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朱元璋と[[鳳陽県|濠]]で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。[[定遠県|定遠]]の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。[[郭子興]]はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。 |
朱元璋と[[鳳陽県|濠]]で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。[[定遠県|定遠]]の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。[[郭子興]]はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。 |
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[[1353年]]、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、[[泗県|泗州]]、[[滁州市|滁州]]、[[和県|和州]]を攻略し、承信校尉となった。 |
[[至正]]23年([[1353年]])、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、[[泗県|泗州]]、[[滁州市|滁州]]、[[和県|和州]]を攻略し、承信校尉となった。 |
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永興翼元帥府が立てられ、[[耿炳文]]の副将として[[長興県|長興]]を攻めた。[[張士誠]]軍が攻めてきたが、これを撃退した。安豊の救援に向かい、江西の平定、[[武昌区|武昌]]の攻略に参加した。永興親軍指揮司を経て、指揮同知となり、永興翼元帥府の長である耿炳文を支えた。張士誠軍が再び攻めてきたが、これを撃退し、[[宋興祖]]を捕らえた。 |
永興翼元帥府が立てられ、[[耿炳文]]の副将として[[長興県|長興]]を攻めた。[[張士誠]]軍が攻めてきたが、これを撃退した。安豊の救援に向かい、江西の平定、[[武昌区|武昌]]の攻略に参加した。永興親軍指揮司を経て、指揮同知となり、永興翼元帥府の長である耿炳文を支えた。張士誠軍が再び攻めてきたが、これを撃退し、[[宋興祖]]を捕らえた。 |
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[[淮安区|淮安]]、[[湖州市|湖州]]、[[姑蘇区|平江]]の攻略に参加し、功績をあげて指揮使に進んだ。[[湯和]]に従って、水軍を率いて[[方国珍]]討伐に参加した。浙東を平定し、水軍で[[福州市|福州]]を取り、[[延平区|延平]]を攻略した。昌国に戻り、海賊及び蘭秀山に篭った賊徒を平定した。 |
[[淮安区|淮安]]、[[湖州市|湖州]]、[[姑蘇区|平江]]の攻略に参加し、功績をあげて指揮使に進んだ。[[湯和]]に従って、水軍を率いて[[方国珍]]討伐に参加した。浙東を平定し、水軍で[[福州市|福州]]を取り、[[延平区|延平]]を攻略した。昌国に戻り、海賊及び蘭秀山に篭った賊徒を平定した。 |
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[[洪武]]2年([[1369年]])、大軍で[[西安市|西安]]を攻略して西安衛指揮使となり、都督府僉事に進んで[[平涼市|平涼]]を守った。 |
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洪武3年([[1370年]])、平涼侯に封ぜられ、歳禄1千5百石を賜った。屯田を行っていたが、この間、費聚は酒色に耽り、何もしなかった。 |
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洪武4年([[1371年]])、[[傅友徳]]に従い、雲南を攻めた。白石江の戦いで[[達里麻]]を捕らえて雲南を平定し、さらに[[大理市|大理]]へ進み、これを平定する。諸蛮が反乱を起こしたため、[[呉復]]の副将として、鎮圧に向かった。呉復と分かれて、これを討伐した。貴州都指揮使となった。 |
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洪武18年([[1385年]])、総兵官となり、[[丁忠]]らを率いて広南を攻めた。[[火立達]]を捕らえ、捕虜20万人を得た。その後、雲南を守った。 |
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== 参考文献 == |
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2022年1月7日 (金) 00:50時点における版
費 聚(ひ じゅ、1326年 - 1390年)は、元末から明初の軍人。字は子英(しえい)。五河(現在の安徽省五河県)の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。
生涯
姓名 | 費聚 |
---|---|
時代 | 元時代 - 明 時代 |
生没年 | 1326年(泰定3年) - 1390年(洪武23年) |
字・別名 | 子英(字) |
本貫・出身地 | 五河 |
職官 | 承信校尉→永興親軍指揮司→指揮同知 →指揮使→西安衛指揮使→都督府僉事 |
爵位 | 平涼侯(明) |
諡号 | - |
陣営・所属 | 朱元璋 |
家族・一族 | 父:費徳興、子:費超、費璿 |
朱元璋と濠で出会う。朱元璋は費聚を気に入り、深い交友関係を持った。定遠の張家堡は民兵を有し、どの勢力にも属していなかった。郭子興はこれを自陣営に引き入れたいと考えていた。朱元璋は費聚らを伴い、使者として張家堡を説得した。
至正23年(1353年)、定遠攻略に参加した24将の1人。宝公河に至り、敵陣営を視察すると堅固であった。朱元璋は敵陣営の前で3日間説得したが降伏しなかった。朱元璋は先に帰り、費聚を留守として残した。敵に動きがあることを費聚は朱元璋に報告し、朱元璋は費聚ら3百を率いて、計略をもって敵将を捕らえ、3千人を得た。豁鼻山に篭っていた8百人余りを説得し降伏させた。霊璧を取り、泗州、滁州、和州を攻略し、承信校尉となった。
永興翼元帥府が立てられ、耿炳文の副将として長興を攻めた。張士誠軍が攻めてきたが、これを撃退した。安豊の救援に向かい、江西の平定、武昌の攻略に参加した。永興親軍指揮司を経て、指揮同知となり、永興翼元帥府の長である耿炳文を支えた。張士誠軍が再び攻めてきたが、これを撃退し、宋興祖を捕らえた。
淮安、湖州、平江の攻略に参加し、功績をあげて指揮使に進んだ。湯和に従って、水軍を率いて方国珍討伐に参加した。浙東を平定し、水軍で福州を取り、延平を攻略した。昌国に戻り、海賊及び蘭秀山に篭った賊徒を平定した。
洪武2年(1369年)、大軍で西安を攻略して西安衛指揮使となり、都督府僉事に進んで平涼を守った。
洪武3年(1370年)、平涼侯に封ぜられ、歳禄1千5百石を賜った。屯田を行っていたが、この間、費聚は酒色に耽り、何もしなかった。
洪武4年(1371年)、傅友徳に従い、雲南を攻めた。白石江の戦いで達里麻を捕らえて雲南を平定し、さらに大理へ進み、これを平定する。諸蛮が反乱を起こしたため、呉復の副将として、鎮圧に向かった。呉復と分かれて、これを討伐した。貴州都指揮使となった。
洪武18年(1385年)、総兵官となり、丁忠らを率いて広南を攻めた。火立達を捕らえ、捕虜20万人を得た。その後、雲南を守った。
洪武23年(1390年)、京師に召還された。李善長の獄に連座し、64歳で処刑された。爵位も除かれた。
参考文献
- 『明史』 巻131 列伝第19