「ヴラチスラフ2世 (ボヘミア王)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m 微調整
編集の要約なし
3行目: 3行目:
彼は、[[ブジェチスラフ1世]]の息子として生まれた。母親は、[[バーベンベルク家]]の[[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]の娘ユーディット・フォン・シュヴァインフルト。
彼は、[[ブジェチスラフ1世]]の息子として生まれた。母親は、[[バーベンベルク家]]の[[ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルト]]の娘ユーディット・フォン・シュヴァインフルト。


父の死後([[1055年]])にヴラチスラフ2世は[[モラヴィア]]の一部([[オロモウツ]])を統治することになった。しかし、彼は兄の[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]]との紛争により[[ハンガリー]]へ逃れた。この後、ハンガリーの支援を得て、彼はモラヴィア=オロモウツ公に復帰した。
父の死後([[1055年]])にヴラチスラフ2世は[[モラヴィア]]の一部([[オロモウツ]])を統治することになった。しかし、彼は兄の[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スピチフニェフ2世]]との紛争により[[ハンガリー王国|ハンガリー]]へ逃れた。この後、ハンガリーの支援を得て、彼はモラヴィア=オロモウツ公に復帰した。


兄と和解し、さらに兄が亡くなった後([[1061年]])、ヴラチスラフ2世は[[プラハ]]でボヘミア公の座に就いた。ヴラチスラフ2世の治世はそのほぼ全期間にわたって弟たちとの争いに明け暮れた。ヴラチスラフは、[[1068年]]に弟の[[ヤロミール (プラハ司教)|ヤロミール]]をプラハ[[司教]]に据えると、直ちに新設([[1063年]])のオロモウツ司教区の地位を向上させ、プラハ司教の地位を低下させた。むろん、ヤロミールにもボヘミア貴族の中に多くの支持者がいた。彼らはヴラチスラフの治世の間中絶え間ない抵抗を続けた。
兄と和解し、さらに兄が亡くなった後([[1061年]])、ヴラチスラフ2世は[[プラハ]]でボヘミア公の座に就いた。ヴラチスラフ2世の治世はそのほぼ全期間にわたって弟たちとの争いに明け暮れた。ヴラチスラフは、[[1068年]]に弟の[[ヤロミール (プラハ司教)|ヤロミール]]をプラハ[[司教]]に据えると、直ちに新設([[1063年]])のオロモウツ司教区の地位を向上させ、プラハ司教の地位を低下させた。むろん、ヤロミールにもボヘミア貴族の中に多くの支持者がいた。彼らはヴラチスラフの治世の間中絶え間ない抵抗を続けた。
9行目: 9行目:
ヴラチスラフは次にモラヴィアに目を向けた。彼はこの地域を二分し、弟の[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート]]とオトにそれぞれ任せることとした。オロモウツの司教区への昇格はモラヴィアを強化する目的もあった。
ヴラチスラフは次にモラヴィアに目を向けた。彼はこの地域を二分し、弟の[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート]]とオトにそれぞれ任せることとした。オロモウツの司教区への昇格はモラヴィアを強化する目的もあった。


ヴラチスラフはその宮廷を[[プラハ城]]から[[ヴィシェフラト]]に移転し、ここに有名な[[コレギアト礼拝堂]](プラハ)を創設した([[1070年]])。内には権力を強化し、外には婚姻政策を用いて支援者を探した。最初の妻は、ハンガリー公女アーデルハイドであった。彼女の死は、ポーランド公女シフィエントーヴァとの結婚によって、伝統的に関係の良くないボヘミア=[[ポーランド]]関係を改善する試みを可能にした。だが、この試みは成果なく終わった。1070年および[[1071年]]に両邦の境界地域で偶発的な戦闘が起こった。ボヘミア公もポーランド公も(この時点では)ドイツ王の家臣であるため、1071年の秋に[[ハインリヒ4世]]は、ヴラチスラフと[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]の両者を[[マイセン]]に呼び出し、平和協定を結ぶよう強要した。しかしこの和平は長続きしなかった。ボレスワフはその後すぐにボヘミアに侵攻を開始したと推測される。ハインリヒは[[1072年]]に、これに応えて出兵したが、[[教皇]]との戦いのためにこれを遂行することはできなかった。
ヴラチスラフはその宮廷を[[プラハ城]]から[[ヴィシェフラト]]に移転し、ここに有名な[[コレギアト礼拝堂]](プラハ)を創設した([[1070年]])。内には権力を強化し、外には婚姻政策を用いて支援者を探した。最初の妻は、ハンガリー公女アーデルハイドであった。彼女の死は、ポーランド公女シフィエントーヴァとの結婚によって、伝統的に関係の良くないボヘミア=[[ポーランド]]関係を改善する試みを可能にした。だが、この試みは成果なく終わった。1070年および[[1071年]]に両邦の境界地域で偶発的な戦闘が起こった。ボヘミア公もポーランド公も(この時点では)ドイツ王の家臣であるため、1071年の秋に[[ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ4世]]は、ヴラチスラフと[[ボレスワフ2世 (ポーランド王)|ボレスワフ2世]]の両者を[[マイセン]]に呼び出し、平和協定を結ぶよう強要した。しかしこの和平は長続きしなかった。ボレスワフはその後すぐにボヘミアに侵攻を開始したと推測される。ハインリヒは[[1072年]]に、これに応えて出兵したが、[[教皇]]との戦いのためにこれを遂行することはできなかった。


それでも、ヴラチスラフは、ハインリヒ4世と緊密な関係を保った。彼は、[[ザクセン]]貴族との戦いにおいて最も重要なハインリヒの支援者であった。ボヘミア軍はホムベルクの戦い([[1075年]])やフラルヒハイムの戦い([[1080年]])に参戦し、反乱を起こしたドイツ貴族を討伐し、[[イタリア]]に出兵した。ボヘミアはこの時代、絶え間ない内戦状態にあった。[[シレジア|シュレジエン]]をめぐるポーランドとの国境紛争があったからである。[[1076年]]、ザクセン貴族との戦いに勝利したハインリヒは、ボヘミア公に、[[マイセン辺境伯]]領、[[ラウジッツ]]辺境領およびザクセンの[[オストマルク (ザクセン)|オストマルク]]地方を任せた。ハインリヒがこの両地域にさらにいくつかの小領域を加えてヴラチスラフに与えたのは、[[バイエルン]]を[[オーストリア]]辺境伯領とした埋め合わせであった。ヴラチスラフは、この地域を差し押さえようと試みた。だが、[[1082年]][[5月12日]]にはマイルベルクでオーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]に勝利したにもかかわらず、この試みは成功しなかった。
それでも、ヴラチスラフは、ハインリヒ4世と緊密な関係を保った。彼は、[[ザクセン]]貴族との戦いにおいて最も重要なハインリヒの支援者であった。ボヘミア軍はホムベルクの戦い([[1075年]])やフラルヒハイムの戦い([[1080年]])に参戦し、反乱を起こしたドイツ貴族を討伐し、[[イタリア]]に出兵した。ボヘミアはこの時代、絶え間ない内戦状態にあった。[[シレジア|シュレジエン]]をめぐるポーランドとの国境紛争があったからである。[[1076年]]、ザクセン貴族との戦いに勝利したハインリヒは、ボヘミア公に、[[マイセン辺境伯]]領、[[ラウジッツ]]辺境領およびザクセンの[[オストマルク (ザクセン)|オストマルク]]地方を任せた。ハインリヒがこの両地域にさらにいくつかの小領域を加えてヴラチスラフに与えたのは、[[バイエルン]]を[[オーストリア]]辺境伯領とした埋め合わせであった。ヴラチスラフは、この地域を差し押さえようと試みた。だが、[[1082年]][[5月12日]]にはマイルベルクでオーストリア辺境伯[[レオポルト2世 (オーストリア辺境伯)|レオポルト2世]]に勝利したにもかかわらず、この試みは成功しなかった。


ヴラチスラフは、[[1085年]]には、オーストリアにあった領土までも手放さなくてはならなくなったが、その一方で、[[マインツ]]の王国会議でハインリヒは、ボヘミアとポーランドの王位を彼に授けた。ポーランドの王位がポーランド全域に対して実効性があったわけでは決してない。それでもこの称号はシュレジエン地方がその後も確実にボヘミア領に組み込まれたことを意味し、相当な威信を獲得することが出来たのである。[[1086年]][[6月15日]]、ヴラチスラフ2世は、プラハで[[トーリア]]大司教エーギルベルトによって、ボヘミア王(ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世)として戴冠された。
ヴラチスラフは、[[1085年]]には、オーストリアにあった領土までも手放さなくてはならなくなったが、その一方で、[[マインツ]]の王国会議でハインリヒは、ボヘミアとポーランドの王位を彼に授けた。ポーランドの王位がポーランド全域に対して実効性があったわけでは決してない。それでもこの称号はシュレジエン地方がその後も確実にボヘミア領に組み込まれたことを意味し、相当な威信を獲得することが出来たのである。[[1086年]][[6月15日]]、ヴラチスラフ2世は、プラハで[[トーリア]]大司教エーギルベルトによって、ボヘミア王(ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世)として戴冠された。
27行目: 27行目:




{{先代次代|[[ボヘミア君主一覧|ボヘミアの君主]]|1061-1092|[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スビチフニェフ2世]]|[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]]}}
{{先代次代|[[ボヘミア君主一覧|ボヘミアの君主]]|1061 - 1092|[[スピチフニェフ2世 (ボヘミア公)|スビチフニェフ2世]]|[[コンラート1世 (ボヘミア公)|コンラート1世]]}}
{{先代次代|[[マイセン辺境伯]]|1076-1089|[[エクベルト2世 (マイセン辺境伯)|エクベルト2世]]|[[ハインリヒ1世 (アイレンブルク伯)|ハインリヒ1世]]}}
{{先代次代|[[マイセン辺境伯]]|1076 - 1089|[[エクベルト2世 (マイセン辺境伯)|エクベルト2世]]|[[ハインリヒ1世 (アイレンブルク伯)|ハインリヒ1世]]}}


[[Category:ボヘミア国王|うらちすらふ1]]
[[Category:ボヘミア国王|うらちすらふ1]]

2006年11月4日 (土) 23:59時点における版

ヴラチスラフ2世Vratislav II.1035年頃 - 1092年1月14日)は、プシェミスル家の人物で、ボヘミア公、後に初代ボヘミア王となった(ただし世襲は認められず、一代限りの王であった)。

彼は、ブジェチスラフ1世の息子として生まれた。母親は、バーベンベルク家ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの娘ユーディット・フォン・シュヴァインフルト。

父の死後(1055年)にヴラチスラフ2世はモラヴィアの一部(オロモウツ)を統治することになった。しかし、彼は兄のスピチフニェフ2世との紛争によりハンガリーへ逃れた。この後、ハンガリーの支援を得て、彼はモラヴィア=オロモウツ公に復帰した。

兄と和解し、さらに兄が亡くなった後(1061年)、ヴラチスラフ2世はプラハでボヘミア公の座に就いた。ヴラチスラフ2世の治世はそのほぼ全期間にわたって弟たちとの争いに明け暮れた。ヴラチスラフは、1068年に弟のヤロミールをプラハ司教に据えると、直ちに新設(1063年)のオロモウツ司教区の地位を向上させ、プラハ司教の地位を低下させた。むろん、ヤロミールにもボヘミア貴族の中に多くの支持者がいた。彼らはヴラチスラフの治世の間中絶え間ない抵抗を続けた。

ヴラチスラフは次にモラヴィアに目を向けた。彼はこの地域を二分し、弟のコンラートとオトにそれぞれ任せることとした。オロモウツの司教区への昇格はモラヴィアを強化する目的もあった。

ヴラチスラフはその宮廷をプラハ城からヴィシェフラトに移転し、ここに有名なコレギアト礼拝堂(プラハ)を創設した(1070年)。内には権力を強化し、外には婚姻政策を用いて支援者を探した。最初の妻は、ハンガリー公女アーデルハイドであった。彼女の死は、ポーランド公女シフィエントーヴァとの結婚によって、伝統的に関係の良くないボヘミア=ポーランド関係を改善する試みを可能にした。だが、この試みは成果なく終わった。1070年および1071年に両邦の境界地域で偶発的な戦闘が起こった。ボヘミア公もポーランド公も(この時点では)ドイツ王の家臣であるため、1071年の秋にハインリヒ4世は、ヴラチスラフとボレスワフ2世の両者をマイセンに呼び出し、平和協定を結ぶよう強要した。しかしこの和平は長続きしなかった。ボレスワフはその後すぐにボヘミアに侵攻を開始したと推測される。ハインリヒは1072年に、これに応えて出兵したが、教皇との戦いのためにこれを遂行することはできなかった。

それでも、ヴラチスラフは、ハインリヒ4世と緊密な関係を保った。彼は、ザクセン貴族との戦いにおいて最も重要なハインリヒの支援者であった。ボヘミア軍はホムベルクの戦い(1075年)やフラルヒハイムの戦い(1080年)に参戦し、反乱を起こしたドイツ貴族を討伐し、イタリアに出兵した。ボヘミアはこの時代、絶え間ない内戦状態にあった。シュレージエンをめぐるポーランドとの国境紛争があったからである。1076年、ザクセン貴族との戦いに勝利したハインリヒは、ボヘミア公に、マイセン辺境伯領、ラウジッツ辺境領およびザクセンのオストマルク地方を任せた。ハインリヒがこの両地域にさらにいくつかの小領域を加えてヴラチスラフに与えたのは、バイエルンオーストリア辺境伯領とした埋め合わせであった。ヴラチスラフは、この地域を差し押さえようと試みた。だが、1082年5月12日にはマイルベルクでオーストリア辺境伯レオポルト2世に勝利したにもかかわらず、この試みは成功しなかった。

ヴラチスラフは、1085年には、オーストリアにあった領土までも手放さなくてはならなくなったが、その一方で、マインツの王国会議でハインリヒは、ボヘミアとポーランドの王位を彼に授けた。ポーランドの王位がポーランド全域に対して実効性があったわけでは決してない。それでもこの称号はシュレジエン地方がその後も確実にボヘミア領に組み込まれたことを意味し、相当な威信を獲得することが出来たのである。1086年6月15日、ヴラチスラフ2世は、プラハでトーリア大司教エーギルベルトによって、ボヘミア王(ボヘミア王としてはヴラチスラフ1世)として戴冠された。

ヴラチスラフの晩年の統治は、ボヘミアにもモラヴィアにもその権威が行き届き安定したものであった。しかし、コンラート・フォン・ブリュンや、ヴラチスラフの長子ブジェチスラフ2世との対立は先鋭化した。ヴラチスラフの後継者は、再び公爵位から始めなければならなかった。

彼は、1092年に狩りの途中の事故で落馬して亡くなった。遺体はヴィシェフラードに葬られた。アーデルハイド・フォン・ウンガルン、およびシフィエントーヴァ・フォン・ポーレンとの2度の結婚により、彼には4人の息子がいたが、彼らは父の死後すぐに後継者争いを始めた。

  • アーデルハイド・フォン・ウンガルンの息子
    • ブジェチスラフ2世(1092-1100 ボヘミア公)
  • シフィエントーヴァ・フォン・ポーレンの息子


先代
スビチフニェフ2世
ボヘミアの君主
1061 - 1092
次代
コンラート1世
先代
エクベルト2世
マイセン辺境伯
1076 - 1089
次代
ハインリヒ1世