「城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔」の版間の差分
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m アゼルバイジャンの歴史はちょいと書くの難しいのでとりあえず切りますね… |
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'''城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔'''は[[アゼルバイジャン]]に |
'''城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔'''(じょうさいとしバクー、シルヴァンシャーきゅうでん、およびおとめのとう)は、[[アゼルバイジャン]]の首都[[バクー]]の歴史的建造物に設定された[[ユネスコ]]の[[世界遺産]](文化遺産)である。アゼルバイジャンにおいて国内唯一の世界遺産。 |
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==概要== |
== 概要 == |
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''[[バクー]]および[[アゼルバイジャンの歴史]]も参照のこと。'' |
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この世界遺産が設定されているのは、[[カスピ海]]沿岸の都市バクーの旧市街である。城壁内は一般にイチェリ・シェヘル([[アゼルバイジャン語]]で「内城」の意)と呼ばれている。 |
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この世界遺産の中心となるバクーの街は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認されるのは10世紀以降である。[[1538年]]までは[[シルヴァン王朝]]の首都としていたが、[[シャファヴィー朝]]の支配を受け、後の[[1585年]]オットーマン・スルタン・ムラト3世がこの地域を制圧。時代は下り、1723年には[[ロシア]]の支配下に入った。この幾多の他民族の支配を受けたことによりバクーは、アゼルバイジャン独自の文化はもとより、アラブ、ペルシャ、ロシアの影響や、[[拝火教]]などの文化が共存する独自の景観を持つようになった。 |
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バクーの町は[[5世紀]]頃からあったとされるが、その存在が確認されるのは[[10世紀]]以降である。バクーは伝統的に現在のアゼルバイジャン共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市で、もともと[[ペルシア人]]の[[ゾロアスター|ゾロアスター教徒]]の多い街であったが、[[アラブ人]]とともに[[イスラム教]]が到来し、さらに現在の[[アゼルバイジャン人]]の直接の先祖となる[[テュルク]]系の[[遊牧民]]が侵入した。 |
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[[1538年]]までは、土着の王朝[[シルヴァン朝]]が首都としていたが、南のアーゼルバーイジャーン地方(現在の[[イラン]]領アゼルバイジャン)に興った[[サファヴィー朝]]の支配を受け、さらに[[1585年]]には[[オスマン帝国]]によって征服された。まもなく[[17世紀]]にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、イランと[[トルコ]]の政権の間で争奪が続いたが、[[1806年]]にはカスピ海西岸を南下してきた[[ロシア帝国]]によって占領され、[[ロシア人]]主導で近代都市が建設された。 |
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さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共存する独自の景観を持つようになった。 |
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== 登録基準 == |
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この世界遺産は、文化遺産の[[世界遺産#世界遺産登録基準|世界遺産登録基準]]における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。 |
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これに対して、[[ICOMOS]]は以下の旨のコメントをつけた。 |
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:バクー城内は |
:バクー城内はゾロアスター教、[[サーサーン朝]]、アラブ、ペルシア、シルヴァン朝、オスマン帝国、ロシアの文化の影響を受けた歴史的な都市景観と建築の顕著な例である。 |
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== 世界遺産保護区域内に含まれる史跡 == |
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*バクー城壁(イチェリ・シェヘル)内 |
*バクー城壁地区(イチェリ・シェヘル)内 |
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**メフメト・ |
**メフメト・モスク |
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**12世紀の[[マドラサ|メドレセ]](イスラム学院) |
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**ハッジ・ガーイブの[[ハンマーム]](浴場) |
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**ゾロアスター教寺院(17世紀) |
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**カースム・ベクの隊商宿 |
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**カスムベク |
**カースム・ベクのモスク |
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**ムルターニー人(インド商人)の隊商宿 |
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**ブハラ人(中央アジア商人)の隊商宿 |
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**17世紀のハンマーム跡 |
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**遺棄船 |
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*[[シルヴァン・シャー宮殿]] |
*[[シルヴァン・シャー宮殿]] |
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**シルヴァン・シャー |
**シルヴァン・シャー廟 |
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**セイッド・イェフヤー・バクーヴィー廟 |
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**ケイグバド |
**ケイグバードのモスク |
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**三重のテラス |
<!--**三重のテラス--> |
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*乙女の |
*乙女の塔 |
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この他、バクーが石油産業都市として栄えたロシア帝国時代の文化遺産が保護区域に含まれている。 |
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*ツァーリ時代の保護区域 |
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==関連項目== |
== 関連項目 == |
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*[[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産の一覧]] |
*[[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産の一覧]] |
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2004年9月30日 (木) 06:34時点における版
世界遺産
The World Heritage
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登録名 | 城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔 |
(英名) | Walled City of Baku with the Shirvanshah's Palace and Maiden Tower |
(仏名) | Cité fortifiée de Bakou avec le palais des Chahs de Chirvan et la tour de la Vierge |
登録国 | アゼルバイジャン |
登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | 文化遺産(iv) |
登録年 | 2000年 |
拡張年 | なし |
備考 | 2003年危機遺産に登録 |
公式サイト | ユネスコ本部(英語) |
地図 | |
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バクーの位置 | |
世界遺産テンプレートを使用しています |
城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔(じょうさいとしバクー、シルヴァンシャーきゅうでん、およびおとめのとう)は、アゼルバイジャンの首都バクーの歴史的建造物に設定されたユネスコの世界遺産(文化遺産)である。アゼルバイジャンにおいて国内唯一の世界遺産。
概要
この世界遺産が設定されているのは、カスピ海沿岸の都市バクーの旧市街である。城壁内は一般にイチェリ・シェヘル(アゼルバイジャン語で「内城」の意)と呼ばれている。
バクーの町は5世紀頃からあったとされるが、その存在が確認されるのは10世紀以降である。バクーは伝統的に現在のアゼルバイジャン共和国東部にあたるシルヴァン地方の主要都市で、もともとペルシア人のゾロアスター教徒の多い街であったが、アラブ人とともにイスラム教が到来し、さらに現在のアゼルバイジャン人の直接の先祖となるテュルク系の遊牧民が侵入した。
1538年までは、土着の王朝シルヴァン朝が首都としていたが、南のアーゼルバーイジャーン地方(現在のイラン領アゼルバイジャン)に興ったサファヴィー朝の支配を受け、さらに1585年にはオスマン帝国によって征服された。まもなく17世紀にはサファヴィー朝の支配下に戻るなど、イランとトルコの政権の間で争奪が続いたが、1806年にはカスピ海西岸を南下してきたロシア帝国によって占領され、ロシア人主導で近代都市が建設された。
さまざまな民族の支配を受けたことにより、バクーはアゼルバイジャン固有の文化はもとより、アラブ、イラン、ロシアなどの影響と文化が共存する独自の景観を持つようになった。
登録基準
この世界遺産は、文化遺産の世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。
これに対して、ICOMOSは以下の旨のコメントをつけた。
- バクー城内はゾロアスター教、サーサーン朝、アラブ、ペルシア、シルヴァン朝、オスマン帝国、ロシアの文化の影響を受けた歴史的な都市景観と建築の顕著な例である。
世界遺産保護区域内に含まれる史跡
- バクー城壁地区(イチェリ・シェヘル)内
- シルヴァン・シャー宮殿
- シルヴァン・シャー廟
- セイッド・イェフヤー・バクーヴィー廟
- ケイグバードのモスク
- 乙女の塔
この他、バクーが石油産業都市として栄えたロシア帝国時代の文化遺産が保護区域に含まれている。