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2006年11月1日 (水) 15:03時点における版

国民野球連盟こくみんやきゅうれんめい)は、1947年に設立され、日本野球連盟(のちの日本プロフェッショナル野球組織)とは一線を画したもう一つのプロ野球組織。通称国民リーグ(National Baseball League)。

歴史

戦後、日本プロ野球ではアメリカメジャーリーグが2リーグ(アメリカンリーグナショナルリーグ)で行われているのを参考に日本野球連盟主導での将来の2リーグ化が検討されていた。しかし当面は1リーグ8チームを維持したいということから新規参入チームの受け入れを認めなかった。しかしそれでもプロ野球に参加したい希望者が殺到したために、後の西日本パイレーツ西鉄ライオンズのスカウト、国鉄スワローズ・サンケイアトムズのスカウト・オーナー顧問の宇高(うたか)勲の主導で、連盟とは別の組織として4チームからなる国民野球連盟が設立された。

参加4チームは大塚アスレチックス唐崎クラウン(ズ)グリーンバーグ結城ブレーブス宇高レッドソックス熊谷レッドソックスである。

国民野球連盟は日本野球連盟との連携による2大リーグ制を図ろうとしたものの、日本野球連盟側はこの新規参入組について一切関与しないことを明言した。また、日本野球連盟の球団がフランチャイズの球場からは事実上閉め出された。

試合もフランチャイズ球場を持たぬ地方巡業での興行が主体だったので固定したファン層の獲得ができず、運営面でも大口のスポンサーを確保できなかったため、大塚アスレチックスの大塚幸之助以外の経営者は興行を続ける力を失っていた。また、中野晴行『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』(ISBN 4480420231)によると、主導者であった宇高勲は賭け屋(野球賭博)による八百長の蔓延に断固とした態度を取ったが、手打ちと称した宴席で水銀を盛られて暗殺されかけ、熱意が冷めかけていた。さらに、国税局による不条理なまでの高額の追徴課税を受け(プロ野球を道楽と見た国税局側の、懲罰的な課税だったという)、それが元で抜けざるを得ず、リーグは早くも行き詰まりを見せた。
さらに、日本野球連盟の鈴木龍二は、ブレーブスの濃人渉選手を自ら巨人に移籍させようと動くなど、国民野球連盟を潰そうとする動きを見せた。宇高に代わってリーグ会長となった大塚幸之助は未加盟プロの大映球団に誘いをかけ、さらに逆に太陽ロビンス真田重蔵東急フライヤーズ大下弘を引き抜こうとした。一度は両者との契約にこぎ着けたが、川上哲治の説得を受け断念。さらに鈴木龍二の懐柔もあり、わずか1年でリーグは解散した。

その後、1948年1月に大塚アスレチックスは大映球団と合同で興業を行ったが、大塚幸之助は金星スターズのオーナー橋本三郎の勧めにより金星スターズを買収し、大塚アスレチックスは金星スターズに吸収される形となった。しかし、実際に金星スターズに入れた選手は大塚アスレチックスから5人、結城ブレーブスから3人だけであった。結局、1949年に大塚幸之助も母体の経営難で球団を大映永田雅一に身売りし、大映スターズが誕生した。(大塚はそのまま大映野球の経営陣に加わり、大毎・東京・ロッテオリオンズ東京球場などに携わることになる。)

解散以後、日本のプロ野球は、日本野球連盟および日本プロフェッショナル野球組織によって興行されていたが、2005年四国アイランドリーグがスタートし、メジャーなプロリーグと一線を画す野球プロリーグが58年ぶりに誕生した。

リーグ記録

1947年夏季リーグ

30試合制。

  1. 結城ブレーブス 20勝10敗 勝率.667
  2. 大塚アスレチックス 17勝13敗 勝率.567
  3. 宇高レッドソックス 16勝14敗 勝率.533
  4. 唐崎クラウン 7勝23敗 勝率.233

1947年秋季リーグ

21試合制。

  1. 大塚アスレチックス 15勝6敗 勝率.714
  2. 結城ブレーブス 12勝7敗2分 勝率.632
  3. 熊谷レッドソックス 9勝10敗2分 勝率.474
  4. 唐崎クラウン 4勝17敗 勝率.190

関連項目

外部リンク


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