「夏 (三代)」の版間の差分
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2006年11月13日 (月) 23:48時点における版
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夏(か 紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)は、中国最古の王朝。次の商王朝(いわゆる殷)と異なり文字資料をともなった考古学上の発見がなく、実在した確実な証拠は現在のところなく、「伝説上の王朝」である。「夏」という名前も商王朝が倒した前王朝をこう呼んでいたということに過ぎないのであり、彼ら自身の自称は永遠に闇の中である(殷は周が前王朝をそう呼んでいたに過ぎず、殷の自称は商である)。
しかし『史記』を初めとする中国の史書では、確かな歴史と書かれており、近年の中国考古学の実績からは実在していた可能性は非常に高いものと見なされつつある。商王朝の伝承においても、もし夏が存在してないのなら、わざわざ「前王朝を倒して簒奪した」というエピソードを捏造してまで後世に伝えたことになり、それに合理性を持たせられないとする。王朝名は夏后ともいう。史書には471年間続いたという記録が残されている。初代の禹から、末代の桀まで、14世、17代である。都は二里頭だとされている。
夏の歴史
『史記』の夏本紀に拠れば、夏は以下のような歴史をたどった。
禹の創業
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり顓頊の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水を為すなどの功績を為し、大いに認められた。また、禹の人柄を愛する人も多かったので、舜は禹を自分の後継者にしようとした。禹は、舜の死後、3年の喪に服した後に、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めず彼の下に行かなかったため、禹が帝位に就いた。陽城に都したと言われている。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、まもなく彼が死んだので、かわって益に政治の補佐をさせた。
最初の世襲王朝
禹の死後、本来後継者は益であったのだが、益が政治を執るのにまだ慣れていなかったこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲であるという。
帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかったために、これを討った。
啓の死後、子の太康が後を継いだが、史記によれば、「国を失った」といい、彼の五人の弟たちは「五子之歌」をつくった。
- 「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛汭、作五子之歌」(『史記』夏本紀)
この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らないことを弟達が恨んだ歌である。このことから、おそらく、太康が遊楽にふけり民の為に働くことをしなかったので、国を追い出されたのだと解釈されている(孔安国の説による)。
太康の死後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が、淫楽にふけっていたので、胤(胤は名前とも、国の名前ともいう)に命じて、羲氏と和氏を討たせた。
『史記』には中康の後の帝達は特に事跡が伝えられていない。
夏の衰退と滅亡
中康の十一代後の孔甲は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好んだ。そのため、諸侯の心は夏王朝から離れていった。このころになると、夏の徳も衰えてきたのである。
桀は、人徳がなく、武力で諸侯や民衆を押さえつけ、諸侯や民衆に憎まれた。商の湯を呼びつけ、夏台にて牢獄につなげた。湯はゆるされて解放されると徳を修めたので、諸侯がその下に集まり、ついには桀を倒す。桀は、鳴条に逃げたが、そこで死んだ。 桀の伝説は、殷の紂のそれと大変酷似しており、後世になって作られた伝説であるとも言われる。
夏のその後
商の湯王は、夏の血を引く者を夏亭(史記正義によるとこの地)に封じた。周代においては、杞において諸侯に封じられている。
夏の帝の一覧
- 帝禹
- 啓 禹の子
- 太康 啓の子
- 中康 太康の弟
- 相 中康の子
- 少康 相の子
- 予 少康の子
- 槐 予の子
- 芒 槐の子
- 泄 芒の子
- 不降 泄の子
- 扃 不降の弟
- 廑 扃の子
- 孔甲 不降の子、廑の従兄弟
- 皐 孔甲の子
- 発 皐の子
- 桀 発の子
関連項目
外部リンク
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