矢倉囲い

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矢倉囲い(やぐらがこい)は、主に相居飛車戦法・相振り飛車戦法で用いられる将棋囲いの一つ。単に矢倉(やぐら、: Yagura[1], Fortress[2])と呼ばれることが多く、美濃囲い穴熊囲いと並ぶ代表的な囲いである。相居飛車戦で互いに矢倉囲いに組んで戦う戦型のことを相矢倉(あいやぐら)と言い、相掛かり角換わり横歩取りとまとめて相居飛車戦における四大戦法の一つとなっている。

概要[編集]

非常に古い戦型で、江戸時代には同じ音の「櫓」の文字を当てており、分家六代目大橋宗英が著した『将棋歩式』などの定跡書でも「先手櫓」「櫓崩し」などと表記していたが、昭和後期には「矢倉」の表記が一般的となった。ただ、升田幸三山口瞳など、昭和前期に将棋を修行した人の著書では「ヤグラ」というカタカナ表記も登場していた。近年ではほとんどが「矢倉」である。語源については、近年では、加藤治郎が「お城の富士見矢倉、物見矢倉に形が似ている所からついたもの」と述べているように、日本の城郭建築のに形が似ていることから名前が付いたと記述する文献が見られるようになった。しかし、享保年間に出た『近代将棋考鑑』には『この駒立やぐらというなり。いにしえ大阪北濱やぐら屋の何がしという人好みてこの駒立を指し申すによつてしかという』と記載されており、「矢倉」の語源の有力な説となっている。

矢倉囲いとは通常(相居飛車で先手の場合)、を8八に、左を7八、右金を6七に、左を7七に移動させたものをいう。相手の飛車先を▲7七銀と受け、そこに▲6七金右と1枚加わった形で、上部に厚いのが特徴である。通常の矢倉を金矢倉(きんやぐら)ということもある。の初期位置に玉が来るため、角をうまく移動させることが必要になる。相矢倉では6八の位置に角が来ることが多いが、4六や5七、2六の位置に来ることもある。後手は7三に持ってくる場合が多い。上部からの攻撃には強い反面、7八の金を守っている駒が玉1枚だけであり、横からの攻撃にはそれほど強くないという特徴がある。ただし6八には金銀3枚の利きが集中しているので、八段の守りが薄いというわけではない。端は金銀の利きが無いためやや弱く、例えば飛角香を利かせて一気に攻め立てる雀刺しという戦法がある。

矢倉定跡は矢倉を志向する者たちの想いゆえに、とてつもなく深い考察がなされる。一方で「矢倉は難しい」という声が非常に多い。確かに矢倉は難しく、また類型が多く、覚えることも多く、膨大な研究量を求められ、難しい矢倉であるからこそこれほど多様化し、重厚で激しい手順隆盛の理由はそれだけ多くの将棋指しを魅了してきたからとされている。

米長邦雄は「矢倉は将棋の純文学だ」という意味深な言葉を残している[3][4][5]。戦後から平成の時代にかけて大きなシェアを占める超人気戦法でもあり、金矢倉、銀矢倉をはじめ、進化と深化を繰り返し数えきれないほどの形が生まれて指されて時に消えて、そして復活し、91手定跡という驚愕の手順まで誕生している。

一方でコンピュータ将棋時代の影響を受けた戦型でもある。コンピュータ将棋においても、2001年の時点は矢倉になることが多かったが[6]、2010年代になるとコンピュータ将棋は廃れていた戦法であった雁木を復活させる[7]。さらに2010年代半ばに、矢倉に対する強力な対策としての居角左美濃急戦が登場したことにより、2017年にはプロ棋士の増田康宏が「矢倉は終わりました」と発言する[8]など、長らく将棋界の本流であった矢倉に巨大な危機が見られた。

矢倉に代わって雁木角換わりなどほかの戦法が著しく進化する一方で、先手後手双方が玉将を囲いに入れる「相矢倉」の形は脇システムを除き、プロ将棋の最前線ではほぼ見られなくなった。土居矢倉のように戦前に現れた形が再評価されたり、米長流急戦矢倉が先手番の戦法として復権するなどの流れを経て、2020年代初頭には矢倉は相掛かりの一類型ともいえる戦いへと変貌を遂げている[9]

歴史[編集]

江戸時代の矢倉[編集]

現存の棋譜では1618年元和4年)8月11日 (旧暦)本因坊算砂大橋宗桂の対局が初出である。算砂が矢倉囲いを用いた[10]

△ 宗桂 持ち駒 なし
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△ 算砂 持ち駒 なし
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△ 宗古 持ち駒 歩
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当時は振飛車全盛期であり、雁木 (二枚銀) が最有力戦法として流行した。草創期は、図1-1から片矢倉にしている。これを見る限り、形のうえでは現代と変わってはいないが、将棋の考え方という点では、かなり開きがある。ただし振飛車の早囲い (6二銀) も居飛車側の舟囲いも、すでにこの時に考案されていることが知れる。ともあれ矢倉将棋はこの宗桂・算砂戦に端を発し、さまざまな創造と修正の努力を繰り返しつつ、目覚ましい発展をとげて、現代に生き続けるのである。

ところで、後に駒落戦でも矢倉を採用されている。図1-2は右香車落(元和七年)で、先手引き角は旧型の雁木である。他、図1-3はの角落戦(対局年は不詳であるが、角落矢倉の第一号局、1600年代前半とされる)が知られる。

△ 宗看 持ち駒 なし
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△ 宗銀 持ち駒 なし
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△ 宗桂 持ち駒 なし
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図1-4は、左香車落 (対局年は不詳、1600年代前半とされる) で、それぞれに矢倉の形が微妙な違いを見せている。

江戸期に死闘を演じた若き英才、大橋宗銀伊藤印達は57番勝負を繰り広げるが、1709年(宝永6年)の57番勝負の第6局が図1-5で(前後逆)ある。10代同士の一戦。当時は雁木と矢倉の対決が最大のテーマであった。先手は7八銀から7七銀としている。矢倉への第一歩で、当時では珍しい着想であった。後手は3二金と立ち、6二銀から5三銀のコースで雁木を目指す。当時においては新の矢倉と旧の雁木の対決で、雁木から矢倉の優秀性が認識された注目すべき対戦であったといえる。

次の代は7世名人・伊藤宗看が出現し、さらに新しい実験を試みた。矢倉は形が重く守勢という風潮の中で矢倉を指す将棋師への再評価があったとみられる。宗看時代は5七銀型が常識になっていたが、実戦を重ねて4八銀型に修正されていったのもこの時代である。さらに当時は厚みを重視し、飛車先を切らせる指し方をしていたが、この観念に果敢に挑んでいたのが宗看であり、弟の贈名人である看寿であった。図1-6は1753年(宝暦3年)の御城将棋の対戦で、いつでも飛車先を切る権利をもつことで作戦勝ちになるとみられるが、当時飛車先を切って1歩を手にする利をさほど重視していないということがわかる。

△ 印寿 持ち駒 なし
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△ 宗看 持ち駒 なし
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△ 孫兵衛 持ち駒 なし
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図1-7は1774年(宝永3年)の御城将棋、後手の印寿とはのちの八世名人・九代大橋宗桂で、図では6五歩の位取りが出現し、力強い指し方が見られるが、この将棋が四手角の原型とみられ、仕掛けたほうが不利になるとされた。現代の四手角も、千日手になる可能性が強くなって姿を消してゆく。ただし、この四手角が背負う千日手の宿命を克服しようとして、新しい現代流の矢倉戦法が開発されていくわけである。

図1-8は、1811年(文化八年)の御城将棋で、後手は江戸時代で最後の将棋所を勤めた十世名人・六代伊藤宗看である。当時、先代の九世名人・大橋宗英が新しい相掛り戦の研究に取り組み、いっぺんに振飛車が廃れるとともに、矢倉将棋も勝率という点で芳しからず、次代の大橋柳雪と天野宗歩の新研究を待つ情勢であった。矢倉の欠陥は、銀が左右に分かれて中央が手薄になるという認識であった。その矢倉の欠点を衝いたのが、図1-8で見る宗看の5二飛の手であった。「矢倉に中飛車」が、矢倉の隆盛を阻む決め手となったのである。

その後、大橋柳雪が宗英の新感覚を承け継ぎ、それを天野宗歩に伝えていった。

図1-9は、1817年(文化14年)8月、英節時代の柳雪が深野孫兵衛と戦った矢倉戦で、2四歩と大胆に飛車先を切って出たとこである。今では当然の手でもあるが、当時は飛車先を切る利を重視しなかった。柳雪は早くもそこに着目して、2四歩と切って出たものである。

将棋の戦いで一歩得の「実利」を作戦としてはっきり認識したのは柳雪であった。

それでもこの時期柳雪以外は顧みず、これを有利と決定づけるのは、次代の棋士、天野宗歩の出現からであった。7八から7七銀および7九角の着想が新しく、それによって2四歩が可能となった。柳雪が矢倉近代将棋の先駆である。

近代将棋の父と仰がれる宗歩は、傑出した新感覚の持ち主で、著書『精選定跡』は、特に宗歩の将棋理論の集大成といえるが、その先駆として宗英と柳雪があり、二人に先達に学んだことは実戦譜に如実に示されている。

△ 宇兵衛 持ち駒 角
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△ 富次郎 持ち駒 なし
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△ 木村 持ち駒 なし
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当時、草創期から棋界の主流をなした振り飛車が廃れ、居飛車将棋が主潮をなす土壌の中で、主役を演じたのは宗歩であり、前代の7八から7七銀を修正し、7八銀-7七角-6八角の手法を用いて飛車先を切って出る。他の将棋師が飛車先を切らずに戦う中で宗歩のみが飛車先を切ったのは、既成概念を取り払って1歩得の利を有利とする大局観からである。

さらに宗歩の名前を不朽にさせたのは、天野矢倉の創造である。図1-10は1837年(天保4年)正月28日、深野宇兵衛との一番。6八に金を構えて矢倉を完成させ、ここから2筋と4筋の歩を切って2歩を持ち、実利とともに序盤の一手の大事さを示す。こうした序盤感覚の鋭さも、近代将棋を開拓した宗歩の功績である。著書『精選定跡』は実戦がそのまま定跡となり、さらに実戦の実験によって修正を加えてより完璧なものとしていった。

角交換の矢倉も宗歩が初めて試みた手で、ほかに、四手角にも新機軸を生み出した。

図1-11は、1845年(弘化二年)10月20日、市川蘭雪との対戦。相矢倉となり、当然ながら同型を辿ってゆく。今もそうであるが、同型の場合、どこで後手が手を変えるのかが、興味の焦点になっている。図1-11から先手は、1六歩と突き、後手の宗歩は同型を避けて、7三銀と変化した。先手の1六歩の手を緩手にしようという着想で、これで一挙に攻めの主導権をにぎろうとした。序盤作戦の鋭さと からさが見受けられる。

昭和初期の矢倉[編集]

宗歩がすばらしい矢倉の新感覚をみせたのに後続が絶え、幕末から明治・大正期までは相掛かりの全盛時代となった。すでに振り飛車は影をひそめ、つづいて矢倉将棋も全くの低迷期に入った。幕末から明治までは将棋界の衰逸期であったし、当時の人びとは江戸時代の模倣として、相掛り戦一本で戦いつづけている。戦法には時代の世相の反映もあり、流行ということもあるが、この長い期間の矢倉の低迷は、そのまま棋界の衰徴を物語るものであった。ただ将棋師は、いつかは低迷する暗雲をはらいのけて、未知の世界を切り拓いていく。それが、天才児の出現によって大正の盛時を作り上げていったのである。

江戸時代に指されていたころは矢倉はあくまで居飛車戦で行う囲いの一つであって相掛かりからの流れで矢倉に組むケースがほとんどであった。そうしてまれに指されていた矢倉は、明治から戦中まで、ほとんど姿を消していた。

昭和期に入り、土居市太郎名誉名人が、天野矢倉を改良して土居矢倉を創始した。

1940年(昭和十五年)6月25・26・27日の第二期名人戦第三局は、対局場の名を冠して「定山渓の名局」と喧伝されるが、序盤は当時流行の相掛りコースからスタートし、先番の土居は角交換に出て相矢倉模様に局面を導いた。図1-12は天野矢倉の踏襲であり、同時に土居矢倉への創造である。厚みとさばきを特徴とし、敗者の木村義雄十四世名人は「敗局の名局」と讃えるが、名局かどうかよりも、矢倉将棋の復活に寄与したという点で、高く評価される一局である。

升田・大山時代の矢倉[編集]

その後、戦後を迎えた当初は、なお戦前派の相掛り戦が主流をなしていた。そのなかで、1947年(昭和二十二年)5月30日、第六期名人戦第六局、塚田正夫八段(当時)と木村義雄名人の対戦は、先手の塚田が角交換に出て天野矢倉に局面を導いた。この木村・塚田戦は相掛り全盛時代から、矢倉将棋復活への貴重な実験であり、新時代への脱皮となる。

矢倉がひとつの囲いから戦法へと昇華するのは戦後で、特に大山康晴が1950年代は「矢倉の大山」とうたわれ、1952年に木村義雄を倒して名人位を奪取した一番の銀矢倉が特に知られる。このころの矢倉戦は5筋を付き合うスタイルでなく、当時の相掛かり戦の延長で、先手▲4六歩、後手△6四歩とどちらかが4筋(6筋)を突く、あるいは4筋と6筋を付き合うパターンであった。

△ 大山 なし
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△ 木村 なし
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△ 升田 なし
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矢倉の流行の始まりは、タイトル戦での相次ぐ採用である。図1-13は、1948年(昭和二十三年)四月十日、第七期名人戦第二局、塚田正夫名人と大山康晴八段(いずれも当時)の対戦。先手は矢倉のコースをとり、後手は、3二金。面白い手で、普通は、4二銀から3三銀とするところ。

これで、3二金から4一玉ー3三角として、従来の四手角の手順を三手角に修正し、序盤の一手の「からさ」を追求しようとした。

図1-14は、1950年(昭和二十五年)六月十二、十三日の第九期名人戦第六局の木村・大山戦。矢倉は持久戦という常識を打破し、右銀を前線に繰り出して急戦矢倉が出現した。

昭和二十年の後半に至って、升田幸三九段と大山康晴十五世名人とで相矢倉の戦いがはじまり、数多く現代矢倉に連なる定跡を創作した。そして勝負のたびに新手が出て、その修正の繰り返しによって多種多様な矢倉が実験されるなかで、矢倉戦法は飛躍的に進歩するとともに、「升田の攻勢」「大山の守勢」というパターンも定着した。

△ 升田 なし
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△ 升田 なし
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△ 大山 なし
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主だったものだけを列記すると、次の通り。

新旧対抗。5筋を突くのが新で、6筋を突くのが旧とし、この戦型で戦いつづけた。

  • 右銀を繰り出す急戦矢倉。
  • 持久戦の相矢倉。
  • ソデ飛車矢倉。図1-15は、1953年(昭和二十八年)四月二十七・二十八日の第十二期名人戦第二局で、後手がソデ飛車に変化した。
  • 矢倉中飛車の流れ。左銀を中央に繰り出す変化。
  • 棒銀型。図1-16は、1954年(昭和二十九年)四月十五,十六日の第十三期名人戦第一局。先手の升田が、2六銀と棒銀に出た。
  • 矢倉中飛車。図1-17は、1954年(昭和二十九年)五月十、十一日の第十三期名人戦第三局。
  • 銀矢倉。図1-18は、1954年(昭和二十九年)六月七,八日の第十三期名人戦第五局。後手の大山が腰掛け銀から組む銀矢倉を愛用するようになった。

升田,大山戦のあと、さらに矢倉が多様化して個性的な形が続出した。

図1-19は、1955年(昭和三十年)四月十九,二十日の第十四期名人戦第二局の大山・高島一岐代八段戦。大山が、1七香の手を見せ、後手は高島流に組み上げて戦った。その後の展開は、先手は2筋交換、後手は菊水矢倉から△7五歩の展開になる。

△ 高島 なし
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△ 大山 なし
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△ 升田 歩
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図1-20は、1956年(昭和三十一年)五月十五.十六日の第十五期名人戦第二局の大山・花村元司八段戦。3七銀型から3五歩と仕掛ける手が出現した。

その後、1956年11月5日 九段戦升田幸三 vs. 灘蓮照など、升田幸三九段や 灘蓮照九段も指し出し、灘は▲3八飛(△7二飛)と飛車を一間寄って、▲3七銀から3五歩という戦術を愛用していく。

図1-21は、1957年(昭和三十二年)五月七、八日の第十六期名人戦第一局の升田・大山戦。先手の大山が四手角を採用した。金・銀三枚で玉を囲い、あとの飛・角・銀・桂で攻めるという、四手角の理想である。

△ 二上 なし
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△ 中原 なし
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△ 後手 持ち駒 なし
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この他に矢倉中飛車や雁木、右玉戦法などもみられる。

図1-22は、1962年(昭和三十七年)五月二十四・二十五日の第二十一期名人戦第四局の大山・二上戦。先手の矢倉中飛車に対して、後手は雁木から流れ矢倉に組み変えている。

図1-23は、1962年(昭和三十七年)十二月七日の予備クラス(奨励会)の中原誠三段と大内延介三段戦。これは先輩たちが指しているのを、若い三段らが真似をしたもの。普通に玉を左(2二玉)に囲うと玉頭から攻められるので、玉を戦線から遠ざけようという指し方である。

端攻めの出現[編集]

図1-24は、1839年(天保九年)刊『将棊自在』に見える居角左美濃矢倉崩し一歩止めの定跡。「矢倉には端歩を突くな」が常識になっていた時代で、以下2五桂からの矢倉崩しの定跡を示している。この一歩止めが後に再評価されて、画期的な「スズメ刺し」や4六銀戦法など、2五桂戦術の出現へとなったとされている。

△ 木村 なし
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△ 後手 持ち駒 なし
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△ 後手 持ち駒 なし
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図1-25は、昭和二十六年の第六期名人戦第一局の塚田・木村戦で、このときの先手の1七香-1八飛の構えが、スズメ刺しの源流ではないかと思われている。

これに工夫を加えて、昭和二十八年ごろに升田幸三がスズメ刺しの原型3七桂型、を打ち出し、にわかに流行した。

図1-26は、現代スズメ刺しの基本図。これから、いろいろな変化をたどってゆく。

  • 2二玉の変化
  • 2二銀の変化
  • 2四銀の変化
  • 1六歩、1四歩型

図1-26以下、2四銀、2五歩、1三銀という指し方があらわれた。

そして、3七桂型・3七銀型という区分が現れる。

図1-27は、昭和四十年六月四日の第二十期順位戦の有吉道夫八段対加藤一二三八段戦。1六歩・1四歩型から2五歩型で、この頃から「端のからみ」が重要なテーマになってきた。本局の先手は、3七桂とはねたが、のちに、3七銀型が見られるようになってくる。

歴史的に見れば、3七桂型が先で、3七銀型(2六銀とせず1五歩)があとになっている。

△ 加藤 なし
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△ 山田 なし
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△ 中原 なし
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図1-28は、昭和四十三年十一月二十九日の第一期六社戦(のち将棋連盟杯戦)の米長邦雄六段対山田道美八段戦で、2四銀-2五歩、1三銀と後手が端攻めを受けて戦った。

スズメ刺しや棒銀の出現から、1970年代から矢倉はさらに端の絡みが重要なテーマとなる。 ①両方(1・9筋)を受ける型。 ②両方を詰める(1五歩・9五歩)型。 ③片方だけ詰め(1五歩)て、もう一方を受ける型。

これまで、同型矢倉や四枚矢倉は千日手になる危険が多く、矢倉戦法の進歩に大きな障害となっていたが、それを打開する方策として「端のからみ」をテーマとする新しい戦法が出現し、旧称の「矢倉」から「矢倉戦法」に生まれ変わることとなっていく。

図1-29は、昭和五十四年四月十一・十二日の第三十七期名人戦第三局の米長邦雄九段対中原誠名人戦。ここで後手の対応としては、 ①2二玉、②2二銀、③2四銀があり、②の2二銀が多く見られるようになっていく。

また2一銀ー3三桂ー2一玉と、玉を一つさがった形で受ける指し方もあらわれてきた。

図1-30は、昭和五十四年十月十二・十三日の第二十期王位戦第七局の米長・中原戦。 2二銀型の多様化の一例として、受けの5三角の手が指されるようになった。

図1-31は、1980年12月19日 第30期王将戦リーグ先手米長邦雄 vs. 後手勝浦修 戦。対雀刺しには棒銀が有効とされ、後手が棒銀に構える。これに対し、先手の▲2六歩止め+1五歩-2九飛型が出現。先手は4六角-6五歩型さらに右銀を4八〜5七〜6六に構えると、後手は飛車を6二に展開し、△6四歩から角交換を狙う戦術。

図1-32は、1981年6月30日の十段戦。先手米長邦雄 vs. 後手中原誠 戦。後手の7五歩交換から、先手が▲2六歩止め+1五歩-2九飛型から5九飛が出現する。

この▲2六歩止めと、端を詰めてからの駒の中央への進出は、右銀を使う、別の攻め筋をも生み出す。雀刺しの攻撃手段は飛角桂香の攻めで、銀が攻撃に参加していないというのが欠点としてあった。

図1-33は、1966年12月21日の王将戦予選、先手山田道美 vs. 後手加藤一二三 戦。 先手の山田が飛車先を2六に保留のまま右銀を3七から4六に、飛車を5八に展開している。

△ 勝浦 なし
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△ 中原 なし
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△ 加藤 歩
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図1-34は、1969年1月17日 王位戦、先手加藤一二三 vs. 後手中原誠 戦。先手加藤の2六歩型のままの3七銀に後手中原が2四銀と早めに上がり、先手の3五歩をけん制。加藤は図の局面から右銀も繰り替えて雀刺しに移行する。

図1-35は、1976年6月22日 王位戦、先手米長邦雄 vs. 後手加藤一二三 戦。後手加藤2四銀の構えに、先手の米長が2六歩止め3七銀型雀刺しから、4六銀〜3八飛〜3五歩と仕掛けている。但しその後は銀交換から後手が右玉、先手が居飛車穴熊に移行している。

1979年1月16日 王将戦、先手加藤一二三 vs. 後手中原誠 戦では、先手の加藤が3七銀-3八飛から3五歩とする灘流を採用し、後手中原が2六歩止めを逆用して2四歩から3四銀として2三銀型を狙い、図1-36となる。後手の同歩に2四歩と歩を垂らす狙い。

△ 中原 なし
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△ 加藤 なし
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△ 中原 歩3
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こうして80年代初頭に開発された先手矢倉の飛車先一歩止めと右銀参加が、矢倉4六銀戦法へと発展して行った。

さらにこのころから飛車先不突矢倉が出現。源流として、図1-37は、1979年9月21日 順位戦。先手田中寅彦 vs. 後手松浦隆一 戦。先手の田中が飛車先不突矢倉を採用。2七歩のままで3七銀から3五歩を試みた。

図1-38は、1979年12月13日 若獅子戦。先手田中寅彦 vs. 後手武者野勝巳 戦。先手の田中が飛車先不突矢倉から3五歩交換と、1七香から雀刺しにする指し方を披露した。このあと右銀が2六から1四に進出する。類似の戦術は1977年12月7日の十段戦、先手中原誠 vs. 後手加藤一二三 戦で先手の中原が2六歩止め3七銀型の雀刺しから3五歩の1歩交換と3六銀型の陣形を組んでから端攻めを敢行している。

図1-39は、1982年4月26・27日の第四十期名人戦第2局の中原・加藤戦で、先手の名人中原が飛車先不突の作戦を採用した。作戦は当時流行した雀刺しであるが、展開は角交換から中央での展開に持ち込んでいる。

△ 松浦 歩
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△ 武者野 歩
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△ 加藤 なし
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矢倉囲いの変形[編集]

銀矢倉[編集]

金矢倉の6七金が銀に置き換わったものを銀矢倉(ぎんやぐら、英:Silver Fortress)と言う。5六の腰掛け銀を6七に引いて組むことが多い。7六の地点への攻めに強いことと、7八の金に6七の銀が利いていることが特徴である。また、右銀を6七まで持ってくるため、手数がかかるのが欠点である。7八と6八の両方に金を持ってきて4枚で囲う場合もある。

通常の場合、5六に銀を保留して▲6七銀は少し先送るものである。右辺の状態により▲6七金右なら金矢倉になる。急戦矢倉の右四間飛車から、持久戦にシフトした場合に現れることが多い。

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持ち駒 角
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持ち駒 角
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2019年4月の渡辺明稲葉陽の対局は銀矢倉の例を示している。序盤は、角換わり相腰掛銀、▲2五歩-4八金-2九飛型で両者は、角換わり対局の典型で、最初に兜囲いを築く。この後、稲葉(後手)は、先手が攻撃を開始するのを待つという2010年代に人気のある戦術を使用し、待機する動きをみぜる。これにより、渡辺(先手)は、6筋歩兵(6六歩)を突き、腰掛した銀を5六から6七に移動し、王を囲いに移動することで、兜型の囲いを銀矢倉に発展させ(7九金、8八玉)、中央の歩兵を突く(▲5六歩)手をみせた[11][12]

角換わり6六歩型腰掛銀の陣でも、先手5六に腰掛けた右銀を6七に移動して、銀矢倉に発展させることができる。

片矢倉[編集]

金矢倉の7八の金を6八に変え、玉を7八に持ってくる形を片矢倉(かたやぐら、半矢倉)という。天野宗歩が愛用していたことから別名天野矢倉ともいわれる[13]。囲うための手数が1手少なくて済むほか、角の打ち込みに強い利点がある。 通常矢倉囲いのように8八と7八の位置ではなく、それぞれ7八と6八に玉と金を配置している。この配置は、角換わりの後に相手の角が6九または5九(図で強調表示)に打たれるのを防ぐためのものである。そして6八に金を配備することで7七の銀、6七の金と6八の金が連携するようになる[14][15]。金矢倉では、7八の金は玉の駒によってしか利いておらず、6九に打たれた角行を排除攻撃することができないのである。

一方で欠点としては、7九(後手なら3一)が開いているので、一段目に敵の飛車や竜王がいる際に、金や飛車を7九(3一)から打たれる心配がある、8七(後手なら2三)に利いている駒が玉のみなので、8筋(2筋)が弱くなっていることが挙げられる。

盤上に自分の角がいると組みにくく、また相手の角打ちを牽制している意味があるため角換わりでよく用いられるほか、角交換の起こりやすい脇システムと併用すると相性が良いことが藤井猛により発見され、この組み合わせを藤井流早囲いと呼んでいる[13]

片矢倉の6七金を5八金のままとした形(7八玉、7七銀、6八金、6七歩、5八金)は、コンピュータ将棋Bonanza Ver. 2 (2006年)が多用していたことから、ボナンザ囲いと呼ばれる[16]

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土居矢倉[編集]

土居矢倉(Doi yagura)は、7七銀、7八玉に加え、6七に左金を上げる囲い。右金を6七に上げ、左金を右に使うという組み方もある。
右側の金を自由に使えるため、バランスのよい陣形に構えることができる。角打ちに強い。

土居市太郎が得意としたことから土居矢倉と呼ばれる。土居矢倉は昭和初期に見られた矢倉の変種である[17]

組み方は通常の矢倉の駒組から▲6七金右ではなく▲6七金左と上がり、図の基本形の囲いを目指す。一方で図の応用形のほうは1980年代に猛威を振るった先手飛車先不突矢倉式の雀刺しに対して、中原誠十六世名人が用いていた構えで、角の利きを端から動かさずに玉の位置を移動することができた。

土居矢倉は温故知新ともいうべき戦法で、近年でもコンピュータ将棋の隆盛後、令和の時代になって新型雁木のように玉の堅さよりも角交換を前提としたバランス重視の陣形が見直されたためで、流行することとなった。

この変種は金矢倉ほど強力ではない。ただしこれは対局者の陣内をより広くカバーする。対戦相手の持ち駒に角がある場合に重要になる可能性がある(これは、左の金が7八ではなく6八でより中央にある不完全な矢倉と、右の金が5八または6八である角換わり対局で使用される兜矢倉に使用されるのと同じ理由である。)

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1940年の第2期名人戦七番勝負第3局(千日手指し直し)で、先手挑戦者の土居市太郎八段が後手木村義雄名人の総矢倉にこの土居矢倉で対抗したのが知られる。通常の矢倉に比べ硬さでは劣っても、駒の連結が良い。名人戦に現れた将棋は角換わりの出だしから行き着いた局面であるが、この陣形は角の打ち込みにも強い。実戦は▲4五歩〜▲4六角から、激戦が続いたものの先手の土居が勝利を収めている。

この囲いは、2018年の叡王戦で高見泰地によって使用され採用が目立つようになった[18]

総矢倉[編集]

金矢倉に右銀を5七の位置に加えたものを総矢倉(そうやぐら、英:Complete Fortress)という。金銀4枚で囲っているため堅い。(通称四枚矢倉だが、昔の本では三枚矢倉ということもある)角を4六に動かした場合に組まれることが多い。後手側で見られることが多い。

総矢倉の相矢倉となった場合には双方とも攻め手を欠き、互いに飛車を動かすだけの千日手となるのが通説であった。米長邦雄谷川浩司らが千日手打開の手を模索し、実戦でも試みている。

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千日手の定跡は、両側がツークツワンクのような状況にあると感じられるため、繰り返しでの引き分けにつながることがよくある[19][20]。したがって、戦略的に先後を切り替えるために意図的に使用することができる(繰り返し手順で引き分けの結果により、新たに対局がすぐに再戦されるが、棋士の手番が逆になる)。それでも、繰り返しドローさせずに千日手矢倉で開戦することは可能ではある。

持ち駒 -
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左図や、1976年5月13日の米長邦雄と中原誠の名人戦はその一例[22]

矢倉穴熊[編集]

金矢倉から9八香〜9九玉と組んだ形を矢倉穴熊という。先手4六銀・3七桂型からこの囲いに組む戦法がよく見られた。ここから8八金、または8八銀〜7七金、と発展させることもある。7七金型は俗に「完全穴熊」とも呼ばれている。

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へこみ矢倉[編集]

金の形が低いへこみ矢倉(凹み矢倉 Dented Fortress あるいは Hollow Fortress)は、相矢倉戦ではあまり出てこないが、急戦矢倉(後手番)、角換わり角交換振り飛車には出てくる。

角換わりでは序盤、囲いが兜櫓囲いから発展するのは、へこみ矢倉であることが多い。これは通常、序盤戦の相腰掛銀の陣で、後手によって使用される。

6筋(または後手の場合は4筋)の歩兵も突いて、この囲いを金矢倉に発展させることができる。

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兜矢倉[編集]

兜矢倉(かぶとやぐら、カブト櫓、英:Helmet Fortress)または単に兜囲いは角換わり、特に指してが攻撃を開始するまで多くの防御的発展がある腰掛銀の陣対局で使用される変種囲いである。 急戦時に一時的に用いたり、角換わり戦で用いる[23]

玉は8八の囲いへ完全に移動できるが、多くの場合7九または6八(またはまれに6九)と、囲いの外に残ることもある。

右の金は通常6七までは移動せず5八のままなので、対戦相手の角打ちに対してより広く防御できる。さらに広いエリアを守るために、適切な金が4八に配置されている陣もある。

特に腰掛銀の陣では、端歩を▲9六歩と突くことがよくある。

右金を二段目に残しておいて、6筋の歩兵を▲6六歩と突かないことがよくある。角換わり腰掛け銀の陣ではときたま6六を突いて、対戦相手からの6五攻撃から歩兵を取れるようにすることもある。ただし、一部のサブ陣では、6六歩型が有利であるとは見なされない場合がある。

兜矢倉は、右の金を6八に移動することで、へこみ矢倉に発展させることができる。

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右矢倉[編集]

右矢倉(みぎやぐら)は相振り飛車でのみ用いられる。玉を右側に囲うのでその名がついた。

矢倉の構造は上からの攻撃に強いので、右矢倉は相振り飛車の位置で役立つとされる。

右矢倉のデメリットは、構築されるのに多くの手数が必要なことである(美濃囲いのような他の振り飛車の囲いと比較して)。

美濃囲いが右矢倉に変身することもある。

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四角矢倉[編集]

四角矢倉(しかくやぐら)は、金銀4枚で四角の形を形成した矢倉囲い。

四角矢倉は、4つすべての一般的な配置が2x2の升目になっている。金四角矢倉と銀四角矢倉の2つのサブバリアントがある。

銀四角矢倉は、銀矢倉(7七と6七の銀、6八の金)、ビッグフォーキャッスル(四枚穴熊、これも同じ四角で銀・銀と金・金の配置)と構造的に似ている。この囲いはとても強固。第一に角行は金矢倉で可能な(黄色の枡)にかけ打ちすることができない。第二に、5七地点は6八金で保護されている。第三に、7六と6六の升目は弱点となっていない。ただし、左端から攻撃には危険である。

他の関連するフォームは、金四角矢倉である。これは同じく2x24の一般的な升目の形状を使用し、金矢倉と同じように6七の升目に典型的な金が配置されるが、升目を完成させるために銀が6八に置かれる。

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豆腐矢倉[編集]

豆腐矢倉(とうふやぐら)は、本来の囲いではなく、相手の攻撃によって金矢倉が変形したものである。したがって、このフォームは不十分な準備のもとで発生する。豆腐という名称は、この囲いが柔らかい絹ごし豆腐のように簡単に崩壊することの比喩である。

豆腐矢倉は、対戦相手が先手の矢倉で、7七の銀を後手から7三から8五に桂馬跳ねで攻撃すると、金矢倉から発展する。銀と桂馬の交換は先手にとって有利ではない。このため、銀は8六に移動することで攻撃を免れるが、残念ながらこれにより、対戦相手の角が攻撃している対角線を閉じている1つの駒が動くことになる。2番目の攻撃的な動きは△6五歩である。先手は6六の歩兵が後手の角によってにらまれているため、この6筋歩兵を▲6五同歩で取ることはできない。しかし他に適切手段はない。先手が歩兵を取らない場合は、△6六歩で先手6七の右金を攻撃する。▲7七金と左に動かすと、金は後手の桂馬攻撃の位置に置かれる。▲5七金と右に移動すると、先手の金と角の両方の働きを抑えることになると同時に先手の玉に王手がかかる。6七地点を脅かす△6六歩の攻撃は、先手が王手を回避しても、どちらかの金が取れるようになる。▲7九玉と玉を対角線から外しても、依然として不利な状態が続く。△6六歩で再び先手矢倉の金を攻撃、後手の角行による先手の左矢倉へのにらみ、同様の攻撃駒で6七地点が脅かされる[24]

このタイプの攻撃は、急戦矢倉攻撃戦略、左美濃右四間飛車、および雁木囲いなどで発生する。

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6八銀型 金矢倉[編集]

左の銀は通常、金矢倉の7七の升目にある。ただし、対戦相手の左美濃+右四間飛車戦略で攻撃されると、7七の銀将は8五または6五に跳ねする対戦相手の桂馬によって攻撃される。銀と桂馬の交換はしばしば不利であるため、銀は攻撃から安全な6八に留まり、5七のマスも防御する(桂馬が6五の場合)。このフォームでは敵左の桂馬を7七で捕獲/再捕獲するだけでなく、敵の角行攻撃の可能性のある長い対角線を閉じることもできる[24]

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菊水矢倉[編集]

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玉が8九に、左銀が8八にいる菊水矢倉(きくすいやぐら)またはしゃがみ矢倉は、昭和20年代に高島一岐代が考案し、出身地の大阪府中河内八尾市の偉人・楠木正成家紋「菊水」にちなんで命名した。

矢内理絵子が愛用していることから矢内矢倉とも呼ぶ。天野高志鈴木英春も愛用している。

棒銀雀刺しなどの上部からの攻撃に強いが、横からの攻めに弱いのが難点である。

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図のように、先手▲1五歩型雀刺しに対して後手陣が菊水に組んで対応する指し方は実戦例が多くある。このあと後手陣から△2四歩から2三銀と銀冠にする手段があるので、▲1四歩から仕掛けるが、以下は△同歩▲同香に△1二歩とすると、継続手段がない。実戦では▲3五歩△同歩▲3六歩とし、以下△8五桂▲3五角(▲8六銀は△6五歩から4四角)△4二玉(△4四金は▲1二香成△同香▲同飛成から▲2一金)▲5三角成△同玉▲6五歩△同歩▲8六歩△7七桂成▲同桂△6二玉▲4四歩△同金▲6五桂△6四銀打と進んだが、先手の攻めをうまくかわせていることがわかる。

その他[編集]

右銀が6六の位置までくると菱矢倉(ひしやぐら)となる。"菱矢倉" というよりは6六(4四)銀型と呼ばれることが多く、相矢倉でよく見られる。

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左銀が7六に移れば銀立ち矢倉(ぎんだちやぐら)となる。相矢倉よりも対振り飛車の玉頭位取り戦法で用られることが多い。昭和40年代に盛んに指されたが、現在はあまり流行していない。

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流れ矢倉(ながれやぐら)は守りの左銀が中央に進出しているもの。『将棋世界』2022年10月号の記事「将棋世界1000号記念・将棋世界クロニクル」(執筆:小笠原輝、P.46)では、「木村美濃」「カニ囲い」「箱入り娘」などとともに、『将棋世界』1947年2月号、3月号での「駒組名称募集」の読書投票で囲いの名前が決まったと記述されている。

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流線矢倉(りゅうせんやぐら)は流れ矢倉と菊水矢倉をミックスした囲い。

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金と銀の駒が三段に一直線に並ぶ陣の通称は、一文字矢倉ichi monji yagura、Straight Line Fortress)と称される。

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矢倉囲いの組み方[編集]

△持ち駒 なし
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矢倉はお互いの呼吸が合って初めて成立する。相矢倉の場合、初手から▲7六歩△8四歩▲6八銀と進んで、矢倉戦になる。双方が居飛車党であっても、先手が初手▲2六歩を突けば相掛かりや角換わり志向であるし、後手が2手目に△3四歩なら、後手が無理矢理矢倉を志向しない限り横歩取りや雁木系の将棋になる志向である。また先手が3手日に2六歩なら角換わりで、やはり矢倉にはならない。

初手から▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩のあと、5手目に▲6六歩か▲7七銀とするのが最も一般的な出だしとされる。この5手目で▲6六歩とするか▲7七銀とするのかが、後述の急戦矢倉において重要な要素である。△3四歩と突いた時に先手は▲7七銀と受けるか、▲6六歩がよいかは時代によって見解が分かれた、いわゆる「矢倉の5手目問題」は非常に深いレベルで、後の展開に差が出てくるのであるが、一般的な相矢倉を志向するならば同じ形に合流することも多い。

そのあと図の後手△6二銀に、先手7手目は『羽生の頭脳5 最強矢倉』(1992年、日本将棋連盟)から『変わりゆく現代将棋』上(2010年、日本将棋連盟)に至るまで、▲4八銀ではなく▲5六歩を推奨している。それ以前は▲4八銀が比較的よく指されていた。羽生は、7手目に▲4八銀であると、後手△8五歩▲7八金(▲5六歩は△8六歩▲同歩△同飛▲同銀△8八角成)△7四歩▲5六歩△7三銀▲7九角△6四銀など、後手から△7四歩〜7三銀〜6四銀〜8五歩からの速攻を仕掛ける順があるとしている。一方で7手目に▲5六歩としておくと、△7四歩であっても、以下▲6六歩△7三銀▲5八金右△6四銀▲6七金△8五歩▲7九角△7五歩▲同歩△同銀に▲4六角で、飛車の横利きを利かしつつ後手の居角の射程を二重に止めることができている。

ところが2010年代後半からは後述のとおり後手が急戦を趣向し、矢倉囲いに組まずに速攻攻撃を仕掛けることが多くなり、こうした戦術に対応するため、飛車先を早く伸ばす指し方が主流となり、先手7手目は▲2六歩が主流となっている。

現代矢倉の出だしは24手まで定跡化されており、24手組と呼ばれる。旧と新があり、旧24手組は中原、米長、加藤などが盛んに指しており、矢倉24手組と呼ばれた一世を風靡した手順。新24手組との違いは▲2六歩か早いかどうかだけであり、先手が飛車先を突くので前後同型となっている。昭和の矢倉界の基本手順であったこの旧24手組は次の通りで、おもな手順は▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩で▲7七銀とし、△6二銀に▲2六歩とする。以下△4二銀▲4八銀△3二金▲5六歩△5四歩▲7八金△4一玉▲6九玉△5二金▲3六歩△4四歩▲5八金△3三銀▲7九角△3一角▲6六歩△7四歩で基本図となる。

それが、昭和の後半つまり1980年代前半に、青野照市淡路仁茂田中寅彦らが若手時代に飛車先を早くに突かないメリットを発見。こうして先手が飛車先の歩を保留して駒組を進める「飛車先不突(つかず)矢倉」が登場。飛車先の歩は急いで突く必要はない、という認識が広まり、▲2六歩型の他に▲2七歩型で進めるのが主流となり、流行していく。と、同時に新型へと流行が移っていった。

過去にさかのぼってみると、昭和初期は2010年代からの後手急戦をけん制の意味でとは違って▲2五歩と飛車先を2つ突くのが当然であったが、歩の位置が1マスずつ下がる、このわずかな違いを、プロ棋士が数十年かけて発見する。このことだけを見ても矢倉の複雑さ、将棋の深遠さが窺い知れ、現代将棋界の定跡の進化の端的に示す事例でもあった。1980年代後半からの飛車先不突矢倉の思想が取り入れられて以降は、後手急戦の流行を経て1990年代前半から新24手組と呼ばれる形が定着した。図の局面に至るまで、若干の手順前後は駆け引きである。24手目の局面が新24手組といわれる手順は▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩に▲6六歩(▲7七銀)△6二銀▲5六歩△5四歩▲4八銀△4二銀▲5八金右△3二金▲7八金△4一玉▲6九玉△5二金▲7七銀(▲6六歩)△3三銀▲7九角△3一角▲3六歩△4四歩▲6七金右△7四歩で基本図となる。▲3七銀戦法の1手前にあたる。

△持ち駒 なし
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△持ち駒 なし
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特に旧式との違いとしては、▲6六歩や▲5八金右を先にし、△3二金をみて▲7八金とする指し方で、これは矢倉中飛車を警戒して、55年組が将棋界を台頭した際に愛用していたという。

矢倉の基本となる形で、ここから▲3七銀と指せば▲3七銀戦法、▲6八角と指せば森下システムへと進む。

なお、羽生(1992、2010)によると、途中▲5八金右に、△5二金右ならば▲7七銀(▲6六歩)△4四歩▲7九角△4三金▲6八玉△3三銀▲7八玉△3一角▲3六歩△4二玉▲3七銀△3二玉▲3五歩△同歩▲同角△5三銀▲6七金となると、お互い矢倉早囲いに進む。以下は△6四銀ならば▲6八角△5五歩▲6五歩△同銀▲5五歩、△4五歩ならば▲4八飛△4四銀右▲6八角などで、一局。

▲5八金右には、△3二金の方が、後手には急戦含みで手が広い。ここで▲7八金に替えて ▲7七銀(▲6六歩)であると△4一玉▲6七金となる。

以下、△5二金ならば▲7九角に△3三銀であると、▲3六歩に△4四歩ならば▲6八玉で、角道が止まった後手に対して先手が得になっており、後手は角を使うには△3一角しかない。▲3六歩に先に△3一角も▲6八玉△6四角▲3七銀でやはり得である。▲3六歩に△7四歩ならば▲6八玉であると今度は△4四銀からの決戦がある。よって△7四歩には▲3五歩△同歩▲同角△4四銀▲4六角△5五歩▲3八飛等として、次に▲5五歩〜3三歩をみることができる。

△5二金とせず△5三銀右にして6二飛系統の急戦を狙う順は以下▲2六歩とし、△7四歩ならば▲2五歩△3三角で以下急戦となる。5三銀右に替えて△5五歩▲同歩△同角ならば▲2五歩△5四銀(△3三角もしくは銀は、いずれも▲5七銀)▲2四歩△同歩▲同飛△2三歩▲2八飛△7四歩▲5七銀△5二飛▲6八玉△8二角▲7八玉などの展開が予想される。

△5二金や5三銀右に替えて、△7四歩ならば▲7八金としておき(先に▲7九角ならば△6四歩として▲2六歩△6三銀▲2五歩△5二飛の狙いである)ひとつには△5三銀右▲7九角△5五歩▲同歩△同角には▲4六角△同角▲同歩△3三銀▲4七銀△5二金等の展開が有力である。もうひとつには△5二金右とし▲7九角△6四歩▲2六歩△6二飛▲2五歩△7三桂の展開があり、▲2四歩ならば△同歩▲同角△8五桂▲8八銀△6五歩▲同歩△6六歩▲6八金引△6五飛▲7九玉△4四角なので、▲3六歩として△3一玉なら▲2四歩△同歩▲同角であるが、△6五歩なら▲同歩△同桂▲6六銀△6四銀となる。また△5二金右に▲6九玉ならば、△4四歩には▲7九玉で、△5三銀右には▲2六歩で一局となるという。

その後、これら以外の手順で始まる相矢倉、いわゆる無理矢理矢倉(ウソ矢倉)も指されている。たとえば▲7六歩△3四歩▲2六歩△4四歩とする振り飛車模様からや、▲7六歩△3四歩▲2六歩△8四歩▲6六歩とする横歩取り拒否からなど。

しかし、時代は一周して、新24手組でも後手の急戦に対応できない、というのが最先端の認識となっていく。

人間の将棋界では1980年代の持久戦志向から2010年代に至るまで、玉の堅さが重視されていた。しかしコンピュータ将棋の影響で、バランス重視が以降のトレンドとなっていき、矢倉もまた、同様の流れにあって変化したのである。

相矢倉は対局と研究の繰り返しによって新たな対策が積み重ねられてきた分野であるがゆえに、2000年代以降では新たな対策はコンピュータ将棋研究の影響も如実に現れる。近年の変化を簡潔に示すと、5手目▲6六歩に対する後手の6筋攻め研究により、先手が早く飛車先を伸ばすようになった結果、飛車先不突き矢倉が廃れたとなる。

以前から、積み重ねられた定跡の厚みから矢倉戦を難しくかつ定跡を覚えるのが大変、と敬遠する将棋愛好者は多いという印象はもたれている。あまりにも多くの変化が潰されて以前の策に戻っていくため、矢倉戦法は過去の戦法であるかのように扱われている。しかし、先手矢倉のコンピュータ評価値ではプラスであり、戦法としては終わっていない。むしろ、2020年以降からが最も注目すべきタイミングともみられている。これは最近の指し手の多様化からかつての定跡がリセットされていっているものも少なくないためで、むしろ、これから矢倉戦法へ参入するチャンスと、コンピュータ将棋をいち早く研究に取り入れて時代の最先端で戦っている棋士らに認識をもたれている[25]

矢倉早囲い(藤井流を含む)

早囲いという囲い方があり、矢倉で、▲6九玉〜▲7九玉〜▲8八玉とするのでなく、▲6八玉〜▲7八玉と囲う手法である。そのまま▲8八玉まで囲う。これにより角を▲7九で止められる。▲6八角の1手を省略しようというのが早囲いである。

1980年代初めにかけて飛車先不突矢倉の対策・後手の対応策として採用され始める。この理屈としては角は3一のまま、つまり端に角が常に利いた状態のまま玉を矢倉に移動させられること、先手は飛車先を突いてこないため、矢倉囲いの△3二金の支えは急ぐ必要がないということからである。新24手組で、▲5八金右△3二金▲7八金という手順は、▲5八金右を先にして、後手△3二金をみて▲7八金としているのはその意味であり、後手が△3二金ではなく△5二金右であれば先手もそのまま早囲いの手順で組んだほうが相手と比べても手損にならないという理屈である。

その後、2000年代半ばから2010年代にかけて、藤井システムを開発した藤井猛九段が、矢倉界でもその独創性を発揮。早囲いに独自の研究を加え、1ジャンルとして確立した。藤井流の手法は以前の早囲いに振り飛車藤井システム同様、玉の移動を後回しにし、しばらく居玉の態勢で、相手の出方を見ながら玉を移動させることに特徴がある。そして、そのまま玉を8八に進めて囲う手もあるが、▲7八玉型のままで様子をみる局面も採用している。そこから角交換から▲6八金上で囲いを済まし、▲2六銀から攻めるのが藤井矢倉と呼ばれている。

矢倉の諸戦法[編集]

堅陣の矢倉を攻略するため、あるいは自玉の堅さを生かす戦法が色々作られており、長い研究の成果で定跡化が進んでいる。矢倉での戦い方は双方が矢倉囲いに玉を収めてから戦う相矢倉が多いが、先手が戦型を決めやすい。そのため、先手に主導権を握られるのを嫌い、後手が矢倉に囲わず積極的に攻勢にでる戦法がある。これを急戦矢倉といい、その種類も多岐に渡る。

相矢倉[編集]

双方が矢倉を築いてから戦いを起こす指し方。多くの場合、先手が主導権を握って先攻し、後手が反撃する形になる。しかし、先手が敢えて後手に主導権を渡す指し方もある。

相矢倉の場合でも玉を囲いに入城させず、6九や4一の位置のままで戦いを始める指し方もあるが、大半は以下のような、がっぷり四つの戦いになる。

矢倉3七銀/▲3七銀戦法(棒銀、4六銀・3七桂型、加藤流などに派生)
数ある矢倉戦法の中で、24手組から先手が▲3七銀と指すのが、3七銀戦法である。先手は▲2五歩を突いていたころは棒銀や▲3七銀から▲3五歩△同歩▲同角から▲3六銀の好形を目指し、場合によっては後手からも△7三銀として△7五歩から7筋歩交換をする指し方などを展開していた。
一方で平成の矢倉界を牽引した形として知られるのが、新24手組から飛車先の保留しての▲3七銀で、後手が△4三金右ならば▲3五歩と動いていく。そこで後手は△6四角と先手の仕掛けを牽制し、以下▲6八角△4三金右と駒組みが進む。この▲3五歩△同歩▲同角のー歩交換を防ぐため後手は△2四銀や△6四角と上がる。この形が大流行し、4六銀-3七桂戦法、さらにその先の91手定跡といった凄まじき深化を果たしていくことになる。
▲3七銀戦法から△6四角▲6八角△4三金右▲7九玉△3一玉▲8八玉△2二玉▲4六銀△5三銀▲3七桂が。4六銀-3七桂戦法といわれる形の入口である。ここからプロ棋士の研究の極地といわれる91手定跡が生まれる。
手順はリンク先を参照。91手まで進んだ終盤の局面まで進んだ局面が4局実戦例がある。渡辺明屋敷伸之が2局ずつ先手を持って指しており、先手が4戦全勝。渡辺は後手を持ってもチャレンジしているが結果は出なかった。
現在では、この91手定跡に入る以前に、後手側に有力手段が発見されたため、2012年を最後に現れてはいない。
類似に「加藤流」がある。▲3七銀にして▲1六歩、▲2六歩を突く戦術で、▲2六歩-3七銀型から▲6七金右△4三金右▲4六銀(もしくは▲3五歩)△6四角▲6八角△3一玉▲7九玉△2二玉▲8八玉△8五歩▲1六歩が手順の一例で、加藤一二三九段が得意としていた形である。戦法にとことんこだわった加藤は、その時々の流行形には目もくれず、自分が信じる最善形をどこまでも追求していた。データベース上で見ると先手は加藤九段1人で74局を記録しこだわりが感じられる。
以下は玉を囲ってから、▲4六銀と上がって▲3七桂の形を目指す▲4六銀-3七桂戦法(機を見て▲2五桂と跳ねて▲5五歩や▲3五歩から総攻撃を仕掛けていく)または▲4六角と角をぶつける脇システムに分かれていく。いずれもタイトル戦の大舞台で数多く戦われてきた戦型で、激戦が予想される。
▲4六銀-3七桂戦法では先手が全力で攻め、後手が全力で受けに回る戦型となるが、こうした一戦になるのは数ある戦法の中では実は珍しい。これらは平成中期のタイトル戦で数多く指され、詰みまで定跡化された変化もある。
矢倉3七桂/▲3七桂戦法(▲4七銀-3七桂型他)
24手組から先手が▲3七桂と指すのが、3七桂戦法である。3七銀と並ぶ矢倉の代表戦法で、ここから飛車先を伸ばして後述の▲4七銀-3七桂型(▲3八飛、同型矢倉など)、▲2六歩で止め▲3七桂-4八銀型から雀刺しなどに発展する。またここからも▲3八飛から森下システムに合流することも可能。
同形矢倉
先手が▲3七桂から▲4七銀-3七桂型、後手が△6三銀-7三桂型で対峙する将棋は、昭和の時代に多く指されていた。現在も米長流急戦矢倉を巡る駆け引きの中で現れることがある。以下お互いに1筋、9筋の端歩を突いたり、▲8八玉や△2二玉と入城して、戦いのチャンスを待つ。仕掛けの基本は▲4五歩で、お互いに飛角銀桂で攻め、金銀3枚でがっちり守っているため、すべての駒が働く激しい攻め合いになる。玉の位置、端歩の関係はさまざまなパターンがある。同型から▲4五歩△同歩▲同桂や▲4五歩△同歩▲3五歩が仕掛けの例。大流行した形ではないが、後手急戦矢倉が増えた影響で、その対応策として先手▲4六歩-4七銀型が増加。それを見た後手が追随して、同形矢倉になるケースが散見される。
雀刺し(飛車先不突3七桂・2六銀型、▲2九飛戦法も含む)
▲3七桂の代表的な戦法。矢倉囲いの弱点である端を攻めるため、香の下に飛車を仕込み、右の桂馬、時には銀将、そして角行を敵陣の端に集中して攻め込む。先手で▲1五歩を突き越すタイプと、端を受けるスタイルとがある。
森下システム
新24手図から▲6八角と上がった局面である。開発者は森下卓九段で▲3七銀戦法や、加藤流が早くに攻撃形を決めるのに対し、先に玉側に手を掛け、後手の応手、特に右銀の動向を見てから作戦を決めようという考えである。作戦というより思想、考え方に近いともいえる。そして攻撃態勢は▲3七桂-4八銀型から従来の2九飛や雀指しではなく、飛車を3八飛にする。この3八飛の意味は、3七の桂を支え、4八の銀を動きやすくしている点である。
森下がこれを連騰し、高い勝率を収めてから他棋士にも連鎖し、大流行した形であった。戦術の特徴はその柔軟性にある。ただし攻めの要の右銀進出が後手よりも遅く、自陣の攻撃態勢に至る前の段階で相手にイニシアチブを取られるケースも多く、また早めに玉を囲うことにより、端を一点集中攻撃するスズメ刺しという天敵が現れ、激減することになった。しかしその後、▲8八玉を保留して中央から動く指し方が開発され、復活を遂げた。
脇システム
角が4六と6四で向かい合う形を脇システムと呼ぶ。脇謙二が得意とした形である。互いに角が取れるが、とると1手損になるので、向かい合ったまま駒組みが進むケースが多い。タイミングを見て角交換し、▲6一角や▲4一角を狙うのが主眼。研究のしがいのある戦法で、詰みまで研究されている変化もあるといわれる。
四手角と千日手矢倉・三手角(相振り飛車における矢倉崩しにも応用される)
角を先手なら▲2六、後手なら△8四にもっていき、角の睨む位置を、先手から4筋(後手は6筋)にして攻撃の照準を合わせる戦術である。角をその位置にもっていく方法によって、四手ルートと三手ルートがある。四手ルートは先手からみて▲7九〜▲4六〜▲3七〜▲2六と▲7九〜▲6八〜▲5九〜▲2六、三手ルートは▲7九〜▲3五歩△同歩▲同角〜▲2六や、▲7七〜▲5九〜▲2六、さらに後手であると△5五歩▲同歩△同角〜△7三〜△8四などがある。
また、前述の総矢倉と組み合わせ、先手後手お互いが同型と化した局面は、仕掛けたほうが不利となるため、千日手になりやすいことから、特に千日手矢倉と呼ばれている。

変化型[編集]

相矢倉模様から急戦矢倉/居角型急戦を仕掛けずに、お互い角を引き角にし、玉を囲う前の6九や4一の位置で開戦する指し方もある。特に二上達也九段が得意とし、棋聖戦を3期9連勝で連続防衛を果たしている。

また下記の趣の異なる作戦に組み替えるのも有力な作戦であり、相手の意表を突いたり、駒組みの不備や手順前後を咎める1手段である。

急戦矢倉[編集]

相矢倉の定跡の進歩や流行形の推移に合わせて、急戦矢倉も工夫と進化を繰り返して、盤上を彩ってきた。金銀3枚の堅陣に組み上げてから、格調高く相矢倉の攻防を堪能するのも王道の戦い方であるが、矢倉を目指した相手に対し、組み合う相矢倉には付き合わず先攻を目指すのが急戦矢倉である。矢倉の出だしは先手が角道を先に止めるため、角道を止めない後手が使うことが多い。

玉の囲いもそこそこに、飛車角銀桂で鋭く堅陣に迫る急戦矢倉も、矢倉戦の醍醐味のひとつである。そして急戦矢倉への対応は、矢倉を指す者には必須科目となっている。

近年では角道を止めた先手に対し、後手から仕掛けていく。先手に主導権を握られる展開を避けたい、後手の積極策として以下の戦術が発展した。矢倉を目指す先手は相手の急戦を警戒した駒組みが求められている。

△持ち駒 なし
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△持ち駒 なし
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急戦矢倉はかつては図2-1-1のような▲4九金型の早繰り銀戦が主流であった。升田幸三が得意として連戦連勝していたことから升田流急戦矢倉ともいわれた。

後手陣は△6四歩・5三歩型の場合には△5四銀〜4三銀が多く指されている。銀が4三に来ることで3五歩を取らずに対処することができる。後手がこの局面で△5四歩などは、▲3四歩からの取り込みから△同銀▲3五歩△4五銀▲同銀△同歩▲3四銀がある。△3五歩▲同銀△3四歩▲2四歩に△3五歩は▲2三歩成△同金▲同飛成△2四歩で龍の捕獲を狙う。△6四歩・5三歩型なので▲3四歩には△同銀▲2四龍△2五歩▲1五龍△1四歩▲1六龍△2六銀で捕獲ができる。このため▲3四歩では▲3二歩とすると、これを△同飛なら▲同龍△同玉▲8二飛、△3四銀打なら▲3一金△4二玉▲2二龍△同銀▲2一金△3二玉▲2二金△同玉▲5五桂といった展開である。

図2-1-2のように▲5八金型であると、飛車の打ち込みに弱い陣形なので、飛車を捨てる展開には注意が必要であるが、この後手陣7四歩型陣形の場合は図2-1-1の展開同様▲2三歩成△同金▲同飛成△2四歩で龍の捕獲は▲3四歩でよく、以下△同銀▲2四龍△2五歩に今度は▲3五角があり、△同銀は▲同龍、△3三金には▲4六角が生じ、以下△6四銀には▲1五龍、△2三銀打は▲4六角△6四歩、▲1五龍、△6四歩のところで△2四銀は▲8二角成で、△3九飛には▲5九飛、といった展開で進められていた。

△持ち駒 なし
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△持ち駒 歩
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ただし実際には加藤治郎編『将棋戦法大事典』(1985年)では、「この矢倉戦法即持久戦に、急戦の新分野を開拓したのが大山名人である」とし、升田でなく大山康晴の名を挙げている。同書で第1号局としてあげているのが、▲大山-△升田戦の昭和24年度A級順位戦(図2-2-1)である。この一戦は後手の升田が銀でなく角で飛先を受けたことから『将棋戦法大事典』では「4六銀からの急戦を一時的ながら、後手の角頭が弱いため、右銀の急進撃が効果的だから」で「急戦矢倉第1号局は後手の特殊作戦に触発された、といえそうである」として紹介している。△6四歩▲4六銀△5一角▲3五歩△同歩▲同銀△6三銀▲7八金△7四歩▲6九玉△5四銀▲4六歩△8四角▲6八銀△3三歩と進む。

同じ加藤治郎の著『平手将棋必勝法』(1954年・湯川弘文社)で「その後もこの型は何局も闘われたが、大流行のきっかけとなった」としたのは升田-坂口允彦戦の第1期王将位決定リーグ(1951年年8月、図2-2-2)としていて、これは升田流急戦が最もうまく決まった一局として知られる。△4五歩に▲2四歩△同歩▲2三歩で決まったことで、この一戦以来、後手方は3二玉型では受からないこととなる。

羽生 △持ち駒 なし
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△持ち駒 なし
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対矢倉急戦居玉棒銀 (超急戦棒銀)は、居玉のまま囲いは後回しにして、一直線に棒銀を繰り出す個性的な戦法である。先手に正確に受けられたら上級者には通用しないB級戦法にも見えるが、あの羽生善治九段もA級順位戦で佐藤康光九段に指している。図2-3から△6五歩▲同歩△9五銀▲5五歩△同角▲5八飛△8六歩▲同歩△同銀▲5五飛△7七銀不成▲同桂△8九飛成▲7九銀と、角損の攻めを敢行して激戦模様になった。

△6二飛型急戦右四間飛車)は、昭和後期から平成にかけて、盛んに指されてきた。また、角落ちの上手が用いる作戦として知られる。

矢倉の堅陣に対して、△6四歩と突くのが急戦の意思表示で、以下▲2六歩に△6二飛と右四間飛車に構える。2筋の歩は交換させても、飛車角銀桂の攻め駒が6筋に集中、迫力のある攻めが狙えるので、後手番ながら主導権が握りやすい。猛烈な攻めの棋風の若き日の塚田泰明九段が得意にしていた形でもあった。

△持ち駒 歩
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米長 △持ち駒 なし
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中原流急戦矢倉はその名の通り、中原誠十六世名人が得意にした急戦矢倉。2枚銀を前線に繰り出し、△6三金と、守備金までもが攻めに参加する形は、重厚な中原の棋風にマッチした。鋭く攻めて一気に攻略を目指すというよりも、金銀の圧力で押さえ込みをも視野に入れた、手厚い急戦矢倉である。ただし、金銀の厚みが強力な半面、見た目通りに玉形がとても薄いので、反撃されるともろいのが泣きどころであり、中原だからこそ指しこなせた、難易度の高い戦法でもある。

一口に急戦矢倉とはいっても数はかなり多いが、その中でもプロのタイトル戦でも多く現れた代表的な急戦矢倉としては、昭和の時代に米長邦雄永世棋聖が得意とした米長流急戦矢倉がある。現在もまれに指される形である。米長流急戦矢倉は、矢倉囲いを目指して△4四歩と突かずに、△4四銀と銀を繰り出し積極的に打って出るのが主眼の一手。その後は、中央に戦力を集めて突破を狙うのが基本戦略である。図2-6から△5五歩▲同歩△6五歩と攻めていく。後手は飛車と角以外に2枚の銀と桂の5枚で攻め掛かるため、非常に破壊力がある。ただし、急戦矢倉の弱点である玉の薄さを抱えているため、カウンターには気をつけるところがある。

第24期十段戦七番勝負で米長邦雄十段は、中原誠との防衛戦で、第6局と第7局(1986年1月)に米長流急戦矢倉を連投し、フルセットの末に中原の挑戦を退け、戦法の優秀性が注目されるようになった。

米長流の考え方は時代を超えた現在でも受け継がれており、藤森哲也が工夫を加えた藤森流急戦矢倉は、米長流の進化版として知られる。2筋の歩交換後に△1四歩▲2六角と追い、角の引き場所を限定させてから、さらに後手は仕掛けたあとに飛車を8三に引くのが基本形。将来の7一角成を緩手にして、飛車の横利きを受けに利かしているのが新工夫である。

△持ち駒 歩2
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△持ち駒 なし
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矢倉中飛車は、相手の矢倉模様に際して飛車を中央に配置し、角をそのままにそこから△5五歩と歩交換から、△5一飛と引いて、△5四銀-7三桂と構え、6二金もしくは5二金-6一飛と、攻撃形を築いていく。

急戦矢倉は濃密な相矢倉の戦いほど表舞台には現れてこなかったが、タイトル戦の佳境で採用されるなど、棋界に大きなインパクトを残してきた。

ちなみに矢倉中飛車と似た言葉で、矢倉流中飛車という戦法も存在するが、これは急戦矢倉ではない。矢倉規広が得意とする中飛車戦法のひとつなので、まったく違う戦法である。

△5三銀右急戦は、機を見て△5五歩▲同歩△同角と動いていく。以下▲7九角なら△7三角▲4六角△6四銀▲7五歩△8四飛から激しい流れとなる。△5五同角のところで▲2五歩なら△3二銀と受けて、これは比較的ゆっくりした展開となる。一時期は流行した戦型であるが、現在は矢倉の出だしが変わったため、見なくなってしまった戦型のひとつである。

△5三銀右急戦の系譜にある阿久津流急戦矢倉(中原式、郷田式、渡辺式とも)は、阿久津主税が一時期に多投して、高い勝率を挙げたことからその名がついた。△5三銀右型から、△5五歩▲同歩△同角と中央に飛び出し、理想形を狙う。その後△5四銀の好形から、△6五歩と仕掛けるのが狙い筋のひとつであるが、角は展開に応じて、△2二角か△7三角と引いて戦うことが多い。

△持ち駒 なし
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渡辺 △持ち駒 歩2
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阿久津流急戦矢倉が大きな注目を浴びたのは、勝者に初代永世竜王の称号が懸かった、2008年の第21期竜王戦七番勝負で、渡辺明竜王が羽生善治名人の挑戦を受け、第6局、第7局に連投したことである。第6局では既存の定跡の△5五歩ではなく、△3一玉の新手を出して、短手数で快勝した。渡辺は第7局にも勝ち防衛に成功、初の永世竜王の称号の資格を得たばかりか、史上初のタイトル戦3連敗から4連勝の離れ技を見せた。

急戦矢倉の主役の駒をひとつ挙げるとするならば、斬り込み隊長の銀の活躍が必要不可欠で、時に盤上では、個性的な動きを見せて翻弄することもあるが、ユーモラスなネーミングのカニカニ銀(主に先手番の指し方。5手目に▲7七銀とする)は、イメージとはうら腹に一撃必殺の破壊力を持っている。居玉のまま強力な2枚のハサミ(銀将)で、中央突破が決まれば痛快な勝ち方が味わえる。

屋敷流忍者銀は、屋敷伸之九段が得意にしている急戦矢倉である。2つの銀で6六、4六に繰り出すさまは、カニカニ銀にも似ているが、中央突破を狙うばかりではなく、3五歩と3筋への仕掛けもあり、手広い攻め筋で揺さぶることが可能である。図2-10の▲3五歩以下、△同歩▲同銀△4二角▲7九角△3四歩▲2四歩△同歩▲同銀△同銀▲同角△同角▲同飛△2三歩▲2八飛と交換が実現すれば先手十分である。若き日の屋敷は、その変幻自在の棋風から、お化け屋敷や忍者屋敷の異名もとったが、忍者銀は2枚銀の神出鬼没の動きから、その名がついたという。

これまで紹介した急戦矢倉は2010年代後半からは下火になっているが、2020年代になっても急戦矢倉で高い評価を受けているのが、対矢倉左美濃急戦である。玉の囲いを一目散に左美濃に囲い、先手に飛車先の歩を切らせてもかまわく、6筋、7筋、8筋から強力な攻めで、先手陣を攻略する。図2-11から▲6九玉なら、△6五歩▲同歩△7五歩と仕掛けて十分となる。同戦法は、角換わり△4二玉-6二金-8一飛型とともに2010年代後半から大流行になり、パイオニアの千田翔太は、升田幸三賞を受賞している。

△持ち駒 なし
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△持ち駒 なし
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急戦矢倉は先手が五手目に6六歩とするか、7七銀とするかで成立する急戦は異なり、例えば居玉棒銀や右四間飛車は6六歩型に、矢倉中飛車や阿久津流急戦矢倉は7七銀型に対して用いられる。米長流急戦矢倉のようにどちらでも成立する急戦もある。

近年矢倉崩しの6三銀型対矢倉左美濃急戦により、△7三桂から△6五歩が台頭し抵抗、▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩に対し、5手目は長らく▲6六歩が主流だったのが、この手を激減させたのである。バリエーションはいくつかあるが、代表的なのが図2-11の構えである。後手は角を2二においたままで仕掛ける。すると飛車、角、銀、桂と4枚の攻めで理想的である。以下▲7五同歩なら△8六歩▲同歩△6五桂が腰の入った攻めで、先手は受けきるのが困難である。また後手の低い左美濃陣形は堅く、チャンスがあれば飛車を切って攻めることもできる。場合によっては△8四飛と浮いたり、△6二金の形もある。

この作戦が非常に優秀とわかったため、先手の対策としては2020年以降は矢倉を目指すときにまた5手目は▲7七銀と上がることが増えていった。▲6六歩さえ突かなければ△6五歩の仕掛けがないため、左美濃急戦も効果半減となるからである。初手から▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀とすれば後手は6筋を争点にしにくく、6三銀型の急戦策を牽制できる。したがって今度は第64期王座戦五番勝負第3局▲羽生善治王座-△糸谷哲郎八段戦のように、角道オープンの状態で△5三銀右から△5五歩と中央を狙っていく指し方、第75期順位戦A級▲森内俊之九段-△行方尚史八段戦のように6二銀のまま△5五歩と突っかけている順が出現した。

先手が5手目に▲6六歩から矢倉を目指した場合、後手が5筋から動こうとすると途中で△8五歩▲7七銀の交換を入れることになり、5手目に▲7七銀から矢倉を目指すと、後手は8四歩のままで中央から動くことができる。

過去、有力な急戦矢倉戦法を開発した棋士が好成績を挙げることも多く、升田幸三雀刺しや升田流急戦矢倉、米長邦雄米長流急戦矢倉谷川浩司の居玉棒銀などはタイトル獲得にも結びついている。(升田は大山康晴を破って三冠、米長は中原誠を破って四冠、谷川は羽生善治を破って永世名人になっている。)

相振り飛車の矢倉囲い[編集]

相振り飛車では、矢倉の他に金無双美濃囲い穴熊囲いが用いられるが、それらに比べて上部が手厚いのが長所で、相振り飛車でよく見られる浮き飛車に対して、金銀で圧力を加えることが出来る。しかし、引き飛車の四間飛車や四手角など、盛り上がった形をとがめる作戦もあるため注意が必要とされている。

対振り飛車の矢倉囲い[編集]

上記の囲いの種類のうち、銀立ち矢倉は玉頭位取りに用いられている。

もとは矢倉囲いは横からの攻めに弱くまた振り飛車の角筋に玉が入ってくるため、通常は対振り飛車戦には用いられない。ただし近年の角交換振り飛車などにはたまに用いられる。これは角交換の関係で左銀が壁銀などになることがあり、解消するために▲7七(△3三)に銀が上がることも多く、矢倉であるとスムーズに組みあげられることが背景にある。

通常の振り飛車においても以前からしばしばみられた。例えば図3-1は1991年6月全日本プロトーナメント、先手大山康晴 vs.後手伊藤果の一局。なお先手の布陣は実は左美濃から矢倉に組み替えたもの。また4六金戦法で相手が△3二飛型ではなく3二金型のツノ銀中飛車を志向した場合、陣形を銀矢倉に組みかえる指し方も知られている。

「矢倉は終わった」[編集]

2017年5月増田康宏六段の「矢倉は終わった」発言が非常に話題となった[26][27][28]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ Kawasaki, Tomohide (2013). HIDETCHI Japanese-English SHOGI Dictionary. Nekomado. p. 98. ISBN 9784905225089 
  2. ^ 将棋世界2015年2月号75頁
  3. ^ 『日本将棋用語事典』pp.157-160
  4. ^ 米長邦雄二冠(当時)が「矢倉は将棋の純文学である」の真意を語る | 将棋ペンクラブログ
  5. ^ 矢倉は将棋の純文学!相居飛車で人気の戦法「矢倉」の基本を学ぼう【はじめての戦法入門-第18回】”. 日本将棋連盟. 2022年11月17日閲覧。
  6. ^ 松原仁, 滝沢武信「コンピュータ将棋はどのようにしてアマ4段まで強くなったか (<特集>「エンターテイメントとAI」)」『人工知能』第16巻第3号、人工知能学会、2001年5月、379-384頁、CRID 1390848647556186112doi:10.11517/jjsai.16.3_379ISSN 09128085 
  7. ^ 将棋とTCGとそれから… | 東京工業大学デジタル創作同好会traP
  8. ^ 驚愕必至!増田康宏四段インタビュー 島田修二 2017年5月16日 2022年4月22日閲覧
  9. ^ 2019年度に復活を遂げた先手矢倉 徹底した急戦封じが功を奏す 将棋情報局編集部 2020年5月28日 2022年1月31日閲覧
  10. ^ 本因坊算砂の人物像と囲碁将棋界への技術的功績を再検証する ─囲碁将棋界の基礎を築いた400年前の伝説の棋士─ - 古作登
  11. ^ https://shogidb2.com/games/b384b155b7279789a8be453c857fda0640f09260
  12. ^ http://live.shogi.or.jp/kisei/kifu/90/kisei201904260101.kif
  13. ^ a b 『日本将棋用語事典』p.10
  14. ^ 柿沼, 昭治 (1979) (Japanese). Shōgi ni tsuyoku naru hon [Becoming Strong at Shogi]. 金園社 [Kin-ensha]. pp. 29. ISBN 978-4321-55222-6 
  15. ^ Hosking 1997, p. 47, Part 1, Chapter 8: Castles.
  16. ^ 『ボナンザVS勝負脳』ISBN 978-4-04-710107-4
  17. ^ https://shogidb2.com/games/1217e875f1d777ce6291682f91dce23d70795c68
  18. ^ https://shogidb2.com/games/414ceb2c102ca9ac45630a3aad3e0ebf1bfc13f1
  19. ^ 大平 2016, p. 16-17.
  20. ^ Hodges (1976-1987)
  21. ^ Kingo Fujiuchi日本語版 vs Yoshio Fujikawa日本語版 1951 January 藤内金吾 vs. 藤川義夫 その他の棋戦”. 将棋DB2. 2017年10月26日閲覧。
  22. ^ 米長邦雄 vs. 中原誠 名人戦”. 将棋DB2. 2017年10月26日閲覧。
  23. ^ 『日本将棋用語事典』p.44
  24. ^ a b https://www.shogi.or.jp/column/2019/08/kakoi_85.html
  25. ^ 『将棋世界』2018年5月号
  26. ^ なぜ矢倉は終わって雁木が始まったのか紐解いてみた”. 将棋ウォーズ運営チーム. 2023年5月29日閲覧。
  27. ^ 「矢倉は本当に終わったの?」藤井聡太七段や増田康宏六段らが矢倉について語る【将棋世界2019年4月号のご紹介】”. 日本将棋連盟. 2023年5月29日閲覧。
  28. ^ 「矢倉は終わった」は終わった“矢倉の大家”森内俊之九段と“元・否定派”増田康宏六段のトークがおもしろい”. ABEMAニュース. 2023年5月29日閲覧。

参考文献[編集]

  • 木村一基 『木村の矢倉:急戦・森下システム』 マイナビ 2012年
  • 原田泰夫 (監修)、荒木一郎 (プロデュース)、森内俊之ら(編)、2004、『日本将棋用語事典』、東京堂出版 ISBN 4-490-10660-2
  • 藤井猛 『相振り飛車を指しこなす本』 浅川書房 2007年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]