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1906(明治40)年、[[クラーク大学]]{{要曖昧さ回避|date=2020年4月14日 (火) 13:09 (UTC)}}心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。 |
1906(明治40)年、[[クラーク大学]]{{要曖昧さ回避|date=2020年4月14日 (火) 13:09 (UTC)}}心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。 |
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[[1918年]]、新たに設立された[[大阪府立高津高等学校|大阪府立第十一中学校]](後に高津中学校に改称)の初代[[校長]]に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、[[大正デモクラシー]]の気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の[[伊藤長七|伊藤]]([[東京都立小石川中等教育学校|東京府立第五中学校]])、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後に[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[はっさい先生]]」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。 |
[[1918年]]、新たに設立された[[大阪府立高津高等学校|大阪府立第十一中学校]](後に高津中学校に改称)の初代[[校長]]に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、[[大正デモクラシー]]の気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の[[伊藤長七|伊藤]]([[東京都立小石川中等教育学校|東京府立第五中学校]])、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後に[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]「[[はっさい先生]]」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。 |
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[[1925年]]、[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。 |
[[1925年]]、[[台北高等学校 (旧制)|台北高等学校]]2代目校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。 |
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[[1929年]]、[[京都大学|京都帝国大学]]学生科長に就任。1931年、[[成城学園]]に転じ、教育顧問を経て[[成城高等学校 (旧制)|(旧制)成城高等学校]][[校長]]になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、[[神戸女学院]]の院長に誘われたが、受けなかった。 |
[[1929年]]、[[京都大学|京都帝国大学]]学生科長に就任。1931年、[[成城学園]]に転じ、教育顧問を経て[[成城高等学校 (旧制)|(旧制)成城高等学校]][[校長]]になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、[[神戸女学院]]の院長に誘われたが、受けなかった。 |
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[[1942年]]、[[脳溢血]]のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺([[鳥取県]][[鳥取市]])に葬られた。 |
[[1942年]]、[[脳溢血]]のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺([[鳥取県]][[鳥取市]])に葬られた。 |
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*父・三沢立身(1848年生) - [[鳥取藩]]士の子として生まれたが、父を早くに亡くし、34歳で気候温暖な[[宮崎県]][[児湯郡]]上江村へ移住して牧畜農業に従事。宮崎県の畜肉業や柑橘栽培など農事改革に貢献した。<ref name=tokuno>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778253/233 宮崎県三沢立身君]『全国篤農家列伝』愛知県農会、明43.4</ref> |
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*兄・三沢武清 - 日興貿易役員<ref name=tokuno/> |
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*弟・[[広岡久右衛門 (10代目)]] - 父の六男・案山子として生まれ、[[加島屋 (豪商)]]の久右衛門家(広岡姓)の入り婿となり、正直と改名。[[同志社大学]]経済科卒業後[[三井銀行]]勤務を経て[[ハーバード大学]]留学、現地の銀行・保険会社で実務を経験後帰国し、広岡家の家業である[[大同生命]]、[[大阪海上火災]]、[[能勢電鉄]]などの重役となる。先代の家督を継ぎ、広岡久右衛門を襲名。 |
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*長女・文 - [[鹿子木小五郎]]の甥・鹿子木文雄の妻。 |
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== 著作 == |
== 著作 == |
2021年9月26日 (日) 02:52時点における版
三沢 糾 | |
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誕生 |
1878年10月12日 日本 兵庫県八部郡神戸町(現・神戸市) |
死没 |
1942年5月25日(63歳没) 満洲国 関東州旅順市外田家屯(現・ 中華人民共和国 遼寧省大連市旅順口区) |
職業 | 教育者 |
国籍 | 日本 |
教育 | 哲学博士(クラーク大学・1907年) |
最終学歴 | クラーク大学 |
代表作 | 『国民性と教育方針』(1910年) |
配偶者 | 田鶴 |
子供 | 達朗(長男)、文(長女・鹿子木久雄妻) |
親族 | 立身(父)、たか子(母)、武清(兄)、広岡久右衛門(弟) |
三沢 糾(みさわ ただす、1878年(明治11年)10月12日 - 1942年(昭和17年)5月25日)は日本の教育者。広島高等師範学校教授を経て、和歌山県立海草中学校(現・向陽中学・高校)校長、大阪府立高津中学校(現・高津高校)初代校長、大阪府立第十二中学校(現・生野高校)校長事務取扱、台北高等学校校長、(旧制)成城高等学校校長、ハルピン学院院長と多くの学校のトップを務めた。
人物と来歴
宮崎県児湯郡上江村の篤農家・三沢立身の二男として生まれ、第五高等学校 (旧制)法文科を経て東京帝国大学哲学科に学ぶ[1]。 1906(明治40)年、クラーク大学[要曖昧さ回避]心理学科を卒業し、博士号を取得。博士論文『現代の教育者たちとその理念』は後に出版された。
水産講習所のドイツ語講師などを経て、1912(明治45)年、広島高等師範学校教授に就任。広島高師附属中学校主事を務めた後、1915年、和歌山県立海草中学校(現・向陽高校)校長となった。
1918年、新たに設立された大阪府立第十一中学校(後に高津中学校に改称)の初代校長に就任。1923年、校長訓辞で「自由と創造」に言及。1924年に大阪府立中学として初めて女性教師3人を採用するなど、大正デモクラシーの気風の中で自由な校風を確立した。そのため、創立わずか数年で全国的に有名校化。多くの見学者が訪れ、「東の伊藤(東京府立第五中学校)、西の三沢」と称され、自由主義教育の象徴とされた。後にNHK連続テレビ小説「はっさい先生」に登場する上本町中学校長のモデルとなった。
1925年、台北高等学校2代目校長として台湾に赴任。生活指導を担当する「生徒監」を廃止し、学校紛争を防止。「自由の鐘」を米国の農場から移設した。
1929年、京都帝国大学学生科長に就任。1931年、成城学園に転じ、教育顧問を経て(旧制)成城高等学校校長になったが、学園紛争のため3か月で辞任した。その後、神戸女学院の院長に誘われたが、受けなかった。
1935年、旧満州にわたりハルピン学院院長を務めたが、関東軍との折衝に限界を感じ、1938年退任。1939年から長男夫婦とリンゴ園を経営しながら執筆活動に入った。
1942年、脳溢血のため64歳で死去。遺骨は菩提寺の芳心寺(鳥取県鳥取市)に葬られた。
家族
- 父・三沢立身(1848年生) - 鳥取藩士の子として生まれたが、父を早くに亡くし、34歳で気候温暖な宮崎県児湯郡上江村へ移住して牧畜農業に従事。宮崎県の畜肉業や柑橘栽培など農事改革に貢献した。[2]
- 兄・三沢武清 - 日興貿易役員[2]
- 弟・広岡久右衛門 (10代目) - 父の六男・案山子として生まれ、加島屋 (豪商)の久右衛門家(広岡姓)の入り婿となり、正直と改名。同志社大学経済科卒業後三井銀行勤務を経てハーバード大学留学、現地の銀行・保険会社で実務を経験後帰国し、広岡家の家業である大同生命、大阪海上火災、能勢電鉄などの重役となる。先代の家督を継ぎ、広岡久右衛門を襲名。
- 長女・文 - 鹿子木小五郎の甥・鹿子木文雄の妻。
著作
- 著書
- Modern Educators and Their Ideals. D. Appleton & Co., 1909.
- 『国民性と教育方針』 冨山房、1910年7月
- 『時代と教育』 警醒社書店、1910年11月
- 『教師の覚醒と其修養』 啓成社、1911年2月 / ゆまに書房〈明治・大正教師論文献集成〉、1990年9月、ISBN 4896683080
関連文献
- 『蕉蕾集 三沢先生二十五年忌記念号』 台北高校同窓会、1966年5月
- 上沼八郎著 『実録はっさい先生 : 知られざる教師たちの物語』 協同出版、1988年1月、ISBN 4319200160
公職 | ||
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先代 台湾総督府高等学校長事務取扱 吉川貞次郎 |
台湾総督府台北高等学校長 1927年 - 1929年 台湾総督府高等学校長 1925年 - 1927年 |
次代 下村虎六郎 |
先代 (新設) |
大阪府立高津中学校長 1919年 - 1925年 大阪府立第十一中学校長 1918年 - 1919年 |
次代 羽生隆 |
先代 (新設) |
大阪府立第十二中学校長事務取扱 1920年 |
次代 校長 池田多助 |
先代 (新設) |
和歌山県立海草中学校長 1915年 - 1918年 |
次代 妹尾盛親 |
先代 長谷川乙彦 |
広島高等師範学校附属中学校主事 1914年 - 1915年 |
次代 塚原政次 |
その他の役職 | ||
先代 高田富蔵 |
哈爾浜学院長 1935年 - 1938年 |
次代 三毛一夫 |
先代 小原國芳 |
成城高等女学校長 1933年 |
次代 児玉秀雄 |
- ^ 台北高等学校 歴代校長国立台湾師範大学
- ^ a b 宮崎県三沢立身君『全国篤農家列伝』愛知県農会、明43.4