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'''仲代 達矢'''('''なかだい たつや'''、[[1932年]](昭和7年)[[12月13日]] - )は[[日本]]の[[俳優]]。本名・仲代 元久(なかだい もとひさ)。[[東京都]]出身。東京都立千歳高等学校(現[[東京都立芦花高等学校]])定時制卒業。
'''仲代 達矢'''('''なかだい たつや'''、[[1932年]](昭和7年)[[12月13日]] - )は[[日本]]の[[俳優]]。本名・仲代 元久(なかだい もとひさ)。[[東京都]]出身。[[港区立青南小学校]]を経て、東京都立千歳高等学校(現[[東京都立芦花高等学校]])定時制卒業。


[[劇団俳優座]]出身で、俳優座のエースとして舞台で活躍した後、「[[無名塾]]」を主宰し後進の育成にも務める。演劇面以外でも、[[黒澤明]]監督や[[小林正樹]]監督の映画作品を中心に多数の主演作品を持つ。主演作の「[[影武者 (映画)|影武者]]」が[[カンヌ映画祭]]グランプリを受賞するなど海外の評価も高く、日本を代表する俳優のひとりである。
[[劇団俳優座]]出身で、俳優座のエースとして舞台で活躍した後、「[[無名塾]]」を主宰し後進の育成にも務める。演劇面以外でも、[[黒澤明]]監督や[[小林正樹]]監督の映画作品を中心に多数の主演作品を持つ。主演作の「[[影武者 (映画)|影武者]]」が[[カンヌ映画祭]]グランプリを受賞するなど海外の評価も高く、日本を代表する俳優のひとりである。

2006年12月24日 (日) 11:01時点における版

仲代 達矢なかだい たつや1932年(昭和7年)12月13日 - )は日本俳優。本名・仲代 元久(なかだい もとひさ)。東京都出身。港区立青南小学校を経て、東京都立千歳高等学校(現東京都立芦花高等学校)定時制卒業。

劇団俳優座出身で、俳優座のエースとして舞台で活躍した後、「無名塾」を主宰し後進の育成にも務める。演劇面以外でも、黒澤明監督や小林正樹監督の映画作品を中心に多数の主演作品を持つ。主演作の「影武者」がカンヌ映画祭グランプリを受賞するなど海外の評価も高く、日本を代表する俳優のひとりである。

出演映画が米国アカデミー賞と世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネチア・ベルリン)のすべてで受賞しており、四冠を達成している(下記参照)。

経歴

父は茨城県の農家出身で東京ハイヤー会社を自営していた仲代忠雄、母は五反田小町と呼ばれた薬局の看板娘・愛子。父は旅芸人の落としだねといわれていたハンサムだったが、自営業をやめ、バス運転手時代に結核にかかり、仲代が小学2年生のときに死亡した。富裕層の多い青山の青南小学校に通うも、一家は極貧状態で弁当のおかずもなく、孤独な少年時代をすごす。戦後は親戚や弟と、ポン菓子屋、中華そば製麺所を起こしたり、小学校用務員、大井競馬場警備員などのかたわら定時制高校を卒業。民主主義を謳いながら賄賂を要求する小学校教師や一攫千金の夢にとりつかれた競馬狂の姿をみて、コンプレックスや人間不信にさいなまれながらも観察眼を養う。
愛称の「モヤ」は、母が仲代の本名・元久のモと、「ねえや」「ばあや」のヤをかけあわせて呼び始めた。

俳優の道へ

俳優座公演を観劇した際、千田是也の演技に感銘を受け、1952年、高校卒業と同時に俳優座養成所に第4期生として入所。同期生に佐藤慶佐藤允中谷一郎宇津井健などがおり、仲代はバーで働きながら役者修行に励んだ。

養成所時代に、黒澤明監督『七人の侍』(1954年)で、セリフなしの浪人役をつとめて映画デビュー。1955年、養成所を卒業(前年既に初舞台)、俳優座に入団した。異母姉の命名で芸名は「達矢」を名乗る。同年秋の公演『幽霊』で抜擢されて好演、一躍新進舞台俳優となる。この舞台「幽霊」を見た女優の月丘夢路が推薦し、月丘の夫である井上梅次監督に誘われて、同監督の映画『火の鳥』(1956年日活)で月丘の相手役という大役で映画界にも本格デビューを果たす。翌1957年小林正樹監督の松竹映画『黒い河』での冷酷なやくざ・通称人斬りジョーの演技などで新進俳優としての評価を更に高めた。
1959年、俳優座所属の女優・宮崎恭子と結婚。

主演俳優に

1959年、小林監督による六部(上映は1961年まで)に及ぶ超大作(総上映時間・約10時間)『人間の条件』で主人公・梶に起用される。撮影1年半に及んだこの作品(原作:五味川純平)で仲代は、戦場においても強い反戦思想のゆえ苦悩する男を演じきり、監督も感服する出来に仕上げ、重量感とスケールを感じさせる俳優としてスターの座を揺るぎないものとした。同年には不敵な犯罪者に扮した『野獣死すべし』も公開され、幅広い演技力を証明。当時、映画会社数社から専属契約を打診されつつも断っている。

名監督たちと

黒澤明監督にも注目され、黒澤映画の常連だった主演スター・三船敏郎に対抗できる敵役俳優として、1961年用心棒』、翌年『椿三十郎』に連続起用される。ぎらついた悪役ぶりを存分に見せ、仲代の風格を買った監督の期待に応えた。1963年にも黒澤作品『天国と地獄』で誘拐事件を追う刑事役を熱演。

家庭においては、1962年、恭子夫人が初めての子を死産する不幸に見舞われる。

一方、映画では市川崑監督の『』(1959年)、成瀬巳喜男監督の『娘・妻・母』(1960年)、『女が階段を上る時』(1960年)、小林監督の『切腹』(1962年)、『怪談』(1964年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、豊田四郎監督の『憂愁平野』(1963年)、『四谷怪談』(1965年)、岡本喜八監督の『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)など、映画会社に縛られない身で名監督たちとの仕事が続く。1968年にはイタリア映画『野獣暁に死す』に出演、東洋人離れした容貌からアメリカ人の悪役を演じている。

1970年代には山崎豊子原作・山本薩夫監督による大作映画『華麗なる一族』(1974年)・『不毛地帯』(1976年)で悲劇的人物を熱演、強烈な印象を残す。
一方、長らく空白だったテレビドラマでも、1972年NHK大河ドラマ新・平家物語』で平清盛を演じ、清盛が出家する後半では実際に剃髪して熱演。

恭子夫人は死産の後、脚本執筆をはじめ、自分の両親から一字ずつもらった筆名・隆巴(りゅう・ともえ)で脚本家としてデビュー。仲代の出演作品の脚本を手がけ、夫を支えることになる。

俳優そして劇団主宰

俳優座の看板俳優だった1975年に、恭子夫人と共に「無名塾」を創立。俳優座では師・千田の信頼も厚く、俳優座の次期主宰者に嘱望されていたが、複雑な人間関係を嫌う仲代は1979年に俳優座を退団してしまった。以後は無名塾公演で、シナリオ・演出を妻に任せ、自分が出演する形で舞台活動を継続してきた。

映画では、1980年の黒澤監督の大作『影武者』で、監督との確執で降板した勝新太郎の代役として急遽主役に抜擢されるが、重圧を跳ね返し見事に好演し、カンヌ映画祭でグランプリを受賞する。
同年には舛田利雄監督の戦争巨編『二百三高地』にも主演、乃木希典司令官を人間味豊かに演じている。さらに、1982年には五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』で、土佐の侠客・鬼政こと鬼龍院政五郎を演じ、彼の火花のような人生を体現するなど、全くタイプの異なる役柄を演じ分け、名実ともに日本を代表する俳優となった。
1985年の黒澤作品『』でも主演し“戦国版リア王”として悲劇をたどる秀虎役で、国際的評価を確立した。

時代劇、現代劇を問わず演じられる貴重な俳優として、テレビでは『忠臣蔵』(1991年、大石内蔵助を演じた)、中国残留孤児となった子を探し続ける父親を演じた『大地の子』(1995年)、『秀吉』(1996年、千利休を演じた)などで近年も存在感を存分に発揮している。

俳優座時代、また無名塾公演でも多くのシェイクスピア作品に主演しており、日本を代表するシェイクスピア俳優の一人でもある。

2005年11月には日本経済新聞紙上で「私の履歴書」を連載。

海外での受賞歴は、シシリア・タオルミナ映画祭賞(1971年)、カンヌ映画祭グランプリ(1980年)、マニラ映画祭主演男優賞(1982年)、フランス文化賞シュパリエ芸術勲賞(1992年)など。

家族

恭子夫人は裁判官出身の弁護士の家庭に育ったお嬢様で、仲代の俳優座養成所の2期先輩。貧乏な生まれで、同期生の中でも暗い性格だった仲代には眩しい存在で、養成所ではまともに顔をみることができなかったという。しかし、1955年に舞台『森は生きている』の共演で急接近し、1959年に結婚。その後、家庭と無名塾の公私両面を2人3脚で乗り切る。 恭子夫人が1962年に死産してから夫婦に子がなかったため、夫人の妹宮崎総子アナウンサー)の娘・奈緒を養女に迎えている(総子は奈緒の実父と離婚している)。奈緒は仲代奈緒の名で歌手になった。

1996年、長年連れ添った恭子夫人をで失う。闘病生活でも「頑張ることの中心はなのよ」といい続けた夫人をなくした落胆は激しく「目が覚めても、いつもでもがいているような感覚」に襲われた。

自叙伝「遺し書き」によると、テレビ東京のドキュメンタリー「ネシアの旅人」で太平洋全域の島を訪れ、生きることの意味を再発見して仕事に復帰したという。

夫人の遺言にある「年をとったら、優しくなるのがいいのです」の忠告通り、その後の仲代は全盛期のギラギラした演技や威圧感を押さえ、舞台では『ドライビング・ミス・デイジー』、映画テレビでも『白い犬とワルツを』『世界の中心で、愛をさけぶ』『男たちの大和/YAMATO』『新・人間交差点』のような温かみの伝わる老人のキャラクターを演じるようになった。しかし、2007年の大河ドラマ『風林火山』では、武田信玄の父・信虎を演じることになり、久々の仲代の悪役演技が見られそうである。

脚本家演出家だった恭子夫人死後の無名塾公演は演出家を招くか、時に仲代自身が演出を兼ねる形で続いている。

弟はシャンソン歌手仲代圭吾

横顔

自宅にて主宰する「無名塾」での門下生に、役所広司隆大介益岡徹若村麻由美渡辺梓らがいる。

演劇界出身ながら、20代から舞台と映画・テレビの両方で主演級スターとして活躍するスタイルを日本に初めて導入した。近年も映画『金融腐蝕列島 呪縛』での老獪な大手銀行相談役や、テレビドラマ世界の中心で、愛をさけぶ』の主人公の軽妙な祖父役など幅広い役柄をこなし、新たなファンを獲得している。

逸話

  • 仲代の少年時代からの愛称“モヤ”は養成所時代、また芸能界でも多くの人々に用いられてきている。理由は、仲代の本名の他、仲代の顔の、つかみどころのない独特の雰囲気、また声に抑揚があまりない、という特徴を言い表わした愛称だったためという。
  • 俳優座養成所時代、宇津井健とは性格が随分違っていたゆえに、かえって仲が良かった。『七人の侍』では、ともに浪人役のエキストラとして共演している。
  • 仲代は温厚な性格で知られるが、若き日には共演者の三船敏郎萬屋錦之介と酒を飲んで、演技論を戦わせた末にケンカした、という血気盛んな逸話を自ら語っている。丹波哲郎も「ケンカが強いのは仲代」と述べている。
  • 映画『黒い河』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯」など傲岸不遜な役も多かった仲代だが、素顔は全く逆で繊細。妻の宮崎恭子も女優であり、また、数々の女優達とも共演してきたが、めずらしいバラエティー番組出演の『さんまのまんま』(関西テレビ系)では『女優さんって、みんなどうしてあんなに強いんだろうねぇ…。』と語っている明石家さんまは元妻の女優・大竹しのぶを思い出してか、飲み物を吹き出していた。

主な出演作品

映画

テレビドラマ

舞台

  • 赤いランプ
  • 幽霊
  • ハムレット(ハムレット役)
  • オセロ(オセロ役)
  • 令嬢ジュリー(下男ジャン役)
  • 東海道四谷怪談(民谷伊右衛門役)
  • 愛の眼鏡は色眼鏡(赤医者役)
  • 友達("男"役)
  • オイディプス王(オイデップス役)
  • マンドラゴラ 毒の華
  • マクベス(マクベス役)
  • どん底(サーチン役)
  • プァーマーダラー
  • ルパン(ルパンとルブランの2役)
  • 肝っ玉おっ母と子供たち(おっ母役)
  • シラノ・ド・ベルジュラック(シラノ役)
  • リチャード三世(リチャード役)
  • ソルネス(ソルネス役)
  • いのちぼうにふろう物語(幾三役)
  • 愛は謎の変奏曲(ズノルコ役)
  • セールスマンの死(ウィリー・ローマン役)
  • ドライビング・ミス・デイジー(ホーク役)


バラエティー番組

関連項目

外部リンク