真行草

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真行草(しんぎょうそう)とは、書体真書行書草書の総称である。転じて、日本中世以来の諸芸道では、様式や空間の価値概念を表す理念語として使用されている[1]

平安時代末期より真行草の格の違いから、書道の稽古は行書をまず習得し、次に草書を学べという指導理論が発生し、その後の諸芸道の階梯論に強い影響を与えた[1]。また、「真は行草に通ぜず草もまた真行に通ぜず」としつつ、二元論では無い「行」という曖昧な中間概念が幽玄などの繊細な心の有り様を示し、行の真・行の草といった日本独自の細分化が行われ、場に臨む心構えを説く適場論へと発展した[1]

原義[編集]

「真行草」の語は、最初に書道の世界で定義された。真書は正書楷書であり正格を表し、草書は正格を逸脱した風雅な書体、行書はその中間にあって真書を少し楽に書くものを指す。中国で真書を簡略化して筆記する過程で自然発生したものを東晋王羲之王献之が整理したと言われている[1]。真行草の語は、奈良時代に『真草千字文』とともに日本に入り、平安時代には書体筆法として定着した。

諸芸道の真行草[編集]

華道[編集]

仏教の供花や花宴の節会など、平安時代には花の鑑賞が盛んになり、南北朝時代には書院造の出現によって立花の法式が確立した。その最古の理論書『仙伝抄』(1445年)には、序破急とともに真行草の概念が取り入れられている[1]。華道における真草行は、真は仏前供花や賓客の饗応などの公式な場のために立てる花、行は書院の座敷飾りや花会で立てる花、草は花材や花器にこだわらず気ままに立てる花を指す。

絵画[編集]

室町時代の絵画は、飾るべき部屋の格に適合する画体によって、真行草と性格付けられる画法が確立した。絵画の真行草は行体を中軸とした対立概念である。武田恒夫は絵画の真体と草体とは、画法における明晰と非明晰、謹直と粗放、硬と軟、静止と動勢、用筆と用墨といった対概念で整理されていると述べた[1]

作庭[編集]

作庭記』など室町時代の作庭理論は陰陽五行理論の具現化が中心だった。作庭書で初めて真行草の価値観が明示されたものは江戸時代の『築山庭造伝』(1735年)だが、夢窓疎石相阿弥が作成した真行草の庭図への言及があり、室町時代から作庭の世界でも真行草が意識されていたことが分かる[1]。『築山庭造伝』では「真行草の格に因って、気象体志を弁ふべし」といい、外面である石木の配置(体志)と内面である心の趣き(気象)から、真行草の格を意識して空間処理を心がけるように説いている。

能・狂言[編集]

の世界での真行草の初出として、世阿弥の聞書『申楽談儀』ではの習得順について、名人の草書は真似できるものでは無いから、まず楷書を学ぶことを喩えとして引いている。室町時代中期の金春禅竹の頃には、真行草は稽古順よりも演能に望む心構えとして意識されるようになった。禅竹の孫禅鳳は、普通なら平常心を草、楽屋に入り緊張しはじめた心持ちを行、舞台に上がり幕を離れたときに真になると考えそうだが、それを逆にせよと説いている[1]狂言の理論書は成立が遅く、江戸時代初期の『わらんべ草』が初めてのものだが、「狂言は能のくづし、真と草なり」として、能と狂言の関係を真行草になぞらえている。

連歌[編集]

連歌では、心の趣向と句の結びつきが密なものを真、心の趣向ばかりが目立つものを草とし、その中間を行とした。寄合芸能である連歌では、真行草を単調にならないように変化を加える理論として、序破急とともに重視した[1]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 中村 1983, pp. 300–318.

参考文献[編集]

  • 中村保雄、藝能史研究会(編)、1983、「真行草の世界」、『日本芸能史 第三巻』、法政大学出版局