王襲

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王 襲(おう しゅう、生年不詳 - 501年)は、北魏官僚は元孫。本貫太原郡晋陽県

経歴[編集]

王叡の子として生まれた。14歳で父の蔭官により抜擢されて中散となり、総中部をつとめた。481年太和5年)、父が死去すると、都曹・尚書令となり、吏部曹・中部を兼ね、中山王の爵位を嗣いだ。490年(太和14年)の文明太后の死後も孝文帝の側近にあり続けたが、待遇は低下し、実務から遠ざかった。鎮西将軍・秦州刺史となり、さらに并州刺史に転じた。492年(太和16年)、中山公に降格された。493年(太和17年)、洛陽遷都に従い、治安の安定を報告して、孝文帝を喜ばせた。しかし民衆に教唆して、実情を糊塗していたことが発覚し、2等の降格を言い渡された。496年(太和20年)、事件により御史中尉による弾劾を受けたが、赦免された。501年(景明2年)、死去した。平南将軍・豫州刺史の位を追贈された。は質といった。

子女[編集]

  • 王忻(汝南王元悦の下で太尉記室参軍となったが、河陰の変で殺害された)
  • 王誕(字は永安、龍驤将軍・正平郡太守となったが、河陰の変で殺害された)
  • 王殖(字は永興、司空城局参軍)
  • 王永業(司空参軍事)

伝記資料[編集]