「安珍・清姫伝説」の版間の差分

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縁起絵巻:後小松・土佐光重の筆・1403年成立と寺伝ではされているが、鑑定は15世紀後半/16世紀前半である。初成立.酒井家旧蔵本は伝・土佐広周
en:Kiyohime (959750574版) より画像複写({{wide image}}, file:Dojoji engi emaki - p2.png, p4.png の2点, 両キャプションを和訳). 元亨釈書の原文(寛永1/1624年版と、『燕石十種』「道成寺考」にあるテキスト復刻のひとつ)
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[[畜生|畜生道]]に落ち蛇に[[転生]]した二人はその後、道成寺の[[住持]]のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える[[法華経]]の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と[[観音菩薩|観世音菩薩]]の化身であったのである<ref name=bukkyo_fukyo_taikei/>、と法華経)の有り難さを讃えて終わる{{sfnp|出岡|2014|p=9}}{{Refn|group="注"|現代の絵解きでは、執念にとらわれることの戒めのたとえと諭して終えている{{sfnp|出岡|2014|p=12}}}}。
[[畜生|畜生道]]に落ち蛇に[[転生]]した二人はその後、道成寺の[[住持]]のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える[[法華経]]の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と[[観音菩薩|観世音菩薩]]の化身であったのである<ref name=bukkyo_fukyo_taikei/>、と法華経)の有り難さを讃えて終わる{{sfnp|出岡|2014|p=9}}{{Refn|group="注"|現代の絵解きでは、執念にとらわれることの戒めのたとえと諭して終えている{{sfnp|出岡|2014|p=12}}}}。


{{wide image|Dojoji engi emaki - p2.png|1200px|「道成寺縁起」絵巻(部分)。僧を追う女性は上体が竜蛇となる。}}
{{wide image|Dojoji engi emaki - p4.png|1100px|「道成寺縁起」絵巻(部分)。全身とも竜蛇と化した女性は鐘に巻き付く。}}
== 伝承の経緯 ==
== 伝承の経緯 ==


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なかでもとりわけ有名な稿本は、道成寺蔵「道成寺縁起」(絵巻、2巻2軸、重文)であるが{{Refn|group="注"|解説者によって様々に呼ばれているので名称にぶれがあるが、国の重要文化財としての登録題名は「紙本著色道成寺縁起」二巻である<ref name=oohashi2021/>。}}<ref name=oohashi2021/>、これは寺伝では[[応永]]十年([[1403年]])
なかでもとりわけ有名な稿本は、道成寺蔵「道成寺縁起」(絵巻、2巻2軸、重文)であるが{{Refn|group="注"|解説者によって様々に呼ばれているので名称にぶれがあるが、国の重要文化財としての登録題名は「紙本著色道成寺縁起」二巻である<ref name=oohashi2021/>。}}<ref name=oohashi2021/>、これは寺伝では[[応永]]十年([[1403年]])
[[後小松天皇]]の[[宸筆]]により書きしたためられたもので絵は伝・[[土佐光重]]筆だが、現代の検証では6世紀前半ないし15世紀後半の成立と推察される<ref name=oohashi2017/><ref name=kanagawa_u/>。
[[後小松天皇]]の[[宸筆]]により書きしたためられたもので絵は伝・[[土佐光重]]筆だが、現代の検証では16世紀前半ないし15世紀後半の成立と推察される<ref name=oohashi2017/><ref name=kanagawa_u/>。


「道成寺縁起」では、主人公の女は{{読み仮名|真砂|まさご/まなご}}の清次の「{{linktext|娵}}」(よめ)である{{Refn|group="注"|だが「娵」の正しい読みは、「よめ」であるにかかわらず、道成寺では「むすめ」と訓じて来た経歴がある<ref name=tanaka_i1929/>。原文にはその家の女房(仕える女)ともみえる{{sfnp|浜下|1998|p=131}}。}}、相手は奥州出身の美男子な僧(「見目能僧」)と記される{{Refn|「紀伊國室)の郡(むろのこほり)」の「眞砂と云所」の宿の「亭主清次庄司と申人の娵」<ref name=dojojiengi-text/>}}<ref>『続日本の絵巻24 [[桑実寺]]縁起 [[道成寺]]縁起』([[小松茂美]]編、[[中央公論社]])に詳しく紹介されている。</ref>{{sfnp|安田|1989|p=3}}{{sfnp|徳田|1997|pp=204, 207}}。{{sfnp|浜下|1998|p=131}}。女は僧に「かくて渡らせたまえ」(しばらくいらしてください)と迫るが、これは夫になってくれとの口説きだと解釈される。後日、再会を約束したはずの僧はとうに通り過ぎて行った知って出立した女房は、[[切目王子]]の社を過ぎた上野という場所{{Refn|group="注"|旧・[[名田村]]大字上野(現今の[[御坊市]]名田町上野)<ref name=kineya/>。}}で追いつき呼びかけたが、僧は頭巾、負[[厨子]]、念珠などをかなぐり捨てて逃げたので、女は上体蛇と化し火を吹いて追いかけた。僧は[[塩屋村 (和歌山県)|塩屋]]を過ぎ、[[日高川]]を船で渡って逃げたが、女は衣を脱ぎ捨て全身蛇体となって泳ぎわたる<ref>(以上、絵巻の上巻){{harvp|田中|1979|p=19}}; {{harvp|浜下|1998|p=131}}にほぼ同文で転載</ref>。以上の部分も、残りの部分も{{efn2|絵巻の上巻・下巻のそれぞれ内容}}、上述の安珍清姫伝説と比べて大きな違いえは無い。僧は道成寺に駆け込んでかくまわれ、鐘の中に隠されるが、女房の大蛇は尾で堂の戸を壊し、鐘の{{読み仮名|竜頭|りゅうず}}を{{読み仮名|銜|くわ}}えては鐘に巻きつき尾でこれを打ち鳴らすと火焔がまきおこった。「3[[刻|時]]あまり」(6時間余?{{Refn|林雅彦の論文では"三時(六時間)余り"と注釈するが{{harvp|林|2005|p=114}}、浜下論文では"3時間ばかり"、和歌山県立博物館ニュースの訳では「一時間半ほど」<ref name=dojojiengi-text/>。『大日本法華験記』の原文では「兩三時計」(二、三どきばかり)尾で竜頭を叩いていた<ref name=hokke_genki/>となっているが[[三田村鳶魚]]はこれを「半日ばかり」と釈義している<!--「兩三日(りゃうさんにち)」は「二三日(にさんにち)」であるとしている-->{{sfnp|三田村|1911|pp=274-275}}。『今昔物語集』}})経ってやっと大蛇は「両眼より血の涙を流し」離れていったが、鐘を消火してみると骸骨だけの炭のような遺体がみつかった(以下略)<ref>(以上、絵巻の下巻){{harvp|田中|1979|p=19}}; {{harvp|浜下|1998|pp=131-132}}にほぼ同文で転載</ref>。
「道成寺縁起」では、主人公の女は{{読み仮名|真砂|まさご/まなご}}の清次の「{{linktext|娵}}」(よめ)である{{Refn|group="注"|だが「娵」の正しい読みは、「よめ」であるにかかわらず、道成寺では「むすめ」と訓じて来た経歴がある<ref name=tanaka_i1929/>。原文にはその家の女房(仕える女)ともみえる{{sfnp|浜下|1998|p=131}}。}}、相手は奥州出身の美男子な僧(「見目能僧」)と記される{{Refn|「紀伊國室)の郡(むろのこほり)」の「眞砂と云所」の宿の「亭主清次庄司と申人の娵」<ref name=dojojiengi-text/>}}<ref>『続日本の絵巻24 [[桑実寺]]縁起 [[道成寺]]縁起』([[小松茂美]]編、[[中央公論社]])に詳しく紹介されている。</ref>{{sfnp|安田|1989|p=3}}{{sfnp|徳田|1997|pp=204, 207}}。{{sfnp|浜下|1998|p=131}}。女は僧に「かくて渡らせたまえ」(しばらくいらしてください)と迫るが、これは夫になってくれとの口説きだと解釈される。後日、再会を約束したはずの僧はとうに通り過ぎて行った知って出立した女房は、[[切目王子]]の社を過ぎた上野という場所{{Refn|group="注"|旧・[[名田村]]大字上野(現今の[[御坊市]]名田町上野)<ref name=kineya/>。}}で追いつき呼びかけたが、僧は頭巾、負[[厨子]]、念珠などをかなぐり捨てて逃げたので、女は上体蛇と化し火を吹いて追いかけた。僧は[[塩屋村 (和歌山県)|塩屋]]を過ぎ、[[日高川]]を船で渡って逃げたが、女は衣を脱ぎ捨て全身蛇体となって泳ぎわたる<ref>(以上、絵巻の上巻){{harvp|田中|1979|p=19}}; {{harvp|浜下|1998|p=131}}にほぼ同文で転載</ref>。以上の部分も、残りの部分も{{efn2|絵巻の上巻・下巻のそれぞれ内容}}、上述の安珍清姫伝説と比べて大きな違いえは無い。僧は道成寺に駆け込んでかくまわれ、鐘の中に隠されるが、女房の大蛇は尾で堂の戸を壊し、鐘の{{読み仮名|竜頭|りゅうず}}を{{読み仮名|銜|くわ}}えては鐘に巻きつき尾でこれを打ち鳴らすと火焔がまきおこった。「3[[刻|時]]あまり」(6時間余?{{Refn|林雅彦の論文では"三時(六時間)余り"と注釈するが{{harvp|林|2005|p=114}}、浜下論文では"3時間ばかり"、和歌山県立博物館ニュースの訳では「一時間半ほど」<ref name=dojojiengi-text/>。『大日本法華験記』の原文では「兩三時計」(二、三どきばかり)尾で竜頭を叩いていた<ref name=hokke_genki/>となっているが[[三田村鳶魚]]はこれを「半日ばかり」と釈義している<!--「兩三日(りゃうさんにち)」は「二三日(にさんにち)」であるとしている-->{{sfnp|三田村|1911|pp=274-275}}。『今昔物語集』}})経ってやっと大蛇は「両眼より血の涙を流し」離れていったが、鐘を消火してみると骸骨だけの炭のような遺体がみつかった(以下略)<ref>(以上、絵巻の下巻){{harvp|田中|1979|p=19}}; {{harvp|浜下|1998|pp=131-132}}にほぼ同文で転載</ref>。
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=== 安珍・清姫の名の嚆矢===
=== 安珍・清姫の名の嚆矢===
これらのいずれにおいても安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『[[元亨釈書]]』([[1322年]])である。ただし鞍馬寺に居たことになっており{{harvp|三田村|1911|p=276}}<ref name=shimura/>{{Refn|『元亨釈書』巻一九「釈安珍」{{sfnp|徳田|1997|p=207}}。}}、後の奥州白川の僧という設定と異なっている。また、出身はみちのくであるが(現・宮城県[[角田市]][[藤尾村 (宮城県)|藤尾]]<!--典拠では[[伊具郡]]藤尾だが、これは旧地名で、現今の郡内になく分立した角田市にある-->の[[住吉神社 (角田市)|東光院]]の山伏・住持)、京都の鞍馬寺で修行したと辻褄を合わせている民話が角田市界隈に伝わる{{sfnp|及川|1958|p=50}}。
これらのいずれにおいても安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『[[元亨釈書]]』([[1322年]])である。ただし鞍馬寺に居たことになっており{{sfnp|三田村|1911|p=276}}<ref name=shimura/>{{Refn|『元亨釈書』巻一九「釈安珍」{{sfnp|徳田|1997|p=207}}。}}<ref name=genko_shakusho/>、後の奥州白川の僧という設定と異なっている。また、出身はみちのくであるが(現・宮城県[[角田市]][[藤尾村 (宮城県)|藤尾]]<!--典拠では[[伊具郡]]藤尾だが、これは旧地名で、現今の郡内になく分立した角田市にある-->の[[住吉神社 (角田市)|東光院]]の山伏・住持)、京都の鞍馬寺で修行したと辻褄を合わせている民話が角田市界隈に伝わる{{sfnp|及川|1958|p=50}}。


清姫の名の初出は[[並木宗輔]]作の[[浄瑠璃]]『道成寺現在蛇鱗』([[寛保]]2年〈[[1742年]]〉初演)とされる{{sfnp|林|2005|p=113}}。
清姫の名の初出は[[並木宗輔]]作の[[浄瑠璃]]『道成寺現在蛇鱗』([[寛保]]2年〈[[1742年]]〉初演)とされる{{sfnp|林|2005|p=113}}。
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清姫の生誕地とされる真砂は現在の[[熊野古道]]の[[中辺路]]付近にあたるが、ここには清姫の墓と伝えられる石塔があるほか<ref name="mikuma">{{Cite web|date=2003-2-23|url=http://www.mikumano.net/meguri/kiyohime.html|title=熊野の観光名所 清姫の墓|website=[http://www.mikumano.net/ み熊野ねっと]|accessdate=2008-12-14}}</ref>、清姫渕、衣掛松、清姫のぞき橋、鏡岩など、伝説にまつわる史跡が数多く残されている<ref name="kiyohimenosato">{{Cite web|url=http://www.aikis.or.jp/~nakahech/sightseeing/kiyohime/index.html|title=清姫の里|website=[http://www.aikis.or.jp/~nakahech/top.htm 歴史街道 和歌山県中辺路町]|publisher=[[中辺路]]観光協会|accessdate=2008-12-14}}</ref>。
清姫の生誕地とされる真砂は現在の[[熊野古道]]の[[中辺路]]付近にあたるが、ここには清姫の墓と伝えられる石塔があるほか<ref name="mikuma">{{Cite web|date=2003-2-23|url=http://www.mikumano.net/meguri/kiyohime.html|title=熊野の観光名所 清姫の墓|website=[http://www.mikumano.net/ み熊野ねっと]|accessdate=2008-12-14}}</ref>、清姫渕、衣掛松、清姫のぞき橋、鏡岩など、伝説にまつわる史跡が数多く残されている<ref name="kiyohimenosato">{{Cite web|url=http://www.aikis.or.jp/~nakahech/sightseeing/kiyohime/index.html|title=清姫の里|website=[http://www.aikis.or.jp/~nakahech/top.htm 歴史街道 和歌山県中辺路町]|publisher=[[中辺路]]観光協会|accessdate=2008-12-14}}</ref>。


「上野というところ」の北西、旧・名田村大字{{読み仮名|野島|のしま}}(現今の御坊市名田町野島)に清姫が履物を脱いだと史跡と称する草履塚があり、近くには袈裟掛松も生えていた<ref>{{harvp|丸山|1984|p=25}}。『紀伊日高民話伝説集』に拠る。</ref><ref name=yoshida-dainihon_chimei_jisho/>。
「上野というところ」の北西、旧・名田村大字{{読み仮名|野島|のしま}}(現今の御坊市名田町野島)に清姫が履物を脱いだと史跡と称する草履塚があり、近くには袈裟掛松も生えていた<ref>{{harvp|丸山|1984|p=25}}。『紀伊日高民話伝説集』に拠る。</ref><ref name=yoshida-dainihon_chimei_jisho/>。


また熊野古道[[潮見峠越え]]にある[[田辺市]]指定天然記念物の大木・捻木ノ杉は、清姫が安珍の逃走を見て口惜しんで身をよじった際、一緒にねじれてしまい、そのまま大木に成長したものといわれる<ref>{{Cite book|和書|author=宮本幸枝|others=[[村上健司]]監修|title=津々浦々「お化け」生息マップ - 雪女は東京出身? 九州の河童はちょいワル? -|date=2005-8|publisher=[[技術評論社]]|series=大人が楽しむ地図帳|volume=|isbn=978-4-7741-2451-3|page=45}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.kumano-kodo.jp/spot/spot-794/|title=熊野古道 捻木ノ杉|website=[https://www.kumano-kodo.jp/ 熊野古道]|publisher=和歌山県観光連盟|accessdate=2021-9-9}}</ref>。
また熊野古道[[潮見峠越え]]にある[[田辺市]]指定天然記念物の大木・捻木ノ杉は、清姫が安珍の逃走を見て口惜しんで身をよじった際、一緒にねじれてしまい、そのまま大木に成長したものといわれる<ref>{{Cite book|和書|author=宮本幸枝|others=[[村上健司]]監修|title=津々浦々「お化け」生息マップ - 雪女は東京出身? 九州の河童はちょいワル? -|date=2005-8|publisher=[[技術評論社]]|series=大人が楽しむ地図帳|volume=|isbn=978-4-7741-2451-3|page=45}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.kumano-kodo.jp/spot/spot-794/|title=熊野古道 捻木ノ杉|website=[https://www.kumano-kodo.jp/ 熊野古道]|publisher=和歌山県観光連盟|accessdate=2021-9-9}}</ref>。
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<ref name=fukuda>{{citation|和書|last=福田 |first=晃 |authorlink=福田晃 |title=伝承文学の視界: 歌謡・説話・絵解をめぐる |publisher=三弥井書店 |date=1984 |url=https://books.google.com/books?id=xE9OAAAAMAAJ&q=道成寺 |pages=317-318}}</ref>
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<ref name=genko_shakusho>『元亨釈書』[https://books.google.com/books?id=Q8lZAAAAcAAJ&pg=PP249 巻十九]「[https://books.google.com/books?id=Q8lZAAAAcAAJ&pg=PP280 釋安珍]」の条、1624年木版。{{harvp|屋代|1908}}「道成寺考」『燕石十種』所収、453-454頁。</ref>


<ref name=hokke_genki>『本朝法華驗記』下「第百廿九 紀伊國牟婁郡惡女」(原文)。{{harvp|屋代|1908}}「道成寺考」『燕石十種』所収、450-451頁; {{citation|和書|chapter=本朝法華驗記 下 |editor-last=塙 |editor-first=保己一 |editor-link=塙保己一 |title= 続群書類従 8上(伝部)] |chapter-url=https://books.google.com/books?id=EbWhnETRhhgC&pg=PP205 |pages=199-200}}</ref>
<ref name=hokke_genki>『本朝法華驗記』下「第百廿九 紀伊國牟婁郡惡女」(原文)。{{harvp|屋代|1908}}「道成寺考」『燕石十種』所収、450-451頁; {{citation|和書|chapter=本朝法華驗記 下 |editor-last=塙 |editor-first=保己一 |editor-link=塙保己一 |title= 続群書類従 8上(伝部)] |chapter-url=https://books.google.com/books?id=EbWhnETRhhgC&pg=PP205 |pages=199-200}}</ref>

2021年12月15日 (水) 00:42時点における版

「竹のひと節 日高川」 義太夫節『日高川』の場面を描く。楊洲周延画。

安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。思いを寄せた僧の安珍に裏切られた清姫がに変化して日高川を渡って追跡し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている[1]

そしてこの男女は因縁のまま輪廻転生するが、道成寺の住持の読経の供養により成仏するという仏教説話である。

概説

月岡芳年画。『和漢百物語』1865年

安珍・清姫伝説は、主人公らの悲恋と情念をテーマとした、紀伊国和歌山県)道成寺ゆかりの伝説[2]

原型とされる平安時代の『大日本国法華験記』(『法華験記』)・『今昔物語集』所収には説話[3]、そうした人名は示されない(熊野参詣の僧と、宿の寡婦とある)[4]。安珍という僧名は、『元亨釈書』(1322年)が初出で[5]、清姫の名は、1742年〉初演の浄瑠璃に初めて採用される[6]。よって安珍・清姫の名を冠した作品や絵巻物等の稿本は、みな江戸時代以降ということになる。

室町時代の「道成寺縁起」(上下巻、絵巻、重文)でも主人公らは無名である[注 1][7][8]

(謡曲『道成寺』)、歌舞伎(『娘道成寺』、総じて「道成寺物」という作品群)、浄瑠璃(『日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)』『道成寺現在蛇鱗(げんざいうろこ)』など)などさまざまな題材にされてきた[2][9]

道成寺では絵巻物(後期の写本・摸本類)を見せながら絵解き説法をおこなっているが[注 2][10]。現在は昭和の時代にアレンジされた「千年祭本」と、書写は新しいが古形にちかい「道成寺縁起絵とき手文」が使用される[12][13]

「略縁起」と名のつく稿本も複数存在する[14][注 3]。また、絵解きの影響で、江戸時代にはこの伝説が「略縁起」の形で刊行され、数多く頒布されてきた[14]

あらすじ

伝説のあらましは[2][9][18]、次のようなものである:

安珍・清姫のなれそめ

醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃[21][9][22]奥州白河(現・福島県白河市)の安珍というより熊野に参詣に来た/山伏[注 4]がいた。この僧(安珍)は大変な美形であった。紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路熊野街道沿い)真砂(まなご/まさご)の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。安珍は僧の身として当惑し、必ず帰りには立ち寄ると口約束して去っていった[2]

清姫の怒りと追跡

欺かれたと知った清姫は怒って追跡をはじめるが[2][9]、安珍は神仏(熊野権現観音)を念じて逃げのびる[18][注 5]

切目川より

(切目王子~上野~塩屋)[注 6]

当寺では地元の地名をいくつもからめてこの道中が伝えられる。姫は切目川を渡り[23]切目五体王子の神社の先(北西)の上野という場所で追いつき[注 7]、あのときの御房(僧)でないかと声をかける。しかし記憶にない、人違いだと否認したため、姫は激昂して火煙(火炎[15])を吹きはじめ[26][注 8]、安珍は恐怖をなして念仏(「南無金剛童子英語版」、次いで「南無観世音」[27]等)を唱える[28]。その甲斐あって(塩屋[15][29])逃れるが[18]、見失ったことに怒りをつのらせた清姫が、ここで(首から上が[15])蛇と化する[30][注 9]

日高川

安珍は日高川渡し船に頼みこみ渡ってしまい[31]、清姫がやってきて河川に身を投じて追いかける大場面となる[32][注 10]

現代の絵解き(千年祭本)だとここで熊野権現への祈り[注 11]が通じて、清姫がいわば不動金縛りになった隙に逃げ出す、という脚色があるかわりに[35][36]、脱衣するという表現をさけて「かような姿になった」と絵を指し示す演出になっているが[37]、もとは清姫が衣服を川辺に脱ぎ捨てて全身もろとも毒蛇となり、日高川を渡る場面となっている[38][注 12]

道成寺の鐘・最期

蛇体で日高川を泳ぎ渡った清姫は、道成寺に逃げ込んだ安珍に迫る[2]。梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった[2]。安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

成仏

畜生道に落ち蛇に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼む。住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れた。実はこの二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである[18]、と法華経)の有り難さを讃えて終わる[40][注 13]

「道成寺縁起」絵巻(部分)。僧を追う女性は上体が竜蛇となる。
「道成寺縁起」絵巻(部分)。全身とも竜蛇と化した女性は鐘に巻き付く。

伝承の経緯

原型

上述したように、その原型には『大日本国法華験記』(巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」)の説話があり、これが『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」に伝承されている[3][42]。原文をくらべると前者は漢文で[8][43][44]、後者は読み下してあるが[45][46]、ほぼ同文である[47][42]

『法華験記』本のあらましでは[4][48]庄司の娘の代わりに、牟婁郡の寡婦(必ずしも未亡人とは限らない[49][44])が熊野参詣の旅中の僧らに宿を提供する。また、宿泊するのは老若二人の僧である(懸想されるのは「其形端正」な若い僧)。言い寄られた若い僧は(流布説話と同様に)参詣を終えた後にまた立ち寄ると口約束して旅立つが、いっこうに戻ってこない。逃げられたと怒った寡婦は部屋に籠り、体長五尋の毒蛇に変化、僧を追って(熊野参詣道をたどり[50])、道成寺で鐘に隠れた僧を焼き殺す[4][51]。そして(流布する伝説と同様)、道成寺の高僧の夢枕に、その若い僧が蛇の姿で現れ、自分は蛇の女の夫になりこの姿になってしまったと嘆き、法華経「如来寿量品」を写経して納め供養をしてほしいと懇願する。老僧が所望の供養のための法会をおこなったのち、ふたたび夢に現れ男は兜率天、女は忉利天となり往生したと満悦そうに報告する[4][8]

道成寺縁起

土佐光重土佐派)画『道成寺縁起』[52]。蛇身となった清姫が鐘の中の安珍を焼き殺そうとする様子を描いたもの。

原型(平安時代の説話)から、やがて道成寺の縁起物(室町時代から江戸時代)に発展した[53]。江戸期の写本や摸本を数多く道成寺では所蔵する[54]

なかでもとりわけ有名な稿本は、道成寺蔵「道成寺縁起」(絵巻、2巻2軸、重文)であるが[注 14][55]、これは寺伝では応永十年(1403年後小松天皇宸筆により書きしたためられたもので絵は伝・土佐光重筆だが、現代の検証では16世紀前半ないし15世紀後半の成立と推察される[16][52]

「道成寺縁起」では、主人公の女は真砂まさご/まなごの清次の「」(よめ)である[注 15]、相手は奥州出身の美男子な僧(「見目能僧」)と記される[58][59][60][61][57]。女は僧に「かくて渡らせたまえ」(しばらくいらしてください)と迫るが、これは夫になってくれとの口説きだと解釈される。後日、再会を約束したはずの僧はとうに通り過ぎて行った知って出立した女房は、切目王子の社を過ぎた上野という場所[注 16]で追いつき呼びかけたが、僧は頭巾、負厨子、念珠などをかなぐり捨てて逃げたので、女は上体蛇と化し火を吹いて追いかけた。僧は塩屋を過ぎ、日高川を船で渡って逃げたが、女は衣を脱ぎ捨て全身蛇体となって泳ぎわたる[62]。以上の部分も、残りの部分も[注 17]、上述の安珍清姫伝説と比べて大きな違いえは無い。僧は道成寺に駆け込んでかくまわれ、鐘の中に隠されるが、女房の大蛇は尾で堂の戸を壊し、鐘の竜頭りゅうずくわえては鐘に巻きつき尾でこれを打ち鳴らすと火焔がまきおこった。「3あまり」(6時間余?[64])経ってやっと大蛇は「両眼より血の涙を流し」離れていったが、鐘を消火してみると骸骨だけの炭のような遺体がみつかった(以下略)[65]

異本である酒井家旧蔵「賢学草子絵巻」(伝・土佐広周[66][67][注 18])では、「姫君」と「賢学けんがく」とあり、関連本である武蔵野大学本もまた然りである[68]。この両本は本文において様々な相違がみられるが、ともに「古寺」とあり「道成寺」と明記されない、にもかかわらず、酒井家旧蔵本には「右、道成寺之絵一巻者..」との加証識語が加えられている[注 19][69][55]

「道成寺縁起」の異本にはまた根津美術館蔵の「賢学草子」(または「日高川草紙」と称す)があり、遠江国橋本宿の長者の娘「花ひめ(花姫)」と、三井寺の若き僧「けんかく(賢学)」となっている[60][70]。賢学は花姫と結ばれる運命を知りこれが修行の妨げとなることを恐れ、幼い花姫を亡き者にしようと胸を刺して逃げる。その後賢学は一目惚れした娘と結ばれるが彼女の胸の傷から成長した花姫その人であると気付き彼女を捨てて熊野へ向かう。花姫は彼を追い、ついに蛇となって日高川を越えて追いすがる。とある寺に逃げこんだ賢学は鐘の中に匿われるが、蛇と化した花姫は鐘にとぐろを巻いてそれを湯のごとく溶かし、賢学を掴みだしたのち、川底へと消えていった。その後弟子たちが二人を供養したという[71][70]。安珍清姫伝説に比べて宗教色が希薄で「御伽草子」的要素が強い話である[72]

安珍・清姫の名の嚆矢

これらのいずれにおいても安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『元亨釈書』(1322年)である。ただし鞍馬寺に居たことになっており[5][42][74][75]、後の奥州白川の僧という設定と異なっている。また、出身はみちのくであるが(現・宮城県角田市藤尾東光院の山伏・住持)、京都の鞍馬寺で修行したと辻褄を合わせている民話が角田市界隈に伝わる[76]

清姫の名の初出は並木宗輔作の浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(寛保2年〈1742年〉初演)とされる[6]

伝承内容の相違

平安時代の古い文献などが伝える伝承と、後の伝説では相違点もうかがえる。

『大日本国法華験記』本は、道成寺で僧を焼き殺す点は一致しているが、蛇道に堕ちた二人を成仏させた僧にも前世からの因縁があったとしている[43][77]

また『法華験記』では女が寝屋に籠って蛇となるが、「道成寺縁起」では途上で徐々に蛇に変化していく様子が描かれる[78]

『今昔物語集』では、あえて「若き」寡婦とされ、また部屋に籠って死んだ後に「五尋ばかりの大蛇」に変身している[8]

地域の口承文学

また、真砂の里では別の伝説が行われている[79]。大きな相違点を挙げると以下のようになる。

  • 清姫の母親は実は、男やもめであった父が助けた白蛇の精であった。
  • 初め安珍は幼い清姫に「将来結婚してあげる」と言っていたが、清姫の蛇身を見て恐れるようになった。
  • 安珍に逃げられた清姫は絶望し富田川に入水、その怨念が蛇の形をとった。
  • 蛇にならず、従って安珍も殺さず、清姫が入水して終わる話もある。

さらに異説としては、清姫は当時鉱山経営者になっており、安珍が清姫から鉱床秘図を借りたまま返さないので、怒った清姫やその鉱山労働者が安珍を追い詰めたという話がある(「清姫は語る」津名道代〈中辺路出身〉)[80]

後日談

鳥山石燕今昔百鬼拾遺』より「道成寺鐘」

安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心に祈念したところ、ようやく鐘は鐘楼に上がった。しかし清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上、付近に災害や疫病が続いたため、山の中へと捨てられた[81][82]

さらに二百年ほど後の天正年間。豊臣秀吉による根来攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用い、そのまま京都へ鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くため、顕本法華宗の総本山である妙満寺に鐘を納めた[82]

鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題し、かつて道成寺にあった件の鐘が、石燕の時代には妙満寺に納められていることが述べられている[81]

史跡

道成寺の安珍塚

伝説の舞台となる道成寺には安珍塚がある。 清姫の生誕地とされる真砂は現在の熊野古道中辺路付近にあたるが、ここには清姫の墓と伝えられる石塔があるほか[83]、清姫渕、衣掛松、清姫のぞき橋、鏡岩など、伝説にまつわる史跡が数多く残されている[84]

「上野というところ」の北西、旧・名田村大字野島のしま(現今の御坊市名田町野島)に清姫が履物を脱いだと史跡と称する草履塚があり、近くには袈裟掛松も生えていた[85][29]

また熊野古道潮見峠越えにある田辺市指定天然記念物の大木・捻木ノ杉は、清姫が安珍の逃走を見て口惜しんで身をよじった際、一緒にねじれてしまい、そのまま大木に成長したものといわれる[86][87]

妙満寺に納められた道成寺の鐘は、現在でも同寺に安置されており、寺の大僧正の供養により清姫の怨念が解けて美しい音色を放つようになったとされ[88]、霊宝として同寺に伝えられている。毎年春には清姫の霊を慰めるため、鐘供養が行われている。道成寺関連の作品を演じる芸能関係者が舞台安全の祈願に訪れていた時代もあり、芸道精進を祈願して寺を訪ねる芸能関係者も多い[81][82]

比較文学論

古事記』の本牟智和気王説話に出雲の肥河における蛇女との婚礼の話に類似性があり[要出典]誉津別命が参詣の旅の途中、宿泊先で女を娶ったとときその姿を覗き見て正体が蛇であることに気付き畏れて逃げ出すが、大蛇に海を越えて追いかけられ大和へと逃げ延びるという内容である。

伝説に取材した後世の創作

芸能を主に、様々な作品の題材として広く採りあげられた。前記「後日談」の部分が用いられることが多く、そのため安珍を直接舞台に出すことなく女性の怨念の物語として世界を展開することができた。

トントンお寺の道成寺
釣鐘下(お)ろいて 身を隠し
安珍清姫 蛇(じゃ)に化けて
七重(ななよ)に巻かれて 一廻(まわ)り 一廻り

「清姫日高川に蛇躰と成るの図」(月岡芳年新形三十六怪撰』」)
  • 日本画家の小林古径がこの伝説を題材にとった絵画『清姫』(8枚の連作)を制作している。山種美術館所蔵。
  • 中辺路では毎年7月頃、安珍・清姫伝説をテーマとした「清姫まつり」が、清姫が入水したとされる富田川の河川敷で開催されており、蛇身となった清姫が火を吐く様子などが再現されている[83][91]
  • 雨月物語』(上田秋成原作)の中に『道成寺』を元にしたと思われる『蛇性の婬』と言う話が載っている。また、その話を題材にした映画(蛇性の婬)もある。
  • 和歌山県みなべ町の常福寺の盆踊りに「安珍・清姫伝説」を題材にした盆踊りが行われている。
  • 安珍の生地とされる白河市根田では、安珍の命日とされる3月27日に、墓(後年、村人が供養のために建てたもの)の前で安珍念仏踊り(福島県無形民俗文化財)が奉納されている。
  • 吹田に伝わる民話に、太左衛門という男が新田で草刈り中に誤って大蛇の首を落としてしまった後、首だけの大蛇に祟られて最期は鐘に隠れたところを焼き殺されるという、道成寺伝説によく似た結末の民話がある[92]
  • 映画『安珍と清姫』(1960年)監督:島耕二 出演:市川雷蔵 若尾文子 製作:大映
  • 人形アニメーション『道成寺』(1976年) 制作 演出:川本喜八郎
  • 清姫曼陀羅』-岡本芳一百鬼どんどろ)による、等身大人形を用いた舞台劇。世界各国で上演された。
  • 絵本『安珍と清姫の物語 道成寺』(2004年) 文:松谷みよ子 絵:司修ポプラ社
  • 室内オペラ《清姫-水の鱗》~二人の独唱者、混声合唱とピアノのための~(2011年) 作曲:西村朗 台本:佐々木幹郎
  • ソーシャルゲーム『Fate/Grand Order』(2015年)清姫をモデルとした同名のキャラクターが登場する。

注釈

  1. ^ 奥州の無名僧と清次の娵(よめ)/女房)とあるのみ。
  2. ^ 古くから行われた絵解きは室町時代絵巻も使ったとする論旨もあるが[10]、これには懐疑的な意見も呈される[11]
  3. ^ 例えば「紀州日高郡道成寺御建立畧縁起(りゃくえんぎ)」[15]や異本としては「安鎭清姫畧物語」が伝説を記したものである[14]。なかでも豪俔(1654年没)「道成寺御建立略縁起』」は、「創建縁起」の最古の例とされる[16](室町絵巻の上下本には、道成寺の創建のいきさつが解かれるわけではない)。創建伝承は例えば「紀伊國日髙郡吉田村 鐘巻道成寺縁起」にも見える[17]
  4. ^ 千年祭本では"見目うるはしき山伏の安珍"(林 (1981), p. 44)。
  5. ^ 実際は、どの場面でどの神仏に祈るかは稿本によってさまざまである。
  6. ^ 千野 (1981): "切目川、上野、塩屋、と南から少しずつ北上し、道成寺のある小松原に下り、そして日高川に行きあたる、という構成をとっていたと思われる"。
  7. ^ "野田村上野と申す所にてたづね求むる/安珍に追付きまし"と昭和の「千年祭本」にみえるが林 (1981), p. 46、すでに室町期の絵巻にも"こゝは上野といふ所"と書き添えられている[7]。じっさいに該当する地名は「野田村」でなく旧・名田村大字上野(現今の御坊市名田町上野)[24]。絵解き台本には"当寺より道二里程下上野と云う處"と語るものもある[25]
  8. ^ この上野の場面:「千年祭本」では清姫"遂に口より火煙を吹"いたゆえだが[27]、室町時代絵巻では女房は単に恐ろしい形相になっているゆえに[7]、安珍/無名僧は神仏(金剛童子と観世音)を唱える[7]
  9. ^ 塩屋の場面:蛇を目にしたと安珍/無名僧が言いつつ大悲権現(これも観音菩薩の異称)への念仏を、"蛇となれるを見つつ、声も惜しまず"わめく、と絵解き「千年祭本」にも室町絵巻本にもある[30][7]
  10. ^ 「日高河」の場面は、月岡芳年、村上華岳等により画題にされている。
  11. ^ 室町絵巻ではここでで熊野権現を念じていないが[7]、三所権現(熊野権現)に助けを乞う記述は酒井家旧蔵本「賢学草子絵巻(日高川草紙絵巻)」にみえる[33][34]
  12. ^ 日高川渡りの場面は、平安時代の説話には無く、室町期の「道成寺縁起」絵巻に盛り込まれたと考察されている。この絵巻では最初追いついたとき頭と上半身が蛇となり、日高川を渡ろうと全身蛇と化した、と解釈される[39]
  13. ^ 現代の絵解きでは、執念にとらわれることの戒めのたとえと諭して終えている[41]
  14. ^ 解説者によって様々に呼ばれているので名称にぶれがあるが、国の重要文化財としての登録題名は「紙本著色道成寺縁起」二巻である[55]
  15. ^ だが「娵」の正しい読みは、「よめ」であるにかかわらず、道成寺では「むすめ」と訓じて来た経歴がある[56]。原文にはその家の女房(仕える女)ともみえる[57]
  16. ^ 旧・名田村大字上野(現今の御坊市名田町上野)[24]
  17. ^ 絵巻の上巻・下巻のそれぞれ内容
  18. ^ 道成寺絵詞」(天保12年)はその写本[67][55]
  19. ^ ただし酒井家旧蔵本(やその多くの写本)は前欠(冒頭分が欠損する)である。
  20. ^ 坂東玉三郎がこれを歌舞伎舞踊化して上演している[90]

出典

脚注
  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 69頁。
  2. ^ a b c d e f g 松井俊諭安珍清姫」『日本大百科全書(ニッポニカ)』、小学館、1994年https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E7%8F%8D%E6%B8%85%E5%A7%AB-429511 @コトバンク
  3. ^ a b 志村 (2007a), p. 153.
  4. ^ a b c d 日向 (2003), p. 44; 日向, 渡 & 神鷹 (2006), p. 63
  5. ^ a b 三田村 (1911), p. 276.
  6. ^ a b 林 (2005), p. 113.
  7. ^ a b c d e f g h i 『道成寺縁起』釈文(原文・訳)。大河内智之 (2017年10月19日). “道成寺縁起(重要文化財・道成寺蔵)の詞書釈文と現代語訳”. 和歌山県立博物館ニュース. 2021年11月22日閲覧。; (原文)下店静市二十一、道成寺縁起に就いて」『大和絵史研究』富山房、1944年、939-頁https://books.google.com/books?id=CKwEAAAAMAAJ&q=眞砂 
  8. ^ a b c d 浜下 (1998), p. 130.
  9. ^ a b c d 安珍清姫」『図解現代百科辞典』第壹、三省堂、128頁、1994年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1869770/72 
  10. ^ a b 林 (2020), p. 203-204.
  11. ^ 福田晃伝承文学の視界: 歌謡・説話・絵解をめぐる』三弥井書店、1984年、317-318頁https://books.google.com/books?id=xE9OAAAAMAAJ&q=道成寺 
  12. ^ 林 (1984), p. 13.
  13. ^ a b 小峯和明中世説話文学と絵解き」『絵解き』、一冊の講座. 日本の古典文学 3、有精堂、22-23頁、1985年https://books.google.com/books?id=MBU6AAAAMAAJ&q=道成寺 
  14. ^ a b c 林 (2020), pp. 203–204.
  15. ^ a b c d e 「紀州日高郡道成寺御建立畧縁起(りゃくえんぎ)」。志村 (2007b), p. 148に概要。
  16. ^ a b 大橋直義「道成寺文書概観――特に「縁起」をめぐる資料について――」『国文研ニューズ』第49号、人間文化研究機構国文学研究資料館、Autumn 2017、4-5頁、ISSN 1883-1931 
  17. ^ 林 (2020), pp. 203–204, 207.
  18. ^ a b c d 道成寺:【安珍清姫】」『佛教布教大系』第7巻、大東出版社、451-452頁、1994年https://books.google.com/books?id=78gLAQAAIAAJ&q=安珍清姫 
  19. ^ 浜下 (1998), pp. 131–132.
  20. ^ 林 (1981), p. 44; 林 (1984), p. 28
  21. ^ この具体的な時代設定は室町期「道成寺縁起」絵巻以降にみえるが[19]、道成寺の絵解き台本のうち昭和四年作成「千年祭本」では「今よ り一千年の昔し人皇六拾代醍醐天皇御代」という文句になっている[20]
  22. ^ 志村 (2007b), p. 148.
  23. ^ 林 (1981), p. 46:" 脛(はぎ)もあらわに、裾からげなき川にとび入って"との描写が「千年祭本」にある。室町絵巻本では「切目川」の地名が台詞にでる程度
  24. ^ a b 杵屋栄蔵長唄のうたひ方 続』創元社、1932年、44頁https://books.google.com/books?id=qlUmAAAAMAAJ&q=名田村 
  25. ^ 林 (1984), p. 21.
  26. ^ 林 (1981), p. 46; 林 (1984), p. 30
  27. ^ a b c 林 (1981), pp. 46–47; 林 (1984), p. 31
  28. ^ 上野の場面:絵解き(「千年祭本」)や室町絵巻本では、既述したように金剛童子と観世音だが[27][7]、略縁起系では熊野権現・観音である[15]
  29. ^ a b 吉田東伍鹽屋/名田(野島・上野)」『大日本地名辞書』 上(2版)、冨山房、1907年10月17日、739-740頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/378 
  30. ^ a b 林 (1981), p. 47; 林 (1984), p. 31
  31. ^ 林 (1981), p. 47; 林 (1984), p. 32: 舟渡しは「ちけし」という名で[[御坊市#岩内|岩内}}の者と「千年祭本」記述(同じく室町絵巻本にも"「ちけし」と申て「いわうち」にありける")。
  32. ^ 千野 (1981): "日高川に纏わる諸段のなかでも特に印象深い場面を挙げれば、女が思いを定めて日高川へ身を投げる、あの場面(図 3 )であろう"。
  33. ^ 河原木 et al. (2015), p. 61.
  34. ^ 千野 (1981).
  35. ^ 林 (1981), p. 46: "熊野権現を念じました。功力に依りまして清姫にはたちまち、眼くらみ、足立たず、息も苦しく詮方なく、路傍の石に腰を下して休みました。その虚に乗じて安珍には一目散に逃げて参ります"。
  36. ^ 小峰:"『縁起絵巻』とは異る"部分[13]
  37. ^ 林 (1981), p. 46: "遂にかやうな姿となりまする。/ (ト次ノ場ヲ開ク)"
  38. ^ 「道成寺縁起絵とき手文」。"身にかけたる衣をこゝえぬいで捨て参りまして大毒蛇となり.. 日高川え飛び入り" (林 (1984), p. 22)。
  39. ^ 浜下 (1998), p. 132.
  40. ^ 出岡 (2014), p. 9.
  41. ^ 出岡 (2014), p. 12.
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  47. ^ 三田村 (1911), p. 275: "全く同様..唯だ文章が驗記は漢文、今昔は國文であるだけが違って居る"。
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  53. ^ 尾崎秀樹さむらい誕生: 時代小説の英雄たち』講談社、1965年、9頁https://books.google.com/books?id=rlywlhCLbgcC&q清姫 
  54. ^ 和歌山県立博物館特別展「道成寺と日高川 ―道成寺縁起と流域の宗教文化―」出陳資料リスト』2017年10月12日https://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/dojoji/list.pdf 
  55. ^ a b c d 大橋直義「『道成寺縁起』書名―覚書」『きのみなと』第8巻、3頁、Spring 2021https://researchmap.jp/naoyoshi_oohashi/misc/32462561/attachment_file.pdf 
  56. ^ 田中一松道成寺緣起」『日本繪卷物集成』雄山閣、1929年、39ff頁https://books.google.com/books?id=jfrQAAAAMAAJ&q=道成寺縁起 ; 『田中一松絵画史論集』(上)所収。
  57. ^ a b 浜下 (1998), p. 131.
  58. ^ 「紀伊國室)の郡(むろのこほり)」の「眞砂と云所」の宿の「亭主清次庄司と申人の娵」[7]
  59. ^ 『続日本の絵巻24 桑実寺縁起 道成寺縁起』(小松茂美編、中央公論社)に詳しく紹介されている。
  60. ^ a b 安田 (1989), p. 3.
  61. ^ 徳田 (1997), pp. 204, 207.
  62. ^ (以上、絵巻の上巻)田中 (1979), p. 19; 浜下 (1998), p. 131にほぼ同文で転載
  63. ^ 三田村 (1911), pp. 274–275.
  64. ^ 林雅彦の論文では"三時(六時間)余り"と注釈するが林 (2005), p. 114、浜下論文では"3時間ばかり"、和歌山県立博物館ニュースの訳では「一時間半ほど」[7]。『大日本法華験記』の原文では「兩三時計」(二、三どきばかり)尾で竜頭を叩いていた[43]となっているが三田村鳶魚はこれを「半日ばかり」と釈義している[63]。『今昔物語集』
  65. ^ (以上、絵巻の下巻)田中 (1979), p. 19; 浜下 (1998), pp. 131–132にほぼ同文で転載
  66. ^ 古画備考 巻33 土佐家・土佐廣周「道成寺縁起二巻」の段、23頁b面
  67. ^ a b 異本 道成寺絵詞”. 異本 道成寺絵詞. 2021年12月14日閲覧。
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  70. ^ a b 小林健二物語の視界50選(その一)その限りない魅力を探る 賢学草子」『国文学 : 解釈と鑑賞』第46巻、第11号、74-75頁、1981年11月https://books.google.com/books?id=j38RAQAAMAAJ 
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  90. ^ シネマ歌舞伎『鷺娘/日高川入相花王』”. WOWOW. 2021年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月27日閲覧。
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  92. ^ 亀井, 澄夫 (2019年1月14日), “亀井澄夫の妖怪不思議千一夜: 吹田市南吹田および西の庄町”, 大阪日日新聞, https://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/youkai/190114/20190114028.html 
参照文献

関連項目

  • 白蛇伝
  • まんが日本昔ばなし - 『安珍清姫』のタイトルで紹介
  • 月華の剣士 - 一条あかりの必殺技「劾鬼・清姫」を発動させると鐘にまきつく清姫[1]が出現する。
  • 舞-HiME - 蛇をモチーフにしたチャイルド(モンスター)「清姫」が登場する。クライマックスでは安珍の最期を引用したような場面も展開される。
  • 陰陽座(ロックバンド) - 2008年9月に発表したアルバム「魑魅魍魎」にこの話を基に清姫側からの視点で独自解釈した楽曲「道成寺蛇ノ獄」が収録されている。
  • 日高川漫画) - 星野之宣の『妖女伝説』シリーズ中の短編。1980年週刊ヤングジャンプ13号掲載。『日高川入相花王』の清姫役を与えられた文楽座の若き人形遣いを主人公とし、安珍・清姫伝説をモチーフとしている。
  • ストーカー
  • Fate/Grand Order - TYPE-MOONによるスマートフォン専用ゲーム。サーヴァントとして「清姫」が登場する。清姫の口から安珍についても言及される他、同作の主人公を「安珍の生まれ変わり」と信じている。

外部リンク