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'''ゲンナジー・ザイツェフ'''(Геннадий Зайцев;[[1934年]] -)は、[[ソ連]]、[[ロシア連邦]]の軍人、チェキスト。第2代、第5代[[アルファ部隊]]指揮官。退役少将。ソ連邦[[英雄]]。[[セキュリティ]]会社「アルファ-95」(''Альфа-95'')社長。
'''ゲンナジー・ザイツェフ'''(Геннадий Зайцев;[[1934年]] -)は、[[ソ連]]、[[ロシア連邦]]の軍人、チェキスト。第2代、第5代[[アルファ部隊]]指揮官。退役少将。ソ連邦[[英雄]]。[[セキュリティ]]会社「アルファ-95」(''Альфа-95'')社長。[[ロシア連邦保安庁]](FSB)諮問会議と[[モスクワ]]市内務総局附属調整会議の一員


[[ペルミ州]]出身。1953年、[[大統領連隊|クレムリン連隊]]に勤務。1958年から、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)。1966年、KGB高等学校卒業。
[[ペルミ州]]出身。1953年、[[大統領連隊|クレムリン連隊]]に勤務。1958年から、[[ソ連国家保安委員会]](KGB)。1966年、KGB高等学校卒業。
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1977年~1988年、アルファ部隊指揮官に任命。[[ロストフ州]]での人質解放作戦により、ソ連邦英雄の称号を授与。1992年~1995年、再びアルファ部隊指揮官に任命。再任当時、アルファ部隊の規律は乱れており、将校の一部を解雇せざるを得なかった。1993年、ホワイトハウス(最高会議庁舎)突入を命じられたが、この事を恥じて自決を決意したが、当時の[[ロシア連邦保安庁]](FSB)長官[[ミハイル・バルスコフ]]により思い止まらされた。
1977年~1988年、アルファ部隊指揮官に任命。[[ロストフ州]]での人質解放作戦により、ソ連邦英雄の称号を授与。1992年~1995年、再びアルファ部隊指揮官に任命。再任当時、アルファ部隊の規律は乱れており、将校の一部を解雇せざるを得なかった。1993年、ホワイトハウス(最高会議庁舎)突入を命じられたが、この事を恥じて自決を決意したが、当時の[[ロシア連邦保安庁]](FSB)長官[[ミハイル・バルスコフ]]により思い止まらされた。


1995年、退役。1999年から、セキュリティ会社「アルファ-95」社長。
1995年、退役。1999年から、セキュリティ会社「アルファ-95」社長。同年、対テロ部隊「アルファ」ベテラン協会副会長に選出。同年5月、非国家セキュリティ組織職員全露労働組合中央委員会委員

2006年、ロシア社会院議員に選出。

著書に「『アルファ』-私の運命」がある。


[[Category:ロシアの軍人|さいつえふけんなし]]
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2006年11月23日 (木) 08:46時点における版

ゲンナジー・ザイツェフ(Геннадий Зайцев;1934年 -)は、ソ連ロシア連邦の軍人、チェキスト。第2代、第5代アルファ部隊指揮官。退役少将。ソ連邦英雄セキュリティ会社「アルファ-95」(Альфа-95)社長。ロシア連邦保安庁(FSB)諮問会議とモスクワ市内務総局附属調整会議の一員。

ペルミ州出身。1953年、クレムリン連隊に勤務。1958年から、ソ連国家保安委員会(KGB)。1966年、KGB高等学校卒業。

1977年~1988年、アルファ部隊指揮官に任命。ロストフ州での人質解放作戦により、ソ連邦英雄の称号を授与。1992年~1995年、再びアルファ部隊指揮官に任命。再任当時、アルファ部隊の規律は乱れており、将校の一部を解雇せざるを得なかった。1993年、ホワイトハウス(最高会議庁舎)突入を命じられたが、この事を恥じて自決を決意したが、当時のロシア連邦保安庁(FSB)長官ミハイル・バルスコフにより思い止まらされた。

1995年、退役。1999年から、セキュリティ会社「アルファ-95」社長。同年、対テロ部隊「アルファ」ベテラン協会副会長に選出。同年5月、非国家セキュリティ組織職員全露労働組合中央委員会委員。

2006年、ロシア社会院議員に選出。

著書に「『アルファ』-私の運命」がある。