福井保夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福井 保夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県津山市
生年月日 (1952-11-12) 1952年11月12日(71歳)
身長
体重
180 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1974年 ドラフト1位
初出場 1975年5月17日
最終出場 1981年9月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
福井保夫
ふくいやすお
生年月日 (1952-11-12) 1952年11月12日(71歳)
出身校 岡山県立津山商業高等学校
所属政党 無所属

当選回数 3
在任期間 2010年 - 現職
テンプレートを表示

福井 保夫(ふくい やすお、1952年11月12日 - )は、岡山県出身の元プロ野球選手。ポジションは投手

来歴・人物[編集]

津山商業高校では、エースとして1969年秋季中国大会県予選で準決勝に進むが興譲館高に敗退。翌1970年春季中国大会県予選でも準決勝に進出するが、岡義朗守岡茂樹のいた岡山東商に惜敗した。卒業後は松下電器に入社。しかしエース福間納に加え、1973年には山口高志長谷部優が入社。あまり活躍の機会はなかった。

1974年のドラフト会議で近鉄バファローズに1位指名され入団。この年のドラフトでは同僚である山口高志の去就が注目され、ドラフトで最初に指名権を得ていたバファローズが当然山口を1位指名するものとみられていた。しかし、有名選手ゆえ契約金の高騰を懸念したバファローズは山口を指名せずに福井を指名し、周囲を驚かせた。コントロールもまずまずでスライダーが決め球という前評判だった。

1年目の1975年から一軍で起用され10試合に登板。7月25日に救援でロッテから初勝利を挙げる。9月24日には阪急を相手に初先発。序盤で大きくリードし3回を無失点と好投するが、4回に長池徳二に本塁打を浴び降板、白星を逸する。1980年には主に中継ぎとして9試合、翌1981年には18試合に起用され、初セーブも記録する。しかし翌年以降は登板機会がなく、1983年オフに加藤英司大原徹也とのトレード森脇浩司と共に広島東洋カープへ移籍。ここでも登板機会はなく、1984年限りで引退した。

引退後は暫く、古巣・近鉄バファローズで打撃投手を務めた。

現在は奈良県生駒郡安堵町に在住し、同町の商工会事務局に勤務の後、町議会議員を務める[1]。2015年2月7日には母校津山商業のコーチに就任した[2]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1975 近鉄 10 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 83 21.2 18 4 6 0 0 7 0 0 8 7 2.86 1.11
1976 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 14 3.0 4 1 3 0 0 1 0 0 1 1 3.00 2.33
1979 4 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 45 12.0 10 2 1 0 0 6 1 0 4 4 3.00 0.92
1980 9 0 0 0 0 0 1 0 -- .000 140 34.1 32 7 8 0 0 17 0 0 12 12 3.18 1.17
1981 18 0 0 0 0 1 1 1 -- .500 216 56.1 51 8 4 0 1 26 0 0 21 20 3.21 0.98
通算:5年 43 2 0 0 0 2 3 1 -- .400 498 127.1 115 22 22 0 1 57 1 0 46 44 3.12 1.08

記録[編集]

  • 初登板:1975年5月17日、対ロッテオリオンズ前期7回戦(日本生命球場)、6回表から3番手で救援登板・完了、4回2失点
  • 初勝利:1975年7月27日、対ロッテオリオンズ後期2回戦(新潟市営鳥屋野球場)、8回表から3番手で救援登板、1回無失点
  • 初先発:1975年9月24日、対阪急ブレーブス後期12回戦(藤井寺球場)、4回1失点で勝敗つかず
  • 初セーブ:1981年8月30日、対ロッテオリオンズ後期8回戦(日本生命球場)、1回1失点

背番号[編集]

  • 15 (1975年 - 1983年)
  • 33 (1984年)
  • 85 (1985年)
  • 95 (1986年 - 1990年)

脚注[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]