西園寺公宗

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西園寺 公宗
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 延慶3年(1310年
死没 建武2年8月2日1335年8月20日
別名 号:北山
官位 正二位権大納言
主君 光厳上皇
氏族 西園寺家
父母 父:西園寺実衡
母:(昭訓門院春日局)二条為世の娘
兄弟 公宗公重経喬?、今御方、大炊御門冬信
正室:日野名子日野資名の娘)
実俊
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西園寺 公宗(さいおんじ きんむね)は、鎌倉時代後期から南北朝時代建武の新政期)にかけての公卿内大臣西園寺実衡の子。官位正二位権大納言

経歴[編集]

関東申次の役目を預かっていた西園寺家鎌倉幕府の滅亡で役職を停止された(ただし、大叔母禧子との関係から間もなく権大納言に復帰している)。建武元年(1334年)に公宗は地位の回復を図って幕府滅亡後の北条氏残党らと連絡し、北条高時の弟である泰家を匿っていた。2人は後醍醐天皇を西園寺家の山荘(後の鹿苑寺)に招いて暗殺し、後伏見法皇[1]を擁立して新帝を即位させることで新政を覆そうと謀略した。後醍醐天皇の新しい中宮となった従妹の珣子内親王から生まれたのが、皇子ではなく皇女だったことも、公宗の謀略を促したとも考えられる(三浦龍昭らの説)。だが、異母弟の公重の密告で計画が発覚し、日野氏光資名の子で、公宗の義兄弟にあたる)らと共に、武者所楠木正成高師直によって逮捕され、出雲国へ配流される途中に名和長年に処刑された。なお、現職公卿の死刑執行は平治元年(1159年)の平治の乱以来の出来事とされる。

影響[編集]

後に信濃国北条時行が蜂起する中先代の乱が起こる。建武の新政が崩壊して後醍醐天皇が吉野南朝を樹立すると、公重は南朝に仕えたため、公宗の遺児実俊室町幕府の「武家執奏」に任じられて、以後その子孫が西園寺家を相続することになる。

妻の日野名子光厳天皇典侍(女官長)かつ著作家でもあり、この時代の動乱を記録した日記『竹むきが記』を著した。同書が女性による日記文学としては中世最後のものとされる。

のちの明治大正時代に、公宗の子孫にあたる公望が政権の中枢に就くと、反対派によって度々公宗の一件を持ち出されて中傷されたといわれている。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 家永遵嗣は通説である後伏見法皇説を批判し、この事件で擁立されたのは光厳上皇であると解して、上皇もこの計画に積極的に加担していたと説く(家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月 ISBN 978-4-89259-798-5)。

関連作品[編集]