マレーネ・ディートリヒ

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マレーネ・ディートリヒ
Marlene Dietrich
マレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich
1936年宣伝写真
本名 Marie Magdalene Dietrich
生年月日 (1901-12-27) 1901年12月27日
没年月日 (1992-05-06) 1992年5月6日(90歳没)
出生地 ドイツの旗 ドイツ帝国ベルリン
死没地 フランスの旗 フランスパリ
国籍 ドイツの旗 ドイツ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優歌手
活動期間 1919年 - 1984年
配偶者 ルドルフ・ジーバー(1924-1976、死別)
著名な家族 マリア (Maria Riva(娘)
主な作品
嘆きの天使』(1930年)
モロッコ』(1930年)
上海特急』(1932年)
砂塵』(1939年)
情婦』(1957年)
黒い罠』(1958年)
 
受賞
トニー賞
特別賞
1968年
その他の賞
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マレーネ・ディートリヒMarlene Dietrich1901年12月27日 - 1992年5月6日)は、ドイツ出身の女優歌手

1920年代ヴァイマル共和国ドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、1950年代以降は歌手としての活動が多かった。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

アメリカの負傷兵を見舞う(1944年)

1901年に、プロイセン王国近衛警察士官の次女としてベルリンで生まれる[1]。幼くして父が病死、継父も第一次世界大戦で戦死した[2]。生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。また、フランス語を独学で習得。18歳で国立ヴァイマル音楽学校に入学しヴァイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家の道を断念した。エリーザベトという姉もいたのだが、妹であるマレーネとは異なり容姿に恵まれず、不仲であった[2]

映画デビュー[編集]

1921年マックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年1922年9月に舞台デビュー、1923年4月までに5演目の7つの役で計92回舞台に立ったという[3]。また、舞台の合間にゲオルク・ヤコビドイツ語版監督の『小さなナポレオン英語版』のメイド役で映画デビュー[4]1924年に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産するが、ジーバーとは別居となる。夫はカトリックであり、離婚が認められていなかった。

1930年ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー作品『嘆きの天使』に出演。大きく弧を描く細い眉[注釈 1]に象徴される、個性的かつ退廃的な美貌は、「100万ドルの脚線美」[注釈 2]と称えられ、加えてセクシーな歌声で国際的な名声を獲得した。

アメリカへ[編集]

同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー、アカデミー主演女優賞にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。1932年の『上海特急』では先行して人気を得ていたスウェーデン出身のグレタ・ガルボと並ぶスターの座を確立する。ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。

1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後に、スタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーはマレーネがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、ナチス党を嫌ったマレーネはそれを断って、1939年にはアメリカの市民権を取得した[5]ため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。

アメリカ軍への慰問(1944年)

第二次世界大戦開戦後の1940年代に入ると西部劇ブロードウェイの舞台にも立って活躍した。また、ドイツ軍の占領下のフランスからジャン・ギャバンも渡米しており交際、やがて、自由フランス軍にギャバンは志願したが、文通は続け、やがて仏領アルジェリアで再会した。

第二次世界大戦中の1943年からは、アメリカ軍USO(前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ドイツの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた「リリー・マルレーン」をおぼえ、対独放送でも歌った。なお、1944年にはバルジの戦い中のアルデンヌにおいてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。

1945年5月7日、マレーネは連合国軍が解放したベルゲン・ベルゼン強制収容所に姉のエリーザベトがいると知り、収容所に向かう[6]。マレーネは自身が反ナチスであるため、それが原因でナチスの不興を買い、エリーザベトが収容所に収容されていたと考えていたが、実際にはエリーザベトは夫と共にドイツ軍人用の映画館を経営しており、その映画館の客には収容所の看守もいた[7]。マレーネは対ドイツ戦のための慰問活動をしていたため、衝撃を受ける[7]。マレーネは姉の存在が今後の活動に支障が出ると考え、エリーザベトに生活の援助はするが、自身がマレーネの姉であることを口外しないように約束させた[7]

戦後、独ソ両軍による市街戦で壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に母は急死した[8]。また、戦後しばらくパリでギャバンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。第二次世界大戦中の功績によりアメリカからは1947年大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。1947年10月、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフのアメリカ公演中に出会い親友になる。

歌手活動[編集]

若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、ラスベガスでのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる[9]1960年には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。1970年大阪万博(EXPO'70)と1974年に来日してコンサートを行った[注釈 3](1948年にも極東駐留の将兵への慰問のため日本にも立ち寄っており、その時に土産として買ったいわゆる豆カメラのひとつ「マイクロ」が報道され、同機の輸出が急速に伸びたという話がある[10])。

1976年、浮名を流したジャン・ギャバンと夫を立て続けに亡くした。

引退[編集]

マレーネ・ディートリヒの墓銘碑

1975年9月、オーストラリア、シドニーでのコンサート中に足を骨折して活動を引退せざるをえなくなる[11][12]。 引退後はパリに隠棲[12]。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、「パリ市。マレーネ・ディートリヒ様」と書くだけで手紙が届いたという。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。1982年秋には、マクシミリアン・シェルによるインタビューを受けている[12]。また、そのインタビューの中で、「きょうだいはいましたか?」と聞かれ、マレーネはたった一言「いいえ」と答えた[12]

ドイツの大衆紙『ビルト』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。

それまで生まれた地ベルリンを語ることはなかったが、1989年のベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮して「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったという。

死去[編集]

1992年パリ8区モンテーニュ大通りの自宅で死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。

その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリヒ広場」と命名された。

2002年、ベルリン名誉市民となった。

自伝では同時代映画人達を毒舌も交えて回顧している。一度だけ組んだフリッツ・ラングには特に辛辣で、「いかにもドイツ人らしい野心家」と切り捨てている。ラングはユダヤ系のオーストリア人だが、同書ではユダヤ系もオーストリア生まれも区別なく、自らも含めて「ドイツ人らしい」という形容を良い意味でも悪い意味でも多用している。

主な出演作品[編集]

公開年 邦題
原題
役名 備考
1930 嘆きの天使
Der blaue Engel
The Blue Angel
ローラ・ローラ
モロッコ
Morocco
アミー・ジョリー
1931 間諜X27
Dishonored
X27
1932 上海特急
Shanghai Express
上海リリー(マデリーン)
ブロンド・ヴィナス
Blonde Venus
ヘレン・ファラデイ
1933 恋の凱歌
The Song of Songs
リリー
1934 恋のページェント
The Scarlet Empress
ゾフィア(後のエカチェリーナ2世
1935 西班牙狂想曲
The Devil is a Woman
コンチャ・ペレス
1936 真珠の頚飾
Desire
マドレーヌ・ド・ボープレ
沙漠の花園
The Garden of Allah
ドミニ・エンフィルデン
1937 鎧なき騎士
Knight Without Armour
アレクサンドラ・ウラディノフ
天使
Angel
マリア・エンジェル・バーカー
1939 砂塵
Destry Rides Again
フレンチー
1940 妖花
Seven Sinners
ビジュー・ブランシュ
1941 焔の女
The Flame of New Orleans
クレール・ルドゥー
大雷雨
Manpower
フェイ・デュヴァル
1942 淑女の求愛
The Lady Is Willing
エリザベス・マッデン
スポイラース
The Spoilers
チェリー
男性都市
Pittsburgh
ジョジー・ウィンターズ
1944 キスメット
Kismet
ジャミラ
1946 狂恋
Martin Roumagnac
ブランシュ・フェラン
1947 黄金の耳飾り
Golden Earrings
リディア
1948 異国の出来事
A Foreign Affair
エリカ・フォン・シュルートウ
1950 舞台恐怖症
Stage Fright
シャーロット・インウッド
1952 無頼の谷
Rancho Notorious
アルター・キーン
1956 八十日間世界一周
Around the World in Eighty Days
サロンのホステス
モンテカルロ物語
The Monte Carlo Story
マリア・ド・クレヴクール侯爵夫人
1957 情婦
Witness for the Prosecution
クリスティーネ
1958 黒い罠
Touch of Evil
ターニャ
1961 ニュールンベルグ裁判
Judgment at Nuremberg
ベルトホルト夫人
1964 パリで一緒に
Paris, When It Sizzles
本人 クレジットなし
1979 ジャスト・ア・ジゴロ
Schöner Gigolo, armer Gigolo
ゼーメリング男爵夫人 カメオ出演
1984 MARLENE/マレーネ
Marlene
ナレーションのみ

その他[編集]

  • 真実のマレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich: Her Own Song(2001) - マレーネの孫デヴィッド・ライヴァ監督のドキュメンタリー。
  • 永遠のヒロイン(NHK 2010年)

著書[編集]

  • Dietrich, Marlene (1962). Marlene Dietrich's ABC. Doubleday 
    • マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒのABC』福住治夫 訳(新版2005年)、フィルムアート社、1989年。ISBN 4845989778 
  • Dietrich, Marlene (1979). Nehmt nur mein Leben: Reflexionen. Goldmann 
    • マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒ自伝』石井栄子・伊藤容子・中島弘子 訳、未来社、1990年。ISBN 4-62-471054-1 

受賞歴[編集]

アカデミー賞[編集]

ノミネート
1931年 アカデミー主演女優賞:『モロッコ

ゴールデングローブ賞[編集]

ノミネート
1958年 主演女優賞 (ドラマ部門):『情婦

通称[編集]

本名はマリー・マグダレーネ・ディートリヒ(Marie Magdalene Dietrich)であるが、彼女はファーストネームミドルネームを合わせて1つとして現在良く知られている通称を自身で創造した。つまりMarie Magdaleneの太文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)とした。

第二次世界大戦開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間でブレークした『リリー・マルレーン』はララ・アンデルセンが最初にリリースしたものである。原題は"Lili Marleen"とディートリヒの通称・マレーネ("Marlene")とスペルが若干異なるが、英語読みすると似た発音になる。彼女は"Lili Marlene"としてカバーして、連合軍兵士を慰問した。日本では『リリー・マルレーン』はマレーネのオリジナルと見なされているほどである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ディートリヒ風メイクとして、現在でもメイクアップ技術の一つに数えられ、専門学校などでも学ばれている。
  2. ^ 脚線美に100万ドルの保険がかけられたことに由来する。
  3. ^ 1974年の日本公演スケジュールは12月15・16日大阪・フェスティバルホール、17日東京・中野サンプラザ、19日札幌・北海道厚生年金会館、23日帝国ホテルディナーショー、24・25日ホテルパシフィック東京ディナーショー

出典[編集]

  1. ^ フォルカー(2022年)、363頁。
  2. ^ a b フォルカー(2022年)、363-364頁。
  3. ^ 中川右介『オリンピアと嘆きの天使 : ヒトラーと映画女優たち』毎日新聞出版、2015年12月。p. 19.
  4. ^ 中川右介、前掲書。p. 20.
  5. ^ Dietrich applied for US citizenship in 1937 ("Marlene Dietrich to be US Citizen". Painesville Telegraph, 6 March 1937.); it was granted in 1939 (see "Citizen Soon". The Telegraph Herald, 10 March 1939. and "Seize Luggage of Marlene Dietrich". Lawrence Journal World, 14 June 1939).
  6. ^ フォルカー(2022年)、360-361頁。
  7. ^ a b c フォルカー(2022年)、362-363頁。
  8. ^ フォルカー(2022年)、371頁。
  9. ^ Bach 1992, p. 395.
  10. ^ 小倉磐夫 2001, pp. 141–142.
  11. ^ 'Act follows suggestion of song's title', Toledo Blade, Ohio 7 Nov. 1973, p37.
  12. ^ a b c d フォルカー(2022年)、373-374頁。

参考文献・関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]