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2006年11月2日 (木) 12:42時点における版

中和幇(ちゅうわほう)、1953年1956年台北県中和永和一帯小さい規模の暴力団、今の台湾最大の犯罪組織、広域暴力団.竹聯幇の前身。その時中和幇の活動地域は主に台北県中和永和板橋

1956年、中和幇内部は分裂して、趙寧主導から竹林連盟に改名と改革して、今の竹聯幇

略史

1953年頃、孫徳培は今の台北県中和永和の一帯で中和幇を創立して、その時の成員はただ10数人だ。その後の2年間、中和幇はゆっくりし自分の勢力圏を拡大して、何度もその他のヤクザ勢力と地盤の争奪戦が発生する。その時、台北の最大の勢力暴力団は四海幇で、外省掛暴力団の中で最大の勢力だ。あの時四海幇は中和幇の主要な敵だった。

1955年頃、孫徳培は一回の紛糾の中で一名ヤクザ親分.周天送を殺して、最後に逮捕のうえ投獄される。烏合の衆の中和幇、すぐ敵ヤクザ勢力の攻撃と分裂の勢力の版図に遭う。しかも中和幇内部はその時権力のために内部闘争にあって、更に勢力の衰退をさせる、部分の構成員は敵対している四海幇万国幇にも参加する。

しかし中和幇の五大将(潘世明湛洲吾周新徳周榕、一名不詳)、同じく権力闘争のため、中和幇をさせて散り散りばらばらだ。1955年頃、湛洲吾から真っ先に中和幇を離れて、そして三環幇暴力団)を創立する。1956年頃、潘世明も大衆が中和幇を離れることを率いて、そして万字幇暴力団)を創立する。残る成員、依然として権力の闘争を続ける。

それから中和幇元老・趙寧と大老達は成員を組織して永和竹林路で会議を行うことを招集して、対策を相談する。趙寧から宣言して、幇主孫徳培は入獄して、その地位を尊重するため、決定は後でもう幇主の一職を設立しなくて、成員を組織する平等を表すで、しかも中和幇は竹林聯盟を改名して、略称竹聯幇

関連組織

関連項目