「モンゴル民主化運動」の版間の差分

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1990年1月、[[人権]]尊重を求める意見書が発表され、[[モンゴル民主連合]]、[[モンゴル社会民主主義運動]]、[[モンゴル進歩連合]]が結成される。[[モンゴル人民革命党]][[政治局]]員の解任要求も提出され、民意により、初めて政治局員が解任される。
1990年1月、[[人権]]尊重を求める意見書が発表され、[[モンゴル民主連合]]、[[モンゴル社会民主主義運動]]、[[モンゴル進歩連合]]が結成される。[[モンゴル人民革命党]][[政治局]]員の解任要求も提出され、民意により、初めて政治局員が解任される。


1990年4月、[[複数政党制]]の採用と、国家[[権力]]からモンゴル人民革命党[[中央委員会]]を排除するとを要求
1990年315日、モンゴル人民革命党[[中央委員会]]第8回総会で、[[ユムジャーギィン・ツェデンバル]][[第1書記]]の下で政治迫害された人々に対する[[名誉]]回復、[[ソ連]]滞在中の同第1書記の党籍剥奪決定


1990年4月、[[複数政党制]]の採用と、国家[[権力]]からモンゴル人民革命党中央委員会を排除することを要求。
モンゴル人民革命党は、これらの要求を受け入れ、複数政党制と[[大統領]]制を採用。[[貿易]]の自由化と、[[ソ連]]軍撤兵を実現。

モンゴル人民革命党は、これらの要求を受け入れ、複数政党制と[[大統領]]制を採用。[[貿易]]の自由化と、ソ連軍撤兵を実現。


国民革命の指導者は、[[モンゴル国立大学]]で[[マルクス・レーニン主義]]理論を教えていたサンジャースレン・[[ゾリク]]であった。
国民革命の指導者は、[[モンゴル国立大学]]で[[マルクス・レーニン主義]]理論を教えていたサンジャースレン・[[ゾリク]]であった。

2006年11月11日 (土) 07:16時点における版

国民革命(こくみんかくめい)とは、モンゴル国において、1989年から1990年にかけて、都市在住の知識人に主導された、非共産化革命を指す。無血で行われたのが特徴。

1985年以降、バトムンフ書記長が進めていた体制内改革により、その土壌は作られていた。

1989年、交通労働者が打ったストライキにより、端を発する。

1990年1月、人権尊重を求める意見書が発表され、モンゴル民主連合モンゴル社会民主主義運動モンゴル進歩連合が結成される。モンゴル人民革命党政治局員の解任要求も提出され、民意により、初めて政治局員が解任される。

1990年3月15日、モンゴル人民革命党中央委員会第8回総会で、ユムジャーギィン・ツェデンバル第1書記の下で政治迫害された人々に対する名誉回復と、ソ連滞在中の同第1書記の党籍剥奪を決定。

1990年4月、複数政党制の採用と、国家権力からモンゴル人民革命党中央委員会を排除することを要求。

モンゴル人民革命党は、これらの要求を受け入れ、複数政党制と大統領制を採用。貿易の自由化と、ソ連軍撤兵を実現。

国民革命の指導者は、モンゴル国立大学マルクス・レーニン主義理論を教えていたサンジャースレン・ゾリクであった。