武昌郡

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武昌郡(ぶしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した三国時代から南北朝時代にかけて、現在の湖北省東部に設置された。

概要[編集]

221年黄初2年)、孫権公安からに遷都し、鄂を武昌と改名した。武昌・下雉尋陽陽新柴桑沙羡の6県により、武昌郡が立てられた[1]。武昌郡は荊州に属した。ほどなくは武昌郡を江夏郡と改めた。

280年太康元年)、が呉を滅ぼすと、江夏郡を武昌郡と改めた[2]291年元康元年)、揚州と荊州の10郡を合わせて江州が立てられると、武昌郡は江州に転属した[3]。晋の武昌郡は武昌・柴桑・陽新・沙羡・沙陽高陵の7県を管轄した[4]

南朝宋のとき、武昌郡は武昌・陽新・鄂の3県を管轄した。454年孝建元年)、郢州が立てられると、武昌郡は郢州に転属した[2]

南朝斉のとき、武昌郡は武昌・鄂・陽新・義寧真陽の5県を管轄した[5]

南朝梁のとき、北新州が立てられると、武昌郡は北新州に転属した。

589年開皇9年)、南朝陳を滅ぼすと、武昌郡は廃止されて、鄂州に編入された[6]

脚注[編集]

  1. ^ 三国志』呉書呉主伝
  2. ^ a b 宋書』州郡志三
  3. ^ 『晋書』孝恵帝紀および『宋書』州郡志二
  4. ^ 晋書』地理志下
  5. ^ 南斉書』州郡志下
  6. ^ 隋書』地理志下