「燻製ニシンの虚偽」の版間の差分

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== 解説 ==
== 解説 ==
例えば、[[ミステリ]]作品において、[[犯罪者]]の正体を探っていく過程では、[[無実]]の登場人物に疑いが向かうように偽りの強調をしたり、[[ミスディレクション]](誤った手がかり)を与えたり、「意味深長な」言葉を並べるなど、様々な騙しの仕掛けを用いて、[[著者]]は[[読者]]の注意を意図的に誘導する。読者の疑いは、誤った方向に導かれ、少なくとも当面の間、真[[犯人]]は[[正体]]を知られないままでいる。また「{{lang|en|[[:en:false protagonist|false protagonist]]}}」(ストーリーの途中まで、[[主人公]]とは別の人物をあたかも主人公であるように見せる[[演出]])も、燻製ニシンの虚偽の例である。
[[18世紀]]から[[19世紀]]に掛けて[[ジャーナリスト]]として活動した[[ウィリアム・コベット]]が、[[ウサギ]]を追跡する[[イヌ|犬]]を[[攪乱|撹乱]]して別の方向に追いやるために用いた「燻製ニシン」に由来<ref name=":0" />し、後に情報の受け手に偽の事柄に注意を向けさせ真の事柄を悟られないようにする手法を表す[[イディオム|慣用表現]]として[[通用]]した。例えば、[[ミステリ]]作品において、[[犯罪者]]の正体を探っていく過程では、[[無実]]の登場人物に疑いが向かうように偽りの強調をしたり、[[ミスディレクション]](誤った手がかり)を与えたり、「意味深長な」言葉を並べるなど、様々な騙しの仕掛けを用いて、[[著者]]は[[読者]]の注意を意図的に誘導する。読者の疑いは、誤った方向に導かれ、少なくとも当面の間、真[[犯人]]は[[正体]]を知られないままでいる。また「{{lang|en|[[:en:false protagonist|false protagonist]]}}」(ストーリーの途中まで、[[主人公]]とは別の人物をあたかも主人公であるように見せる[[演出]])も、燻製ニシンの虚偽の例である。


== 歴史 ==
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この加工によって、魚には独特の[[鼻]]につく[[におい|臭い]]がつき、濃い[[塩水]]を使うことで[[魚]]の身が赤くなる<ref name=quinion2002>{{cite web | author=[[:en:Michael Quinion|Quinion, Michael]]| year=2002-2008| title=The Lure of the Red Herring | work=[[:en:World Wide Words|World Wide Words]] | url=http://www.worldwidewords.org/articles/herring.htm | accessdate=November 10, 2010}}</ref>。この、濃い味付けのキッパーという意味での {{lang|en|red herring}} は、中世期末に遡る用例があり、1400年頃の手稿 ''Femina''([[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|ケンブリッジ大学トリニティカレッジ]]蔵:Trin-C B.14.40)27 には "He eteþ no ffyssh But heryng red."(彼は魚は食べなかったが、赤いニシンは食べた。)という記述がある。
この加工によって、魚には独特の[[鼻]]につく[[におい|臭い]]がつき、濃い[[塩水]]を使うことで[[魚]]の身が赤くなる<ref name=quinion2002>{{cite web | author=[[:en:Michael Quinion|Quinion, Michael]]| year=2002-2008| title=The Lure of the Red Herring | work=[[:en:World Wide Words|World Wide Words]] | url=http://www.worldwidewords.org/articles/herring.htm | accessdate=November 10, 2010}}</ref>。この、濃い味付けのキッパーという意味での {{lang|en|red herring}} は、中世期末に遡る用例があり、1400年頃の手稿 ''Femina''([[トリニティ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|ケンブリッジ大学トリニティカレッジ]]蔵:Trin-C B.14.40)27 には "He eteþ no ffyssh But heryng red."(彼は魚は食べなかったが、赤いニシンは食べた。)という記述がある。


[[サミュエル・ピープス]]は、[[1660年]][[2月28日]]の[[日記]]に、"Up in the morning, and had some red herrings to our breakfast, while my boot-heel was a-mending, by the same token the boy left the hole as big as it was before."(朝起き、朝食に赤ニシンを少し食べている間に、ブーツの踵を修理させたが、いつものように小僧は穴が空いたままにしていた)と記した<ref>{{cite web | author=[[サミュエル・ピープス|Pepys Samuel]]| year=1893| title=The Diary of Samuel Pepys M.A. F.R.S. | work=Samuel Pepys' Diary | url=http://www.pepysdiary.com/archive/1660/02/28/index.php | accessdate=February 21, 2006}}</ref>。
[[サミュエル・ピープス]]は、[[1660年]][[2月28日]]の[[日記]]に、"Up in the morning, and had some red herrings to our breakfast, while my boot-heel was a-mending, by the same token the boy left the hole as big as it was before."(朝起き、朝食に赤ニシンを少し食べている間に、ブーツの踵を修理させたが、いつものように小僧は穴が空いたままにしていた)と記した<ref name=":0">{{cite web | author=[[サミュエル・ピープス|Pepys Samuel]]| year=1893| title=The Diary of Samuel Pepys M.A. F.R.S. | work=Samuel Pepys' Diary | url=http://www.pepysdiary.com/archive/1660/02/28/index.php | accessdate=February 21, 2006}}</ref>。


英語における慣用表現としての {{lang|en|red herring}} の意味は、近年に至るまで[[猟犬]]の[[訓練]]手法に由来する表現であると考えられていた(後述)<ref name=quinion2002/>。由来についてはいくつかの異なる説があるが、そのひとつは、鼻を突く臭いを放つ燻製ニシンを引きずって子犬にその臭いを追うように仕込む、というものである<ref>Thomas Nashe, [http://www.oxford-shakespeare.com/Nashe/Nashes_Lenten_Stuff.pdf ''Nashes Lenten Stuffe''] (1599): "Next, to draw on hounds to a sent, to a redde herring skinne there is nothing comparable."(次に、臭いを追う犬の気を惹くには、赤ニシンの皮が一番で、これに匹敵するものはない。)- なお、ナッシュは、実際の狩猟についてのまじめな言及として述べたのではなく、[[風刺]][[パンフレット]]のこぼれ話として、燻製ニシンの素晴らしい利点を賞賛してみせるために文を綴っているのであり、そのようなことが実際に行われているという証拠にはならない。同じ箇所で彼は、魚を乾燥して粉末にした[[魚粉]]は[[腎臓病]]や[[胆石]]の予防に効果がある、などと胡散臭いことを記している。</ref>。その後、犬が[[キツネ]]や[[アナグマ亜科|アナグマ]]のかすかな臭いを追えるように仕込まれていくと、訓練士は、今度は(その強い臭いで動物の臭いに、動物の臭いを紛れさせるために)燻製ニシンを動物の痕跡とは垂直の方向に引きずり、犬を惑わす<ref>{{cite journal |doi=10.1016/j.jal.2008.09.004 |first=J.E.P |last=Currall |coauthors=M.S. Moss; S.A.J. Stuart |year=2008 |title=Authenticity: a red herring? |journal=Journal of Applied Logic |volume=6 |issue=4 |pages=534–544 |issn=1570-8683}}</ref>。犬は最終的には、強い臭いに惑わされることなく、元々追っている動物の臭いを追跡できるようになる。これとは別の説では、脱獄した囚人が、追跡する犬に臭いの強い魚を投げて気を逸らせようとしたことによるとされる<ref>Hendrickson, R. (2000). The facts on file encyclopedia of word and phrase origins. United States: Checkmark.</ref>。
英語における慣用表現としての {{lang|en|red herring}} の意味は、近年に至るまで[[猟犬]]の[[訓練]]手法に由来する表現であると考えられていた(後述)<ref name=quinion2002/>。由来についてはいくつかの異なる説があるが、そのひとつは、鼻を突く臭いを放つ燻製ニシンを引きずって子犬にその臭いを追うように仕込む、というものである<ref>Thomas Nashe, [http://www.oxford-shakespeare.com/Nashe/Nashes_Lenten_Stuff.pdf ''Nashes Lenten Stuffe''] (1599): "Next, to draw on hounds to a sent, to a redde herring skinne there is nothing comparable."(次に、臭いを追う犬の気を惹くには、赤ニシンの皮が一番で、これに匹敵するものはない。)- なお、ナッシュは、実際の狩猟についてのまじめな言及として述べたのではなく、[[風刺]][[パンフレット]]のこぼれ話として、燻製ニシンの素晴らしい利点を賞賛してみせるために文を綴っているのであり、そのようなことが実際に行われているという証拠にはならない。同じ箇所で彼は、魚を乾燥して粉末にした[[魚粉]]は[[腎臓病]]や[[胆石]]の予防に効果がある、などと胡散臭いことを記している。</ref>。その後、犬が[[キツネ]]や[[アナグマ亜科|アナグマ]]のかすかな臭いを追えるように仕込まれていくと、訓練士は、今度は(その強い臭いで動物の臭いに、動物の臭いを紛れさせるために)燻製ニシンを動物の痕跡とは垂直の方向に引きずり、犬を惑わす<ref>{{cite journal |doi=10.1016/j.jal.2008.09.004 |first=J.E.P |last=Currall |coauthors=M.S. Moss; S.A.J. Stuart |year=2008 |title=Authenticity: a red herring? |journal=Journal of Applied Logic |volume=6 |issue=4 |pages=534–544 |issn=1570-8683}}</ref>。犬は最終的には、強い臭いに惑わされることなく、元々追っている動物の臭いを追跡できるようになる。これとは別の説では、脱獄した囚人が、追跡する犬に臭いの強い魚を投げて気を逸らせようとしたことによるとされる<ref>Hendrickson, R. (2000). The facts on file encyclopedia of word and phrase origins. United States: Checkmark.</ref>。

2022年4月22日 (金) 18:59時点における版

燻製ニシンの虚偽(くんせいニシンのきょぎ)、またはレッド・ヘリング英語: red herring)は、重要な事柄から受け手(聴き手、読み手、観客)の注意を逸らそうとする修辞上、文学上の技法を指す慣用表現[1]

解説

18世紀から19世紀に掛けてジャーナリストとして活動したウィリアム・コベットが、ウサギを追跡する撹乱して別の方向に追いやるために用いた「燻製ニシン」に由来[2]し、後に情報の受け手に偽の事柄に注意を向けさせ真の事柄を悟られないようにする手法を表す慣用表現として通用した。例えば、ミステリ作品において、犯罪者の正体を探っていく過程では、無実の登場人物に疑いが向かうように偽りの強調をしたり、ミスディレクション(誤った手がかり)を与えたり、「意味深長な」言葉を並べるなど、様々な騙しの仕掛けを用いて、著者読者の注意を意図的に誘導する。読者の疑いは、誤った方向に導かれ、少なくとも当面の間、真犯人正体を知られないままでいる。また「false protagonist」(ストーリーの途中まで、主人公とは別の人物をあたかも主人公であるように見せる演出)も、燻製ニシンの虚偽の例である。

歴史

ニシンのキッパーの実例。 ジャーナリスト ウィリアム・コベットイギリス新聞誤報を、効果の薄い世論操作だったと皮肉ったさいに、猟犬訓練ニシン燻製を使ったという話をしたことが広まって、現在の英語の慣用表現となった。

red herringの直訳は「赤いニシン」であるが、これは、そのような名の魚種があるわけではなく、濃い味付けのキッパーを意味している。キッパーとはイギリスにある料理で、主としてニシンを、塩漬け燻製のいずれか、または両方の加工をした料理のことである。

この加工によって、魚には独特のにつく臭いがつき、濃い塩水を使うことでの身が赤くなる[3]。この、濃い味付けのキッパーという意味での red herring は、中世期末に遡る用例があり、1400年頃の手稿 Feminaケンブリッジ大学トリニティカレッジ蔵:Trin-C B.14.40)27 には "He eteþ no ffyssh But heryng red."(彼は魚は食べなかったが、赤いニシンは食べた。)という記述がある。

サミュエル・ピープスは、1660年2月28日日記に、"Up in the morning, and had some red herrings to our breakfast, while my boot-heel was a-mending, by the same token the boy left the hole as big as it was before."(朝起き、朝食に赤ニシンを少し食べている間に、ブーツの踵を修理させたが、いつものように小僧は穴が空いたままにしていた)と記した[2]

英語における慣用表現としての red herring の意味は、近年に至るまで猟犬訓練手法に由来する表現であると考えられていた(後述)[3]。由来についてはいくつかの異なる説があるが、そのひとつは、鼻を突く臭いを放つ燻製ニシンを引きずって子犬にその臭いを追うように仕込む、というものである[4]。その後、犬がキツネアナグマのかすかな臭いを追えるように仕込まれていくと、訓練士は、今度は(その強い臭いで動物の臭いに、動物の臭いを紛れさせるために)燻製ニシンを動物の痕跡とは垂直の方向に引きずり、犬を惑わす[5]。犬は最終的には、強い臭いに惑わされることなく、元々追っている動物の臭いを追跡できるようになる。これとは別の説では、脱獄した囚人が、追跡する犬に臭いの強い魚を投げて気を逸らせようとしたことによるとされる[6]

実際には、このような手法が犬の訓練に用いられることはないし、燻製ニシンが逃亡者に役立つこともない[7]。この慣用表現は、1807年2月14日に、ジャーナリスト ウィリアム・コベット(William Cobbett)が、自ら創設した週刊新聞 Weekly Political Register 紙に発表した記事に由来するものと思われる[3]。(ナポレオン率いるフランス軍が苦戦の上、辛勝したアイラウの戦いについて)ナポレオンの敗北を誤報したイギリスの新聞を批判する記事の中で、コベットは、かつてウサギを追う犬の気を逸らそうと、燻製ニシンを使ってみたことがある、という話を持ち出した上で、「政治的な燻製ニシンの効果は、ほんの一瞬のものでしかない。土曜には、その臭いも石のようにさめきってしまった」と記している[3]

イギリスの語源研究家マイケル・キニオン(Michael Quinion) は、「この話は、(コベットによって)1833年にも繰り返し使われ、それは「赤いニシン」に比喩的含意を読者の意識に生じさせるのに十分であったが、不幸なことに、それが実際の狩猟者がやっていることに由来するのだという誤解も生んでしまった」と述べている[3]

脚注

  1. ^ Red herring. (n.d.). The American Heritage Dictionary of the English Language, Fourth Edition. Retrieved February 04, 2009, from: http://dictionary.reference.com/browse/Red%20herring
  2. ^ a b Pepys Samuel (1893年). “The Diary of Samuel Pepys M.A. F.R.S.”. Samuel Pepys' Diary. 2006年2月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e Quinion, Michael (2002-2008). “The Lure of the Red Herring”. World Wide Words. 2010年11月10日閲覧。
  4. ^ Thomas Nashe, Nashes Lenten Stuffe (1599): "Next, to draw on hounds to a sent, to a redde herring skinne there is nothing comparable."(次に、臭いを追う犬の気を惹くには、赤ニシンの皮が一番で、これに匹敵するものはない。)- なお、ナッシュは、実際の狩猟についてのまじめな言及として述べたのではなく、風刺パンフレットのこぼれ話として、燻製ニシンの素晴らしい利点を賞賛してみせるために文を綴っているのであり、そのようなことが実際に行われているという証拠にはならない。同じ箇所で彼は、魚を乾燥して粉末にした魚粉腎臓病胆石の予防に効果がある、などと胡散臭いことを記している。
  5. ^ Currall, J.E.P; M.S. Moss; S.A.J. Stuart (2008). “Authenticity: a red herring?”. Journal of Applied Logic 6 (4): 534–544. doi:10.1016/j.jal.2008.09.004. ISSN 1570-8683. 
  6. ^ Hendrickson, R. (2000). The facts on file encyclopedia of word and phrase origins. United States: Checkmark.
  7. ^ 2010年ディスカバリーチャンネルの番組『怪しい伝説 (MythBusters)』で、警察犬の追跡を燻製ニシンを放ることでかわせるか、実験が行われた。この実験で犬は魚を食べるために立ち止まり、逃亡者の臭いをしばらくの間見失ったが、最後には元の追跡に戻ってターゲットを見つけ出した。この結果、この神話は「ウソ」と判定された。

関連項目