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2006年12月3日 (日) 21:05時点における版

アマンダ・クッツァーAmanda Coetzer, 1971年10月22日 - )は、南アフリカの元女子プロテニス選手。身長158cm, 体重54kg。女子プロテニス界では最も小柄な体格だったが、どんな球をも粘り強く拾いまくる強靭なフットワークを最大の持ち味にした。シングルス自己最高ランキングは3位。WTAツアーでシングルス9勝、ダブルス9勝を挙げる。右利き、バックハンド・ストロークは両手打ち。クッツァーは女子プロテニス界の仲間たちからも「最もエースを取りにくい選手」として警戒されていた。

1988年1月にプロ入り。1989年全仏オープン4大大会にデビューする。1992年全米オープンから2004年全豪オープンまで、4大大会に「46大会」連続出場記録を持っている。1993年1月の「メルボルン・オープン」決勝戦で日本の沢松奈生子を破り、WTAツアー初優勝。この年は9月に東京有明コロシアムで開かれた「ニチレイ・レディース」でも優勝している。(この大会は1990年に創設され、1996年までニチレイ・レディースの名称であったが、1997年に「トヨタ・プリンセス・カップ」の名称に変更され、2002年限りで開催中止となったトーナメントである。)1996年全豪オープンでは、当時15歳の天才少女マルチナ・ヒンギスを準々決勝で破ったが、続く準決勝でアンケ・フーバーに敗れている。1997年の同大会4回戦で、当時の世界ランキング1位だったシュテフィ・グラフを 6-2, 7-5 のストレートで破り、2年連続のベスト4に入る。1997年に、クッツァーはグラフから年間3勝を挙げた。5月中旬の「ドイツ・オープン」準々決勝では 6-0, 6-1 で圧勝し、続く全仏オープン準々決勝でも 6-1, 6-4 のストレート勝ちを収めた。(グラフはこの頃、左膝の故障が深刻になっていた。全仏準々決勝でクッツァーに敗退した後、直ちに手術を受けて全治6ヶ月と診断された。)これらの勝利で、クッツァーには「小さな暗殺者」というニックネームがついた。

その後もクッツァーは小さな身体に秘めた闘志でテニス・コートを走り続け、2001年全豪オープンでベスト8に進出している(ヴィーナス・ウィリアムズに敗退)。2004年6月、32歳で現役を引退した。

日本でプレーした回数も多く、毎年2月に東京体育館で開かれる「東レ・パン・パシフィック・テニス」でも出場常連選手のひとりだった。

主な成績

関連項目