王廷楨

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王 廷楨
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1876年光緒2年)
死去: 1940年民国29年)
中華民国の旗 中華民国天津特別市
出身地: 天津府天津県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 王廷楨
簡体字 王廷桢
拼音 Wáng Tíngzhēn
ラテン字 Wang T'ing-chen
和名表記: おう ていてい
発音転記: ワン ティンヂェン
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王 廷楨(おう ていてい)は、清末民初の軍人。北洋系の軍人。北京政府直隷派に属したが、後に安徽派に転じた。子銘子明

事績[編集]

清末の活動[編集]

北洋海軍学校で測量を学び、後に北洋機器局図工となる。次いで北洋武備学堂に入学し、1898年(光緒24年)に日本留学生選抜試験に合格した。翌年より日本に留学して予備校で学び、1901年光緒27年)10月、陸軍士官学校第1期騎兵科に入学している。1903年(光緒29年)に首席で卒業、帰国する[1]

帰国後は陸軍教習営教習(軍事教官)に任ぜられ、多くの軍事書を中国語に翻訳したことで袁の賞賛を受けた。これにより破格の抜擢を受け、第5鎮騎兵統帯、第1鎮総参謀、御林軍(後に禁衛軍と改称)馬隊標統、第2協協統、鑲黄旗漢軍都統などを歴任する。1909年宣統元年)、軍事代表団を率いてフランスに視察に赴く。帰国後、禁衛軍統領に昇進した[2][3]

民初の活動[編集]

中華民国成立後、禁衛軍は馮国璋配下の陸軍第16師に改組され、王廷楨が引き続き師長をつとめた。1913年民国2年)7月、署天津鎮守使に任命され、まもなく第二革命(二次革命)が発生すると鎮圧のため南方へ出動する。翌1914年(民国3年)には、江蘇省で江寧鎮守使に異動し、後に長江沿岸要塞司令も勤めた[2][3]

1917年(民国6年)、張勲を補佐する長江巡閲副使に任命される。馮国璋が代理大総統の任期を満了してからは、王廷楨は安徽派に転じる。1918年(民国7年)[4]、禎威将軍に列せられ、1919年(民国8年)12月、察哈爾特別区都統に任命された。しかし、1920年(民国9年)の安直戦争で安徽派は敗北してしまう。王もまた、察哈爾都統と陸軍第16師長の地位を喪失した[5][2][6]

晩年[編集]

その後、王廷楨は北京政府高級軍事顧問となる。1923年(民国12年)1月、蒙古前衛鎮守使に任ぜられ、1925年(民国14年)9月、呉佩孚の下で討賊聯軍運輸副司令となった(11月、司令に昇進)。しかし結局、職を放棄して天津に帰り隠居している[7][2]1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、王も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している[8]。ただし、王が連署に至るまでの経緯や活動の具体性については不詳である。1940年(民国29年)、死去[2]。享年65。

脚注[編集]

  1. ^ 以上、外務省情報部編(1928)、419頁による。徐主編(2007)、93頁によると、1901年に北洋武備学堂に入学、同年、日本に留学、としている。
  2. ^ a b c d e 徐主編(2007)、93頁。
  3. ^ a b 外務省情報部編(1928)、419頁。
  4. ^ 劉ほか編(1995)、61頁による。外務省情報部編(1928)、419頁は1916年12月、徐主編(2007)、93頁は1920年としている。
  5. ^ 外務省情報部編(1928)、419-420頁。
  6. ^ 来ほか(2000)、1102頁。
  7. ^ 外務省情報部編(1928)、420頁。
  8. ^ 「和平救国会宣言を発表 呉氏運動の動向決定 愈々近く開封に出陣」『東京朝日新聞』昭和14年(1939年)1月31日、2面。

参考文献[編集]

  • 外務省情報部編『改訂 現代支那人名鑑』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
田中玉
察哈爾都統
1919年12月 - 1920年9月
次代
張景恵