高原直泰

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高原 直泰
フランクフルト時代の高原
名前
カタカナ タカハラ ナオヒロ
ラテン文字 TAKAHARA Naohiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1979-06-04) 1979年6月4日(44歳)
出身地 静岡県三島市
身長 181 cm[1]
体重 75 kg[1]
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1998-2002 日本の旗 ジュビロ磐田 105 (58)
2001 アルゼンチンの旗 ボカ・ジュニアーズ (loan) 6 (1)
2002-2006 ドイツの旗 ハンブルガーSV 97 (13)
2006-2008 ドイツの旗 フランクフルト 38 (12)
2008-2010 日本の旗 浦和レッズ 63 (10)
2010 大韓民国の旗 水原三星 (loan) 12 (4)
2011-2012 日本の旗 清水エスパルス 46 (9)
2013-2014 日本の旗 東京ヴェルディ 41 (11)
2014 日本の旗 SC相模原 (loan) 21 (5)
2015 日本の旗 SC相模原 33 (6)
2016-2023 日本の旗 沖縄SV 95 (43)
通算 462 (129)
代表歴2
1995  日本 U-17 3 (1)
1998-1999  日本 U-20 16 (16)
1998-2000  日本 U-23 11 (4)
2000-2008 日本の旗 日本 57 (23)
監督歴
2016-2019 日本の旗 沖縄SV (選手兼)
2021-2023 日本の旗 沖縄SV(選手兼)
1. 国内リーグ戦に限る。2023年12月5日現在。
2. 2008年5月27日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高原 直泰(たかはら なおひろ、1979年6月4日 - )は、静岡県三島市出身の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカークラブ代表者。ポジションはフォワード沖縄SV株式会社CEO。元日本代表

Kリーグ時代の登録名は高原ハングル: 다카하라)[2]

血液型B型アルゼンチンから日本に復帰した2002年にはJリーグMVPJリーグ得点王を獲得。2006年FIFAワールドカップ出場。

来歴[編集]

ジュビロ磐田/ボカ・ジュニアーズ時代[編集]

静岡県立清水東高等学校を卒業。同校在学中は全国高等学校サッカー選手権大会の出場はならなかった。1998年ジュビロ磐田に加入し、3月21日の開幕戦(京都戦)で途中出場。初出場・初得点を挙げる(2023年後藤啓介が記録を更新するまではクラブ史上最年少での得点であった)。2000年、ベストイレブンに選ばれる。

2001年、J1リーグ1stステージ第13節横浜F・マリノス戦で優勝を決める延長Vゴールをあげた[3]。同年8月アルゼンチンボカ・ジュニアーズのオファーを受けて移籍し、6試合で1得点を挙げた。12月にトヨタカップでの凱旋帰国が期待されたが、直前でメンバー落ちしてしまい出場が叶わないなど、必ずしもチーム首脳から確固たる信頼を得てはいなかった。しかも、2002年初頭、アルゼンチンの経済情勢が悪化し、通貨価値が1週間で半分以下になるなど情勢が混乱したことを理由にボカから契約解除となった。帰国後、磐田に復帰し2002年のJリーグ開幕を迎えた。

2002年、日韓W杯直前にエコノミークラス症候群を発症。その後復帰を果たすと、中山雅史とのコンビでゴールを量産し、MVP・得点王(26得点、史上最年少)の二冠を獲得。リーグ優勝に貢献した。

ハンブルガーSV時代[編集]

2003年には再び海外での活躍を目指していたこともあり、ドイツ・ブンデスリーガハンブルガーSVのオファーを受けて完全移籍。一年目で連続無失点記録を継続中だったオリバー・カーン擁するバイエルン・ミュンヘン相手に得点を決めるなどし、リーグ戦を16試合(先発は12試合)3得点で終える。翌2003-04シーズンは、リーグ戦29試合(先発22試合)に出場するも2得点という結果に終わる。2004-05シーズン、トーマス・ドルが監督に就任するとシーズン序盤は先発から外れるも、第6節のヘルタ・ベルリン戦で2得点を記録し、レギュラーを獲得。リーグ戦31試合(先発は26試合)に出場し、FW中最多の7得点を挙げた。翌2005-06シーズンはリーグ戦21試合(先発は6試合)出場1得点で終えた。

アイントラハト・フランクフルト時代[編集]

2006年5月、ドイツ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルトへ3年契約で移籍。12月3日アレマニア・アーヘン戦で3得点を挙げ、ブンデスリーガにおける日本人初のハットトリックを達成するなど、1ヶ月で6得点を挙げる。

2007年、5月5日のホームのアーヘン戦で得点を決め、自己記録更新中の同リーグシーズン通算得点を11とした。また、欧州主要リーグでの年間二桁得点の達成は、1998-99シーズンに中田英寿ペルージャ)が達成して以来の快挙であった。この活躍もあってフランクフルトは1部に残留を決める。この年のフランクフルトサポーターが選ぶMVPにも選出された。2007-08シーズンはひざのケガでスタートが出遅れ、またフリードヘルム・フンケル監督との起用法における対立もあり、出場機会が激減した。

浦和レッズ時代[編集]

代理人であるトーマス・クロートと話し合いをした上で、浦和レッズとコンタクトがとれるかを確認。浦和側がFWの補強を望んでいたこともあり、移籍金1億8500万円、年俸1億8000万の3年契約[4]2008年1月11日に約6年ぶりのJリーグ復帰となる移籍が決定。しかし、フランクフルトで試合出場機会が減ったことによるコンディション不良、また長谷部誠小野伸二の移籍、ポンテもケガで出遅れるなどのパサー不足という状況もあり、2008年はリーグ6点、ACL、ナビスコ杯各1点と合計8得点に終わり、期待以上の働きをすることはできなかった。

2009年は前シーズン限りで現役を引退した内舘秀樹に志願して、背番号7から馴染み深い背番号19に変更した[注 1]。この年はキャンプ、練習試合で好調を維持し、J1開幕戦の対鹿島アントラーズ戦でスタメン出場を果たしたが、結果を出せず、次戦の対FC東京戦からはエジミウソンにスタメンを譲った。その後しばらくは途中出場が続いたが、ナビスコカップ予選リーグ第5節磐田戦でシーズン公式戦初得点を記録したのを皮切りに好調を維持し、貴重な得点を決めて勝利に貢献する時期もあったが、徐々にチーム状態が悪化し、更に自身も不慣れな左右のMFで起用される中で勢いを失い、スタメンを外れることも多くなっていった。最終的にはリーグ4点、ナビスコ2点と合計6得点という前シーズンを下回る成績でシーズンを終えた。

2010年は開幕前から既に構想外であり海外キャンプにも帯同しなかった。その理由として7月10日の会見で監督のフォルカー・フィンケより「去年の時点で今夏の移籍は決まっており、本来は昨冬に移籍するはずだった」ので「構想内の選手だけで練習するのは当然」とされた[5]。同年7月23日に韓国Kリーグ水原三星ブルーウィングスに完全移籍した[6]。移籍金は約4190万円[7]、年俸は減額となるが差額は浦和が負担している[8]

水原三星ブルーウィングス時代[編集]

水原での期待は大きく、Kリーグ最大の人気カードである対FCソウル戦では2得点を決め「とにかく最高!!」と自身のブログで喜びを爆発させた[9]。シーズン終了後に自身のブログで「俺はこのチームで自分らしさを取り戻す事が出来たと思っています」と語った[10]

清水エスパルス時代[編集]

2011年、フロント主導でチーム改革を進める清水エスパルスから「得点王を狙える大砲」としてオファーを受け、1年契約+1年オプションの年俸2500万(2400万と報じたメディアもある)で完全移籍した[11]。5月22日J1第12節大宮戦で2得点、4ヵ国(日本、ドイツ、韓国、アルゼンチン)リーグ通算100得点を達成[12]。6月18日J1第16節古巣浦和戦では、大前元紀のクロスにダイビングヘッドでゴールを決めた。古巣に対してはゴールを喜ばない選手も多い中、高原は清水サポーターに向かって膝滑りをしながら両手を広げた。試合後の取材では「ブーイングされる覚えはない。俺は(チームから)追い出された側なんで」とコメントした[13]

2012年12月、契約満了のため、清水を退団することが発表された[14]

東京ヴェルディ時代[編集]

東京ヴェルディからJ1昇格請負人としてオファーを受け、2013年1月に完全移籍した[15]。リーグ戦ではチーム最多の11ゴールを記録したが、チームは低迷しJ1昇格を逃した。2014年からはクラブの資金難と急激な若返り策が影響し[16]、開幕から出場機会に恵まれず3試合連続でベンチ外となった。

SC相模原時代[編集]

同年3月21日、「このまま(東京Vに)残っていてもプレーする機会はもらえない」「試合に絡めないと分かっているのにその場にいるのは自分にもチームにも良くない」と[17]J3へ昇格したSC相模原へ期限付き移籍(2015年1月31日まで)[18]。移籍後初先発したブラウブリッツ秋田戦でJ3初得点を記録[18]

2015年1月19日に完全移籍し[19] 、2015年度のキャプテンに就任[20]。同年5月24日に行われたY.S.C.C.横浜戦では、プロ生活初となる無回転FK弾を決めた[21]。11月30日、契約満了による退団が発表された。

沖縄SV時代[編集]

2016年に創設し、自身が代表(出資は、柔道の野村忠宏らとの共同出資)を務める沖縄SVでプレー[22]。代表兼監督兼選手を務める[23]第52回全国社会人サッカー選手権大会に出場したが1回戦で敗れた。2020年からは山本浩正が監督に就任[24]したため、監督業からは退いた。しかし、その後リーグでの成績不振もあり2021年シーズン途中から再び監督を務める事となった。高原が監督に戻りリーグ戦最終節で逆転優勝を果たす。

2023年7月2日、JFLで得点し、国内カテゴリーのJ1、J2、J3、JFL、地域リーグ、都道府県リーグでの得点を記録した[25]

8月31日、このシーズン限りでの引退を表明した[26]。ラストゲームは、VONDS市原とのJFLと地域リーグの入れ替え戦だったが、自身も延長前半10分までプレーし、チームの勝利とJFL残留に貢献した。

引退後[編集]

引退後は、選手と兼任していた監督も辞めて社長業に専念[27]

沖縄SVが取り組んでいる「沖縄コーヒープロジェクト」(詳しくは沖縄SV#サッカー以外の取り組みを参照)の関係から、現役時代に自らも練習の合間を縫ってコーヒー農園での作業に従事しており、現在はコーヒー農家との兼業状態であるという[28]

日本代表[編集]

各年代で日本代表に選出され、1994年にはU-16代表としてアジア選手権に出場。

1999 FIFAワールドユース選手権で3得点を挙げ準優勝、2000年のシドニー五輪では3得点を挙げGL突破、フル代表では2000年アジアカップに出場し優勝。

2002年、日韓W杯直前にエコノミークラス症候群[注 2] を発症し落選。この出来事はワールドカップ入りが確実であっただけに日本のファンが失望したほどの大きいアクシデントとも言えた[29]

2006年ドイツW杯アジア1次予選にFW中最多出場でシンガポール戦で1得点を挙げる。最終予選は第3戦まで連続で出場するが無得点で、その後は負傷を理由に欠場し、FIFAコンフェデレーションズカップ2005にも出場しなかった。ワールドカップ地区予選終了後は欧州リーグ所属のため代表招集の機会は限られる中、テストマッチ出場5試合で3得点を挙げ、6月に2006年ドイツW杯のメンバーに選出される。開幕前に行われた強化試合でも地元ドイツ相手に2得点を挙げる活躍[30]で、エースストライカーとして本大会に臨む形となったが、グループリーグ3試合で無得点に終わった。

2007年3月24日キリンチャレンジカップペルー戦で代表に復帰し、イビチャ・オシム体制での初得点を挙げる(試合は2-0で勝利)。アジアカップでは4得点を挙げ、アジアカップにおいて日本人初の得点王に輝いた。

岡田武史への監督交代後にクラブでも代表でも不調に陥り[31][32]、2008年5月を最後に招集されなかった。

プレイスタイル[編集]

左右両足から放たれるシュート、高さのあるヘディング、相手ディフェンダーをかわしてシュートする突破力など、求められる要素をすべて持つ万能型フォワード[33]

エピソード[編集]

  • 新人時代、ジュビロ磐田で共にプレーしていたドゥンガに言われた「調子に乗るなよ」という言葉を大切にしている。これは決して僻みというつもりは無く、マスコミ・ファンなどは調子が良ければ絶賛し、悪ければ批判するものなので、それに一喜一憂したりして惑わされてはいけない、という意味である。同時期に、試合中に高原のプレーが自己満足じゃないのかと指摘した際には、ドゥンガは「1人でサッカーはするものじゃない。1人でやりたいならコーナーキックも蹴ってくればいい」とコーナーキックを蹴らせたこともある[34]
  • 車好きであり、浦和在籍時にベストカーのインタビューで現在の愛車は三菱・トライトン、ドイツ時代は同じく三菱のランエボに乗っていたと語った。

所属クラブ[編集]

個人成績[編集]

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1998 磐田 19 J 20 5 6 4 2 0 28 9
1999 J1 21 9 1 0 3 1 25 10
2000 24 10 2 0 0 0 26 10
2001 13 8 2 2 - 15 10
アルゼンチン リーグ戦 リーグ杯アルヘンティーナ杯 期間通算
2001-02 ボカ 30 プリメーラ 6 1 - - 6 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2002 磐田 32 J1 27 26 0 0 3 0 30 26
ドイツ リーグ戦 リーグ杯DFBポカール 期間通算
2002-03 ハンブルガー 32 ブンデス1部 16 3 - - 16 3
2003-04 29 2 - 3 1 32 3
2004-05 31 7 - 1 0 32 7
2005-06 21 1 - 2 1 23 2
2006-07 フランクフルト 19 30 11 - 4 4 34 15
2007-08 8 1 - 2 0 10 1
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2008 浦和 7 J1 27 6 3 1 1 0 31 7
2009 19 32 4 8 2 0 0 40 6
2010 4 0 1 1 - 5 1
韓国 リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2010 水原 22 Kリーグ 12 4 - - 12 4
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2011 清水 19 J1 28 8 4 1 1 0 33 9
2012 18 1 2 0 0 0 20 1
2013 東京V 44 J2 41 11 - 0 0 41 11
2014 0 0 - - 0 0
相模原 31 J3 21 5 - - 21 5
2015 10 33 6 - - 33 6
2016 沖縄SV 沖縄県3部 9 11 - - 9 11
2017 沖縄県1部 - -
2018 九州 17 11 - - 17 11
2019 11 7 - 2 1 13 8
2020 4 5 - 1 0 5 5
2021 15 5 - 1 0 16 5
2022 13 2 - 1 0 14 2
2023 JFL 26 2 - - 26 2
通算 日本 J1 214 78 29 11 10 1 253 89
日本 J2 41 11 - 0 0 41 11
日本 J3 54 11 - - 54 11
日本 JFL 26 2 - - 26 2
日本 九州 60 30 - 5 1 65 31
日本 沖縄県1部 -
日本 沖縄県3部 9 11 - - 9 11
アルゼンチン プリメーラ 6 1 - - 6 1
ドイツ ブンデス1部 135 25 - 12 6 147 31
韓国 Kリーグ 12 4 - - 12 4
総通算 557 173 29 11 27 8 613 191

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA EL
2003-04 ハンブルガー 32 2 0
2005-06 7 0
2006-07 フランクフルト 19 5 2
通算 UEFA 14 2
AFCACL
2008 浦和 7 4 1
2010 水原 22 1 0
通算 AFC 5 1

その他の公式戦


代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 11 8
2001 4 0
2002 4 1
2003 8 2
2004 5 1
2005 7 2
2006 5 3
2007 9 6
2008 4 0
通算 57 23

ゴール[編集]

# 開催年月日 開催地 対戦相手 勝敗 試合概要
1. 2000年2月16日 中華人民共和国の旗 中国 ブルネイの旗 ブルネイ ○9-0 AFCアジアカップ2000・予選
2.
3. 2000年2月20日 マカオの旗 マカオ ○3-0
4. 2000年10月14日 レバノンの旗 レバノン サウジアラビアの旗 サウジアラビア ○4-1 AFCアジアカップ2000
5. 2000年10月17日 ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン ○8-1
6.
7.
8. 2000年10月24日 イラクの旗 イラク ○4-1
9. 2002年3月27日 ポーランドの旗 ポーランド ポーランドの旗 ポーランド ○2-0 親善試合
10. 2003年8月20日 日本の旗 日本 ナイジェリアの旗 ナイジェリア ○3-0 キリンチャレンジカップ2003
11.
12. 2004年3月31日 シンガポールの旗 シンガポール シンガポールの旗 シンガポール ○2-1 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選
13. 2005年9月7日 日本の旗 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス ○5-4 キリンチャレンジカップ2005
14. 2005年10月8日  ラトビア ラトビアの旗 ラトビア △2-2 親善試合
15. 2006年2月28日 ドイツの旗 ドイツ ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ △2-2
16. 2006年5月30日 ドイツの旗 ドイツ ドイツの旗 ドイツ △2-2
17.
18. 2007年3月24日 日本の旗 日本 ペルーの旗 ペルー ○2-0 キリンカップサッカー2007
19. 2007年6月1日 モンテネグロの旗 モンテネグロ ○2-0
20. 2007年7月9日  ベトナム カタールの旗 カタール △1-1 AFCアジアカップ2007
21. 2007年7月13日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○3-1
22.
23. 2007年7月21日 オーストラリアの旗 オーストラリア △1-1
(PK4-3)

チームタイトル[編集]

個人タイトル[編集]

指導歴[編集]

  • 2016年 - 沖縄SV
    • 2016年 - 2019年 監督
    • 2021年7月 - 監督

出版[編集]

執筆書籍[編集]

関連書籍[編集]

出演[編集]

CM[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ゲンを担ぐことが目的だが、本人曰く「自分には一桁の番号は、似合わない」とのこと。
  2. ^ 後のアテネ五輪オーバーエイジ枠で出場予定だったが、再び同じ症状が発症したため辞退した。

出典[編集]

  1. ^ a b 高原 直泰  TAKAHARA Naohiro - 日本代表 - JFA”. www.jfa.or.jp. 2020年3月7日閲覧。
  2. ^ 다카하라”. K League. 2023年11月4日閲覧。
  3. ^ 試合日程・結果:2001 J1 1st 第13節:横浜F・マリノス vs ジュビロ磐田 | ジュビロ磐田 Jubilo IWATA”. www.jubilo-iwata.co.jp. 2022年11月5日閲覧。
  4. ^ ロイター通信 2008年1月6日
  5. ^ 高原移籍は去年決定…開幕前から構想外
  6. ^ 浦和レッドダイヤモンズ公式サイト (2010年7月23日). “高原直泰、水原三星ブルーウィングスに完全移籍”. 2009年7月24日閲覧。
  7. ^ “浦和高原ソウルと折り合わず急転水原三星”. 日刊スポーツ. (2010年7月20日). https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20100720-655714.html 2010年12月13日閲覧。 
  8. ^ “高原、水原三星にレンタルでなく完全移籍”. 日刊スポーツ. (2010年7月24日). https://www.nikkansports.com/soccer/news/p-sc-tp0-20100724-657374.html 2010年12月13日閲覧。 
  9. ^ 高原直泰 (2010年8月28日). “taka19: ヤバイ!”. TAKA19.COM(公式サイト). 2010年12月13日閲覧。
  10. ^ 高原直泰 (2010年11月7日). “taka19: シーズン終了”. TAKA19.COM(公式サイト). 2010年12月13日閲覧。
  11. ^ “元日本代表・高原の清水移籍が決定”. デイリースポーツ. (2010年12月23日). http://www.daily.co.jp/soccer/2010/12/23/0003693539.shtml 2010年12月23日閲覧。 
  12. ^ “高原2発!日独韓アルゼンチン リーグ通算100号!…清水”. スポーツ報知. (2011年5月23日). https://web.archive.org/web/20110524042156/http://hochi.yomiuri.co.jp/soccer/jleague/news/20110523-OHT1T00030.htm 2011年5月24日閲覧。 
  13. ^ 「自分にも意地がある」、高原が古巣・浦和から魂のダイビングヘッド”. ゲキサカ. 2022年11月5日閲覧。
  14. ^ 高原直泰選手 来季契約非更新について 清水エスパルス公式サイト (2012年12月11日)2012年12月12日閲覧
  15. ^ 高原直泰選手移籍加入のお知らせ 東京ヴェルディ公式サイト (2013年1月14日)2013年1月14日閲覧
  16. ^ 高原 J3相模原移籍の背景に東京Vの深刻な資金難も スポーツニッポン (2014年3月21日)
  17. ^ J3・相模原へ移籍決めた高原直泰、理由は「出場機会を求めて」 SOCCER KING (2014年3月25日)
  18. ^ a b 東京ヴェルディ 高原直泰選手 移籍加入のお知らせ SC相模原公式サイト (2014年3月21日)2014年3月21日閲覧
  19. ^ 高原 直泰選手 期限付き移籍期間満了ならびに完全移籍加入のお知らせ SC相模原公式サイト (2015年1月19日)2015年1月19日閲覧
  20. ^ 「楽しいサッカーで勝つ」SC相模原、新体制発表-高原キャプテン就任も 町田経済新聞(2015年1月23日)2015年1月26日閲覧
  21. ^ J3第13節…相模原FW高原が鮮やか無回転FK弾、町田が山口の連勝を5でストップ ゲキサカ(2015年5月25日)
  22. ^ 元代表・高原直泰の挑戦 沖縄で新クラブ設立、選手獲得へ名刺配りの日々 スポニチ(2015年12月20日)
  23. ^ 沖縄SV立ち上げの高原は「代表兼監督兼選手」…県3部スタートも将来的なJリーグ入り視野 ゲキサカ(2015年12月7日)
  24. ^ 山本浩正氏 トップチーム監督就任のお知らせ 沖縄SV 2020.1.9
  25. ^ 元日本代表FW高原直泰がJFL初ゴール!J1から都道府県リーグのカテゴリーで得点を記録!”. Qoly (2023年7月2日). 2023年7月3日閲覧。
  26. ^ TOP 髙原直泰選手 今シーズンで選手引退のお知らせ沖縄SV 2023年8月31日
  27. ^ 高原直泰の現役ラストマッチに密着。「監督はやらない! 社長業に専念して頑張るよ」週プレNEWS 2023年12月13日
  28. ^ 「お金にならないと意味がない」元サッカー日本代表・高原直泰43歳は今…沖縄でコーヒー農家になっていた「年間5000杯分が目標です」 - Number Web・2022年7月9日
  29. ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、132ページ、ISBN 4-591-09115-5
  30. ^ 高原が2発 W杯直前、ドイツが震えた/復刻 - 日本代表 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2023年8月15日閲覧。
  31. ^ https://www.nikkansports.com/soccer/japan/news/p-sc-tp2-20080530-366106.html
  32. ^ https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2008/05/30/kiji/K20080530Z00001630.html
  33. ^ 田嶋幸三『これだけは知っておきたい(30) サッカーの大常識』株式会社ポプラ社、2006年、131ページ、ISBN 4-591-09115-5
  34. ^ 虎四ミーティング~限界への挑戦記~ 高原直泰(SC相模原)<前編>「突然の病を乗り越えたストライカー」 現代ビジネス(2014年5月9日)

外部リンク[編集]