港半世紀の歴史 発祥篇」より)

穴守稲荷神社と羽田空港(航空業界)の関係は深く、その始まりは、現羽田空港B滑走路南端の滑走路番号付近に鎮座していた穴守稲荷神社の近くに、当時の穴守稲荷神社総代・要館当主の資金と土地提供の支援の下、1916年(大正5年)10月5日[注釈 9]玉井清太郎相羽有らによって「日本飛行学校」と「日本飛行機製作所」が創立され、その後1931年(昭和6年)に神社の直ぐ北側に東京飛行場が開港した頃にまで遡る[104]。 当時日本飛行学校に在籍していた飛行練習生が初めてソロ(単独初飛行)する前夜、ひそかに油揚げを献じたところ、上首尾だったので、お礼参りをしたというエピソードや[105]、東京飛行場開港後には航空機の清祓式を穴守神社の神職が行った記録が残っている[116]

離陸する航空機(穴守稲荷神社境内より)

第二次世界大戦後、連合国軍による「HANEDA ARMY AIR BASE」(東京飛行場)拡張の為、氏子共々強制退去という悲劇に見舞われたものの、羽田浦(羽田空港)を災害から守る『堤防の鎮守』という草創の故実より、羽田空港旧ターミナルビルには羽田航空神社と並んで穴守稲荷空港分社も祀られており、現在でも羽田空港安全祈願祭や羽田航空神社例祭・新年祭[193]、空港関係の工事安全祈願祭開所式などの空港内の神事、羽田空港関係の官公庁航空業界物流業界建設業界宿泊業界新年祈願清祓はもとより[4][6][7][8][194][195]、航空業界や関係官公庁の要職者から一般の空港利用者に至るまで、航空安全旅行安全の神社としての崇敬が篤い[4][6][7][8][9][10][11][12]。また、節分祭や航空安全祈願祭などの神社祭事に、航空会社の客室乗務員やグランドスタッフが奉仕することもある[196]。古くから飛行機柄の朱印帳[注釈 10][6][7]や旅行安全守、航空安全守なども授与しており[197]、空港に最も近い神社である立地から、南風の午後にはB滑走路より南西の空へ飛び立つ飛行機を境内より目近に見る事ができる。

お正月には、きれいに着飾ったスチュワーデスやパイロットもお参りに来たり、境内のお砂を持ちかえり、一便遅らせた為に「すんでのところで難を逃れました。」と云う人もあり、いつのまにかすっかり空港の守り神になって、空港ビル屋上で毎月十七日行なわれる安全祈願の神事を司どり、一番機のお祓いもつとめるとのこと、飛行機を万全に整備するための緊張感、あるいは離陸する前に故障や不備なところを見つけられる注意力があれば、事故は未然に防げるはずです。私共の務めはそのお手伝いだと思っていますと、金子宮司は云われ、宮司の生家は今の滑走路のすぐ裏手にあって、プロペラの音を子守うたに育ち空港と飛行機を守る、総元締の神社で、空港建設と同じ昭和六年の夏生れである。 — 中澤蔀「草津の神社仏閣 穴守稲荷神社」より
航空稲荷社

また、現在地近くにも空港関係の企業や訓練施設、宿舎も多く、境内の東側隣接地は、2006年9月まで日本航空の乗員訓練センターがあり、シミュレーターによる運航訓練をはじめ、数々のパイロットキャビンアテンダントを輩出した。当時の訓練生の間では、穴守稲荷神社の願い木[注釈 11]を神前に奉納すると、希望の部署に配属されるという一種の験担ぎがあったと云う。スカイプラザビルとなった現在でも、日本航空系企業のオフィスや職員寮として使われており、正面アプローチ中央に『747シミュレーター機の思い出』と題された、米ボーイング747型機のフライトシミュレーターの実物が展示されている。境内から北に800メートル程の位置には、全日本空輸の訓練センター(ANAビジネスセンタービル)も存在し、2020年6月には境内北側500メートル程の至近に総合訓練施設「ANA Blue Base」として発展的移転をしている。

このような歴史的背景と地理的環境から、神社と羽田空港との関係は深く、航空各社や関連会社の従業員には穴守の地に特別な思いを抱く者も多いと云われている[4]

空港関係者にとっては、旧地主神の稲荷神の祀りは、安全保持のため欠かせない関心事となっているのである。 — 大田区史編纂委員会編 大田の史話 その2より
東京国際空港(羽田空港)を預かる者として最後に申し述べなければなりません。戦後占領軍が再整備し、それを引き継いで五十年余り、かつての穴守稲荷神社とその地域が、羽田のみならず日本の航空発展の礎、中心でありました。その発展が、実は戦後の地域の方々の強制退去、穴守稲荷神社の遷座という苦難の歴史と裏腹にあることを認識せずにはおれません。

今後、この空港にはさらにもう一本滑走路が整備され、旧ターミナルの跡地、かつて穴守稲荷神社が鎮座していた場所に再び国際線旅客ターミナルが建設されます。その暁には、現在世界第四位の旅客数が三番、あるいは二番目になり、質・量とも世界の一、二を争う大空港になると思われます。ただ、それに当っても、この穴守稲荷神社と地域の住民の方々の苦難の歴史に常に思いを馳せ、空港のメリットが何処よりも先にこの地域の方々に還元され、 空港があって結局は良かったと評価されるよう、空港側としてできる最大限の努力を行っていきたいと考えております。

穴守稲荷神社とこの地域、そしてこの地域に溶け込んだ羽田空港が永遠に栄えんことを祈念いたします。 — 元東京国際空港長 蒲生 猛(穴守稲荷神社編「穴守稲荷神社史」より)
羽田の地と空の安全、 空港の繁栄を祈念

縁あって羽田の穴守稲荷神社に奉職以来、第2ターミナルビルや第3ターミナルビル、D滑走路建設工事など、羽田空港の拡張の歴史と共に、その現場に神職として立ち会わせていただきました。 主工事はもちろん、鉄道駅や構内設備、各オフィスやホテル、工事機材や船舶のお祓い、旧施設の取り壊しなど、さまざまな場面で携わらせていただき、それぞれの無事の完成の際は、我がことのように嬉しく思いました。

穴守稲荷の創建は江戸時代後期、現在のB滑走路南端付近が鎮座地でした。1917年には神社門前に日本飛行学校が、1931年には神社の裏に東京飛行場が開場して以来、 航空関係者の崇敬もあつめています。戦後、空港と一衣帯水の現在地に遷座した後も、1955年5月17日に旅客ターミナルビルが本殿跡地に開業したと同時に、関係者皆様の手によってその屋上に穴守稲荷空港分社が祀られました。

(中略)

神社に奉職後も、毎朝境内の掃除をしていると、ハミングバードディパーチャーの離陸機が、穴守稲荷の御社殿をぐるっと囲むように飛び立ってゆきます。3機目、ひときわ大きなボーイング787の機影と低いエンジン音は掃き掃除の仕上げに取り掛かるための時報となっていました。 羽田空港には、これからも日本一の空港として、飛行機の発進のみならず、 日本の歴史や文化も引き続き発信していただきたいです。そのために、空港と穴守稲荷との関わりや、その歴史も、国内外の多くの方に知っていただければと思います。

これからも羽田の地と空の安全、空港の繁栄を、穴守大神のご神前にて日々ご祈念申し上げます。 — 穴守稲荷神社9代目宮司 井上 直洋(徳間書店編「羽田空港アーカイブ 1931-2023 羽田空港の証言」より)

羽田空港に残された一の大鳥居[編集]

現在の羽田空港内にあった穴守駅前の一の大鳥居として、1929年(昭和4年)10月に京浜電鉄の重役から奉納された朱の鳥居は、連合国軍によって4万6000基余あった鳥居が取り壊された中、唯一そのまま残っていた。

この残された鳥居については以下のような都市伝説がある。

穴守稲荷神社の社殿も壊された。門前に建っていた赤い鳥居はとても頑丈な作りだった。ロープで引きずり倒そうとしたところ、逆にロープが切れ、作業員が怪我したため、いったん中止となった。再開したときには工事責任者が病死するというような変事が何度か続いた。 これは、「穴守さまのたたり」といううわさが流れ、稲荷信仰などあるはずもないGHQも、何回やっても撤去できないため、結局そのまま残すことになった。これが、その後50年近く、羽田空港の中の駐車場にぽつりと取り残されていた赤い鳥居で、穴守稲荷神社があった場所を特定できた目印であった。 — 京浜急行電鉄『京急グループ110年史 最近の10年』「空港拡張工事で取り残された赤い鳥居」より抜粋
進駐軍がね、いま空港に建っている穴守さんの鳥居を、取り壊そうとしたけど、ハッパを掛ける人が、みんなおかしくなっちゃった。それで、あのままになっている。なんでも、三、四回やったそうだ。「おかしい、祟りなんだろう」というのでね、進駐軍でもあのままにしておいたんだね。穴守稲荷の祟りで、あそこ、どけちゃいけないということで、そのままになった。/空港ができてから、穴守さんの祟りがあったよ。穴守さんにはね、入ってくところに大きな鳥居があったの。それをね、取ろう取ろうと思っても何とかしてもね、けがしたりね、何かしちゃうので、そのまんま。 — 東京都大田区教育委員会社会教育部社会教育課編『大田区の文化財 第22集 口承文芸(昔話・世間話・伝説)』より
東京国際空港の中で、いずれは何んとかしなければならないものの一つに、旧穴守稲荷神社の鳥居がある。本殿は昭和二十年九月米軍進駐とともに飛行場拡張のため、米軍によつて四十八時間の期限つきで、附近全住民の立退き命令が出された際、住民と一しょに疎開したがこの鳥居だけはどうしたものか、取り残されてしまったものらしい。 お稲荷さまというとどこのお稲荷さまでも、何かしら薄気味の悪い曰くがつきもので、霊験あらたかなお稲荷さまほどたゝりもすごいようである。米軍が羽田に進駐して、この鳥居を取除こうとしたら、たちまち神の怒りに触れて米兵の一人が重傷を負い、作業は中止となつてしまったとのことである。お稲荷さまのたゝりは人種に関係なく及ぶものらしい。それ以来、この鳥居は日米双方から敬遠され、戦後十年を経た今日に至るも、なお空港の真只中に嚴然とそびえ立つている。新裝成った空港ターミナルビルの正面に、いかにも気に喰わぬげにそつぽを向いて立つている光景は、まさにこつけい至極である。 — 運輸省大臣官房文書課編『運輸 5(9)〔空港夜話〕-取り残された穴守さんの大鳥居-』より
民家、お稲荷さんを取払い、いよいよ鳥居をこわそうとすると事故が相ついだ。工事にかり出された日本人労務者が鳥居のテッペンから二度も足をすべらせて落ち、米兵も機械にはさまれて死んだ。だれいうとなく“お稲荷さんの使者キツネのたたりだ”とうわさが立ち、工事は中止された。それで鳥居はそのまま残されたのである。今では青い目からもハネダのシンボルとして親しまれているから皮肉である。 — 警視庁警務部教養課編「自警 54(2) 羽田空港と大鳥居」より抜粋

このほかにも、大田区報全国紙の記事などでも触れられるなど、有名な都市伝説ではあるが、それが本当にあったことかを示す、当時の新聞記事や確かな工事記録などは見つかっておらず[198]、強制退去させられた後に整地に動員された地域住民らが、反抗心から意図的に鳥居を残したのだともいわれている[199]。さらに一部では、羽田空港の発着便が起こしたあらゆる航空事故を大鳥居の祟りとしている文献も存在しているが[200][201]、終戦直後の状況を除けば、空港の整備事業と事故との関係は全くなく、ましてや大鳥居とは何の関係もない。1966年に航空事故が連続して発生したことを機に大鳥居と結び付けて、勝手に都市伝説にしたにすぎない[202]

また、かつて多摩川河口は関東大震災東京大空襲で大量の死体が流れ着いた場所であり、現在掲げられている「平和」の額縁をその時の死者の鎮魂の為と説明しているものもあるが[200]、鎮魂の為の施設は海老取川対岸の五十間鼻にある無縁仏堂であり、こちらも基本的には大鳥居とは無関係である。

一方で、この話の現実的な背景には、土地を接収された旧町民の進駐軍に対する皮肉怨念が込められ、進駐軍という部外からの侵入者に対して、 鈴木新田の土地守護神である穴守稲荷の神霊が、威力を持って拒否を示す、というものになる。この鳥居の不思議を語ることで人々は、進駐軍でも迂闊に手を出せない穴守稲荷の神霊の強さと、まだ稲荷神が旧社地に空港内にいることを再認識していた[203]

鳥居の撤去にまつわるいろいろな話が伝わっていますが、住みなれた土地を追われた人たちの怒りではなかったでしょうか。 — 山本定男(大田の史話より)
終戦によりお稲荷さんも羽田四丁目〔ママ〕に再建され今に至るのだが、大きな鳥居だけはマッカーサーも手を出せなかった。今も穴守稲荷神社は羽田空港の守り神である。 — 近藤 晃(羽田の今昔 写真家がみた羽田空港の100年より)
羽田空港の駐車場に残された大鳥居

その後、1952年(昭和27年)には、羽田空港の大部分が返還され、1955年(昭和30年)には、旧ターミナルビルが完成したが、大鳥居は周囲を駐車場の敷地とすることで、引き続いて残された[204]

1971年(昭和46年)3月、大鳥居付近にB滑走路が完成。この時に大鳥居の撤去が検討されたが、そのままにされた[204]

羽田空港開港50年にあたる1981年(昭和56年)7月には、新B滑走路展開に伴う移築計画が再び持ち上がり、由緒正しい鳥居であるからそのままにして措くことを大田区長に陳情している。沖合展開や拡張計画が次第に明確になると、再び1983年(昭和58年)2月23日には鳥居移築が具体化し、新聞紙上に1984年(昭和59年)1月20日の飛行場の移設告示があった。しかし、その後も政教分離問題が世間を騒がせ、時には取り壊し、時には移築論を繰り返して遅々と進まなかった[205]。運輸省第二港湾建設局の職員が自分の在任中には移設がないようにと願っていたという話も残っている[206]

羽田の町を挙げてお祀りすることが一番である。

移転先は弁天橋東詰付近が良い、移転設置後は、昔、現在空港の敷地になっている所で亡くなった方々の供養をする。穴守稲荷のご神体は、大鳥居も然る可き場所に鎮座しないかぎり、もとの場所に残っていると考えられるので、移転することによって本当の意味での遷座が完了したことになると思う。

移転工事の着工前、工事中、工事完了後、そして保存事業の開始に際して神仏両面から儀式を行ない、この大鳥居を平和と安全のシンボルとして、末長く存続させるべきである。特に、大鳥居は戦争による悲しみの念がこもっているので、周囲を広場や公園として整備し、地元の力で維持管理して行くことが理想的である。 — 長照寺(本羽田鎮座)石井住職の談(1998年8月28日)

1994年(平成6年)には、羽田空港新B滑走路の供用が開始され、ついに鳥居移築が実施されることになったが、その後も移築は難航し、ようやく1998年(平成10年)12月4日、国が鳥居の撤去費用約4000万円、航空各社や日本空港ビルデングなどの羽田空港の主要企業9社による民間団体が鳥居の移設先設置費用約2500万円を分担することで、1999年(平成11年)2月3日撤去、翌4日移築と決定した[207][208]。また、移築までの間、1995年(平成7年)には運輸省によって、「鳥居参道」と「参拝者専用駐車場」が整備され、鳥居までお参りができるようになっていた[209]

移築工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。作業の際は風がやや強く、鳥居をクレーンで吊り上げた時にクレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、東京空港警察署弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている[210][211]

後光が射すように鳥居の中央から昇る初日の出──。“いわくつき”で知られていた“羽田の赤い鳥居”の移設が終わった翌年、2000年元旦の出来事である。工事関係者にとっては忘れられない光景となり、不思議な縁(えにし)を感じた瞬間であった。(中略)「みんなが嫌がったが、羽田の土木を手伝いつづけてきた鹿島だからこそ工事に手を挙げた。移設後の鳥居の向きが日の出の方角と重なったのはまさに偶然。」 — 井上哲夫(鹿島建設株式会社羽田空港工事事務所長・当時)
移設後の大鳥居

こうして、現在はかつての場所から約800メートル離れた多摩川のほとりで、かつてそこにあった3つの町の跡を見守るように佇んでおり、近年では、多摩川サイクリングコースの出発点(終着点)としてサイクリストの休憩スポットになっていたり[212]、東京湾へ向かって延びる多摩川河口が、初日の出の通る道になっており、ちょうど太陽の方を向く形で鳥居が立っているため、初日の出スポットとしても有名になる[213]など、羽田の名所として多くの人に親しまれる存在になっている。

なお、移転以前は空港関係者によって管理されており、穴守稲荷神社の神職によって祭典が行われるなどされていたが、現在は国土交通省東京空港整備事務所管理下となっており、法的には神社とは直接的な関係がなくなっている。鳥居に掲げられている扁額も以前は「穴守神社」と書かれていたものだったが、現在は「平和」というものに変わっている。なお、かつての扁額は、現在穴守稲荷神社表参道の鳥居に掲げられている[214]

また、大鳥居駅付近にあった鳥居を移転したものと誤認されている場合があるが、前述の通りに無関係である。大鳥居駅付近にあった鳥居は、いつ頃に無くなったのかがはっきりとせず、関東大震災で倒壊した、環八通り整備の際に撤去された、トラックが追突して倒壊したといった説がある。なお、大鳥居駅構内には駅名の由来を描いたレリーフが掲げられているが、そこに描かれている大鳥居は旧穴守駅前にあった頃の一の大鳥居である[215]

オーストラリアから帰還した幟[編集]

2014年(平成26年)11月5日、元オーストラリア兵デービッド・トリストが、太平洋戦争終戦直後に日本兵から受け取った穴守稲荷神社のが、約70年ぶりに神社へ戻ってきた[216]

終戦後、南太平洋のブーゲンビル島パプアニューギニア)で、彼は降伏した日本兵を集めて帰国させる任務を担当していた。1945年(昭和20年)9月頃、若い日本兵の所持品を調べていた際、荷物の中に赤い幟があるのを見つけ、家族への土産にしようと、自分が持っていた煙草と交換した。翌年、任務を終えて故郷に持ち帰り、自宅で箱に入れて保管していた。

トリストは、幟を交換した日本兵について、20歳代前半くらいだったこと以外は覚えておらず、幟に書いてある文字は長年の謎だったが、知人の息子が日本人と結婚したことを聞き、調べてもらったところ、「穴守稲荷大明神」であることが分かった。「戦争中のスローガンのようなことが書かれていると思っていたので、神社のものと知って驚いた。終戦から70年を前に、両国の友好のためにも返したい」と思いたち、長年の友人でもある地元のロス・ファウラーペンリス市長らが2014年11月、姉妹都市静岡県藤枝市を訪問することを知り、その際に返還してくれるよう頼み、幟の返還が実現した。

日本兵の氏名が書かれた日章旗などが返還された例はあるが[217]、神社の幟は前例がない。現在幟は「日豪両国の友好と平和の証し」として、神社で大切に保管されている。

御神水信仰[編集]

鉱泉の発見・繁栄の社前[編集]

明治27年(西暦1894)、穴守稲荷神社がまだ鈴木新田(現羽田空港)に鎮座していた頃、地元住民が旱魃に備え、良水を求めて井戸を掘ってみたところ、海水よりも濃い塩水が湧出した。これを成分鑑定したところ、諸病に効く鉱泉と認められた[218]

その後、社前のあちこちに鉱泉宿が立ち並び、京浜電鉄によって日本初の神社参詣電車である穴守線(現・京急空港線)も開通し、羽田穴守はたちまち東京近郊の神社参拝を兼ねた一大保養地として発展し、その繁栄の様は東国一と称えられた[218]

穴守の霊験・信仰の確立[編集]

明治29年(1896)7月には、崇敬者によって 「御神水講」が設立された。趣意書にはこの鉱泉は霊水であり、発見そのものが穴守稲荷の霊験であると述べられている。のちの講社名簿にはその御神水元講をはじめ、関東各地に「御神水講」の講社名をみることができ、鉱泉の発見が穴守稲荷に新たな御神水信仰をもたらし、講社の発展にも寄与した[218]

その灼然なる霊験を求める者は全国に広がり、上州草津温泉や磐梯熱海温泉等の著名な温泉地にも穴守稲荷の分社が創建されたのもこの頃である[218]

耐難き困難・不涸の湧水[編集]

その後、昭和20年(1945)の敗戦に伴い、神社をはじめ鉱泉宿街は瞬く間に埋め立てられ羽田空港となり、穴守の御神水はひとたび途絶える事になった。しかし、信仰心は湧く水の如く涸れる事無く、草津や熱海の各分社は地元温泉旅館主たちの篤い崇敬はもちろん、湯治者や観光客の信仰も集め続けた[218]

令和に入った現在でも穴守稲荷の湧水祈願によって羽田空港に天然温泉が湧き出したニュースは耳新しく、羽田を訪れる国内外の旅人の疲れを癒している[218]

新なる霊水・令和の復興[編集]

そして令和の大改修を竣えた翌春3年(2021)4月、篤信家の手により境内神苑に御井戸が鑿られた。復び羽田穴守の地下水が湧き出でた事で、80年の時を越えて穴守の御神水が復活する事になった[218]

併せて戦前の氏子宅で用いられていた大水瓷が奉納され、水琴窟「東国一」が奉製された。この水琴窟には御井戸で汲み上げられた御神水が注がれており、その悦き音色は参拝者の心を浄めている[218]

御神砂(穴守の砂・招福の砂)の言い伝え[編集]

「御神砂物語」[編集]

  • 穴守稲荷神社編『穴守稲荷神社史』より
奥之宮にある御神砂

昔、要島の穴守に老夫婦が暮らしていた。老夫はに出かけ、日々の糧を得ていた。大漁、不漁を繰り返しながらの暮らしぶりはいつものことながら、たまたま不漁が続き、老夫婦の顔が曇ることが多くなった。

そんなある日、近頃には珍しく多くの魚が獲れ、老夫は小舟より魚を魚籠に入れ、喜んで老婦のもとへもどった。

「おばあさん、今日は大漁じゃ、大漁じゃ」

重い魚籠をおろし、老婦に大漁の魚を見せようとした。しかし、重い思いをして運んだ魚籠には魚一匹の姿もない。老夫婦は不審げに顔を見合わせ、その魚籠を覘きこんだ。その中には大量の湿ったが入っているだけだった。

あくる日、昨夜の不審を抱きながらも、老夫はまた小舟をあやつり、漁に出た。幸い、漁は昨日と変わらず大漁であった。しかし、家路につき、魚籠を覘けば、やはり大量の砂があるだけだった。そんな日が何日もつづき、あまりの不審さに驚き、老夫は村人にこの不思議を伝えた。

その噂は村中に広がり、さまざまな憶測が飛び交ううち、ある村人が言った。

「その仕業は、穴守稲荷に住む狐の悪さに違いない。そんな狐は捕まえて、殺してしまうのが一番じゃ」

村人は、手に手に弓や矢をもって、狐を探し、遂には狐を生け捕りにした。あわや、狐が殺されるという瞬間、老夫婦が言った。

「どうかお願いじゃ。その狐を殺すのだけはやめてくれないか。可哀想ではないか。それに、もし狐を殺してしまえば、後でどんな報いが村人にあるか判らん。神さまの罰が当たる。」

それを聞いた村人は、結局狐を放してやることにした。

老夫は、あくる日からも、常に変わらず漁に出かけた。ところが、漁は大漁であった。しかも、魚籠の中には、重い砂ではなく、魚の姿で溢れんばかりであった。その後、大漁はつづき、老夫婦は大いに喜んだ。

しかも不思議なことに、その魚籠にはなぜか濡れた砂がいつもついていた。それを聞いた村人は、穴守稲荷へ参詣し、砂を持ち帰り、各自の魚籠の中にその砂を入れるようにしたところ、大漁が続いたという。また、ある人は台所にその砂を撒いたところ、その日から訪れるお客が増え、商売繁昌が続いたという。

神穴 諸人御穴と崇む本祠の右背にありて窖上に小祠を立て周囲に屋を覆ひ中に数多の魚介及揚物を供物とす

其数山積して屋裏に満ち常に信徒の交々穴前に額きて祈誓を籠め終りに迄んで窖中の土砂を掬ひ帰るあり 由来其砂土を店頭に撒布せば顧客多く商業繁栄の功徳ありと是等侠斜の巷に於ける料理店、待合、絃妓、幇間其他芸人等に多し 故に祭日(午の日)の如きは肩摩雑沓を極め殊に婦女子の如きは窖前に近くだも得能はざるべく

又窖中時に霊狐の面を現すことあり之れを拝視する者正しく満願の徴なりとし欣喜雀躍他をして之れを羨ましむるにあり — 明治期の神砂について 藤井内蔵太郎編「羽田穴守稲荷由来記」より抜粋
御穴は拝殿の右に有つて、上には整然と屋根を葺いて三方を囲つてある。晝も猶暗い所ではあるが、常に参詣の人が絶へないので、御蝋の火の消えた時が無い。 (中略)御穴の砂を頂いて行つて自分の見世先へ撒くと云ふと見世が繁昌すると云ふので、信仰の人々は皆砂を持つて歸る。 — 御穴について 鈴木嘉之助著「信仰美談穴守稲荷」より抜粋

この「御砂様」の逸話は、その後村から村へと伝わり、明治期には東京はもちろん遠くの府県まで達するようになった。そして、お客を呼ぶ必要のある料理屋や割烹、花柳界、芸能界を中心に、酒屋や店舗の人がはるばると穴守稲荷神社へ参詣し、その砂を袋に入れて持ち帰る習わしが定着していった。

現在も古来より我々の生活には土(砂)の上より活動が始まり土地の生産を守ってくれる大神の霊験のしるしとして、御神穴の「御神砂」を持ち帰り、屋敷内または玄関に撒く、あるいは身につけると、御神徳が授かり、諸願が叶うとされる。また、御神砂が中に入った特別なお守りも頒布されている。

御神砂縁起
今は昔 羽田浦は要島に一翁あり 要島は干拓く島なれば堤にて固め成されり
然ど津波に襲し堤破るる事屡なれば 堤の上に祠を構へ 稲荷大神を勧請するに 風浪の害止み 之をもちて穴守稲荷と称す
或日 翁漁より帰りて魚篭を覗くに 釣せし筈魚は無く只湿砂のみ在り 翌も翌々も大漁なれど同く魚は無く 湿砂のみ在るを訝しく思ひし翁 村衆に此を談る
衆人此を狐の仕業とし穴守稲荷の社を囲みて狐捕へけれど 翁此を赦し放てり
此より後 翁漁に出ずる度大漁なり 魚篭には許多の魚と僅なる湿砂あり 嫗此の砂庭に撒くに忽ち千客萬来す 斯くて翁冨を得る
故 翁に肖り御砂以て招福の徳を得むと 穴守の砂求むる者四方八方より訪れり
尚 今日に至る
— 境内案内図より
あなもりの砂
昔、昔、羽田の昔のお話です
かなめ島のてっぺんに あなもり稲荷がありました
心のやさしい漁師のおじいさん ウントコショ ヤットコショ
いつも稲荷に朝まいり 今日も無事にと祈ります
あなもりコンコン狐の親子 漁師の帰りを待ちうけて
魚をチョイと盗みだし かわりにそーっと砂入れた
その砂まけば あらふしぎ ルンルルルンルン ルンルルルン
客がたくさん集まって 取れた魚はみな売れた
ごりやくうれし 漁師のおじいさん あなもりの砂 山ほどに
いたづらぎつねの恩返し 遠い昔も今の世も
あなもり様はあらたかな しあわせを呼ぶ あなもりの砂
— 合唱組曲『羽田のむかし話』より

撒き方[編集]

御神砂(穴守の砂・招福の砂)は以下のような撒き方をするとよい。

境内社・施設[編集]

  • 奥之宮

本殿に次ぐ存在であり、他の境内社とは別格の社。小さな鳥居や狐像が数多く奉納されている。

  • 稲荷山(稲荷上乃社)

以前からあった築山を造り替え、稲荷神社総本社である伏見稲荷大社ご神体山である山城国稲荷山を模し、2020年(令和2年)に竣工した。高さは戦前にあった稲荷山(御山)と同じ11メートルである。なお、富士塚「穴守富士」と誤認されている場合があるが、戦前の稲荷山(御山)の造営に羽田の富士講「木花講」と「木花元講」が関わった事実はあるものの、戦前及び戦後の復興後も穴守稲荷神社に富士塚が存在した事はない。

  • 御嶽神社

1906年(明治39年)2月、南多摩郡横山村より遷座されて唯一の境内摂社として祀られた。戦後、現在地に遷座した後も築山に一祠を設けられた。2020年(令和2年)木曽の御嶽神社よりご神石を得て、稲荷山に据え、あらためて勧請された。百度参りが行われている。

  • 御神穴(お穴さま)

御神砂が頂ける。

  • 必勝稲荷

かつて羽田には日本一の売上を誇ったという羽田競馬場があり、現在も大井川崎等の競馬場が近隣にあるため、穴守稲荷神社は必勝を願う競馬関係者から篤い崇敬を集めている。「平成三強」と称された「イナリワン」号も、篤信者である馬主が、かねてから親交のあった穴守稲荷の当時の禰宜に相談をし、穴守稲荷から「イナリ」、一番になってほしいとの願いから「ワン」を取るという助言を受けて、名付けられたものであり、神社には、イナリワンの天皇賞・春有馬記念宝塚記念の優勝レイやレースゼッケンが奉納されている。

  • 開運稲荷

戦前の羽田穴守町鎮座の時代からあった末社のひとつ[219]

  • 出世稲荷

戦前の羽田穴守町鎮座の時代からあった末社のひとつ[220]。 門前の鉱泉旅館「要館」の邸内社としても祀られていたと、石関家の記録に残っている。

  • 繁栄稲荷

羽田旭町にあった大谷重工業の元邸内社[221]

  • 築山稲荷

戦後の社殿復興後、復興を記念して、川崎在住の篤信者である行者によって創建されたもの[220]

  • 幸稲荷

篤志家の義澤氏より奉納されたもの[222]

  • 末廣稲荷

戦前の羽田穴守町鎮座の時代からあった末社のひとつ。

  • 航空稲荷

かつて羽田空港旧ターミナルにあった穴守稲荷神社空港分社を再分祀したもの。(詳しくは後述の#主な分社を参照。)

毎月17日や空の旬間には、航空稲荷周囲や参道に航空会社から奉納されたのぼり旗が立ち並ぶ。

  • 福徳稲荷

社前の狐像は戦前からあったもので、連合国軍による強制退去後、土に埋もれていたものを決死の覚悟で運び出してきたもの。

  • 狐塚

奉納や返納された狐像を祀ったもの[219]

  • 飛龍明神
  • 神楽殿

現在地への遷座20周年を記念して、1969年(昭和44年)に竣工した。総欅造銅板葺きで、例祭・初午祭における相模流里神楽の奉納神楽を始め、穴守雅楽会による献灯祭奉祝演奏など、様々な神賑行事が行われる。

  • 千本鳥居

戦前の穴守稲荷神社の鳥居は、奉納数46,797基にも上り、参道に沿って朱色の鳥居が隧道状に連なり、「雨の日にその鳥居の下に入れば濡れぬ」とまで言われるほどであった。

東京湾や多摩川に面している羽田一帯は豊富な地下水に恵まれ、大田区の防災井戸としても登録されている[注釈 12]。また、かつては神社周辺に鉱泉が湧いていたことから、霊水信仰もあった。御井戸で汲み上げられた地下水は水琴窟を通じて再び地中に戻ってゆく。水の神水波能売神・水光姫大神、土の神大地主神埴安神をお祀りしている。

穴守稲荷の水琴窟に用いられた甕は都内随一の大きさを誇り、羽田穴守町鎮座時代の氏子宅で用いられていた水甕が奉納されたもの。銘の由来は、かつて畿内以東十六名勝の首座に選ばれた故実に因む。稲荷大明神と水琴窟の祖小堀遠州命をお祀りしている。

村石家と大瓷の由来

 社史に記されている通り、当神社はかつて羽田穴守町(現羽田空港)に鎮座し興隆を極めた。  然しながら昭和二十年の敗戦を臨み、GHQの指令により四十八時間以内の強制退去を余儀なくされ、穴守稲荷神社も村石家も不慮も、不慮も嘗ての地を離れざるを得なくなった。  この大瓷は戦前より村石家で水瓷として用いられていたもので、七十余年の歳月を経て、再び水を湛える事となった。  穴守稲荷神社と羽田三町の住民が辿った歴史と復興の象徴として令和三年春この大瓷の他、湧水を得るための削井をはじめ作庭改修に係る費用の一式を奉納された赤心は如何許りか知れぬ。  令和の御代に甦る悦き音色に心を静め、穏やかな心持ちで御前に参詣頂ければ幸いである。

  令和三年四月五日 — 水琴窟説明板より

現在地への遷座記念として植樹されたもの。元々は社殿の前に植わっていたが、境内整備に合わせて移植された。大久寿を含めた境内の樹林は、「大田区みどりの条例」に基づいて、保護樹林に指定。『おおたの名木選』平成29年度「総合部門」8本のうちの1つに選ばれている。

  • 門被之松

クロマツの門かぶり仕立てであり、神社の護りにふさわしい景観を維持している 『おおたの名木選』平成29年度「総合部門」8本のうちの1つに選ばれている。

主な分社[編集]

伏見稲荷大社から各地に勧請された稲荷神社が大きく発展し、その地域の稲荷信仰の拠点として独自の分社を展開したように、穴守稲荷神社も「関東一流祠」と称され、東京近辺の稲荷信仰の拠点となった。

日本国内はもとより、台湾南洋諸島ハワイアメリカ合衆国本土など、各地に講社が結成され、分社が勧請された。花柳界の信仰を集めた経緯から各地の花街遊郭跡などにも多い。

稲荷神社では少数派である豊受姫命が祭神の為、いくつか分社では誤って宇迦之御魂神を祭神と説明している場合がある。

  • 草津穴守稲荷神社(群馬県吾妻郡草津町西ノ河原公園)
    • 1907年(明治40年)頃、東京の山崎染物店の主人が草津へ湯治に通い、病気平癒の記念として、常々信仰していた穴守稲荷をこの場所に分霊して勧請した。2001年(平成13年)に草津町内有志によりご神徳を仰ぎ、改築された。
  • 富士吉田穴守稲荷神社(山梨県富士吉田市緑ヶ丘
  • 磐梯熱海穴守稲荷神社(福島県郡山市熱海町
    • 萩姫伝説で有名な磐梯熱海温泉の鎮守。1922年(大正11)年に高玉鉱山社長の肥田金一郎が故郷である東京羽田より穴守稲荷神社を勧請し、大山祗神社と合祀した。2001年(平成13年)の社殿改築に併せ、地元の荒町氏子一同が祈願謝恩のため源泉神社を勧請した。
  • 青木穴守稲荷神社(埼玉県川口市中青木
    • 川口の講社は、現存する講社の中で最も規模が大きい。
  • 江古田穴守稲荷神社(東京都練馬区旭丘
  • 柏木田穴守稲荷神社(神奈川県横須賀市上町
    • 一帯はかつて柏木田遊廓であった。
  • 一色穴守稲荷神社(神奈川県三浦郡葉山町下山口
  • 穴守稲荷神社(東京都八王子市台町信松院境内)
  • 穴守稲荷神社(東京都江東区深川慧然寺境内)
  • 台北稲荷神社台湾台北州台北市西門町、廃絶)
    • 1911年(明治44年)6月25日、穴守稲荷神社から分霊の承認を受けて創建された。当初は社号「穴守稲荷神社」として創建される予定であったが、創建直前に変更された。1937年(昭和12年)10月に郷社に列格。1945年(昭和20年)5月31日台北大空襲により社殿を焼失し、そのまま終戦を迎え、廃絶した。
      もちひつく 稲荷の神の さきはへて 里はいよいよ にきひゆくらむ — 台湾神社宮司 山口 透、台北稲荷神社創建に寄せた和歌
      高砂の 里を守りの 宮柱 たててしつめつ 豊受の神 — 三村ひでを、台北稲荷神社創建に寄せた和歌
  • 新町稲荷社(台湾台南州台南市新町、廃絶)
  • 高等町穴守稲荷神社(神奈川県大和市福田
    • 高座郡で最初に高等小学校が置かれたことにちなんで駅周辺は高等町といい、境川引地川に挟まれた台地で明治の中頃になってから人が住み始めたことで、大正時代の初期に穴守稲荷神社から分霊を受けた[223]
  • 更埴穴守稲荷神社(長野県千曲市稲荷山
    • 明治20年代、料理屋「大商」の主人が、穴守稲荷神社の分霊を本八日町に祀り、1917年(大正6年)稲荷山劇場開設にて、その敷地内(現在地)に遷座した[224]
  • 栃尾穴守稲荷神社(新潟県長岡市上の原町)
    • 例祭などの祭礼時には、栃尾の油揚げが境内にて販売される。
  • 穴守稲荷神社(新潟県十日町市下条)
  • 穴守稲荷分神社(東京都狛江市中和泉
  • 戸塚穴守稲荷社(神奈川県横浜市戸塚区戸塚町
  • 穴守稲荷社・天王社(愛知県名古屋市西区新道
  • 穴守稲荷大明神(静岡県伊豆市八幡
  • 穴守稲荷大明神(秋田県横手市増田町増田七日市
    • 1689年元禄2年)、沓澤甚兵衛が創業した日の丸酒造会社の屋敷神として祀られていた。戦後、醸造元経営者が創業家(沓澤家)より現経営者(佐藤家)に変わったことで、地元四ツ谷町内会でお守りしている。毎年5月15日には、増田月山神社の神職により祭事が行われている。いつどのような経緯で東京羽田の穴守神社から勧請されたのか定かではない[225]
  • 二宮穴守稲荷神社(東京都あきる野市二宮
  • 青梅穴守稲荷大明神(東京都青梅市本町
  • 恵比寿穴守稲荷神社(東京都渋谷区恵比寿、廃絶)
  • 松が丘穴守稲荷神社(東京都中野区松が丘
  • 本庄児玉穴守稲荷神社(埼玉県本庄市児玉町児玉
  • 穴守稲荷静岡分社(静岡県旧清水市、廃絶?)
    • 清水港近くに住んでいた魚屋の今澤幸平という人物が、穴守稲荷より妻の病気平癒のご利益を受けたことから、清水港はもとより静岡の町々へ穴守稲荷の名が知れ渡り、本社へ参拝に出かける者が増えていった。そこで今澤夫婦と有志の人々が相談して、1898年(明治31年)12月に勧請された。穴守稲荷最初の分社とされる。
  • 穴守稲荷空港分社(東京都大田区羽田空港、現・航空稲荷)
    • 1955年(昭和39年)5月17日、羽田空港旧ターミナルビルが穴守稲荷の本殿跡に建設され、その屋上には空の安全を祈念し、穴守稲荷の空港分社を祀る事になった。以降、航空関係者の篤い崇敬もあり、「羽田航空神社」と連れ添って、40年に渡り空港の安全と繁栄を見守ってきたが、平成になり、空港沖合展開が始まると、旧ターミナルビルが撤去される事になり、「羽田航空神社」は第1ターミナルビルへと遷座、「空港分社」は穴守稲荷神社の本社に合祀された。そして穴守稲荷神社令和の大改修を機に、空港分社として数多くの方から篤い崇敬を受けてきた歴史を鑑み、改めて摂社「航空稲荷」として一祠を構えられた。
    • 現在でも日本航空メインテナンスセンターや三愛オブリ株式会社等の敷地内に穴守稲荷の分霊が祀られている。
  • 穴守稲荷神社分社(東京都大田区羽田空港)

氏子地域・兼務神社[編集]

  • 旧羽田穴守町:現大田区羽田空港一丁目及び二丁目の一部、町域は現B滑走路の南端付近[226]。穴守稲荷神社をはじめ、鉱泉宿や料亭、土産物屋など多種多様な商店が並ぶ門前町の中核であった[227]
  • 旧羽田鈴木町:現大田区羽田空港一丁目及び二丁目の一部、町域は現荏原製作所の対岸付近から現羽田空港ワークステーション付近に亘ってL字型に広がっていた[228]。商店が集まっていた穴守町とは対象的に、数多くの人家が集まっており、玉川弁財天や鈴納稲荷神社も鈴木町内に鎮座していた。また、東西に穴守線が通り、終点の穴守駅も鈴木町内にあった[229]
  • 旧羽田江戸見町:現大田区羽田空港一丁目及び二丁目の一部、町域は現羽田空港一丁目の北半分にあたり、東京モノレールの整備場駅のほか各航空会社の関連ビルや整備工場・格納庫など多くの建物が並んでいる[230]羽田運動場や鴨場、のちには東京国際空港の前身である国営の民間飛行場・東京飛行場が所在し、穴守町・鈴木町と比較して住民はほとんどいなかった[231]
  • 旧羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場:現大田区羽田空港二丁目の一部、町域は第3ターミナル付近。羽田競馬場が所在した。

強制退去によって氏子が事実上消滅してしまった為、現在は所謂崇敬神社である。ただ、現在でも羽田空港一帯を始めとした大田区臨海部の守護神として機能しており、鎮座地である穴守稲荷駅周辺(羽田羽田旭町)でも地元の神社として親しまれている[232][233]

なお、旧鎮座地の羽田空港地区は、強制接収以降人口は0人であったが、その後羽田空港一丁目に全寮制の航空保安大学校が創設され、寮生160人前後の住民がいた。しかし、2008年(平成20年)3月に同校が大阪府泉佐野市に移転したため、人口は再び0人となった。それから現在に至るまで、羽田空港地区の人口は常に0人である[234]

また、各地の分社や羽田航空神社などの祭典を穴守稲荷神社の神職が執り行うことはあるが、兼務神社は有していない。

氏子町名の変遷[編集]

実施後 実施年月日 実施前(いずれも東京府荏原郡羽田町)
羽田鈴木町 1932年10月1日 大字鈴木新田字宮ノ下・字鈴納耕地・字巽ノ方・字明神崎・字辰巳之方・字堤外東南
羽田穴守町 大字鈴木新田字東崎・字堤外東北・字堤外乾績
羽田江戸見町 大字鈴木新田字江戸見崎・字江戸見崎北ノ方
羽田御台場 大字羽田字御台場
鈴木御台場 大字鈴木新田字辰巳島・字御台場・字御台場耕地績中堤防ノ内・字御台場耕地績中堤防外北ノ方・字御台場耕地
猟師町御台場 大字羽田猟師町字御台場
実施後 実施年月日 実施前
羽田空港一丁目 1967年5月1日 羽田江戸見町の一部、羽田鈴木町の一部、羽田穴守町の一部
羽田空港二丁目 羽田御台場、猟師町御台場、鈴木御台場、羽田江戸見町の一部、羽田鈴木町の一部、羽田穴守町の一部
羽田空港三丁目 1993年7月1日 京浜八区B区、京浜九区A区、京浜九区B区第一工区、京浜九区B区第二工区、羽田沖埋立地第一工区、羽田沖埋立地第二工区A区、羽田沖埋立地第二工区B区、羽田沖埋立地第三工区A区イ区、羽田沖埋立地第三工区A区ロ区、羽田沖埋立地第三工区B区イ区、羽田沖埋立地第三工区B区ロ区、羽田沖埋立地第三工区C区、羽田沖埋立地第三工区D区イ区、羽田沖埋立地第三工区E区、羽田沖埋立地第四工区A区イ区、羽田沖埋立地第四工区A区ロ区、羽田沖埋立地第四工区B区イ区、羽田沖埋立地第四工区B区ロ区、羽田沖埋立地第四工区B区ハ区、羽田沖埋立地第四工区B区ニ区、羽田空港二丁目南東側地先公有水面、羽田空港二丁目地先国有水没地、羽田空港三丁目地先公有水面羽田沖埋立地第四工区B区ホ区、羽田沖その三埋立地第一工区、羽田空港二丁目東側地先公有水面羽田沖その三埋立地第二工区

年間祭事・行事[編集]

正月期間中は、各地から集まった崇敬者や航空業界等の法人参拝による多くの人出で賑わう。

1988年(昭和63年)、穴守稲荷神社の責任役員の発案で開始された羽田地区の稲荷神社7社と玉川弁財天の全8社を巡拝する催し。現在は穴守稲荷神社内の羽田七福いなり会が主催している。期間中の9時 - 15時の間、各社にて御朱印が受けられる。この付近の十箇所程度に案内板やのぼりを立てたり、近隣住民等の有志による案内もこの間のみ行われている。穴守稲荷神社でもこの間にのみ、七福いなりめぐり用の御朱印が受けられる[注釈 13]

追儺の儀や豆まきなどで知られるように災厄を除き福を招くお祭り。年男年女や現役のキャビンアテンダントによる豆まきが行われ、航空会社グッズなども投げられる。

711年(和銅4年)に京都伏見稲荷大社の御祭神である宇迦御霊神が、稲荷山に降り立ったのが2月初午の日であるとされている。

水琴窟及び御井戸のお祭り。

灌仏会の日に行われる茶道の奉納式

摂社・必勝稲荷のお祭り。

空港分社時代の創建日に行われる例祭。毎月17日にも月次祭が行われ、国内外の航空会社から奉納されたのぼり旗が境内に立ち並ぶ。

  • 五月祭特別祈祷 5月中毎日

参詣月(正五九)である5月に、毎日午前11時に計31回執行される特別祈祷。

戦後、現在の場所に移り、復興を果たしたことを記念するお祭り。

灯明に願いを託し、諸願の成就を願う祭事。境内を千基近い行灯が埋め尽くし、多くの参拝客で賑う。

奥之宮にて行われる、年に一度の大祭。奥之宮以外の境内社の祭礼も同時に行われる。

空の日に行われる、航空業界の躍進と航空安全輸送を祈願するお祭り。昭和50年代以来途絶えていたが、2022年(令和4年)に復興した。

最も重要なお祭りであり、文化の日に斎行される。かつては10月17日の神嘗祭の日に行われていた。

午の日についての由来は諸説あるが、古くより稲荷との関係は深く縁日とされていて、この日にお参りするとより多くのご神徳がいただけると言われている。

歴代宮司[編集]

氏名 時期 備考
初代 橋爪 英麿 1885年頃 - 1907年頃 兼羽田神社宮司
2代 金子 胤徳 1907年頃 - 1927年 平田篤胤の没後門人
3代 金子 一 1927年 - 1937年 胤徳の長男、日中戦争において戦死
4代 金子 主計 1937年 - 1945年 一の弟、城南京浜大空襲において爆死
5代 橋爪 英尚 1948年 - 1954年 英麿の孫、兼羽田神社宮司
6代 羽倉 信光 1954年 - 1981年 英尚の娘婿、兼氷川神社宮司
7代 金子 文弘 1981年 - 2001年 一の長男
8代 矢野 次男 2001年 - 2022年
9代 井上 直洋 2022年 - 現在

穴守稲荷神社が登場した作品[編集]

東京国立博物館所蔵
「羽田の穴守様にお詣りして、……」という一幕がある。
第9章に、土産として穴守稲荷の河豚提灯を貰ったという一文がある。
要館を出て、お穴様に油揚げを供え御砂を持ち帰るという一文がある。
神社と道路を隔てたところに、ドラマの撮影が行われた日本航空の旧訓練センターがあったため、神社の境内でも度々撮影が行われた。
第6話で出てきた宗教法人「運命教会」の設定で撮影が行われた。
穴守稲荷地域が舞台であったため、神社の境内や施設での撮影が行われた。
テレビドラマ版第1話で登場。
Season2〜魔女と大司教編〜のepisode8で、ダミアンが迷い込んだ場所。
冒頭の海上での場面で羽田空港の旧一の大鳥居が登場した。
5話の国際オリムピック大会選手予選会マラソンの予選会場で穴守稲荷神社が登場した[注釈 14]
  • 「新・聊斎志異 お常」(短編漫画、手塚治虫
冒頭に、羽田空港の旧一の大鳥居の話が出てくる。
かつてセガの本社が近隣にあったことから、セガハード化身である女神達が下界での滞在場所とする。
第25話に穴守稲荷神社が登場する。
作中に出てきた慈姑稲荷神社のモデルが穴守稲荷神社。
作中に登場。
CDのジャケットが改修前の千本鳥居を背景にして撮影された。
テレビアニメいなり、こんこん、恋いろは。』の主題歌公式ミュージックビデオ の撮影が境内で行われた。
公式ミュージックビデオ の撮影が境内で行われた。 

アクセス[編集]

鉄道[編集]

京浜急行電鉄
空港線
東京モノレール
東京モノレール羽田空港線

道路[編集]

開門・閉門時間[編集]

  • 参拝:24時間(奥之宮のみ、6:00頃 - 16:30頃)
  • 祈祷:9:00 - 16:00
  • 神符守札・御朱印:8:30 - 17:00

周辺の名所旧跡[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 宗教法人格を有する本務神社の中で最も近いという意味。ターミナルビル内にある羽田航空神社、新整備場の日本航空メインテナンスセンターや三愛オブリ株式会社にある穴守稲荷の分霊等は除く。
  2. ^ 現在でも、戦前の稲荷山にあった要館の石碑が残っている。
  3. ^ 1902年以前に開業している、参宮鉄道(伊勢の神宮)や讃岐鉄道(金刀比羅宮)は「汽車」、大師電気鉄道(川崎大師)や成宗電気軌道(成田山)は「寺院」の参詣電車なので、「神社」かつ「電車」は、穴守線が日本初という解釈。
  4. ^ 大森町・入新井町・羽田町で大森区となる案もあった。
  5. ^ 社殿改装の間などの一時的な事として、他の場所へ神体を遷す事
  6. ^ 現在でも境内社の福徳稲荷前に置かれている。
  7. ^ 稲荷山などにあった講社名が刻まれた石碑、現在でも境内各所に安置されている。
  8. ^ 鹿島建設大和ハウス工業京浜急行電鉄日本空港ビルデング空港施設東日本旅客鉄道東京モノレール野村不動産パートナーズ富士フイルムが出資。
  9. ^ 認可が下りて正式に開校したのは1917年(大正6年)1月4日
  10. ^ 1997年頃から頒布しており、独自のデザインを施した朱印帳としては、かなり初期から存在する。現在は奉納への返礼品として頒布しており、一般頒布はしていない。
  11. ^ 絵馬の一種
  12. ^ 飲用不可
  13. ^ 通常の御朱印は、この期間でなくても拝受可能。御朱印等が目的でなく、道案内等も必要ないのであれば、期間外に参拝しても問題はない。
  14. ^ 設定上の登場であり、撮影を行ったのは茨城県の笠間稲荷神社

出典[編集]

  1. ^ 『東京年中行事1』平凡社、1968年11月、145頁。 
  2. ^ 『カラー図説 日本大歳時記 (春)』講談社、1982年2月1日。 
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  5. ^ 神社を探す 大田区の神社”. 東京都神社庁. 2022年3月12日閲覧。
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  13. ^ 三省堂百科辞書編輯部 編『新修百科辞典』三省堂、1934年、64頁。 
  14. ^ 山寺清二郎『東京商業会議所会員列伝』聚玉館、1892年2月4日、209頁。 
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参考文献[編集]

書籍・雑誌・論文[編集]

  • 大田南畝 編『調布日記』大田南畝、1809年。 
  • 松濤軒斎藤長秋 編『江戸名所図会』須原屋茂兵衛[ほか]、1834-1836。 
  • 山寺清二郎 編『東京商業会議所会員列伝』聚玉館、1892年2月4日。 
  • 藤井内蔵太郎 編『穴守神社由来記 羽田土産』青陽堂、1898年5月。 
  • 杉本嘉次郎 編『穴守稲荷神社縁起』全国社寺取調所、1901年。 
  • 鈴木嘉之助『信仰美談穴守稲荷』中央出版協会、1902年10月。 
  • 金子市右衛門『穴守稲荷神社縁起』金子市右衛門、1903年3月。 
  • 東京府『明治三十八年 文書類纂神社祠宇第2巻 神社境内地区域取広願』東京府文書、1905年。 
  • 大町桂月『東京遊行記』大倉書店、1906年8月。 
  • 夏目漱石『吾輩は猫である』服部書店・大倉書店ほか、1907年。 
  • 清水晴風『東京名物百人一首』清水晴風、1907年。 
  • 松永敏太郎 編『木村荘平君伝』錦蘭社、1908年4月。 
  • 黒田長礼『羽田鴨場之記』齋藤豁、1908年10月。 
  • 遅塚麗水『京浜遊覧案内』京浜電気鉄道株式会社、1910年。 
  • 若月紫蘭『東京年中行事1』春陽堂、1911年。 
  • 金子胤徳『穴守稲荷神社縁起』穴守稲荷神社社務所、1912年10月17日。 
  • 東京府『大正五年 鉄道軌道 冊ノ十二』東京府文書、1916年。 
  • 角田政治 編『続最新大日本地理集成 上巻 交通名所之部』隆文館圖書、1916年12月5日。 
  • 河井醉茗『東京近郊めぐり』博文館、1922年。 
  • 田山花袋『東京近郊一日の行楽』博文館、1923年。 
  • 相川二郎『趣味の旅 名物をたづねて』博文館、1926年。 
  • 小島火洋『患者の為に 第2版』小島猛雄、1928年8月10日。 
  • 東京市役所 編『市域拡張記念 大東京概観』東京市役所、1932年10月1日。 
  • 東京府荏原郡教育会読方科研究部 編『郷土の文学的資料』東京府荏原郡教育会読方科研究部、1933年4月10日。 
  • 菊地政雄 編『蒲田区概観』蒲田区概観刊行会、1933年。 
  • 阿緒木浄『空の怪奇』日本空の旅社、1933年10月31日。 
  • 三省堂百科辞書編輯部 編『新修百科辞典』三省堂、1934年。 
  • 明治大学航空部 (1935). 工人社. ed. “日本學生航空聯盟巡り明治大學の卷”. (工人社) 2 (9). 
  • 好村春基 編『邪教に迷はされた人々=被害実録=』大東出版社、1936年10月7日。 
  • 日本旅行協会 編『旅程と費用概算 昭和13年版』日本旅行協会、1938年6月25日。 
  • 黒田長礼『雁と鴨』修教社書院、1939年2月。 
  • 青木武雄『報知七十年』報知新聞社、1941年。 
  • 奥野信太郎『随筆東京』株式会社東和社、1951年10月20日。 
  • 東京都大田区立羽田小学校 編『羽田郷土誌』東京都大田区立羽田小学校、1954年。 
  • 上村元春 (1956). 航空研究会. ed. “東京国際空港七つの物語 第七話穴守稻荷の靈験”. 航空 (航空研究会) 3 (6). 
  • 佃正人 (1955). 運輸省大臣官房文書課. ed. “〔空港夜話〕ー取り残された穴守さんの大鳥居ー”. 運輸 (運輸故資更生協会) 5 (9). 
  • 郡捷, 小森郁雄, 内藤一郎 編『日本の航空50年』酣灯社、1960年。 
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  • 松尾静磨 (1963). “穴森の鳥居”. 東商 (196). 
  • 高橋義孝『わたくしの東京地図』文藝春秋新社、1964年12月1日。 
  • 日本空港ビルデング株式会社 編『東京国際空港ターミナル・ビル十年の歩み』日本空港ビルデング株式会社、1965年5月。 
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  • 山本富夫 (1972). 警視庁警務部教養課. ed. “羽田空港と大鳥居”. 自警 (自警会) 54 (2): 136-137. 
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  • 宮田登『神の民俗誌』岩波書店、1979年9月20日。 
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  • 中沢 蔀『草津の神社仏閣』群馬報知新聞社、1985年4月10日。 
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  • 東京都土木技術研究所『東京低地の液状化予測』東京都土木技術研究所、1986年3月。 
  • 川口謙二・池田政弘・池田孝『鳥居―百説百話(東京美術選書)』東京美術、1987年8月1日。 
  • 野村 昇司『■羽田の空に飛行機がとんだ■』株式会社ぬぷん児童図書出版、1987年11月10日。 
  • 大田区史編纂委員会 編『大田の史話 その2』東京都大田区、1988年3月。 
  • 大田区都市環境部環境課 編『東京国際空港に関する公害対策の経過』東京都大田区、1988年3月。 
  • 石川光陽『痛恨の昭和 : グラフィック・レポート』岩波書店、1988年7月20日。 
  • 陣内秀信『水辺都市―江戸東京のウォーターフロント探検』朝日新聞社、1989年11月1日。 
  • 長沢利明 (1991). “飛行機の神”. 日本民俗学 (186): 113-135. 
  • 小林一三『小林一三日記 第1巻』阪急電鉄株式会社、1991年。 
  • 大田区史編纂委員会 編『大田区史 中巻』東京都大田区、1992年3月。 
  • 陣内秀信『水の東京』岩波書店、1993年3月25日。 
  • 日通総合研究所 編『季刊輸送展望 秋季 228号』日通総合研究所、1993年。 
  • 大森恵子『稲荷信仰と宗教民俗』岩田書院、1994年12月。 
  • 大田区史編纂委員会 編『大田区史 下巻』東京都大田区、1996年。 
  • 戸田大八郎『21世紀へ伝える航空ストーリー 戦前戦後の飛行場・空港総ざらえ』自費出版、1997年5月。 
  • 鹿島小堀研究室 武村雅之・諸井孝文 (2002). “1923年関東地震に対する東京都 23 区内(旧郡部)での詳細震度分布”. 歴史地震 (18): 97-115. 
  • 小関智弘『大森界隈職人往来』岩波書店、2002年8月20日。 
  • 稲田智宏『鳥居』光文社、2002年10月17日。 
  • 吉川良『人生をくれた名馬たち(2)』毎日コミュニケーションズ、2005年5月1日。 
  • 佐藤正之 (2006). “東京社会文化史探訪(3)「大東京」の変幻〜羽田ストーリー―飛行機に追われた穴守稲荷と鴨場”. 都市問題 97 (1): 89-97. 
  • 水内 俊雄・鈴木 勇一郎・大門 正克・森田 真也・岡本 真佐子『「開発」の変容と地域文化』青弓社、2006年10月7日。 
  • 京浜急行電鉄株式会社 編『京急グループ110年史 最近の10年』京浜急行電鉄株式会社、2008年2月25日。 
  • 穴守稲荷神社 編『穴守稲荷神社史』穴守稲荷神社、2008年3月31日。 
  • 財団法人伊東奨学会 編『羽田糀谷の年表Ⅲー平成十一年から平成二十年までー』財団法人伊東奨学会、2010年12月。 
  • 国土交通省航空局 衣本 啓介 (2010). “羽田空港の歴史”. 地図(Journal of the Japan Cartographers Association) 48 (4): 7-14. 
  • 平山昇『鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った』株式会社交通新聞社、2012年10月15日。 
  • 歴史ミステリー研究会 編『日本の聖地99の謎』株式会社彩図社、2013年5月23日。 
  • PHP研究所 編『京急電鉄のひみつ』PHP研究所、2013年9月9日。 
  • 小川裕夫『封印された 東京の謎』彩図社、2014年3月24日。 
  • 山内マリコ『東京23話』株式会社ポプラ社、2015年8月17日。 
  • 髙松良晴『東京の鉄道ネットワークはこうつくられた - 東京を大東京に変えた五方面作戦』交通新聞社、2015年8月25日。 
  • 宮田憲誠『京急電鉄 明治・大正・昭和の歴史と沿線』JTBパブリッシング、2015年9月29日。 
  • JTBパブリッシング 編『まるごとわかる! 京急 5路線73駅完全ガイド』JTBパブリッシング、2016年1月30日。 
  • 小林政能『なんだこりゃ? 知って驚く東京「境界線」の謎』実業之日本社、2016年2月27日。 
  • 今尾恵介『地図で解明! 東京の鉄道発達史』JTBパブリッシング、2016年2月27日。 
  • 並木伸一郎『ムー的未解決事件』学研プラス、2016年6月7日。 
  • 日本空港ビルデング株式会社60年史編纂委員会 編『羽田空港ターミナル60年史』日本空港ビルデング株式会社、2016年7月。 
  • 近藤晃『”羽田の空”100年物語』株式会社交通新聞社、2017年2月15日。 
  • 地域力推進羽田地区委員会 編『あのとき…羽田地区における戦争体験』地域力推進羽田地区委員会、2017年3月。 
  • 東京工業大学 馬場 信行 (2017). “明治後期から昭和初期の京浜電気鉄道による羽田穴守海水浴場施設の運営実態及び集客戦略の研究”. 公益社団法人日本都市計画学会 都市計画論文集 52 (3). 
  • 長沢利明『江戸東京の庶民信仰』講談社、2019年4月12日。 
  • 鈴木勇一郎『電鉄は聖地をめざす』講談社、2019年5月10日。 
  • 風来堂 編『四大空港&ローカル空港の謎 思わず行ってみたくなる「全国の空港」大全』イースト・プレス、2020年11月8日。 
  • 坂崎幸之助・生田誠『ふるさと東京 今昔散歩 第2巻羽田・大森・蒲田編』フォト・パブリッシング、2021年5月1日。 
  • 森重和雄 著、森重和雄 編『羽田時空旅行〜観て・知る・歩く羽田〜』出版舎 風狂童子、2021年12月22日。 
  • 近藤晃『羽田の今昔 写真家が見た羽田空港の100年』天夢人、2022年2月26日。 
  • 徳間書店 編『羽田空港アーカイブ 1931-2023』株式会社徳間書店、2023年4月30日。 
  • 市町村自治研究会 編『全訂2版 全国市町村名変遷総覧』日本加除出版、2023年5月26日。 
  • まちの記憶編集委員会 編『川向町〜まちの記憶』川向南耕地地区土地区画整理組合、2023年7月20日。 
  • 穴守稲荷神社略記
  • 東京羽田穴守稲荷神社摂社航空稲荷御由緒

新聞[編集]

  • 東京朝日新聞
  • 東京日日新聞
  • 臺灣日日新報
  • 横浜貿易新報
  • 朝日新聞
  • 読売新聞
  • 都新聞

ウェブサイト[編集]

関連項目[編集]

  • 京急空港線 - 元々、穴守稲荷神社参詣者輸送の為の穴守線として開業した。
  • 東京国際空港 - 穴守稲荷神社の旧鎮座地に当たる
  • 鈴木新田(現羽田空港) - 旧鎮座地
  • 羽田 - 現鎮座地
  • 新編武蔵風土記稿
  • 穴守稲荷駅
  • 穴守駅
  • 大鳥居駅 - 駅名は、開業当時の駅前に立っていた穴守稲荷神社の大鳥居に由来する。
  • 木村荘平 - 講の組織化に取り組み、大鳥居を寄進するなど、穴守稲荷の発展に力を尽くし、「穴守神主」の異名を授けられた。
  • 日本飛行学校 - 穴守稲荷神社総代援助の下、神社のすぐ傍で日本飛行学校を創立したことで、羽田が飛行場好適地と注目されたことが、後に羽田空港開港へと繋がった。また、練習生が飛行テストの成功祈願をしたことが、現在まで続く穴守稲荷の航空安全信仰の最初である。
  • イナリワン - 穴守稲荷神社の崇敬者であった馬主が、穴守稲荷の神職に相談をして、神社を由来に名付けられた
  • 伏見稲荷大社 - 穴守稲荷神社をはじめとする全国の稲荷神社の総本社
  • 航空神社
  • 羽田航空神社
  • 台北稲荷神社 - かつて存在した分社
  • 航空安全
  • 航空事故

外部リンク[編集]