1967-1968シーズンのNBA

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1967-1968シーズンのNBA
ボストン・セルティックス 
期間 1967年10月13日-1968年5月2日
TV 放送 ABC
観客動員数 2,935,879人
ドラフト
レギュラーシーズン
トップシード フィラデルフィア・76ers
MVP ウィルト・チェンバレン
スタッツリーダー  
  得点 デイブ・ビン
プレーオフ
 イースタン  優勝 ボストン・セルティックス
   フィラデルフィア・76ers
ファイナル
 チャンピオン  ボストン・セルティックス
<1966-67

1967-1968シーズンのNBAは、NBAの22回目のシーズンである。

シーズン前[編集]

ドラフト[編集]

ドラフトではジミー・ウォーカーが、デトロイト・ピストンズから全体1位指名を受けた。またアール・モンローウォルト・フレイジャーらといった後にニューヨーク・ニックスの主力メンバーとなる選手のほか、後に名将として名を馳せるパット・ライリーフィル・ジャクソンもこの年にNBA入りした。

その他[編集]

ABAの脅威[編集]

前季1966-67シーズン中の2月1日、プロバスケットボールリーグABA(American Basketball Association)が創設され、この年の10月18日から最初のシーズンがスタートした。

発足から20年以上が経過したNBAは1960年代に入ると毎年のように観客動員数記録を更新し、順調な成長を見せていた。資産家たちはプロバスケットボールという分野が魅力的な市場であると理解し始め、一時は8チームまで落ち込んだNBAのチームは1970年代に入るまでには14チームにまで増加した。しかしNBAに新たなチームを立ち上げるには、リーグに支払わなければならない莫大な加盟料という高い壁があった。ならば、と青年実業家たちが集まって立ち上げられたプロバスケットボールリーグがABAだった。ABAはニューヨークロサンゼルスといったすでにNBAのチームが存在する大都市のほか、カレッジバスケが盛んなインディアナ州ケンタッキー州にもチームを配置し、11チームでスタートした。

誕生したばかりのABAはすでに20年の歴史を持つNBAに対抗するため、斬新な試みを次々と打ち出し、そのうちスリーポイントシュートやオールスターダンクコンテストなどは後にNBAにも導入された。初代コミッショナーには元NBAのスーパースター、ジョージ・マイカンが就任した。

このABAはNBAにとって極めて厄介な存在だった。リーグが2つに増えても選手の総数がすぐに2倍になるはずもないため、当然のように両リーグの間では壮絶な選手の引き抜き合戦が繰り広げられた(前季NBAの得点王であるリック・バリーもこの年にABAのオークランド・オークスに移籍している)。これは選手のサラリーの高騰に繋がり、財政難に陥るチームが続出する。さらにABAに対抗するため強引な拡大策を採ったことが、NBA全体の水準の低下を招くこととなった。

シーズン[編集]

オールスター[編集]

イースタン・デビジョン[編集]

チーム 勝率 ゲーム差
フィラデルフィア・76ers 62 20 .756 -
ボストン・セルティックス 54 28 .659 8
ニューヨーク・ニックス 43 39 .524 19
デトロイト・ピストンズ 40 42 .488 22
シンシナティ・ロイヤルズ 39 43 .476 23
ボルチモア・ブレッツ 36 46 .439 26

ウエスタン・デビジョン[編集]

チーム 勝率 ゲーム差
セントルイス・ホークス 56 26 .683 -
ロサンゼルス・レイカーズ 52 30 .634 4
サンフランシスコ・ウォリアーズ 43 39 .524 13
シカゴ・ブルズ 29 53 .354 27
シアトル・スーパーソニックス 23 59 .280 33
サンディエゴ・ロケッツ 15 67 .183 41

スタッツリーダー[編集]

部門 選手 チーム 記録
得点 デイブ・ビン デトロイト・ピストンズ 2,142
リバウンド ウィルト・チェンバレン フィラデルフィア・76ers 1,952
アシスト ウィルト・チェンバレン フィラデルフィア・76ers 702
FG% ウィルト・チェンバレン フィラデルフィア・76ers 59.5
FT% オスカー・ロバートソン シンシナティ・ロイヤルズ 87.3

1969-70シーズン以前はアベレージよりも通算でスタッツリーダーが決められていた。

各賞[編集]

シーズン概要[編集]

プレーオフファイナル[編集]

  デビジョン準決勝 デビジョン決勝 ファイナル
                           
  1  ホークス 2  
3  ウォリアーズ 4  
  3  ウォリアーズ 0  
Western Division
    2  レイカーズ 4  
4  ブルズ 1
  2  レイカーズ 4  
    W2  レイカーズ 2
  E2  セルティックス 4
  1  76ers 4  
3  ニックス 2  
1  76ers 3
Eastern Division
    2  セルティックス 4  
4  ピストンズ 2
  2  セルティックス 4  

王朝復権[編集]

前季ついに連覇記録が途絶え、長期王朝時代に幕を閉じたかのように見えたボストン・セルティックスが、僅か1シーズンで王座に復権した。セルティックス王朝の時代はまだ終わっていなかったのである。

リーグは3年連続でリーグ首位の勝率を収め、ウィルト・チェンバレンが2年連続でMVPを獲得し、前季にはセルティックスを破って優勝を果たしたフィラデルフィア・76ersの支配が始まるはずだった。しかしプレーオフでは幾つかの不幸が76ersを襲った。デビジョン準決勝でビリー・カニンガムが手首を骨折し以降の試合を全休してしまい、チェンバレンやルーシャス・ジャクソンも故障を抱えながらのプレイを強いられた。それでもデビジョン決勝、セルティックスとのシリーズでは3勝1敗で先に王手をかけ、圧倒的優位に立った。ところがここからセルティックスが怒涛の反撃を見せて3連勝を飾り、まさかの大逆転負けを喫してしまったのである。セルティックスはプレーオフで1勝3敗の状態から逆転勝利を飾った最初のチームとなった。

ウエスタン・デビジョンではデビジョン勝率1位のセントルイス・ホークスがデビジョン準決勝で敗退してしまい、ファイナルにはセルティックスの永遠のライバルであるロサンゼルス・レイカーズが勝ちあがってきた。両デビジョンとも第1シード以外のチームがファイナルに勝ち上がってきたのは1954年以来のことである。ファイナルは4勝2敗でセルティックスが制し、セルティックスは10回目の優勝を果たした。

セルティックスは八連覇時代はシックスマンだったジョン・ハブリチェックが中心選手となり、サム・ジョーンズと強力なウィングコンビを結成した。インサイドには新戦力のベイリー・ハウエルとコーチ兼任のビル・ラッセルが陣取り、ドン・ネルソンらが脇を固める八連覇時代と同様の隙の無いチームになっていた。ビル・ラッセルはこの優勝で、黒人ヘッドコートとしてチームを優勝に導いたアメリカ四大メジャースポーツ史上初の人物となった。公民権運動を指導したマーティン・ルーサー・キングが暗殺された日から、約1ヵ月後の出来事である。

外部リンク[編集]