「三沢糾」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
→‎関連文献: +{{成城大学学長}}、重複する{{Succession box}}除去
編集の要約なし
33行目: 33行目:


==人物と来歴==
==人物と来歴==
[[宮崎県]][[児湯郡]]上江村の篤農家・三沢立身の二男として生まれ、[[第五高等学校 (旧制)]]法文科を経て[[東京帝国大学]]哲学科に学ぶ<ref>[http://history.lib.ntnu.edu.tw/taihoku/ja/category/mainjp/ 台北高等学校 歴代校長]国立台湾師範大学</ref>。
1906(明治40)年、[[クラーク大学]]{{要曖昧さ回避|date=2020年4月14日 (火) 13:09 (UTC)}}心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。
1906(明治40)年、[[クラーク大学]]{{要曖昧さ回避|date=2020年4月14日 (火) 13:09 (UTC)}}心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。


39行目: 40行目:
[[1918年]]、新たに設立された[[大阪府立高津高等学校|大阪府立第十一中学校]](後に高津中学校に改称)の初代[[校長]]に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、[[大正デモクラシー]]の気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の[[伊藤長七|伊藤]]([[東京都立小石川中等教育学校|東京府立第五中学校]])、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後に[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[はっさい先生]]」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。
[[1918年]]、新たに設立された[[大阪府立高津高等学校|大阪府立第十一中学校]](後に高津中学校に改称)の初代[[校長]]に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、[[大正デモクラシー]]の気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の[[伊藤長七|伊藤]]([[東京都立小石川中等教育学校|東京府立第五中学校]])、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後に[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[はっさい先生]]」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。


[[1925年]]、[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。
[[1925年]]、[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]2代目校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。


[[1929年]]、[[京都大学|京都帝国大学]]学生科長に就任。1931年、[[成城学園]]に転じ、教育顧問を経て[[成城高等学校 (旧制)|(旧制)成城高等学校]][[校長]]になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、[[神戸女学院]]の院長に誘われたが、受けなかった。
[[1929年]]、[[京都大学|京都帝国大学]]学生科長に就任。1931年、[[成城学園]]に転じ、教育顧問を経て[[成城高等学校 (旧制)|(旧制)成城高等学校]][[校長]]になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、[[神戸女学院]]の院長に誘われたが、受けなかった。
46行目: 47行目:


[[1942年]]、[[脳溢血]]のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺([[鳥取県]][[鳥取市]])に葬られた。
[[1942年]]、[[脳溢血]]のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺([[鳥取県]][[鳥取市]])に葬られた。

== 家族 ==
*父・三沢立身(1848年生) - [[鳥取藩]]士の子として生まれたが、父を早くに亡くし、34歳で気候温暖な[[宮崎県]][[児湯郡]]上江村へ移住して牧畜農業に従事。宮崎県の畜肉業や柑橘栽培など農事改革に貢献した。<ref name=tokuno>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778253/233 宮崎県三沢立身君]『全国篤農家列伝』愛知県農会、明43.4</ref>
*兄・三沢武清 - 日興貿易役員<ref name=tokuno/>
*弟・[[広岡久右衛門 (10代目)]] - 父の六男・案山子として生まれ、[[加島屋 (豪商)]]の久右衛門家(広岡姓)の入り婿となり、正直と改名。[[同志社大学]]経済科卒業後[[三井銀行]]勤務を経て[[ハーバード大学]]留学、現地の銀行・保険会社で実務を経験後帰国し、広岡家の家業である[[大同生命]]、[[大阪海上火災]]、[[能勢電鉄]]などの重役となる。先代の家督を継ぎ、広岡久右衛門を襲名。
*長女・文 - [[鹿子木小五郎]]の甥・鹿子木文雄の妻。


== 著作 ==
== 著作 ==

2021年9月26日 (日) 02:52時点における版

三沢 糾
誕生 (1878-10-12) 1878年10月12日
日本の旗 日本 兵庫県八部郡神戸町(現・神戸市
死没 (1942-05-25) 1942年5月25日(63歳没)
満洲国の旗 満洲国 関東州旅順市外田家屯(現・中華人民共和国の旗 中華人民共和国 遼寧省大連市旅順口区
職業 教育者
国籍 日本の旗 日本
教育 哲学博士(クラーク大学・1907年)
最終学歴 クラーク大学
代表作 『国民性と教育方針』(1910年)
配偶者 田鶴
子供 達朗(長男)、文(長女・鹿子木久雄妻)
親族 立身(父)、たか子(母)、武清(兄)、広岡久右衛門(弟)
テンプレートを表示

三沢 糾(みさわ ただす、1878年明治11年)10月12日 - 1942年昭和17年)5月25日)は日本教育者広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、ハルピン学院院長と多くの学校のトップを務めた。

人物と来歴

宮崎県児湯郡上江村の篤農家・三沢立身の二男として生まれ、第五高等学校 (旧制)法文科を経て東京帝国大学哲学科に学ぶ[1]。 1906(明治40)年、クラーク大学[要曖昧さ回避]心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。

水産講習所のドイツ語講師などを経て、1912(明治45)年、広島高等師範学校教授に就任。広島高師附属中学校主事を務めた後、1915年、和歌山県立海草中学校(現・向陽高校)校長となった。

1918年、新たに設立された大阪府立第十一中学校(後に高津中学校に改称)の初代校長に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、大正デモクラシーの気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の伊藤東京府立第五中学校)、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後にNHK連続テレビ小説はっさい先生」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。

1925年台北高等学校2代目校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。

1929年京都帝国大学学生科長に就任。1931年、成城学園に転じ、教育顧問を経て(旧制)成城高等学校校長になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、神戸女学院の院長に誘われたが、受けなかった。

1935年、旧満州にわたりハルピン学院院長を務めたが、関東軍との折衝に限界を感じ、1938年退任。1939年から長男夫婦とリンゴ園を経営しながら執筆活動に入った。

1942年脳溢血のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺(鳥取県鳥取市)に葬られた。

家族

著作

著書

関連文献

  • 『蕉蕾集 三沢先生二十五年忌記念号』 台北高校同窓会、1966年5月
  • 上沼八郎著 『実録はっさい先生 : 知られざる教師たちの物語』 協同出版、1988年1月、ISBN 4319200160
公職
先代
台湾総督府高等学校長事務取扱
吉川貞次郎
日本の旗 台湾総督府台北高等学校長
1927年 - 1929年
台湾総督府高等学校長
1925年 - 1927年
次代
下村虎六郎
先代
(新設)
大阪府立高津中学校
1919年 - 1925年
大阪府立第十一中学校長
1918年 - 1919年
次代
羽生隆
先代
(新設)
大阪府立第十二中学校長事務取扱
1920年
次代
校長
池田多助
先代
(新設)
和歌山県立海草中学校
1915年 - 1918年
次代
妹尾盛親
先代
長谷川乙彦
日本の旗 広島高等師範学校附属中学校主事
1914年 - 1915年
次代
塚原政次
その他の役職
先代
高田富蔵
哈爾浜学院長
1935年 - 1938年
次代
三毛一夫
先代
小原國芳
成城高等女学校
1933年
次代
児玉秀雄
  1. ^ 台北高等学校 歴代校長国立台湾師範大学
  2. ^ a b 宮崎県三沢立身君『全国篤農家列伝』愛知県農会、明43.4