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名称=建水分神社|
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所在地=大阪府南河内郡千早赤阪村水分357|
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祭神=天御中主神|
祭神=天御中主神<br/>天水分神<br/>国水分神<br/>罔象女神<br/>瀬織津媛神|
社格=式内社(小)・府社|
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創建=崇神天皇5年|
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'''建水分神社'''(たけみくまりじんじゃ)は、[[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]]にある[[神社]]である。通称'''水分神社'''。'''水分大明神'''、'''上水分'''とも称する。[[延喜式]][[河内国]][[石川郡 (大阪)|石川郡]]建水分神社にあたる
'''建水分神社'''(たけみくまりじんじゃ)は、[[大阪府]][[南河内郡]][[千早赤阪村]]にある[[神社]]である。通称'''水分神社'''(すいぶんじんじゃ)。'''水分大明神'''、'''上水分'''(うえのすいぶんのやしろ)とも称する。[[式内社]]で、旧[[社格]][[府]]。


古来より[[金剛山 (日本)|金剛山]]鎮守として、また[[楠木氏]]の氏神として崇敬された。
古来より[[金剛山 (日本)|金剛山]]鎮守として、また[[楠木氏]]の氏神として崇敬された。

==祭神==
中殿に[[天御中主神]]、左殿に[[水分神|天水分神]]・[[ミヅハノメ|罔象女神]]、右殿に国水分神・[[祓戸神|瀬織津姫神]]を祀る。このうち天水分神・国水分神と罔象女神は[[水神]]であり、瀬織津姫神も[[大祓詞]]で「早川の瀬に坐す」とある神である。


==由緒==
==由緒==
社伝によれば、[[崇神天皇]]5年([[紀元前1世紀|紀元前92年]])、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。[[延喜式神名帳]]に「[[河内国]][[石川郡 (大阪府)|石川郡]] 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、[[美具久留御魂神社]](富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。
[[崇神天皇]]5年([[紀元前1世紀|紀元前92年]])創建。


[[建武]]元年([[1334年]])、[[後醍醐天皇]]の勅命を受けた[[楠木正成]]が社殿を現在地に遷し、本殿、拝殿、鐘楼などを再営された。[[延元]]2年(1337年)4月27日、[[神階]]正一位を授けられ
元の鎮座地は現在地より東約500mの所にあったが、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に兵火にかかり社殿を焼失した。[[建武]]元年([[1334年]])、[[後醍醐天皇]]の勅命を受けた[[楠木正成]]が現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。[[延元]]2年(1337年)4月27日、最高位である[[正一位]]の[[神階]]を授けられ


中世、[[織田信長]]軍の河内国攻略の際社領を没収され一時衰退する、[[豊臣秀吉]]が社領を寄進し、復旧され
中世、[[織田信長]]軍の河内国攻略の際社領を没収され一時衰退する、[[豊臣秀吉]]が社領を寄進し、復旧され


明治6年の[[近代社格制度|社格]]制定の際に郷社に列格した。明治40年に[[神饌幣帛供進社]]に指定され、氏子地域内の17神社を[[神社合祀|合祀]]した。大正2年に府社に昇格した。
==祭神==
*[[天御中主神]]
*天水分神
*国水分神
*罔象女神
*瀬織津媛神


==例祭==
==例祭==
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==文化財==
==文化財==
*本殿:重要文化財
*本殿:重要文化財
**本殿は三殿で構成されている。中殿に一間社春日造、左右両殿に二間社流造、各殿を渡廊で連結するという全国でも珍しい様式で、「水分造」とも呼ばれている。
**本殿は三殿で構成されている。中殿に一間社[[春日造]]、左右両殿に二間社[[流造]]、各殿を渡廊で連結するという全国でも珍しい様式で、「水分造」とも呼ばれている。


==その他==
==その他==
*戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦内には当社より建水分大神が勧請されている。
*戦艦[[金剛 (戦艦)|金剛]]艦内には建水分大神」として当社の祭神が[[勧請]]されている。


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2006年11月22日 (水) 08:06時点における版

建水分神社
所在地 大阪府南河内郡千早赤阪村水分357
主祭神 天御中主神
天水分神
国水分神
罔象女神
瀬織津媛神
社格 式内社(小)・府社
創建 崇神天皇5年
本殿の様式 水分造
例祭 4月25日
10月第三土曜日
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建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は、大阪府南河内郡千早赤阪村にある神社である。通称水分神社(すいぶんじんじゃ)。水分大明神上水分社(うえのすいぶんのやしろ)とも称する。式内社で、旧社格府社

古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬された。

祭神

中殿に天御中主神、左殿に天水分神罔象女神、右殿に国水分神・瀬織津姫神を祀る。このうち天水分神・国水分神と罔象女神は水神であり、瀬織津姫神も大祓詞で「早川の瀬に坐す」とある神である。

由緒

社伝によれば、崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。延喜式神名帳に「河内国石川郡 建水分神社」と記載されている。「上水分社」の呼称は、美具久留御魂神社(富田林市宮町)を下水分社と称するのに対応したものである。

元の鎮座地は現在地より東約500mの所にあったが、南北朝時代に兵火にかかり社殿を焼失した。建武元年(1334年)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。延元2年(1337年)4月27日、最高位である正一位神階を授けられた。

中世、織田信長軍の河内国攻略の際に社領を没収され一時衰退するが、豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧された。

明治6年の社格制定の際に郷社に列格した。明治40年に神饌幣帛供進社に指定され、氏子地域内の17神社を合祀した。大正2年に府社に昇格した。

例祭

  • 4月25日:春祭
  • 10月第三土曜日:秋祭

摂末社

  • 摂社:南木神社
    • 祭神:楠木正成公(大楠公)
    • 延元2年(1337年)4月創建。
  • 末社:金峯神社

文化財

  • 本殿:重要文化財
    • 本殿は三殿で構成されている。中殿に一間社春日造、左右両殿に二間社流造、各殿を渡廊で連結するという全国でも珍しい様式で、「水分造」とも呼ばれている。

その他

  • 戦艦金剛艦内には「建水分大神」として当社の祭神が勧請されている。

外部リンク