田中哲郎

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田中 哲郎(たなか てつろう、1900年代生年月日不明) - 1974年昭和49年)2月19日)は、日本大蔵技官酒類鑑定官、酒造技術指導者。元関東信越国税局鑑定官。「新潟銘酒の父」と呼ばれる。

略歴[編集]

新潟県新潟市出身。1924年大正13年)3月に新潟中学校を卒業、1928年昭和3年)3月に長岡高等工業学校応用化学科を卒業、長岡市の加藤製油所に勤務したのち、新井町田中酒造場(現 君の井酒造)で、2年間、酒造りを修行[1][2][3]

1930年(昭和5年)に新潟県商工技手に任官、新潟県醸造試験場に着任[注 1]1938年(昭和13年)に名古屋税務監督局技手に任官、1941年(昭和16年)に名古屋財務局技手に任官、1943年(昭和18年)に新潟財務局技手に任官。

1944年(昭和19年)に大江山村石本酒造への指導を開始[4][5]1945年(昭和20年)に東京財務局技手に任官、1948年(昭和23年)に関東信越財務局鑑定官に任官、1949年(昭和24年)に関東信越国税局鑑定官に任官。

1953年(昭和28年)に新潟県の青木酒造朝日酒造、石本酒造、伊藤酒造、猪又酒造、君の井酒造、金鵄盃酒造越の華酒造、小松原酒造、笹祝酒造高野酒造田原酒造八海醸造原酒造樋木酒造武蔵野酒造の16蔵と長野県長野銘醸の1蔵、合わせて17蔵からなる研醸会を立ち上げ、酒造りの指導を開始[1][2][6][7][注 2][注 3]

1954年(昭和29年)に関東信越国税局を依願退官。

1967年(昭和42年)に石本酒造の「越乃寒梅」が雑誌『酒』に「幻の酒」として取り上げられると、八海醸造の「八海山」など、研醸会に所属している蔵の酒が評価され、新潟県の酒が注目されるようになる[1][2][8]

1974年(昭和49年)2月19日に石本酒造を訪問中に脳溢血で倒れて死去[1][9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1936年昭和11年)から1938年(昭和13年)まで、栃木県経済部商工課に出向。
  2. ^ 田中哲郎は大吟醸酒造りを奨励したが、大吟醸酒造りは手間がかかってもうからなく、酒を造ればどんな酒でも売れる時代で、大吟醸酒造りをやめる蔵もあり、1960年代前半(昭和30年代後半)には研醸会に所属している蔵は半数以下になった[1][7]
  3. ^ 研醸会に所属している蔵で大吟醸酒を造る蔵が石本酒造八海醸造だけになった時があり、田中哲郎は「寒梅八海山は兄弟蔵」と言うようになった[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『新潟酒物語 幻の酒造りに燃えた男』高瀬斉[作画]、フルネット、1995年。
  • 『小説 幻の酒 真の酒造りに燃えた男』高瀬斉[著]、キクロス出版、BABジャパン、2008年。
  • 『杜氏 千年の知恵 米、水、人を生かし切る日本の酒造り』高浜春男[著]、祥伝社、2003年。
  • 『八海山 魚沼 雪の中の酒蔵』佐々木ゆみ子・恒文社編集部[編著]、恒文社、2009年。
  • 『酒を語る』嶋悌司[著]、朝日酒造、新潟日報事業社、2007年。
  • 「越後杜氏 古川原行雄さん 新潟県「越乃寒梅」石本酒造株式会社」『酒に生きる おやっさん』63-72頁、佐々木久子[著]、鎌倉書房、1989年。
  • 「とっておき! 隠れた地酒ベスト10」『現代』第15巻第11号、178-184頁、小檜山俊[著]、講談社、1981年。
  • 」『日本釀造協會雜誌』第63巻第8号、850-851頁、石本省吾[著]、日本醸造協会、1968年。
  • 石本省吾さんと越乃寒梅 (PDF) 」『青山同窓会報』第42号、5面、近藤圓[著]、青山同窓会、1986年。
  • 「幻の酒・越乃寒梅と石本省吾」『観賞』第11号、39-46頁、近藤圓[著]、新潟文化財観賞会、1990年。

外部リンク[編集]