「庄地区」の版間の差分

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==== 旧・国道2号路線 ====
==== 旧・国道2号路線 ====
===== 庄地区初の路線 =====
===== 庄地区初の路線 =====
[[File:中国JRバス0409.jpg|thumb|200px|国鉄バス時代のカラーリング。([[島根県]]登録の再現車両)<br />岡山市の撫川地区の営業所へ移転後、[[1970年代]]からは同じ面構えと配色の[[三菱ふそう]]製のバスが大量に配備されていた。<br />([[2004年]][[9月]]撮影)]]
[[ファイル:中国JRバス0409.jpg|thumb|200px|国鉄バス時代のカラーリング。([[島根県]]登録の再現車両)<br />岡山市の撫川地区の営業所へ移転後、[[1970年代]]からは同じ面構えと配色の[[三菱ふそうトラック・バス|三菱ふそう]]製のバスが大量に配備されていた。<br />([[2004年]][[9月]]撮影)]]
庄地区の南部を東西に横断して古くから岡山市と倉敷市間の交通の要となって来た旧・[[国道2号]](現、[[岡山県道162号岡山倉敷線]])が通っている関係で、旧・[[国鉄バス]]が岡山県内二番目の路線として、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[3月28日]]に[[岡山駅]] ⇔ [[倉敷駅]]間の19km区間で開業(通称、[[両備線]])<ref>水谷昌義「国鉄自動車路線網の盛衰(1)」、東京経済大学会誌No.230(平成14年7月発行)、pp.139-162より。</ref>した。その後、それまでの倉敷駅止まりであった路線をさらに、[[矢掛町]]路線・[[金光町]]路線などへと急速に拡大していった。また、[[1952年]](昭和27年)1月からは、地元大手の民間会社である[[両備バス]]との運輸協定により、両備バスが岡山~倉敷間の路線に乗り入れ、一日数便程度ながらも国鉄バスと共同のバス停を使うなど、通勤・通学の便利性は次第に向上していった。
庄地区の南部を東西に横断して古くから岡山市と倉敷市間の交通の要となって来た旧・[[国道2号]](現、[[岡山県道162号岡山倉敷線]])が通っている関係で、旧・[[国鉄バス]]が岡山県内二番目の路線として、[[1937年]]([[昭和]]12年)[[3月28日]]に[[岡山駅]] ⇔ [[倉敷駅]]間の19km区間で開業(通称、[[両備線]])<ref>水谷昌義「国鉄自動車路線網の盛衰(1)」、東京経済大学会誌No.230(平成14年7月発行)、pp.139-162より。</ref>した。その後、それまでの倉敷駅止まりであった路線を、[[矢掛町]]路線・[[金光町]]路線などへと急速に拡大していった。また、[[1952年]](昭和27年)1月からは、地元大手の民間会社である[[両備バス]]との運輸協定により、両備バスが岡山~倉敷間の路線に乗り入れ、一日数便程度ながらも国鉄バスと共同のバス停を使うなど、通勤・通学の便利性は次第に向上していった。


この国鉄バスによる一連の路線拡大や、特に岡山倉敷間の輸送需要増大により、それまでの倉敷駅近くに設けられていた拠点車庫兼、岡山県内の総括店<ref group="注">庄地区から倉敷駅方面へ続く旧・国道2号沿いの[[両備バス]]倉敷営業所東隣の地域(現在の[[ドラッグコスモス]]倉敷駅前店ほか、隣接マンション建物地内など)に開設していた。しかしその後のマイカー普及による大打撃により、古い車庫を段階的に取り壊し、余剰となった敷地の一部を切り売りしながら規模を縮小した。その後、最後の路線となっていた「岡山倉敷線」の廃止となった[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで閉鎖となる。</ref>であった施設が手狭となり、新たに'''下庄地区'''東側に隣接する[[吉備町]]地区内の、旧・国道2号沿いの[[岡山市北区]]撫川(なつかわ)地<ref group="注">「現、[[中国JRバス]]岡山支店」の敷地および、西側に隣接する「[[くすりのレデイ]]撫川店」を併せた敷地。</ref>に、大型の整備工場を含む広大な敷地に実質、岡山県内の総括的な中核機能となる'''岡山自動車営業所'''」を[[1962年]]([[昭和]]37年)[[12月29日]]<ref>「岡山県バス沿線ガイド」、岡山県バス協会(昭和63年発行)</ref>に開設した。
この国鉄バスによる一連の路線拡大や、特に岡山倉敷間の輸送需要増大により、それまでの倉敷駅近くに設けられていた拠点車庫兼、岡山県内の総括店<ref group="注">庄地区から倉敷駅方面へ続く旧・国道2号沿いの[[両備バス]]倉敷営業所東隣の地域(現在の[[ドラッグコスモス]]倉敷駅前店ほか、隣接マンション建物地内など)に開設していた。しかしその後のマイカー普及による大打撃により、古い車庫を段階的に取り壊し、余剰となった敷地の一部を切り売りしながら規模を縮小した。その後、最後の路線となっていた「岡山倉敷線」の廃止となった[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで閉鎖となる。</ref>であった施設が手狭となり、新たに下庄地区東側に隣接する[[吉備町]]地区内の、旧・国道2号沿いの岡山市[[北区 (岡山市)|北区]]撫川(なつかわ)地<ref group="注">「現、[[中国JRバス]]岡山支店」の敷地および、西側に隣接する「[[くすりのレデイ]]撫川店」を併せた敷地。</ref>に、大型の整備工場を含む広大な敷地に実質、岡山県内の総括的な中核機能となる「岡山自動車営業所」を[[1962年]]([[昭和]]37年)[[12月29日]]<ref>「岡山県バス沿線ガイド」、社団法人岡山県バス協会(昭和63年発行)</ref>に開設した。


===== 清心学園専用路線 =====
===== 清心学園専用路線 =====
[[File:Chugoku-JR-Bus 534-9901O-1.jpg|thumb|200px|清心学園専用時代のカラーリング。(通称、'''青バス'''仕様車)<br />撫川地区・岡山営業所の整備工場内の[[ピット]]に跨る風景。<br />画像を拡大すると車体正面に加工された個々の写真が見える。<ref group="続き">例えば、正面左側ヘッドライトの右側角上および、車体右側外の縦長[[バックミラー]]上部には運転手。右側ヘッドライト真上には独り又は人組みの生徒が写っている。</ref><br />また画像左端には、'''赤バス'''の一部が写っている。<br />([[2006年]][[7月1日]]撮影)]]
[[ファイル:Chugoku-JR-Bus 534-9901O-1.jpg|thumb|200px|清心学園専用時代のカラーリング。(通称、青バス仕様車)<br />撫川地区・岡山営業所の整備工場内の[[ピット]]に跨る風景。<br />画像を拡大すると車体正面に加工された個々の写真が見える。<ref group="続き">例えば、正面左側ヘッドライトの右側角上および、車体右側外の縦長[[バックミラー]]上部には運転手。右側ヘッドライト真上には独り又は2人組みの生徒が写っている。</ref><br />また画像左端には、赤バスの一部が写っている。<br />([[2006年]][[7月1日]]撮影)]]
[[1964年]]([[昭和]]39年)[[9月]]に、この旧・国道2号沿いの庄地区内で、ほぼ中間地点(現、[[セブン-イレブン]]倉敷二子店付近)に程近い[[清心女子高等学校]]が二子地区に移転してきた関係で、JR中庄駅前まで乗り入れるなど基本的には登下校時に'''清心学園'''】・【'''清心学園専用'''】・【'''清心学園'''
[[1964年]]([[昭和]]39年)[[9月]]に、この旧・国道2号沿いの庄地区内で、ほぼ中間地点(現、[[セブン-イレブン]]倉敷二子店付近)に程近い[[清心女子高等学校]]が二子地区に移転してきた関係で、JR中庄駅前まで乗り入れるなど基本的には登下校時に【清心学園】・【清心学園専用】・【清心学園
'''中庄駅'''】の[[方向幕]]表示(バス車体により何れかの文言となる)で、'''清心学園''' ⇔ '''JR中庄駅'''間の約2kmを運行する[[スクールバス]]の運行を行なってきた。この経緯として、当時は旧・国鉄が鉄道と路線バス事業を一体で運営し、しかも路線バス事業は鉄道の補完事業として緊密に繋がっていたために、中庄駅前(現在の北口側)の広場に、横長向き[[小判]]型のバス停を設置し<ref>[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1189199] 「国土地理院の空中写真」の中庄駅前ロータリーに写っている。([[1967年]](昭和42年)[[3月2日]]に撮影)</ref>、バスはぐるっと一周する事になっていた<ref group="続き">現在の大規模なロータリーが、ほとんど拡張すること無く設置できたほどの基礎的な敷地を、開設当時は人家の少ない田園地域ながらも既に有していた。また、川崎医大病院が開院するまでの旧2号の入口(現在のハローズ中庄店前の交差点)から駅前までの道路周りは、途中の集落と交わる十字路付近に数件程度の民家が点在する以外は、両側ともにほぼ一面の水田が広がっていた。</ref>このように、いわゆる[[田舎]]の小規模な駅にもかかわらず、旧庄村時代よりバスへの依存度は高かった。学園敷地内の本館前ロータリー ⇔ JR中庄駅間のいわゆる、スクールバスとして運行していた車両は、輸送距離は極端に短かいものの輸送開始以来長年に渡って、一般路線用の車両を使用していた。その後、いわば大事なお得意様サービスの一環として、[[2000年代]]に入り開始時期は不詳ながらも、庄新町路線開業に当たり[[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月22日]]付けで、初めて導入された前後の乗降口が車体の全長に近い(詳しい構造は、[[#庄新町路線]]内の注釈を参照願う)、新タイプと同じ車両二台に専用の[[ラッピング]]を施し、事実上の清心学園専属のスクールバスとして登場した。2台のバス車体全面(屋根上も含む、車体の5面<ref>[http://www.shigeharuakiyama.com/bio/2011-IMG_4888.jpg 本館真前に揃ったラッピングバス|清心学園HPより。]</ref>)に、学生同士や[[シスター]]<ref group="注">キリスト系学校のために、教員と[[シスター]]を兼ねた職員も多数在籍していたため。</ref>のほか、顔なじみの複数人の運転手などを写したいわゆる、[[スナップ写真]]を数百枚を組み合わせて、[[モノクロ写真]]のイメージで赤っぽい仕様(通称、'''赤バス''')と、青っぽい仕様(通称、'''青バス''')の二種類に印刷した「ラッピングバス」を登場させて、地元でも大きな話題となった。基本的には学園の休校日を除き、一日の中で朝夕の登下校時に併せて数回しか運行せず、しかも実際はほとんどの時間を支店の車庫内で待機していた
⇔中庄駅】の[[方向幕]]表示(バス車体により何れかの文言となる)で、清心学園⇔JR中庄駅間の約2kmを運行する[[スクールバス]]の運行を行なってきた。この経緯として、当時は旧・国鉄が鉄道と路線バス事業を一体で運営し、しかも路線バス事業は鉄道の補完事業として緊密に繋がっていたために、中庄駅前(現在の北口側)の広場に、横長向き[[小判]]型のバス停を設置し<ref>[https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1189199] 「国土地理院の空中写真」の中庄駅前ロータリーに写っている。([[1967年]](昭和42年)[[3月2日]]に撮影)</ref>、バスはぐるっと一周する事になっていた<ref group="続き">現在の大規模なロータリーが、ほとんど拡張すること無く設置できたほどの基礎的な敷地を、開設当時は人家の少ない田園地域ながらも既に有していた。また、川崎医大病院が開院するまでの旧2号の入口(現在のハローズ中庄店前の交差点)から駅前までの道路周りは、途中の集落と交わる十字路付近に数件程度の民家が点在する以外は、両側ともにほぼ一面の水田が広がっていた。</ref>。


このように、いわゆる[[田舎]]の小規模な駅にもかかわらず、旧庄村時代よりバスへの依存度は高かった。学園敷地内の本館前ロータリー⇔JR中庄駅間の、いわゆるスクールバスとして運行していた車両は、輸送距離は極端に短かいものの輸送開始以来長年に渡って一般路線用の車両を使用していた。その後、いわば大事なお得意様サービスの一環として、[[2000年代]]に入り開始時期は不詳ながらも、庄新町路線開業に当たり[[1986年]]([[昭和]]61年)[[4月22日]]付けで、初めて導入された前後の乗降口が車体の全長に近い(詳しい構造は[[#庄新町路線]]内の注釈を参照)、新タイプと同じ車両2台に専用の[[ラッピング]]を施し、事実上の清心学園専属のスクールバスとして登場した。2台のバス車体全面(屋根上も含む、車体の5面<ref>[http://www.shigeharuakiyama.com/bio/2011-IMG_4888.jpg 本館真前に揃ったラッピングバス|清心学園ホームページ]</ref>)に、学生同士や[[シスター]]<ref group="注">キリスト系学校のために、教員と[[シスター]]を兼ねた職員も多数在籍していたため。</ref>のほか、顔なじみの複数人の運転手などを写した、いわゆる[[スナップ写真]]を数百枚を組み合わせて[[モノクローム|モノクロ]]写真のイメージで赤っぽい仕様(通称、赤バス)と、青っぽい仕様(通称、青バス)の2種類に印刷した「ラッピングバス」を登場させ、地元でも大きな話題となった。基本的には学園の休校日を除き、一日の中で朝夕の登下校時に併せて数回しか運行せず、しかも実際はほとんどの時間、支店の車庫内で待機していた。
::* 岡山市撫川地区の支店車庫から、台揃って<ref group="注">ただし、学年単位あるいはクラス単位の特別登校日や学園行事によっては、事前に学校からの連絡により1のみの場合もあった。</ref>2km回送 → 学園本館前から2km営業 → 中庄駅から3.5km回送(積み残しの混雑時にはもう一度学園へ戻る)→ 支店車庫で終了。


::* 岡山市撫川地区の支店車庫から、2台揃って<ref group="注">ただし、学年単位あるいはクラス単位の特別登校日や学園行事によっては、事前に学校からの連絡により1のみの場合もあった。</ref>2km回送 → 学園本館前から2km営業 → 中庄駅から3.5km回送(積み残しの混雑時にはもう一度学園へ戻る)→ 支店車庫で終了。
という、ごく限られた日時と距離のために、走行中の姿を捉える機会は限られていた。特に、バスマニアの間では話題となった。これらの走行距離の伸びないチョイ乗り実態や、専用の大規模な整備工場と[[自動車検査登録事務所|陸事]]指定の検査場(いわゆる、[[車検]]まで自社で出来る)まで営業所内に設けているような整備環境もあり、[[2011年]](平成23年)[[9月18日]]付けの'''青バス'''が廃車<ref>[http://www.nd-seishin.ac.jp/mb/blog/detail.php?id=2&eid=4815 青バスが今日で廃車|清心学園HPより。]</ref>になるまで維持されていた。また、'''赤バス'''も数ヵ月後に廃車予定となっていた。

という、ごく限られた日時と距離のために、走行中の姿を捉える機会は限られていた。<!--特に、バスマニアの間では話題となった。-->これらの走行距離の伸びないチョイ乗り実態や、専用の大規模な整備工場と[[自動車検査登録事務所]]指定の検査場(いわゆる、[[自動車検査登録制度|車検]]まで自社で出来る)まで営業所内に設けている整備環境もあり、[[2011年]](平成23年)[[9月18日]]付けの青バスが廃車<ref>[http://www.nd-seishin.ac.jp/mb/blog/detail.php?id=2&eid=4815 青バスが今日で廃車|清心学園ホームページ]</ref>になるまで維持されていた。また、赤バスも数ヵ月後に廃車予定となっていた。


===== 庄新町路線 =====
===== 庄新町路線 =====
倉敷市との合併後、現在の'''庄新町地区'''における人口急増により、【'''庄新町'''】行きの新路線として[[1986年]](昭和61年)[[4月22日]]付けのダイヤ改正に伴い、庄新町倉敷間に5往復、庄新町岡山間に21往復という大規模なダイヤが設定された。また、この大量増発に伴い、国鉄バスは朝夕の満員時におけるダイヤの[[遅延]]対策として、乗降時間の効率化に威力を発揮する[[乗降口]]が前部位と、最後部位に大きく離れた車種<ref group="注">[[File:Chugoku-JR-Bus 538-1952OK.jpg|thumb|200px|岡山駅または、倉敷駅何れからも【'''庄新町下撫川'''】となる表示。<br />後部乗降口は、後輪の更に後ろに付いている。<br />([[2003年]][[1月3日]]岡山営業所にて撮影)]]それまでのバスは、岡山で始めて開業した倉敷市内の旧、岡山営業所時代では、[[車掌]]が同乗し乗降口が車体の中央一箇所のみの、旧式ボンネットタイプ(いわゆる、[[ボンネットバス]])から始まり、時代とともに完全[[ワンマン]]化後は乗降口が前輪より前側となる最前部位と、車体の中央部位との二箇所に分かれて設置されているタイプであった。また、その後の岡山市撫川地区へ移転後も、同様の流れで営業してきた(ただし、すでにボンネットタイプではなかった)。しかし、前側と中央側に別れたタイプは、前側乗降口からの乗車時(いわゆる「'''前乗り'''」)に、前払いとなる'''料金均一区間'''では例え満員状態でも、前側と中央側乗降口を同時に開いて乗客を効率よく裁ける。身近な事例として、[[岡電バス]]が伝統的に岡山市内中心部で「市内均一料金」として実地している。
倉敷市との合併後、現在の庄新町地区における人口急増により、【庄新町】行きの新路線として[[1986年]](昭和61年)[[4月22日]]付けのダイヤ改正に伴い、庄新町倉敷間に5往復、庄新町岡山間に21往復という大規模なダイヤが設定された。また、この大量増発に伴い、国鉄バスは朝夕の満員時におけるダイヤの[[遅延]]対策として、乗降時間の効率化に寄与する[[乗降口]]が前部位と、最後部位に大きく離れた車種<ref group="注">[[ファイル:Chugoku-JR-Bus 538-1952OK.jpg|thumb|200px|岡山駅または、倉敷駅何れからも【庄新町下撫川】となる表示。<br />後部乗降口は、後輪の更に後ろに付いている。<br />([[2003年]][[1月3日]]岡山営業所にて撮影)]]それまでのバスは、岡山で始めて開業した倉敷市内の旧、岡山営業所時代では、[[車掌]]が同乗し乗降口が車体の中央一箇所のみの、旧式ボンネットタイプ(いわゆる、[[ボンネットバス]])から始まり、時代とともに完全[[ワンマン]]化後は乗降口が前輪より前側となる最前部位と、車体の中央部位との二箇所に分かれて設置されているタイプであった。また、その後の岡山市撫川地区へ移転後も、同様の流れで営業してきた(ただし、すでにボンネットタイプではなかった)。しかし、前側と中央側に別れたタイプは、前側乗降口からの乗車時(いわゆる「前乗り」)に、前払いとなる料金均一区間では例え満員状態でも、前側と中央側乗降口を同時に開いて乗客を効率よく裁ける。身近な事例として、[[岡電バス]]が伝統的に岡山市内中心部で「市内均一料金」として実地している。これとは対照的に、岡山県内の多くの事業社が取り入れている中央側乗降口より整理券を受け取る、いわゆる後乗り不均等区間での混雑時は、後部側(特に最後部席など)の下車乗客が前方に移動する流れと、途中の中央口から乗り込んでくる流れが狭い通路でぶつかることとなる。これにより朝夕の混雑が激しい路線では、大幅な[[遅延]]の原因となりうる。</ref>を初めて数台投入して対応していた。なお、この路線は国鉄バスを引き継いだ[[中国ジェイアールバス]](通称、JRバス)に引き継がれた

これとは対照的に、岡山県内の多くの事業社が取り入れている中央側乗降口より整理券を受け取る、いわゆる'''後乗り不均等区間'''での混雑時は、後部側(特に最後部席など)の下車乗客が前方に移動する流れと、途中の中央口からどんどん乗り込んでくる流れが、狭い通路でぶつかることとなる。これにより朝夕の混雑が激しい路線では、大幅な[[遅延]]の原因となりうる。</ref>を初めて数台投入して対応していた。なお、この路線は国鉄バスを引き継いだ[[中国ジェイアールバス]](通称、JRバス)に引き継がれた。


===== 行き先による弊害 =====
===== 行き先による弊害 =====
[[File:Chugoku-JR-Bus 534-5497OK.jpg|thumb|200px|岡山駅 → [[天満屋]]経由 → 下撫川止まりとなる、下り線用の【'''下撫川'''】行き表示事例。<br />これに乗ると、終点バス停のわずか1つ先から始まる、庄地区南部のバス停には一切停まらない。<br />後部の右側([[シャッター]])建物は、一階が検査場で、二階は事務所。<br />左側に写っている大型の修理工場が、さらに続いている。<br />([[2001年]][[1月6日]]、岡山支店内で撮影)]]
[[ファイル:Chugoku-JR-Bus 534-5497OK.jpg|thumb|200px|岡山駅 → [[天満屋]]経由 → 下撫川止まりとなる、下り線用の【下撫川】行き表示事例。<br />これに乗ると、終点バス停のわずか1つ先から始まる、庄地区南部のバス停には一切停まらない。<br />後部の右側([[シャッター]])建物は、一階が検査場で、二階は事務所。<br />左側に写っている大型の修理工場が、さらに続いている。<br />([[2001年]][[1月6日]]、岡山支店内で撮影)]]
近隣地区の岡山市北区撫川地区(旧・2号沿い)の、下撫川(しもなつかわ)バス停前に、岡山県内の基幹営業所が開設した事により、庄地区内の交通の便は飛躍的に向上した。特に旧・国鉄バス時代から始まり、倉敷市内から庄地区(岡山方面)へ向かう'''上り線'''のバス便は、終点となる【'''岡山駅'''】行き便が一応の基本となっている。しかしバス運行終了便として、昼間は少数例ながらも、夜間に必然的発生するいわゆる、最終便に近づくほど庄地区内の最も岡山側寄りとなる、現在の最終バス停である『'''瀬戸大橋温泉'''』<ref group="注">開業当初から昭和末期ごろまでは、下庄地内の『'''備中庄'''』バス停(現、ファマリーマート倉敷下庄店前のバス停)、その後の温泉施設開業により、現在は岡山市との境界線手前に新らたに設置された『'''瀬戸大橋温泉'''』バス停まで約500メートル延長された。</ref>を越えて、岡山市に入って最初のバス停となる『'''下撫川(しもなつかわ)'''』の真ん前に、前記した基幹営業所が移転したために'''下撫川'''】行き便が新たに生まれ、ここで事実上の途中打ち切り状態となっていた。これに伴う、'''庄地区までの『上り線』利用者'''には特に問題はなかった。
近隣地区の岡山市北区撫川地区(旧・2号沿い)の、下撫川(しもなつかわ)バス停前に、岡山県内の基幹営業所が開設した事により、庄地区内の交通の便は飛躍的に向上した。特に旧・国鉄バス時代から始まり、倉敷市内から庄地区(岡山方面)へ向かう上り線のバス便は、終点となる【岡山駅】行き便が一応の基本となっている。しかしバス運行終了便として、昼間は少数例ながらも、夜間に必然的発生するいわゆる、最終便に近づくほど庄地区内の最も岡山側寄りとなる、現在の最終バス停である『瀬戸大橋温泉』<ref group="注">開業当初から昭和末期ごろまでは、下庄地内の『備中庄』バス停(現、ファマリーマート倉敷下庄店前のバス停)、その後の温泉施設開業により、現在は岡山市との境界線手前に新らたに設置された『瀬戸大橋温泉』バス停まで約500メートル延長された。</ref>を越えて、岡山市に入って最初のバス停となる『下撫川(しもなつかわ)』の真ん前に、前記した基幹営業所が移転したために【下撫川】行き便が新たに生まれ、ここで事実上の途中打ち切り状態となっていた。これに伴う、庄地区までの『上り線』利用者には特に問題はなかった。
::* '''倉敷駅'''(上り線岡山方面【'''下撫川'''】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → '''下撫川'''※終点。
::* 倉敷駅(上り線岡山方面【下撫川】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → 下撫川※終点。
::* '''倉敷駅'''(上り線岡山方面【'''岡山駅'''】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → 下撫川 →→→→ '''岡山駅'''※終点。
::* 倉敷駅(上り線岡山方面【岡山駅】行き)→→→→ 備中庄 → 瀬戸大橋温泉 → 下撫川 →→→→ 岡山駅※終点。


ところが、これとは反対に倉敷方面便以上に通学通勤の利用者の多かった、岡山市内からのいわゆる「帰宅便」となる'''庄地区(倉敷方面)へ向かう『下り線』'''のバス便は、【'''倉敷駅'''】行き便<ref group="注">最盛期の岡山駅発、【'''金光駅'''】行きや【'''矢掛'''】行きが夫々の終点となる。また、旧・駅舎を取り壊し、北口駅前ロータリーのバス停を含め、[[1994年]]([[平成]]6年)[[2月10日]]に全面的に生まれ変わった[[中庄駅|JR中庄駅]]前を発着して、庄地区内全てのバス停を結ぶ【'''中庄駅'''】行きの便も含む。</ref>が基本となっているものの、上り線とは正反対の現象により特に最終便近くになると、うっかりまたは不慣れで【'''下撫川'''】行きに乗ってしまうと下車予定バス停の数箇所手前で強制終了となるリスクが付きまとっていた。
ところが、これとは反対に倉敷方面便以上に通学通勤の利用者の多かった、岡山市内からのいわゆる「帰宅便」となる庄地区(倉敷方面)へ向かう『下り線』のバス便は、【倉敷駅】行き便<ref group="注">最盛期の岡山駅発、【金光駅】行きや【矢掛】行きが夫々の終点となる。また、旧・駅舎を取り壊し、北口駅前ロータリーのバス停を含め、[[1994年]]([[平成]]6年)[[2月10日]]に全面的に生まれ変わったJR[[中庄駅]]前を発着して、庄地区内全てのバス停を結ぶ【中庄駅】行きの便も含む。</ref>が基本となっているものの、上り線とは正反対の現象により特に最終便近くになると、うっかりまたは不慣れで【下撫川】行きに乗ってしまうと下車予定バス停の数箇所手前で強制終了となるリスクが付きまとっていた。
::* '''岡山駅'''(下り線倉敷方面【'''倉敷駅'''】行き・ほか、倉敷以西便)→→→→ 下撫川 → 瀬戸大橋温泉 → 備中庄 →→→→各方面の終点'''
::* 岡山駅(下り線倉敷方面【倉敷駅】行き・ほか、倉敷以西便)→→→→ 下撫川 → 瀬戸大橋温泉 → 備中庄 →→→→各方面の終点。
::* '''岡山駅'''(下り線倉敷方面【'''下撫川'''】行き)→→→→ '''下撫川''' ※終点。(以後はすべで停車しない)→ ×瀬戸大橋温泉 → ×備中庄 → ・・・・
::* 岡山駅(下り線倉敷方面【下撫川】行き)→→→→ 下撫川 ※終点。(以後はすべで停車しない)→ ×瀬戸大橋温泉 → ×備中庄 → ・・・・
なお、この場合は数十分以上も最終便の【'''倉敷駅'''】行き便を待ち続けるか、終点となる下撫川バス停に設置されている公衆電話で<ref group="注">実際は営業所建屋の真横に電話ボックスが設置されており、地元のタクシー会社の電話番号も掲示されていた。</ref>家族やタクシーを呼ぶか、最悪の場合は徒歩帰宅となる。また、同じように注意を要するルートとして、大規模住宅地向けの'''岡山駅'''発【'''庄新町下撫川'''】行き(「庄新町」経由「下撫川」の意味)も、『'''瀬戸大橋温泉'''』バス停のわずか100メートル手前の「流通センター入り口」交差点から、旧・2号沿いを離れて一直線に北上して庄新町地区内を回り、同じルートから再び旧・国道2号と合流し、岡山市内に向けて最初の『'''下撫川'''』バス停で終了となっていた。これにより、多くの利用者がいる庄地区南部を結ぶ倉敷方面行きの各バス停利用者は注意が必要となる。特に特殊構造のバスまで投入して、開設当初は21便も運行していたこれらの全ての便が【'''庄新町下撫川'''】のために、従来から主力となっている庄地区南部の利用者が混乱する影響は、多少なりとも避けられなかった。
なお、この場合は数十分以上も最終便の【倉敷駅】行き便を待ち続けるか、終点となる下撫川バス停に設置されている公衆電話で<ref group="注">実際は営業所建屋の真横に電話ボックスが設置されており、地元のタクシー会社の電話番号も掲示されていた。</ref>家族やタクシーを呼ぶか、最悪の場合は徒歩帰宅となる。また、同じように注意を要するルートとして、大規模住宅地向けの岡山駅発【庄新町下撫川】行き(「庄新町」経由「下撫川」の意味)も、『瀬戸大橋温泉』バス停のわずか100メートル手前の「流通センター入り口」交差点から、旧・2号沿いを離れて一直線に北上して庄新町地区内を回り、同じルートから再び旧・国道2号と合流し、岡山市内に向けて最初の『下撫川』バス停で終了となっていた。これにより、多くの利用者がいる庄地区南部を結ぶ倉敷方面行きの各バス停利用者は注意が必要となる。特に特殊構造のバスまで投入して、開設当初は21便も運行していたこれらの全ての便が【庄新町下撫川】のために、従来から主力となっている庄地区南部の利用者が混乱する影響は、多少なりとも避けられなかった。


===== 時代に伴う終焉 =====
===== 時代に伴う終焉 =====
[[File:JR bus chugoku tuyama daikou.jpg|thumb|200px|[[土砂崩れ]]で、一部の区間が運行できなくなったJR[[津山線]]の、JR[[金川駅]]へ岡山支店から派遣された、鉄道代行バス。<br />バス正面上の方向幕には、【'''鉄道代行'''】と表示されている。<br />([[2006年]][[11月25日]]撮影)]]
[[ファイル:JR bus chugoku tuyama daikou.jpg|thumb|200px|[[土砂崩れ]]で、一部の区間が運行できなくなったJR[[津山線]]の、JR[[金川駅]]へ岡山支店から派遣された、鉄道代行バス。<br />バス正面上の方向幕には、【鉄道代行】と表示されている。<br />([[2006年]][[11月25日]]撮影)]]
その後のマイカー普及による乗客の激減により、次第に路線は縮小され続けて[[2000年代]]に入ると、末期時には主力の「'''岡山倉敷間の路線'''」では、日中のダイヤで二時間以上の空白時間帯が生まれるなどと、ピーク時では10分間隔で運行されていた面影もなくなっていた。また、これから枝分かれしている「'''清心女子高校路線'''」は、事実上の[[スクールバス]]化で登下校時に特化したダイヤを安定して維持していたものの、「'''庄新町路線'''」も例外なくマイカーの普及により次第に減便となっていった。しかし、結局は、岡山地区からの路線バス撤退決定により、[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで清心女子高校路線の2km専用と、[[山陽本線]]の事故時に代替輸送する「'''[[バス代行|鉄道代行]]'''」に備えて数台の路線バスを残し、逆に[[夜行便]]を含む[[高速バス]]事業と貸切り事業に移行して、1937年3月より66年間も続いた路線バス事業に事実上の終止符を打ってしまった。これに伴い翌[[4月1日]]より、多くの学生が住んでいるものの、その一方で高齢化も進んでいるために撤退の影響が大きい岡山倉敷間を、[[岡電バス]]と[[下電バス]]の共同運航<ref group="注">運行本数は岡電バスが主体となっている。また、JRバスと共用していた両備バスも、同時に両備グループ系列の岡電バスに移管。</ref>に移管となった。また、庄新町ルートは【'''庄パークヒルズ'''】行きの路線名に改名後、岡電バスに引き継がれ、この対応として近くの[[RSKバラ園]]入り口駐車場内に二台のバスを停泊させて、始発便に備えていた。しかし、庄新町地区内の更なるマイカー普及の影響により、ついに[[2010年]]([[平成]]22年)[[3月31日]] に路線休止となり、事実上の廃路線となってしまい、分譲後35年以上も経過した影響で車の運転が出来ない高齢者の増えた庄新町地区では交通難民状態になっている。また、バラ園待機のバスもなくなってしまった。さらに、最後まで残っていた清心女子高校路線もついに、[[2016年]](平成28年)4月1日に両備バスに移管された。これにともない、現在では'''一般路線用のJRバス'''は、岡山県内には一台も存在していない。
その後のマイカー普及による乗客の激減により、次第に路線は縮小され続けて[[2000年代]]に入ると、末期時には主力の「岡山倉敷間の路線」では、日中のダイヤで二時間以上の空白時間帯が生まれるなどと、ピーク時では10分間隔で運行されていた面影もなくなっていた。また、これから枝分かれしている「清心女子高校路線」は、事実上の[[スクールバス]]化で登下校時に特化したダイヤを安定して維持していたものの、「庄新町路線」も例外なくマイカーの普及により次第に減便となっていった。しかし、岡山地区からの路線バス撤退決定により、[[2003年]]([[平成]]15年)[[3月31日]]限りで清心女子高校路線の2km専用と、[[山陽本線]]の事故時に代替輸送する「[[バス代行|鉄道代行]]」に備えて数台の路線バスを残し、逆に[[夜行便]]を含む[[高速バス]]事業と貸切り事業に移行して、1937年3月より66年間も続いた路線バス事業に事実上の終止符を打ってしまった。
これに伴い翌[[4月1日]]より、多くの学生が住んでいるものの、その一方で高齢化も進んでいるために撤退の影響が大きい岡山倉敷間を、[[岡電バス]]と[[下電バス]]の共同運航<ref group="注">運行本数は岡電バスが主体となっている。また、JRバスと共用していた両備バスも、同時に両備グループ系列の岡電バスに移管。</ref>に移管となった。また、庄新町ルートは【庄パークヒルズ】行きの路線名に改名後、岡電バスに引き継がれ、この対応として近くの[[RSKバラ園]]入り口駐車場内に二台のバスを停泊させて、始発便に備えていた。しかし、庄新町地区内の更なるマイカー普及の影響により、[[2010年]]([[平成]]22年)[[3月31日]] に路線休止となり、事実上の廃路線となってしまい、<!--分譲後35年以上も経過した影響で-->車の運転が出来ない高齢者の増えた庄新町地区では交通難民状態になっている。<!--また、バラ園待機のバスもなくなってしまった。-->最後まで残っていた清心女子高校路線も、[[2016年]](平成28年)4月1日に両備バスに移管された。これにい、現在では一般路線用のJRバスは、岡山県内には一台も存在していない。


==== 庄地区内専用路線 ====
==== 庄地区内専用路線 ====
前記の旧・国道2号沿い路線以外には、かつて合併時より[[倉敷市交通局|倉敷市営バス]]が新たに'''庄地区内専用路線'''となる新規路線を開設していた。この経緯は、都窪郡時代から旧・庄村地区が東側で隣接して、[[学区]]や[[行政事業]]は独立していたものの、[[吉備町]]地区と同じ電話局番や、[[吉備郵便局]]のほか[[水道事業]]<ref group="注">当時は吉備水道局として、[[簡易水道]]ではなく[[浄水池]]を備えて独立した[[水道局]]が、現在の[[RSKバラ園]]東側の足守川土手下に施設されていた。</ref>なども共用されていた。さらに生活においては、吉備町に本社を置く[[し尿]]汲み取り<ref group="注">し尿汲み取り業者は、岡山市ながらも現在でも便宜上、'''倉敷市の指定業者としての認可料金'''で、下水道のない地区で重宝されている。特に付き合いの古い住人宅では、余程の事がない限り連絡をしなくても、業者が[[生活スタイル]]をある程度は把握しているので、お任せ状態で汲み取ってくれる便利性も残っている。</ref>や、ゴミ回収業者・タクシーなどの民間会社との繋がりも深かった。そんな状況下でも特に生活への影響が大きかった、電話番号の市内外局番と'''一部の下桁の変更'''([[#放送・通信]]を参照)・水道事業の全面切り替えによる水質変化の懸念(いわゆる、水との相性)などを踏まえて、あえて倉敷市へ合併する大きな理由の一つに、地区北部の高齢化に伴う交通手段の確保を取り付けることも含まれていた。この結果、当時の倉敷市交通局による[[倉敷交通局|市バス]]運行が実現した。
前記の旧・国道2号沿い路線以外には、かつて合併時より[[倉敷市交通局|倉敷市営バス]]が新たに庄地区内専用路線となる新規路線を開設していた。この経緯は、都窪郡時代から旧・庄村地区が東側で隣接して、[[学区]]や[[行政事業]]は独立していたものの、[[吉備町]]地区と同じ電話局番や、[[吉備郵便局]]のほか[[水道事業]]<ref group="注">当時は吉備水道局として、[[簡易水道]]ではなく[[浄水池]]を備えて独立した[[水道局]]が、現在の[[RSKバラ園]]東側の足守川土手下に施設されていた。</ref>なども共用されていた。さらに生活においては、吉備町に本社を置く[[し尿]]汲み取り<ref group="注">し尿汲み取り業者は、岡山市ながらも現在でも便宜上、倉敷市の指定業者としての認可料金で、下水道のない地区で重宝されている。<!--特に付き合いの古い住人宅では、余程の事がない限り連絡をしなくても、業者が[[生活スタイル]]をある程度は把握しているので、お任せ状態で汲み取ってくれる便利性も残っている。--></ref>や、ゴミ回収業者・タクシーなどの民間会社との繋がりも深かった。そんな状況下でも特に生活への影響が大きかった、電話番号の市内外局番と一部の下4桁の変更([[#放送・通信]]を参照)・水道事業の全面切り替えによる水質変化の懸念(いわゆる、水との相性)などを踏まえて、あえて倉敷市へ合併する大きな理由の一つに、地区北部の高齢化に伴う交通手段の確保を取り付けることも含まれていた。この結果、当時の倉敷市交通局による[[倉敷交通局|市バス]]運行が実現した。

ルートは、庄地区の最南端部(栗坂地区)内の、中庄駅に比較的近い西端集落となる「西栗坂バス停」から出発して、山陽本線の南側と山裾に沿って東西に栗坂地内を走る細い道(一部では普通車同士のすれ違いが厳しい)を使い、約800メートル先の東端集落となる「東栗坂バス停」角の[[字路]]交差点で、北方向へほぼ一直線で約4knほど結び<ref group="注">この直線区間は[[岡山県道389号吉備津松島線]]や、旧・[[岡山県道73号箕島高松線]]の各県道の一部区間になっている。</ref>、この間に山陽本線を横断旧・国道2号を横断(備中庄バス停)→庄地区の中核となる上東地区の庄支所(庄支所前バス停)・小学校・庄農協脇を通り、[[山陽新幹線]]の高架をくぐり、最北端部(矢部地区)の矢部公民館(「矢部バス停」)までの区間(合計約4.8km)で、【栗坂⇔矢部】線として合併直後から市バス部門の廃止となる[[1989年]]([[平成]]元年)3月31日まで開設されていた。また、区間内には記載していないバス停も複数個所存在していた。


便数は、1日十数往〜1往復<ref group="注">開設当初はあまりマイカーも普及していなかったほか、後のコンビニ戦争状態や医療飽和(特に歯科医院)となるような劇的な商業環境の変化もなく、南部の上東地区に集中する役場・農協・公民館・幼稚園(当時は、小中学生の利用は禁止されていた)などへ出向くほか、備中庄交差点で国鉄バスに乗り換えての通勤・通学や吉備町地区の地元スーパーへの買出し、さらには合併2年半後に開院した[[川崎医科大学附属病院]]への通院者などが多数利用していた。このために便数も多く、また当初から大型バスで運行していた。しかし、その後の世間情勢が大きく変わるとともに利用者数も年を追う毎に激減し、本数も末期には朝・昼・夕数本までに削減されていった。また、交通量が劇的に増え道路事情も悪くなり、バス車体はその後に中型バス、さらにはほぼ空車状態が続いていた為に、市営バス末期には十数人乗りの[[マイクロバス]]に切り替わっていた。</ref>の定期路線として復運行していた。
ルートは、庄地区の最南端部('''栗坂地区''')内の、中庄駅に比較的近い西端集落となる「'''西栗坂バス停'''」から出発して、山陽本線の南側と山裾に沿って東西に栗坂地内を走る細い道(一部では普通車同士のすれ違いが厳しい)を使い、約800メートル先の東端集落となる「'''東栗坂バス停'''」角の[[T字路]]交差点で、北方向へほぼ一直線で約4knほど結び<ref group="注">この直線区間は[[岡山県道389号岡山倉敷線]]や、旧・[[岡山県道73号箕島高松線]]の各県道の一部区間になっている。</ref>、この間に山陽本線を横断→→旧・国道2号を横断(「'''備中庄バス停'''」)→→庄地区の中核となる上東地区の庄支所(「'''庄支所前バス停'''」)・小学校・庄農協脇を通り、[[山陽新幹線]]の高架をくぐり、最北端部('''矢部地区''')の矢部公民館(「'''矢部バス停'''」)までの区間(合計約4.8km)で、【'''栗坂⇔矢部'''】線として合併直後から市バス部門の廃止となる[[1989年]]([[平成]]元年/[[昭和]]64年)3月31日まで開設されていた。また、区間内には'''記載していないバス停'''複数個所存在していた。


便数は、1日十数往 ~ 1往復<ref group="注">開設当初はあまりマイカーも普及していなかったほか、後のコンビニ戦争状態や医療飽和(特に歯科医院)となるような劇的な商業環境の変化もなく、南部の上東地区に集中する役場・農協・公民館・幼稚園(当時は、小中学生の利用は禁止されていた)などへ出向くほか、備中庄交差点で国鉄バスに乗り換えての通勤・通学や、吉備町地区の地元スーパーへの買出し、さらには合併二年半後に開院した[[川崎医科大学附属病院]]への通院者などが多数利用していた。このために便数も多く、また当初から大型バスで運行していた。しかしその後の世間情勢が大きく変わるとともに、利用者数も年を追う毎に激減して本数も末期には朝・昼・夕数本までに削減されていった。また、交通量が劇的に増え、道路事情も悪くなりバス車体はその後に中型バス、さらにはほぼ空車状態が続いていた為に、市営バス末期には終に十数人乗りの[[マイクロバス]]に切り替わっていた。</ref>の定期路線として復運行していた。その後は、路線を引き継いだ下電バスが中型バス<ref group="注">下電バスはマイクロを持っていなかったために、やむを得ず中型バスで運行していた。特に'''栗坂地区'''内を東西に横断する「東栗坂バス停」「西栗坂バス停」間は一部で道が細くなり、道一本で途中での迂回路が全くないために、運転手の苦労は耐えなかった。</ref>で運行していたがほとんどの便が空車状態での運行だったために、[[2002年]]([[平成]]14年)3月31日付けで廃止された。これにより、合併時の[[1971年]](昭和46年)から31年間もの長きに渡って、細々と継続されていた路線はある意味、人知れず自然的に終わりを告げる事となった。
その後は、路線を引き継いだ下電バスが中型バス<ref group="注">下電バスはマイクロを持っていなかったために、やむを得ず中型バスで運行していた。特に栗坂地区内を東西に横断する「東栗坂バス停」「西栗坂バス停」間は一部で道が細くなり、道一本で途中での迂回路が全くない<!--ために、運転手の苦労は耐えなかった-->。</ref>で運行していたがほとんどの便が空車状態での運行だったために、[[2002年]]([[平成]]14年)3月31日付けで廃止された。<!--これにより、合併時の[[1971年]](昭和46年)から31年間もの長きに渡って、細々と継続されていた路線はある意味、人知れず自然的に終わりを告げる事となった。-->


なお、あくまで参考事項として、個人開設ながら外部サイトには、廃止間際当時の時刻表写真によると昼前後の時間帯にたった一往復(平日のみ)の記載がある。詳しくは[[#外部リンク]]を参照願う
なお、あくまで参考事項として、個人開設ながら外部サイトには、廃止間際当時の時刻表写真によると昼前後の時間帯にたった一往復(平日のみ)の記載がある。詳しくは[[#外部リンク]]を参照。


=== タクシー ===
=== タクシー ===

2021年8月27日 (金) 13:00時点における版

庄地区
しょう
日章旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 岡山県
自治体 倉敷市
旧自治体 都窪郡庄村
面積
13.80km²
世帯数
6,406世帯
総人口
15,295
登録人口、2015年9月30日現在)
人口密度
1,108.33人/km²
隣接地区 市内:倉敷地域菅生中庄
市外:
総社市山手
岡山市北区高松吉備
都窪郡早島町
倉敷市役所庄支所
倉敷市役所庄支所
北緯34度38分38.24秒 東経133度49分39.03秒 / 北緯34.6439556度 東経133.8275083度 / 34.6439556; 133.8275083座標: 北緯34度38分38.24秒 東経133度49分39.03秒 / 北緯34.6439556度 東経133.8275083度 / 34.6439556; 133.8275083
所在地 〒701-0111
岡山県倉敷市上東756番地
リンク 庄支所公式ページ
庄地区の位置
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庄地区(しょう ちく)は、岡山県倉敷市内の地域区分であり、東西に約3km、南北に約5kmのほぼ長方形状に広がる平野である。同市東北部に位置し、庄地区の東側全域は南北に渡り岡山市(旧、吉備町地区)に隣接しており、市境線を挟み岡山市との最前線的な立ち居地となっている。最北部は東西全域に渡り、岡山市(旧、岡山市地区)と総社市(旧、山手村地区)との境界線と隣接し、最南域は一部を除き東西に渡り別行政区となる都窪郡早島町との境界線と隣接しており、いわゆるコの字状態で多くの別市町村と三方向に隣接しており、非常に珍しい地区となっている。

倉敷市の行政的には庄支所が管轄する地域をさす[1]。かつての都窪郡(つくぼぐん)・(都宇郡)庄村(しょうそん)にあたる。

上東(じょうとう)・下庄(しもしょう)・松島(まつしま)・二子(ふたご)・山地(やまぢ)・西尾(にしお)・日畑(ひばた)・矢部(やべ)・庄新町(しょうしんまち)・栗坂(くりさか)の各大字からなる。

なお、本項では旧庄村ついても述べる。

概要

当地域は、かつて都窪郡(都窪郡発足以前は都宇郡)庄村であったが、1971年倉敷市編入合併した。現在の倉敷市松島・二子・下庄・上東・栗坂・山地・矢部・西尾・日畑・庄新町の各大字が該当地域である。

庄地区を南北の四分の一程度に区切った南部位置には、下庄・松島・二子の三地区を、連続して東西に渡って約3.5Kmほど貫く形で、岡山県道162号岡山倉敷線(旧国道2号)が通っている。この県道沿いには飲食店・大型量販店ガソリンスタンドなどを主とした、各種のロードサイド店舗が数多く立地している。しかし、特に飲食店舗は飽和状態になっているため、近年は下庄地区にまだ多く残る県道沿いの田地を埋め立てての新規出店はおろか、全体的に既存店の廃業による入れ替わりも目立ってきている。また、この県道とほぼ平行して、1.5km北側の上東、山地、二子の三地区を東西に連続して貫く形で山陽新幹線、同じく県道と平行して、1km南側の下庄地区と栗坂地区の境界線上及び、下庄地区の西側に続く松島地区と栗坂地区の境界線上を東西に連続して貫く形で、在来線の山陽本線および、伯備線[注 1]がそれぞれ敷設されている。この山陽本線の最寄り駅として、東側には岡山市管内となる庭瀬駅(にわせ)、西側には倉敷市管内となる中庄駅(なかしょう)があり、通勤通学の便は非常に高く、これらの交通網の発展も人口増加の大きな要因である。

さらに地区内で直接出入りできる施設はないが、庄地区の最北西部の山地・日畑・二子の三地区の連なる片隅をかすめる様に、山陽自動車道も通っている。

発展と共に

地勢

当地域は北部と南部に丘陵地を控え、中部に広い平野が広がる。平野部は古くは海域であり、現在の海抜は約1.8メートルほどである。平野部の中央西寄りには松島という小さな山塊があり、前述の海域時代はその名の通り島であった。現在は川崎医療短大全域及び、川崎医大付属病院の一部が丘上に立地している[2]

北部丘陵は福山丘陵西部にあたり、日差山・仕手倉山・高鳥居山などがあり、標高224メートルの仕手倉山が最高峰である[2]。また。南部の丘陵地は早島山塊の一部で、海域時代は島嶼であり、早島あるいは隼島、もしくは鳥羽島などと呼ばれた[2]

当地の東側を足守川が南北に流れ、天井川となっている。また、天井川からの分流水路で、倉敷川水系の二級河川となる六間川が、当地の南部を東西に横断する山陽本線沿いにほぼ沿って[注 2]市内へと流れている[2]。さらに、この主水路から庄地区全体には網の目のように水路が広がり、今でこそ治水管理と利用ルールが確立しているものの旧、庄村末期頃までは配水や水利権をめぐり、各地区間での問題が絶えなかった。

水路維持と改修

庄地区の地理的には、下流域となる六間川水路の根元を握る下庄地区内の水路は、同じく西側へ続く六間川を地区の境界線として、川沿いに広がる栗坂地区および松島地区以外の実質的な上流域となる、多くの地区への重要な給水地区となっている。この通常の上下流域の定義とは正反対となる、特殊な給水管理の要として、現在でも下庄地区内の至る所に設置された多数の水門の開閉調節一つで、数センチ単位の細かな水位調整が出来るので、特に上東地区および、二子地区ではその影響は無視できないものとなっている。しかしその反面、水路に面した一部の宅地脇も含めて、旧庄村時代から倉敷市へ合併後も、現在でこそ数は減ったものの、公費で現物支給[注 3]されている昔ながらの木くいと、薄板を組み合わせた粗末な護岸[注 4]が圧倒的に多く、長年に渡って住民を悩ませ続けていた。

しかし、これとは対照的にいわゆる、川崎学園関連施設による川崎城下町色の強い松島地区や、庄地区の中心地区で、昔から人口数も圧倒的に多く、またほとんどの公的機関が集中している上東地区では、すでに、旧庄村末期ごろからコンクリート製の護岸が広範囲で手厚く施工されていた。その後、下庄地区住民の長年に渡る用水路改修の嘆願と、現伊藤市長の初当選後の地域視察により、2010年以降に入ってからは、秋~翌年春までのいわゆる稲作閑散期を利用して毎年に渡り、庄地区全体での用水路工事の大半が集中して施工[注 5]され続け、多い年では複数個所での同時施工もされている。この甲斐もあり、数年前からは劇的に下庄地区内の水路環境が改善され、特に高齢者宅での恩恵[注 6]は計り知れない成果がみられている。

特産品の全滅

このような部分的な水利問題を抱えつつも、全体的には穏やかで広大な平野に囲まれいていたために元々、旧庄村時代から稲作イグサの一代産地であった。しかし、これらに長年従事していた多くの農家では、深刻な後継者不足により稲作以外はほとんど衰退してしまった。特に夏の風物詩として、昭和の末期ごろまで圧倒的な生産量を誇っていたイグサは、庄地区全域は無論、近隣地区全域を含めて住宅環境の変化や安い外国製の大量流通のほか、ビニール製品による代替品の普及などによる時代の流れの影響で、ほぼ全滅してしまった。特に庄地区では、多くの生産農家が母屋続き、または別棟などの作業小屋内に自前で自動織機の設備まで保有し、畳表という製品に仕上げ、これを共同で保管するための組合施設を下庄地区内に「イグサの共同集荷場[注 7]なる平屋建物も有する程の規模を誇っていたが、現在は上東地区に輸入品および他地区産のイグサ製品を扱う会社はあるものの、庄地区内でのイグサ栽培は全くなくなってしまった。

衰退した果物

そのほか、特に山地・西尾・矢部の各地区では、小高く緩い傾斜地の南向きに広がる日当たりの良い山裾を利用して、岡山県特産のマスカットイチゴ温室栽培が盛んな地でもあった。かつてピーク時には上東地区の旧、庄農協(現、晴れの国岡山農業協同組合庄支店)内の簡易選果場で取り纏められ、出荷されていた。しかし、ほとんど衰退してしまった現在では、一部の山裾沿いに残る、ビニール製ではなく年代を感じさせる、全面ガラス板製の温室設備が放置されている姿が散見される。

寂れる農業

さらに、多くの水田では今も大規模な稲作は残るものの、ピーク時の平成時代の初頭に比べると他の農業同様に、後継者不足と長年続く米の買い上げ値段の低迷などが重なり、年を追う毎に離農や水田の放棄地も目立ってきて、問題になっている。この影響により、現在の農協は数度の合併を繰り返し、併せて大規模な職員の削減も実施してきた。この縮小の影響で現在では、松島地区および、矢部地区の店舗機能は大幅に縮小され、本店でも店舗以外に多少の倉庫は残るものの、例えば小型の刈払い機(いわゆる、草刈機)の簡単な微調整すら出来ず、全て日畑地区の東側端(岡山市に近い)に残る庄地区内ではただ一軒となった、農機具店[注 8]または、車で南西方向に20~30分ほど掛かる、茶町地区に集約されたJA農機具センターの何れかに、持ち込む様な状況となっている。このような状況下に残る、既存の多くの農家では兼業農家で細々と管理または、小数ながらも地域に根付いている大規模な専業農家や、近年の離農影響を危惧した岡山県の斡旋により、晴れの国岡山農業協同組合が設立した、稲作請負企業に対して、水田の持ち主が委託耕作料を支払う[注 9]という、いわゆる逆ザヤ状態で管理費を支払い、代々続く水田をかろうじて維持している現実がある。

増える人口問題

※「#人口・世帯数」も参照。

現在の様な大規模な人口密集地域に至った経緯としては、昭和40年代末期からのマイホームブームに乗る形で、矢部地区、西尾地区、日畑地区の三地区にわたり跨っている小高い丘陵地が大規模に開発・造成され、『庄パークヒルズ』 [3] [4] [5]という団地名で売り出され、当時の「国土地理院の空中写真」からはおおよそ1974年より、入居が始まっていることが伺える。この分譲地には、わずか十年ほどの間[6]におおよそ一千戸近くに及ぶ建売住宅が完成し、最初の人口増加の原因となった。この三地区に跨ったニュータウンの新しい地区名称は、矢部地区、西尾地区、日畑地区の元々被っていた区画だけ総括して、後に10番目の地区名となる庄新町として現在に至っている。また、この造成の過程で、後に高名となる楯築遺跡(たてつきいせき)が発掘され現在も原状保存されている。

この影響で、学童数も庄パークヒルズが分譲される直前までは、小〜中学校までの一学年毎の教室が2教室(極稀な年度でも3教室)体制を維持していたが、約10年間でピーク時には6教室へと3倍近くに増え、これをきっかけに地元の庄幼稚園・庄小学校・庄中学校が増築され、倉敷市立庄保育園も新設された。特に小学校では急増する児童数に追いつけず、正確な年月日は不明ながらも少なくとも1975年(昭和50年)3月以降[7]に、元々のグラウンドで一時的にプレハブの校舎[8] [9]を建てて対応し、これにより現在の中央の校舎と、南側の校舎が新たに生まれた。また、新校舎2棟増築の用地確保のために、潰してしまうグラウンドの新たな建設用地として、小学校・中学校どちらも学校敷地南側にあった農地を買収し、一斉に代替グラウンドを建設した。さらに、それまで長年使用して来た中学校のプールでの共用をやめて、新たに専用プールを代替グラウンドの、南東角地[注 10]に新設した。

その後長らく安定していた児童数は、2000年代に入ってからは少子化の影響で、次第に空き教室も目立って来ていた。しかし、近年では庄地区の中心的区域でもあり、また最新の人口および建屋個数(#人口・世帯数の項を参照)でも二位の庄新町地区の二倍以上と、飛び抜けている上東地区では、広大な田地が長年に渡って維持され続けて来た市街化区域ながらも、一部の区域内では農業保護の観点から2020年以降頃に調整区域に移行した場合に、田地を宅地に転用する事が難しくなる等の、期限が迫っている現状となっている。この為に、2019年頃から急激に大規模な単身者向けの二階建て[注 11]低層コーポなどの集合賃貸物件のほか、数棟~十数棟単位程度の建売住宅地も乱立し始めて、学童数も回復傾向にある。その結果、これらの偏った人口増加の弊害として数ヶ月に一箇所の割合で新築の建物が出現する現状下では、各種の既存ナビ情報の個別番地更新が追いつかず、未登録エラーが多発している。また、2019年末からのコロナ渦における巣篭もり需要の急増も重なり、時節柄で時間帯指定の多い宅配便各社では、配達業務に苦心しているという、新たな弊害も生まれている。さらに、日の暮れる時間が早まる時期では、道を尋ねるにも日没後の人出が極端に少なくなり、また地理的な位置感覚や建物の外観なども把握しにくくなるために、その弊害は各社の「夜間配達時間帯指定」において、特に深刻さを増してきている。

人口・世帯数

予備知識

  • 庄地区の人口数は、#地区別比較俵の冒頭に記した年月日現在で、倉敷市民としての住民登録(つまり、住民票が取得できる市民)を済ませている、住民数を記載している。
  • また、比較表内の『世帯数』とは、複数人同居の家庭または、独り住まい家庭などの住居人数状態を問わず、住民登録を済ませている世帯主人数=世帯数として集計しているので、入居・空室を問わず、実際に建っている建物の戸数ではない。
    なお、賃貸などでよくみられる独り住まいは、住民登録を済ませている独り世帯主=世帯数となる。この住民基本台帳法下での世帯主の定義を厚生労働省も是認しており、保険局長通知で都道府県知事に通知している[10]
* 【例1】 1棟建てのアパート内には、総数5部屋に独立した部屋があり、現在3室に住民登録を済ませている独り世帯主が3人住んでいる。
この場合の世帯数とは、アパート全体の1棟または、総数5部屋などの数字ではなく、あくまても住民登録を済ませている独り世帯主の3人が、統計数に加わる事となる。
* 【例2】 1棟建てのアパート内には、総数5部屋に独立した部屋があり、現在4室に4人が独り暮らしで入居している。その内、住民登録を済ませている独り世帯主は、2人だけである。
この場合の世帯数とは、入居している4室ではなく、あくまても住民登録を済ませている独り世帯主の2人が、統計数に加わる事となる。

地区別比較俵

2012年平成24年)9月末現在および、2021年令和3年)6月末現在の、住民基本台帳人口より[11]

地区の人口・世帯数
町字 年代 世帯数 (戸) 男性人口 (人) 女性人口 (人) 総人口 (人) 備 考(九年間の世帯数・総人口別に表記)
上東  2012年
(2021年)
 1,741
(2,250)
 2,316
(2,714)
 2,349
(2,774)
 4,665
(5,488)
世帯数= +509戸 / 総人口= +823人
下庄  2012年
(2021年)
 579
(704)
 741
(886)
 739
(888)
 1,480
(1,774)
世帯数= +125戸 / 総人口= +294人
栗坂  2012年
(2021年)
 336
(370)
 420
(413)
 455
(432)
 875
(845)
世帯数= +34戸 / 総人口= -30人
松島  2012年
(2021年)
 868
(893)
 694
(660)
 793
(785)
 1,487
(1,445)
世帯数= +25戸 / 総人口= -42人
※かつては「川崎城下町」の恩恵を一番受けて、単身用を主体とした新築の賃貸物件が次々と登場し、飲食店も充実していたがこの九年間の流れでは、その勢いはほぼ止まっているように見受けられる。
二子  2012年
(2021年)
 530
(513)
 504
(442)
 619
(543)
 1,123
(985)
世帯数= -17戸 / 総人口= -138人
山地  2012年
(2021年)
 575
(613)
 742
(708)
 782
(743)
 1,524
(1,451)
世帯数= +38戸 / 総人口= -73人
西尾  2012年
(2021年)
 164
(183)
 203
(176)
 205
(202)
 408
(378)
世帯数= +19戸 / 総人口= -30人
日畑  2012年
(2021年)
 219
(235)
 300
(283)
 313
(308)
 613
(591)
世帯数= +16戸 / 総人口= -22人
矢部  2012年
(2021年)
 177
(184)
 213
(188)
 244
(212)
 457
(400)
世帯数= +7戸 / 総人口= -57人
庄新町  2012年
(2021年)
 959
(994)
 1,143
(1,017)
 1,265
(1,143)
 2,408
(2,160)
世帯数= +35戸 / 総人口= -248人
かつては、庄地区の世帯数・総人口増加の一因であった。しかし、この地域内にはマンション処ろか、小規模なアパート類すら見かけない事から、大きな人口減と僅かな世帯数増加の現状から一般的な数人家族が減少し、独居世帯が増えている事が伺える。
合計  2012年
(2021年)
 6,148
(6,939)
 7,276
(7,487)
 7,764
(8,030)
 15,040
(15,517)
世帯数= +791戸 / 総人口= +477人

歴史・沿革

歴史

当地域は古代には備中国都宇郡に属し、当地北側丘陵一帯は深井郷の一部で、南部の栗坂がある南部丘陵(早島丘陵)は撫川郷(なつかわごう)の一部であったといわれている。総社市湛井付近で東西分岐した高梁川の東派川が当地域東側で海にいたり、当地は河口部の海浜地域だったとされている。栗坂のある南部丘陵地はその沖合の島嶼であったとされる。当地内の上東から港に関連する遺跡が出土しており、都宇郡は「津」に由来する名称であることから、当地が海浜地域であったことが伺える。備中国の国府津が当地にあったとの説もある。

1975年昭和50年)3月10日に、旧・庄村の中央部(ほぼ上東地区)を東西に横切る山陽新幹線岡山駅 - 博多駅間開業に伴い、数年前から大規模な高架式の建設が始まった。これに伴い、一部の古代住居跡と大量の土器が発掘され、これを『上東遺跡』[注 12]と名付けられた。上東遺跡からは、弥生時代弥生式土器なども出土しており、かなり古い時代からとして栄えていたとされる。また、当地北部の丘陵地には王墓山古墳をはじめとする大小の古墳が多数発見されており、『正倉院文書』には「深井郷岡田里」がみえ、奈良時代にはこの地に津臣が居住していたことも記されており、古くから重要拠点であったとわかる[2]

その後、福山丘陵南東麓の沿岸地帯と早島の間の海峡部一帯に万寿庄と呼ばれる荘園が発達し、同荘園は万寿西庄・同中庄・同東庄に別れ、当地は東庄にあたると推定されている。京都新熊野神社の養和元年の文書によると、万寿の三庄はこれより先、後白河法皇が新熊野神社に社領として寄進、室町時代まで同社領として続いた。中世に活躍した備中青江刀匠の中には万寿東庄を拠点にしたものもおり、助次なる名刀も存在した[2]

島嶼であった早島丘陵との間は、早くて平安期、遅くとも戦国時代には干拓され、陸続きとなったと推測されている。しかし、沼沢地が多かったと推定され、宇喜多秀家が家臣の岡利勝に命じた大干拓が行われるまでは耕作可能地は限られた[2]

江戸時代には、東庄村・上庄村西組・上庄村東組・下庄村北組・下庄村南組・松島村・山地村・二子村・矢部村・西尾村・日畑村西組[注 13]・栗坂村の各村が独立村として存在している。時期によって領地支配は異なり、幕末期においては、下庄村北組・同南組・上庄村東組・山地村・西尾村・日畑村西組、栗坂村は幕府領倉敷支配所、東庄村と上庄村西組は倉敷支配所と早島知行所との相給地、松島村は生坂藩、二子村は帯江知行所、矢部村は庭瀬藩の各支配となっていた[2]

明治になり、上庄村西組と東庄村が合併し、上東村となり、その後上東村と前述の村々が合併し庄村が誕生した[2]

江戸時代、当地の中央付近を東西に鴨方往来(庭瀬往来)が貫通しており、また同じく東西に流れる六間川は舟運に用いられていた。近現代になり、鴨方往来の代わりに国道2号(現在の岡山県道162号岡山倉敷線)が敷設され、岡山倉敷を結ぶ主要道路として交通量は次第に増加していき、その近辺には諸工場もでき、また丘陵地には開発面積の広い住宅団地も造成され人口が急増している。概要でも詳しく触れているように、川崎学園や清心学園などの教育機関の開学、医療機関の開設、保養施設の開業など幹線道路周辺地を中心に農村から次第に都市化している。ただし数多い史跡や文化財の保護、農地用水路の保全により郊外型農村の姿を多く残す[2]

年表

年月日 出来事
1889年(明治22年)6月1日 都宇郡松島村、二子村、下庄村、上東村、栗坂村、山地村、矢部村、西尾村、日畑村(西組)の地域をもって新たに都宇郡庄村を新設。
1891年(明治24年)4月25日 山陽本線岡山駅 - 倉敷駅間が延伸開業。
同時に隣接地区の吉備町地区に、庭瀬駅が中間駅として開業。
1900年(明治33年)4月1日 都宇郡と窪屋郡が合併し、新たに都窪郡となる。
1929年(昭和4年) 庄地区内の南部を東西に横断する、国道2号(現、旧・2号)が開通。
1930年(昭和5年)3月11日 隣接地区の中庄地区に、山陽本線・庭瀬駅 - 倉敷駅間の中庄駅が開業。
1937年(昭和12年)3月28日 岡山駅 ⇔ 倉敷駅】間の19km区間で、旧・国鉄バスが開業。
※ 現在は、【岡山駅 ⇔ 中庄駅】および、【中庄駅 ⇔ 倉敷駅】路線を新たに追加して別会社の3社に移行・存続している。
1964年(昭和39年) 清心中学校および清心女子高等学校が、岡山市より二子地区に移転し開校。
1970年(昭和45年) 川崎医療短期大学が松島地区に開校。
1971年(昭和46年)3月8日 庄村が県南広域都市計画により,倉敷市に編入合併。
同時に、倉敷市営バスが新たに庄地区内専用路線となる、【西栗坂 ⇔ 矢部】を新規路線として開設。
1973年(昭和48年) 川崎医科大学付属病院が、松島地区に開設される。
倉敷消防署庄出張所が、二子地区に開所する。
1975年(昭和50年)3月10日 庄地区の中央部(ほぼ上東地区)を東西に横切る、山陽新幹線岡山駅 - 博多駅間が開業。
1986年(昭和61年)4月22日 庄新町地区の人口急増により、旧・国鉄バスの【庄新町 ⇔ 倉敷駅】間および、【庄新町 ⇔ 岡山駅】間が新たに開設。
1988年(昭和63年) 庄地区の北西部に、山陽自動車道が開通。
1991年(平成3年) 川崎医療福祉大学が、松島地区に開校。
2002年(平成14年)3月31日 倉敷市との合併以来、31年間続いていた【西栗坂 ⇔ 矢部】間が、需要減退により全面廃止となる。
2005年(平成17年)2月1日 庄新町地区の人口減少と高齢化により、既存の便数が激減していた路線バスの対応策として、予約制のコミュニティタクシー定期便を、【庄新町 ⇔ 中庄駅】間で開設。
2010年(平成22年)3月31日 庄新町地区の人口減少により、21年間続いていた【庄新町 ⇔ 倉敷駅】間および、【庄新町 ⇔ 岡山駅】間が全面廃止。

恵まれた交通環境

鉄道

南西部に接する中庄地区北東部には、山陽本線伯備線の二線が相乗りするJR中庄駅及び、庄地区南東地区の栗坂・下庄地区と隣接している岡山市庭瀬地区には同じくJR庭瀬駅があり、朝夕の通勤・通学時間帯を中心に多くの列車が停車(普通列車のみ)する。このために、旧庄村時代より庄地区人口全体の三割に相当する(全人口と対象地区との比較)栗坂・下庄・松島・二子の各地区から最寄の駅となる中庄駅または、庭瀬駅までは、自転車での通勤・通学圏内(20分程度以内)に入る為に、倉敷市内は無論、隣接する岡山市内への移動にも大変恵まれている。

さらに、庄地区南西部の松島地区や、二子地区に川崎医科大学・川崎医療福祉大学他、清心中学校・清心女子高校があるため、特に隣接する松島地区、下庄地区、二子地区、上東地区を中心に、郊外としては珍しい10階建てマンション数棟[注 14]を始めとして、庄地区全体に新興住宅地や、コーポアパートが多く造成され、人口が大幅に増加した。このため、中庄駅周辺は庄・中庄両地区を跨いで学生街の様相を呈している。この中庄駅周辺地区は近年発展が著しく(なお、この地区に関しては、便宜上中庄のページにて詳細を記述している)、徒歩5分圏内には高級マンションを含めた十数棟からなる通称、『マンション村』などもある。

路線バス

旧・国道2号路線

庄地区初の路線
国鉄バス時代のカラーリング。(島根県登録の再現車両)
岡山市の撫川地区の営業所へ移転後、1970年代からは同じ面構えと配色の三菱ふそう製のバスが大量に配備されていた。
2004年9月撮影)

庄地区の南部を東西に横断して、古くから岡山市と倉敷市間の交通の要となって来た旧・国道2号(現、岡山県道162号岡山倉敷線)が通っている関係で、旧・国鉄バスが岡山県内二番目の路線として、1937年昭和12年)3月28日岡山駅倉敷駅間の19km区間で開業(通称、両備線[12]した。その後、それまでの倉敷駅止まりであった路線を、矢掛町路線・金光町路線などへと急速に拡大していった。また、1952年(昭和27年)1月からは、地元大手の民間会社である両備バスとの運輸協定により、両備バスが岡山~倉敷間の路線に乗り入れ、一日数便程度ながらも国鉄バスと共同のバス停を使うなど、通勤・通学の便利性は次第に向上していった。

この国鉄バスによる一連の路線拡大や、特に岡山〜倉敷間の輸送需要増大により、それまでの倉敷駅近くに設けられていた拠点車庫兼、岡山県内の総括店[注 15]であった施設が手狭となり、新たに下庄地区東側に隣接する吉備町地区内の、旧・国道2号沿いの岡山市北区撫川(なつかわ)地[注 16]に、大型の整備工場を含む広大な敷地に実質、岡山県内の総括的な中核機能となる「岡山自動車営業所」を1962年昭和37年)12月29日[13]に開設した。

清心学園専用路線
清心学園専用時代のカラーリング。(通称、青バス仕様車)
撫川地区・岡山営業所の整備工場内のピットに跨る風景。
画像を拡大すると車体正面に加工された個々の写真が見える。[続き 1]
また画像左端には、赤バスの一部が写っている。
2006年7月1日撮影)

1964年(昭和39年)9月に、この旧・国道2号沿いの庄地区内で、ほぼ中間地点(現、セブン-イレブン倉敷二子店付近)に程近い清心女子高等学校が二子地区に移転してきた関係で、JR中庄駅前まで乗り入れるなど基本的には登下校時に【清心学園】・【清心学園専用】・【清心学園 ⇔中庄駅】の方向幕表示(バス車体により何れかの文言となる)で、清心学園⇔JR中庄駅間の約2kmを運行するスクールバスの運行を行なってきた。この経緯として、当時は旧・国鉄が鉄道と路線バス事業を一体で運営し、しかも路線バス事業は鉄道の補完事業として緊密に繋がっていたために、中庄駅前(現在の北口側)の広場に、横長向き小判型のバス停を設置し[14]、バスはぐるっと一周する事になっていた[続き 2]

このように、いわゆる田舎の小規模な駅にもかかわらず、旧庄村時代よりバスへの依存度は高かった。学園敷地内の本館前ロータリー⇔JR中庄駅間の、いわゆるスクールバスとして運行していた車両は、輸送距離は極端に短かいものの輸送開始以来長年に渡って一般路線用の車両を使用していた。その後、いわば大事なお得意様サービスの一環として、2000年代に入り開始時期は不詳ながらも、庄新町路線開業に当たり1986年昭和61年)4月22日付けで、初めて導入された前後の乗降口が車体の全長に近い(詳しい構造は#庄新町路線内の注釈を参照)、新タイプと同じ車両2台に専用のラッピングを施し、事実上の清心学園専属のスクールバスとして登場した。2台のバス車体全面(屋根上も含む、車体の5面[15])に、学生同士やシスター[注 17]のほか、顔なじみの複数人の運転手などを写した、いわゆるスナップ写真を数百枚を組み合わせてモノクロ写真のイメージで赤っぽい仕様(通称、赤バス)と、青っぽい仕様(通称、青バス)の2種類に印刷した「ラッピングバス」を登場させ、地元でも大きな話題となった。基本的には学園の休校日を除き、一日の中で朝夕の登下校時に併せて数回しか運行せず、しかも実際はほとんどの時間、支店の車庫内で待機していた。

  • 岡山市撫川地区の支店車庫から、2台揃って[注 18]2km回送 → 学園本館前から2km営業 → 中庄駅から3.5km回送(積み残しの混雑時にはもう一度学園へ戻る)→ 支店車庫で終了。

という、ごく限られた日時と距離のために、走行中の姿を捉える機会は限られていた。これらの走行距離の伸びないチョイ乗り実態や、専用の大規模な整備工場と自動車検査登録事務所指定の検査場(いわゆる、車検まで自社で出来る)まで営業所内に設けている整備環境もあり、2011年(平成23年)9月18日付けの青バスが廃車[16]になるまで維持されていた。また、赤バスも数ヵ月後に廃車予定となっていた。

庄新町路線

倉敷市との合併後、現在の庄新町地区における人口急増により、【庄新町】行きの新路線として1986年(昭和61年)4月22日付けのダイヤ改正に伴い、庄新町〜倉敷間に5往復、庄新町〜岡山間に21往復という大規模なダイヤが設定された。また、この大量増発に伴い、国鉄バスは朝夕の満員時におけるダイヤの遅延対策として、乗降時間の効率化に寄与する乗降口が前部位と、最後部位に大きく離れた車種[注 19]を初めて数台投入して対応していた。なお、この路線は国鉄バスを引き継いだ中国ジェイアールバス(通称、JRバス)に引き継がれた。

行き先による弊害
岡山駅 → 天満屋経由 → 下撫川止まりとなる、下り線用の【下撫川】行き表示事例。
これに乗ると、終点バス停のわずか1つ先から始まる、庄地区南部のバス停には一切停まらない。
後部の右側(シャッター)建物は、一階が検査場で、二階は事務所。
左側に写っている大型の修理工場が、さらに続いている。
2001年1月6日、岡山支店内で撮影)

近隣地区の岡山市北区撫川地区(旧・2号沿い)の、下撫川(しもなつかわ)バス停前に、岡山県内の基幹営業所が開設した事により、庄地区内の交通の便は飛躍的に向上した。特に旧・国鉄バス時代から始まり、倉敷市内から庄地区(岡山方面)へ向かう上り線のバス便は、終点となる【岡山駅】行き便が一応の基本となっている。しかしバス運行終了便として、昼間は少数例ながらも、夜間に必然的発生するいわゆる、最終便に近づくほど庄地区内の最も岡山側寄りとなる、現在の最終バス停である『瀬戸大橋温泉』[注 20]を越えて、岡山市に入って最初のバス停となる『下撫川(しもなつかわ)』の真ん前に、前記した基幹営業所が移転したために【下撫川】行き便が新たに生まれ、ここで事実上の途中打ち切り状態となっていた。これに伴う、庄地区までの『上り線』利用者には特に問題はなかった。

  • 倉敷駅(上り線岡山方面【下撫川】行き)→→→→ ○備中庄 → ○瀬戸大橋温泉 → 下撫川※終点。
  • 倉敷駅(上り線岡山方面【岡山駅】行き)→→→→ ○備中庄 → ○瀬戸大橋温泉 → 下撫川 →→→→ 岡山駅※終点。

ところが、これとは反対に倉敷方面便以上に通学通勤の利用者の多かった、岡山市内からのいわゆる「帰宅便」となる庄地区(倉敷方面)へ向かう『下り線』のバス便は、【倉敷駅】行き便[注 21]が基本となっているものの、上り線とは正反対の現象により特に最終便近くになると、うっかりまたは不慣れで【下撫川】行きに乗ってしまうと下車予定バス停の数箇所手前で強制終了となるリスクが付きまとっていた。

  • 岡山駅(下り線倉敷方面【倉敷駅】行き・ほか、倉敷以西便)→→→→ 下撫川 → ○瀬戸大橋温泉 → ○備中庄 →→→→各方面の終点。
  • 岡山駅(下り線倉敷方面【下撫川】行き)→→→→ 下撫川 ※終点。(以後はすべで停車しない)→ ×瀬戸大橋温泉 → ×備中庄 → ・・・・

なお、この場合は数十分以上も最終便の【倉敷駅】行き便を待ち続けるか、終点となる下撫川バス停に設置されている公衆電話で[注 22]家族やタクシーを呼ぶか、最悪の場合は徒歩帰宅となる。また、同じように注意を要するルートとして、大規模住宅地向けの岡山駅発【庄新町下撫川】行き(「庄新町」経由「下撫川」の意味)も、『瀬戸大橋温泉』バス停のわずか100メートル手前の「流通センター入り口」交差点から、旧・2号沿いを離れて一直線に北上して庄新町地区内を回り、同じルートから再び旧・国道2号と合流し、岡山市内に向けて最初の『下撫川』バス停で終了となっていた。これにより、多くの利用者がいる庄地区南部を結ぶ倉敷方面行きの各バス停利用者は注意が必要となる。特に特殊構造のバスまで投入して、開設当初は21便も運行していたこれらの全ての便が【庄新町下撫川】のために、従来から主力となっている庄地区南部の利用者が混乱する影響は、多少なりとも避けられなかった。

時代に伴う終焉
土砂崩れで、一部の区間が運行できなくなったJR津山線の、JR金川駅へ岡山支店から派遣された、鉄道代行バス。
バス正面上の方向幕には、【鉄道代行】と表示されている。
2006年11月25日撮影)

その後のマイカー普及による乗客の激減により、次第に路線は縮小され続けて2000年代に入ると、末期時には主力の「岡山〜倉敷間の路線」では、日中のダイヤで二時間以上の空白時間帯が生まれるなどと、ピーク時では10分間隔で運行されていた面影もなくなっていた。また、これから枝分かれしている「清心女子高校路線」は、事実上のスクールバス化で登下校時に特化したダイヤを安定して維持していたものの、「庄新町路線」も例外なくマイカーの普及により次第に減便となっていった。しかし、岡山地区からの路線バス撤退決定により、2003年平成15年)3月31日限りで清心女子高校路線の2km専用と、山陽本線の事故時に代替輸送する「鉄道代行」に備えて数台の路線バスを残し、逆に夜行便を含む高速バス事業と貸切り事業に移行して、1937年3月より66年間も続いた路線バス事業に事実上の終止符を打ってしまった。

これに伴い翌4月1日より、多くの学生が住んでいるものの、その一方で高齢化も進んでいるために撤退の影響が大きい岡山〜倉敷間を、岡電バス下電バスの共同運航[注 23]に移管となった。また、庄新町ルートは【庄パークヒルズ】行きの路線名に改名後、岡電バスに引き継がれ、この対応として近くのRSKバラ園入り口駐車場内に二台のバスを停泊させて、始発便に備えていた。しかし、庄新町地区内の更なるマイカー普及の影響により、2010年平成22年)3月31日 に路線休止となり、事実上の廃路線となってしまい、車の運転が出来ない高齢者の増えた庄新町地区では交通難民状態になっている。最後まで残っていた清心女子高校路線も、2016年(平成28年)4月1日に両備バスに移管された。これに伴い、現在では一般路線用のJRバスは、岡山県内には一台も存在していない。

庄地区内専用路線

前記の旧・国道2号沿い路線以外には、かつて合併時より倉敷市営バスが新たに庄地区内専用路線となる新規路線を開設していた。この経緯は、都窪郡時代から旧・庄村地区が東側で隣接して、学区行政事業は独立していたものの、吉備町地区と同じ電話局番や、吉備郵便局のほか水道事業[注 24]なども共用されていた。さらに生活においては、吉備町に本社を置くし尿汲み取り[注 25]や、ゴミ回収業者・タクシーなどの民間会社との繋がりも深かった。そんな状況下でも特に生活への影響が大きかった、電話番号の市内外局番と一部の下4桁の変更(#放送・通信を参照)・水道事業の全面切り替えによる水質変化の懸念(いわゆる、水との相性)などを踏まえて、あえて倉敷市へ合併する大きな理由の一つに、地区北部の高齢化に伴う交通手段の確保を取り付けることも含まれていた。この結果、当時の倉敷市交通局による市バス運行が実現した。

ルートは、庄地区の最南端部(栗坂地区)内の、中庄駅に比較的近い西端集落となる「西栗坂バス停」から出発して、山陽本線の南側と山裾に沿って東西に栗坂地内を走る細い道(一部では普通車同士のすれ違いが厳しい)を使い、約800メートル先の東端集落となる「東栗坂バス停」角の丁字路交差点で、北方向へほぼ一直線で約4knほど結び[注 26]、この間に山陽本線を横断→旧・国道2号を横断(備中庄バス停)→庄地区の中核となる上東地区の庄支所(庄支所前バス停)・小学校・庄農協脇を通り、山陽新幹線の高架をくぐり、最北端部(矢部地区)の矢部公民館(「矢部バス停」)までの区間(合計約4.8km)で、【栗坂⇔矢部】線として合併直後から市バス部門の廃止となる1989年平成元年)3月31日まで開設されていた。また、区間内には記載していないバス停も複数個所存在していた。

便数は、1日十数往〜1往復[注 27]の定期路線として復運行していた。

その後は、路線を引き継いだ下電バスが中型バス[注 28]で運行していたがほとんどの便が空車状態での運行だったために、2002年平成14年)3月31日付けで廃止された。

なお、あくまで参考事項として、個人開設ながら外部サイトには、廃止間際当時の時刻表写真によると昼前後の時間帯にたった一往復(平日のみ)の記載がある。詳しくは#外部リンクを参照。

タクシー

医療と高齢化

下庄地区内の旧・国道2号と、かつて旧・倉敷市営バスが運行されていた、岡山県道73号箕島高松線の旧・区間(栗坂地区~上東区間)が交わった、『備中庄』交差点の南角を少し南側へ入った旧・県道沿いに、旧・県道と西側沿いに流れる水路との間の、数メートル間口ほどの横長敷地に吉備町内に本社のある地元タクシー会社の、吉備タクシー庄営業所[注 29]が唯一、庄村時代から続いていた。合併後は建屋は残るものの何時しか使われなくなり、平成にはいってからは、西側沿いに流れる水路の大規模な護岸工事の際に買収されて消滅となった。その後は現在に至るまで、吉備町内の本社からの無線配車により、地元民が利用している。昔からの個人・企業などを問わず、固定客を多く抱えまた時節柄、福祉タクシージャンボタクシーなども所有し、重宝されている。

そのほか、川崎医大病院玄関前を常駐場所とする県内大手の平和タクシーや、JR中庄駅北西側の松島地区に、かつて数年前まで存在した岡山交通中庄営業所(現在は民間駐車場へ転換)は、当時の営業所番号を転送して倉敷市内の移転先で対応している。営業所時代の名残から、庄地区近辺の事情に精通し、また特に福祉タクシーとして未だ指名のある多くのドライバー達[注 30]が、中庄駅前や川崎医大病院を営業エリアとしているなど、郊外地区にしてはタクシー事情に恵まれているので、各社ともに無線配車による到着時間も比較的早い傾向となっている。

なお、川崎医大病院からの乗客は患者をはじめ、病院職員などのタクシー利用率も高い。しかし、ほかの地区同様に中・長距離客がある一方、多くの利用客はJR中庄駅までの「初乗り料金」だけで済む、いわゆる、ワンメーター利用客が占める現状がある。これは、県外もふくめた遠路からも高度医療を頼って来院する患者も多く、また特に医師や教員・研究者が通勤用のマイカーを職員用駐車場に残して、出張や地方の学会などに出席するために中庄駅を頻繁に利用するという、特殊な事情も絡んでいるためである。

庄新町地区対策

1970年代末期からの開発でピーク時には、千戸にのぼる大規模住宅地が誕生し、今はなきJRバスの路線が1986年昭和61年)4月22日付けのダイヤ改正に伴い、庄新町~倉敷間に5往復、庄新町~岡山間に21往復という、大規模なダイヤを設定していた。しかし、分譲後四半世紀を超えると住人の高齢化が目立ち始めるも、JRバスは便数を減らしながら維持し続けていたが、終に2003年平成15年)3月31日付けで全面撤退となった。その後は、住人の足として、岡電バスが路線を引き継ぎ維持していたが、さらに若者の区域外流失による隔家族化が進み、高齢化が一段と進んでいった。その一方で、バス利用者は激減の一途をたどり、ついに2010年(平成22年)3月31日 に路線休止となり、庄新町地区からのバス路線は完全に消えてしまった。これに対して倉敷市は、年を追う毎に独居世帯と高齢化が急激に進む(#地区別比較俵を参照)対策として、バス路線の廃止前となる、2005年(平成17年)2月1日より現在に至るまで、平和タクシーへ委託した予約制のタクシー定期便として「庄新町地区コミュニティタクシー(なかよし号)」[17]を、庄新町~JR中庄駅間で往復7便(ただし土曜は往復3便)開設して、免許返上などで交通難民化となった高齢者の便を図っている。

物流網

倉敷市中心部と岡山市中心部のほぼ中間地点を利点とする地域性のために、前記の岡山県道162号岡山倉敷線に沿って南側約1.5kmにある小高い山頂には、岡山市北区早島町にまたがって中四国方面への物流の拠点として、東西約2kmに連なる大規模な流通団地が造成され、2000年頃にほほ完成した岡山県総合流通センターおよび、中四国地区でも有数の面積を誇る、大規模展示場ホールとなるコンベックス岡山などの施設も隣接している。また、いずれの施設は東西に連なる小高い山頂内にあるものの、これらの大規模施設の南東端に近い下庄地区及び、南西端に近い松島の両地区からは大型の連絡道路が直結しているので、普通車で5~15分圏内、大型車でも10~20分圏内に入っている。

最寄の高速道路入口

ルート設定に当たって
背高(せたか)海上コンテナを積載したトレーラー。
地上高が4.1m(二階建てバスより30cmさらに高い)、全長は18m(大型観光バスの1.5倍の長さ)の、背高海上コンテナ。
この大きさが通れる各ルートを選択した。
2005年1月12日、岡山市内で撮影)

庄地区内でもっとも物流施設が集まる、下庄地区内の旧・2号岡山県道73号箕島高松線が交わる交差点を起点[注 31]とした。また、現在の部流事情を考慮して、通常の地上高制限値3.8メートル[注 32]を超える、特別認可車両の地上高4.1メートル仕様の大型トレーラー(背高海上コンテナ輸送例)が問題なく通行できるルートを選定した。よって、普通車の利用する裏道などの距離とは若干(おおよそ 1km程度の誤差内)異なる場合がある。さらに、IC入り口前と最寄の道路との交わる交差点から分岐して、数百メートル~1km弱程度の連絡道を経由して最終のICゲートまでを、グーグルマップ上の実測距離結果として表示した。

そのほかの特殊な道路事情として、IC入り口前からICゲート前までの渦巻状連絡道のほか、以下の複雑な事例を加味した。

  • 一般道の上下を含む2車線以上の幅広道路や、新幹線高架を挟んで上下線が分離されている(岡山県道242号川入巌井線)例・幅広中央分離帯(国道53号バイパス)例・上下線が高架で分離された区間(岡山西バイパス)例などは、出来るだけ道路の中央で計測した。
  • さらに、IC入り口前からICゲート前までの連絡道の距離は、ゲートへ向かって入場するルートと、ゲートから出てくる退場ルートとでは、大きく距離が異なる場合があるので、全て入場するルートで計算した。
  • 東ルート【起点】→→(岡山県道73号箕島高松線を南下)→→(『総合流通センター』の最東部地区を通過)→→(国道2号バイパスを跨ぐ『高架上の交差点』を右折して、西進)→→(国道2号線バイパス)→→【早島ICまで総距離、7km 】
  • 西ルート【起点】→→(旧・2号を西進)→→(『松島交差点』を左折して南下)→→(『総合流通センター』の最西部地区を通過)→→(『早島中』交差点を右折して、西進)→→(国道2号バイパス)→→【早島ICまで総距離、7.7km 】
  • 岡山IC(山陽自動車道)東行き・大阪方面
  • 【起点】→→(1km北上して『ファミリーマート』を、東方向に右折)→→(岡山県道242号川入巌井線)→→(『野殿西』交差点を左折して北上)→→(岡山西バイパス)→→(『楢津東』交差点を右折して東進)→→(国道180号)→→(『平津橋』交差点を左折して、200メートル先交差点を右折後は道なり)→→岡山県道238号上芳賀岡山線)→→(『首都橋西』交差点を左折して北上)→→(国道53号バイパス)→→【岡山ICまで総距離、12.4km 】

ライフライン環境

NTT加入電話

旧・庄村時代の倉敷市との合併後はまだ有線電話がほとんどで、NTTの加入電話自体が一部の会社や店舗に限られていたために、合併までは東側で隣接していた吉備町地区と共用していた市内外局番(08669-3-×××)と、続く下四桁で事足りていた。有線電話の交換局は庄農協本店の2階の一角にあり、当時の電話は黒電話ながらもダイヤルは付いておらず、代わりにその部位には丸いスピーカーが内蔵されているという、少し変わったタイプであった。また、電話機からの呼び出し音はベル音ながらも電話機本体からは一切鳴らないので、自転車のベルのような金属製のベルが大きめのスマートフォン程度の大きさの制御機箱とセットになって電話機のそばの壁などに取り付けられ、このベル音で呼び出していた。この古風な電話の受話器を挙げると女性交換手が応答し、相手方の四桁の専用番号を伝えて、手動で回線を繋いでもらっていた。この時、受話器からは呼び出し音は一切聞こえず無言状態で待ち続け、相手に繋がると交換手が『どうぞ、お話下さい。』と声をかけてすぐ相手との会話が始まった。当時はまだ庄新町地区は存在しない九地区のみに併せて、一地区毎に1~9までの千の位を付与して下三桁が、実質的には個別の番号となっていた。この方式は、ある意味では現在の郵便番号による地区割り(#郵便番号参照)と、有線電話の区域番号は全く異なるも割り振りの考え方としては同じであった。

合併直後は(0864-62-×××)となり、続く下四桁は便宜上の処置として吉備局時代に使っていた、下四桁が割り当てられた。ただし、当時の市内局番( 62局、※現在の462局に相当する)はすでに中庄地区で割り当てられていたので、既存の番号と被った場合はやむなく別の番号となった。その後、昭和40年の末期までには有線電話は全廃され、NTTの加入電話へ全面的に移行し、目覚ましい人口増加により、(463局)→(464局)→(461局)[注 33]へと市内局番は増加していった。ただし、現在のように固定電話を解約、または最初から携帯電話を所有というスタイル[注 34]も定着してきているために、最新で割り当てられている(461局)の加入者はごく少数である。

放送

ケーブルテレビ
地上波テレビ放送

全域が庄支所上東地区)より、南東約45度方向の直線で約16km先に位置する岡山本局(金甲山送信所)のエリアに入るため、良好に入る。ただし、角度的に山裾にほぼ全域が入る栗坂地区[注 35]および、二子地区のごく一部[注 36]では、共同視聴アンテナが設置されている。

局名 NHK岡山 NHK高松 RSK OHK TSC RNC KSB 出力 偏波面 送信
場所
総合 教育 総合 教育
デジタルリモコン番号 1ch 2ch 1ch 2ch 6ch 8ch 7ch 4ch 5ch
岡山 デジタル 32ch 45ch 24ch 13ch 21ch 27ch 18ch 20ch 30ch NHK岡山・民放2kW
NHK高松200W
水平 金甲山
アナログ 5ch 3ch - - 11ch 35ch 23ch 9ch 25ch V10kW/U20kW
FMラジオ放送

県域FMラジオ局は金甲山送信所からの電波で聞くことができる。コミュニティ放送は、各送信所からの電波が良好に入り、公式サイトではサービスエリアに入っている。

AMラジオ放送

在阪のAMラジオ局中、NHK大阪局毎日放送ラジオ大阪ラジオ関西に関しては、車移動でも問題なく受信できるが、朝日放送に関しては受信品質に大きなばらつきがある。特に一階の室内では、窓際でないと良好に受信できない場合が多い。

電気・ガス・上下水道

郵便番号

全域が倉敷郵便局の集配担当区域に当たる。

  • 日畑 - 701-0101
  • 庄新町 - 701-0102
  • 西尾 - 701-0103
  • 山地 - 701-0104
  • 矢部 - 701-0105
  • (欠番) - 701-0106〜0110
  • 上東 - 701-0111
  • 下庄 - 701-0112
  • 栗坂 - 701-0113
  • 松島 - 701-0114
  • 二子 - 701-0115

施設

公共機関

金融機関

教育機関

各種医療機関

  • 大規模医療機関
  • 一般開業医
    • 岡皮膚科医院 - 下庄
    • まんだい眼科 - 下庄
    • えんさこ医院 - 下庄(胃腸科・外科)
    • サンライフクリニック - 下庄(内科)
    • もんじゃる鍼灸整骨院 - 下庄
    • みわ整骨院 - 下庄[続き 12]
    • 中村節内科医院 - 上東
    • 兵耳鼻咽喉科医院 - 上東
    • いわもとクリニック - 上東(内科・外科)
    • くさか整形外科 - 上東
    • じん整骨院 - 上東
    • ながしま形成外科クリニック - 松島
    • 森整形外科リハビリクリニック - 松島
    • もり小児科耳鼻咽喉科クリニック - 松島
    • 西原内科循環器科 - 松島
    • 西原内科眼科医院 - 松島
    • じょう泌尿器科クリニック - 松島
    • おだ整骨院 - 松島
    • 大月整骨院 - 松島
    • 川井クリニック - 二子(内科・透析)
    • Mクリニック耳鼻咽喉科 - 二子
    • 中祥外科 - 二子
    • 中祥内科 - 庄新町
  • 歯科医院
    • メリー歯科医院 - 下庄
    • 小郷歯科医院 - 下庄
    • 東原歯科医院 - 下庄
    • きもと・まなべ歯科クリニック - 上東
    • 片山歯科 - 上東
    • ランバート矯正歯科 - 松島
    • 中田歯科 - 松島
    • 妹尾歯科医院 - 松島
    • あさき歯科医院 - 松島
    • ウィステリア デンタル オフィス - 二子
    • 浜田歯科医院 - 山地
    • いなだ歯科 - 西尾
    • さくら歯科 - 矢部

薬局・ドラッグストアー

  • ドレミ薬局 倉敷下庄店 - 下庄(調剤薬局)
  • みのり薬局 - 下庄(調剤薬局)
  • 庄薬局 - 上東(調剤薬局)
  • 大手町薬局メディカルトーラー - 上東(調剤薬局)
  • ザグザグ 上庄店 - 上東(ドラッグストアー) ※ 元、山陽マルナカ上庄店舗。
  • ハート薬局 中庄店 - 松島(ドラッグストアー)
  • 金光薬品 中庄店 - 松島(ドラッグストアー)
  • ひまわりププレ中庄店 - 松島(ドラッグストアー)
  • セントラル薬局二子店 - 二子(調剤薬局)
  • 中祥薬局 - 二子(調剤薬局)
  • 中祥薬局庄パーク店 - 庄新町(調剤薬局)
  • 渡辺薬局 - 庄新町(調剤薬局)
  • ケンビドー薬局 - 庄新町(調剤薬局)

調剤薬局の多くは、近年の医薬分業の流れを受けて、各種医院の近くに併設されている。ただし、専用のドクターヘリも常駐して岡山県の隣県も搬送範囲としている、広域の基幹病院でもある川崎医科大学付属病院近辺では、他地域で見受けられる大学病院や大規模病院の周辺に独立系の調剤薬局が乱立するような風景はなく、近隣のドラッグストアー数店の店内で、小規模に併設されている程度となっている。これは病院開設以来、院内の大規模薬局が各医局と直結し、投薬料含めた全ての医療会計を一括で清算しているためである。

民間保育所

  • くりのおうち保育園 - 栗坂
  • 庄なかよし小規模保育園 - 上東
  • 庄保育園 - 上東

そのほかに、コーポやマンションの一室を利用したいわゆる、小規模な「末認可保育園」も数箇所存在している。

福祉・支援施設

  • 倉敷学園 - 栗坂(児童発達支援センター)
  • コトノハ - 栗坂(多機能型事業所)
  • サンライフ倉敷 - 下庄(入所介護施設)
  • さん・らいふ(入所介護施設) - 下庄
  • グループ・通所介護事業所さん・じむ - 下庄(在宅医療支援)
  • グループホームひまわりの家 - 下庄
  • 訪問看護ステーションサクラ - 下庄
  • よつ葉訪問看護ステーション下庄 - 下庄
  • 庄学区仲よし児童育成クラブ - 上東(学童支援)※ 庄小学校内の別施設。
  • やま幸デイサービスセンター上東の家 - 上東
  • ヘルパーステーション ワンステップ - 上東(訪問介護)
  • 庄の里 「つどいの家」上東 - 上東(小規模多機能ホーム)
  • クムレ - 上東(共同生活援助事業所)
  • クラシス - 上東(知的障害者支援施設)
  • 庄の里 - 山地(特別養護老人ホーム)
  • 稔福祉会 庄の里 - 山地(入所介護施設)
  • あしたば - 山地(障がい者支援施設)
  • ワークハウスくるみ - 山地(共同生活援助事業所)
  • 庄の里 なごみの家 - 西尾(グループホーム)
  • めやす箱 いっぽいっぽ - 矢部(就労継続支援施設)

商業施設・商店舗

  • マルワ電化 倉敷店 - 下庄(家電店)
  • マツサカプラザ庄店 - 下庄(小型スーパー)
  • きむらや - 下庄(作業服店)
  • シューズ愛ランド 下庄店 - 下庄
  • ベクトル中庄店 - 下庄(リサイクルショップ)※ 元・ローソン店舗。
  • 宮脇書店
    • 下庄店 - 下庄
    • 倉敷マスカット店 - 松島
  • ハローズ 中庄店 - 松島(大型スーパー)※ 元・ペプシコーラ岡山工場跡地[18][続き 13]
  • 山陽マルナカ マスカット店 - 松島(大型スーパー)
  • エブリイ中庄店 - 松島(業務用スーパー)
  • ハードオフ倉敷中庄店 - 松島(リサイクルショップ)※ 元、天満屋ハピーマート店舗。
  • 眼鏡市場 倉敷中庄店 - 松島
  • ホームセンタータイム中庄店 - 松島
  • auショップ倉敷中庄店 - 松島
  • ソフトバンク倉敷中庄 - 松島
  • ワイモバイル中庄 - 松島
  • アパマンショップ中庄店 - 松島(不動産業)
  • ホームメイトFC倉敷中庄店 - 松島(不動産業)
  • 八木園芸店 - 松島(生花店)
  • トヨタレンタリース岡山 中庄店 - 松島
  • スーパーランドリー中庄店 - 松島(コインランドリー)
  • ウオッシュ - 松島(コインランドリー)
  • 東進衛星予備校 倉敷中庄校 - 松島※ 元・ペプシコーラ岡山工場。
  • 倉敷マスカット自動車学校 - 松島※ 元・日立建機岡山営業所。
  • ピトレ・おの - 上東(家電店)
  • 花工房 - 上東(花店)
  • メガネの三城中庄店 - 二子
  • 文林堂 - 山地(文具・酒店)
  • ピコラ倉敷庄店 - 西尾(コインランドリー)※ 元・デイリーヤマザキ店舗。
  • 寺下石材店 - 日畑

コンビニエンスストアー

  • ファミリーマート
    • 倉敷下庄店 - 下庄
    • 総合流通センター北店 - 下庄(元サークルK店舗)
    • バラ園前店 - 上東(元サークルK店舗)
    • 倉敷二子店 - 二子
    • 倉敷庄パークヒルズ店 - 矢部(元サークルK店舗)※元々は、売場面積396の小規模なスーパー『まるしんパークランド店』であった[19][続き 14]
  • ローソン
    • 倉敷下庄店 - 下庄 ※ローソンは、過去に下庄地内の旧・2号沿い、元・毎日新聞中四国印刷の反対側に『ローソン倉敷バラ園前店』として、1990年代後半から庄地区内では唯一の店舗であった。[続き 15]
  • セブン-イレブン
    • 倉敷上東西店 - 上東
    • 倉敷中庄駅前店 - 松島 ※元、松島書房の店舗。
    • 倉敷二子店 - 二子 ※元、鉄工所跡地と、県道沿いの水田を買収して敷地の間口を拡張。
    • 倉敷山地店 - 山地
  • デイリーヤマザキ
    • 過去には、デイリーヤマザキ『倉敷西尾店』・『倉敷松島北の口店』の二店舗があった。[続き 16]

飲食店

  • やま幸 - 下庄(和食屋)
  • 和久庄屋 - 下庄(和食店)
  • おふくろ亭 下庄店 - 下庄(食堂)
  • 倉式珈琲店 下庄店 - 下庄
  • 歌志軒 倉敷下庄店 - 下庄(油そば店)
  • 8番らーめん下庄店 - 下庄
  • 支那そば餐休 中庄店 - 下庄
  • 自家製蕎麦 武野屋 中庄店 - 下庄
  • マクドナルド 倉敷中庄店 - 下庄
  • すき家倉敷下庄店 - 下庄
  • ミスター・バーク 倉敷下庄店 - 下庄
  • 焼肉 一楽 倉敷下庄店 - 下庄
  • 焼肉 朱里苑 - 下庄
  • 焼肉たなか - 下庄
  • どんどん亭下庄店 - 下庄(焼肉店)
  • 三代目 小鉄 倉敷中庄店 - 下庄(焼肉ホルモン店)
  • ポン ・ヌフ - 上東(フランス料理)
  • チャイニーズレストラン チャイナ - 上東
  • 大衆焼肉なごみ - 上東
  • ふるいち倉敷松島店 - 松島(うどん店)
  • カレーハウスCoCo壱番屋 倉敷中庄店 - 松島
  • ミスタードーナツ 倉敷中庄ショップ - 松島
  • ロッテリア倉敷中庄店
  • 王将フードサービス 餃子の王将 川崎医大前店 - 松島 ※ 元、ガソリンスタンドJOMO店舗跡地。
  • 徳島ラーメン麺王倉敷中庄 - 松島
  • 和風ダイニング 蔵や - 松島(居酒屋) ※ 元、サークルK店舗。
  • 寿加田弁当 - 松島
  • ほっともっと 倉敷松島店 - 松島(弁当店)
  • すし丸 中庄店 - 二子(回転寿司)
  • 清龍軒 - 西尾(中華料理店)
  • セルフうどんさざなみ 倉敷庄パーク店 - 矢部 ※ 元、ファミリーマート店舗。
  • コーヒーハウス ワンダイム - 矢部

岡山県道389号岡山倉敷線(旧、国道2号)沿いを中心として、地域内に多数の飲食店が点在している。また、上記の店舗のほかに、理髪店美容室エステサロンランドリー取次ぎ・小規模学習塾新聞配達所・各種の建築業骨董店・化粧品代理店・ペットショップなども、夫々数店~十数舗の規模で点在しているので、広大な田園風景が広がる地区ながらも、『川崎城下町』の恩恵をうけて、倉敷市中心部にも引けを取らない生活環境が揃っている。

しかしその一方で、令和以降は旧、庄村時代より続く、地元個人経営の食料品店・酒店・衣料品店・自転車店などが、近隣や地区内に進出した大型店の煽りを受けて次々と閉店に追い込まれてきた。特に庄新町地区では、約一千件にも及ぶ大規模な新興住宅地区ながらも、近隣には二件のコンビニ以外は小規模なスーパーすらなくなっている。また、緩やかな斜面に開発されてすでに半世紀近く経過しているために、住人の多くは高齢者世帯化しており、坂の多い地区柄も重なっていわゆる、『買い物難民地区』となっている。このために、軽トラックで移動スーパーを営むとくし丸系列の巡回ルートに組み込まれ、また近隣の生協配送センターからの定期巡回で、高齢化に伴い車の運転ができなくなった多くの住民の支えとなっている。

娯楽・宿泊施設

  • 瀬戸大橋温泉やま幸 - 下庄
  • ホテルやま幸 - 下庄(ビジネスホテル)
  • カラオケやま幸 - 下庄
  • トキワフット岡山 - 下庄(フットサル場)
  • 自由空間 - 下庄(ネットカフェ)
  • 手もみほぐしマリー - 下庄
  • 手もみ屋本舗 - 松島
  • サンフラワーボウル - 松島
  • スポーツプラザサンフラワー - 松島
  • サンフラワースイミングスクール - 松島
  • スーパーハリウッド 倉敷店 - 松島(パチンコ店)
  • ベッセルホテル倉敷 - 松島(ビジネスホテル)
  • ハニービー 中庄店 - 二子(カラオケ店)
  • 倉敷カントリー倶楽部 - 二子(ゴルフ場)

ガソリンスタンド

  • JA-SS 庄 SS - 下庄(セルフ)
  • コスモ セルフステーションくらしきSS - 下庄
  • 昭和シェル セルフ新中庄SS - 松島
  • ENEOS 中庄SS - 松島(フルサービス)
  • ENEOS セルフ二子店 - 二子

かつてセルフ時代に入る直前までは、ほとんどのフルサービススタンドでは、農業・果物の有力産地という土地柄、小型農機具などに使う混合油を専用の小型給油機で販売していた。しかし、現在ではただ一軒となった県道沿いのフルサービススタンド、ENEOS]] 中庄SS(松島地区)以外には、東に約1.3km先の下庄地区内で元々、旧・庄村時代から地元の庄農協(現、晴れの国岡山農業協同組合庄支店)直営であった旧・三菱石油系列から、関連会社となる全農系のJA-SSセルフに転化した店舗程度しか扱っていない。このために過去に販売していたものの、撤退後に更地となり、いわゆる無給所地区となった山地地区(セブン-イレブン山地店の100メートル先に、シェル石油の店舗)および、1km北側の矢部地区(ファミリーマート倉敷庄パークヒルズ店向かい側に、地元庄農協直営の旧・三菱石油の店舗)と、さらに東部に広がる西尾地区や日畑地区では、少数ながらも缶入り既製品を便宜的に販売している近隣の自動車修理店(個人店)、または車で10~15分程度かけて混合油を直接取り扱う県道沿いの既存スタンド2店舗や、ホームセンターで買い求めなければならないなど、南部地域の賑わいとは対照的な不便さも残っている。

カーディーラー・車修理店

  • 岡山ダイハツ販売 中庄店 - 下庄
  • 日産サティオ岡山中庄店 - 下庄
  • スズキカルタス倉敷 - 下庄 ※ 元、ガソリンスタンドESSO店舗跡地。
  • MGH 倉敷工場 - 下庄(大型特殊車両)
  • 三好自動車 - 下庄(レーシングカー)
  • ワールド多胡 - 下庄(中古車)※ 元、ガソリンスタンド出光店舗。
  • 定光鈑金 倉敷店 - 下庄
  • 井上自動車 - 上東(車修理)
  • クザキ車輌 - 上東(車修理)
  • 中古車市場 - 上東 元、セブン-イレブン店舗。
  • 西日本三菱中庄店 - 松島
  • 車工房 - 二子
  • レーシングサービスNKF - 二子(バイク店)
  • 犬飼モータース - 山地
  • 内田モータース - 西尾
  • インターオート - 矢部(車修理)
  • エイシーエス - 矢部(車修理)

その他にも、数店の車やバイク取扱店が存在している。

企業・団体

  • クリオシティー - 栗坂(輸入商社)
  • テクノバレー岡山 - 栗坂(鉄工団地)※栗坂地区のテクノバレー岡山(鉄工団地)は、山陽本線南側沿いの山頂にあるために、庄地区全域からはその存在を知りえる事は出来ない。[続き 17]
  • 下庄鉄工団地
  • シモハナ物流グループ・岡山物流 - 下庄
  • 大和エアーカーゴエキスプレス - 下庄(物流業)
  • 阪神ロジテム 岡山営業所 - 下庄(物流業)
  • サンロジスティックス 岡山配送センター - 下庄
  • 加藤産業 岡山営業所倉敷センター - 下庄
  • 小野斉商店倉庫 - 下庄(貸し倉庫)※元・コカ・コーラ庄営業所跡地に建設。[続き 18]
  • 倉敷衛材 - 下庄(環境衛生)
  • ヤナセ製油(株) 岡山営業所 - 下庄(石油製品販売)
  • 岡山エレクトロニクス - 下庄 ※元・電電公社庄中継局の、北側2階建社屋を使用。
  • 滝澤鉄工所 下庄工場 - 下庄 ※元・電電公社庄中継局の、中央平屋建社屋を使用。
  • 真如苑岡山支部 - 下庄 ※元・岡山宇部コンクリート工業岡山工場の西半分跡地。
  • ダスキンミヤケ店 - 上東(環境衛生)
  • アイスター商事倉敷配送センター - 上東
  • アイレディース化粧品倉敷工場 - 上東
  • アイレディース化成倉敷工場 - 上東
  • タカトリ - 二子(遊具製作業)
  • ツルガタ漬物 - 山地
  • 生活協同組合おかやまコープ倉敷東部センター - 西尾 ※元・家具製造工場の跡地。
  • あらた ザグザグ物流センター - 矢部 ※元・トヨタ車体の、納車前整備工場とモータープール跡地。
  • 大松精機 - 矢部(金属加工)
  • 大松工業株式会社 - 矢部(金属加工)
  • 倉敷河上農機(株) 吉備路営業所 - 日畑
  • 山陽エンタープライズ - 日畑(自販機保守店)

過去に存在していた有名企業

旧・2号沿いの『シューズ愛ランド 下庄店』向かい側で、1960年代後半[20]に操業開始し、平成の初期に合理化のために廃業。跡地には、岡山ダイハツ販売中庄店と、真如苑岡山支部[注 37]が建っている。

観光地・名所

※ 国指定史跡指定(昭和56年12月9日[21]
※ 岡山県指定史跡指定(昭和34年3月27日[22]
※ 倉敷市指定史跡指定(昭和46年9月10日[23]

(参考)

  • 下庄地区の「庄楠遊園(しょうなんゆうえん)のクスノキ」は旧、庄村時代に村長を三期勤めた旧家の跡地に生息する倉敷市の市木である楠木として、市内で三番目の巨木生息地。地上高は25メートルもあるので山陽本線北側沿いおよび、旧2号南側沿いの何れからも目に留まる、大きさと高さを誇る巨木[24]。また、地元の歴史関係者の間では、6メートルもの幹周りから推定樹齢は約400年程とも言われているが、確たる出典は見つかっていない。さらに、2021年令和3年)8月15日現在のストリートビューには、園内の画像が多く投稿されている。
  • 上東地区の「吉田菜果園」は、大型の温室内でのイチゴ狩りを主体として、数種類の果物狩りが出来る唯一の観光農園となっている。

庄村

しょうそん
庄村
廃止日 1971年3月8日
廃止理由 編入合併
庄村 → 倉敷市
現在の自治体 倉敷市
廃止時点のデータ
日本の旗 日本
地方 中国地方山陽地方
都道府県 岡山県
都窪郡
市町村コード 33425-1
面積 13.87 km2.
総人口 6,957
1971年
隣接自治体 東:都窪郡吉備町
西:倉敷市・都窪郡山手村
南:都窪郡早島町
北:岡山市
庄村役場
所在地 岡山県都窪郡庄村大字上東784
座標 北緯34度38分38.0秒 東経133度49分39.0秒 / 北緯34.643889度 東経133.827500度 / 34.643889; 133.827500 (庄村)
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旧村役場

1889年明治22年)6月1日、町村制施行時に、上東字才ノ後の一民家を買収して、役場を設置した。その後、幾度かの改良が加えられ拡張していくも、1971年の合併前後より中古建屋の買収後、すでに80年余りによる老朽化が著しくなってきていた。また、合併後の行政事務量拡大も予測されていたために、さらに拡張するにも南北に抜ける村道沿いに並ぶ、左側の店舗と右側の駐在所に挟まれ、建屋の裏側(東側)沿いには用水路があるために、ある意味、四方を何らかで囲まれた当時の敷地内での増築は、すでに限界に達していた。このために、建屋東側用水路後方の農地を買収し、『庄村役場の新庁舎』として、移転して開所した[2]

倉敷市に合併後、新庁舎は庄支所として使用されている[2]。また、現在は西尾地区にある庄駐在所は、現新庁舎敷地入り口の手前広場内、庁舎に向かって右側にあるガードレールで囲まれた6台分の外側駐車地(横断歩道の前)と、さらに右側に続く駐車場と川沿いとの間に設けられている、東向け道路入り口に跨って設置されていた。[25]1975年当時、庄地区の北側の「庄パークヒルズ」(現、庄新町地区)では、すでに大規模な分譲が始まっていたものの、庄支所前の横断歩道反対側から西側方向に続いている小中学校は、一切の拡張なども変わりもなかった。しかし、その後の人口急増問題(※「#増える人口問題」も参照)に伴い、新設された松島交番との管轄分けにより、現在地へ移転となった。

歴代村長

氏名 就任年月日 備考
内田泰造 明治22年7月15日
2 内田泰造 明治26年7月13日
3 内田泰造 明治30年7月10日
4 内田泰造 明治34年7月3日
5 内田弥太郎 明治35年10月5日
6 内田弥太郎 明治39年10月3日
7 内田弥太郎 明治43年10月1日
8 内田弥太郎 大正3年8月27日
9 内田弥太郎 大正4年9月8日
10 内田弥太郎 大正8年9月27日
11 内田弥太郎 大正12年9月27日
12 内田弥太郎 昭和2年9月28日
13 内田弥太郎 昭和6年9月28日
14 内田善介 昭和8年9月26日
15 内田善介 昭和12年9月13日
16 内田善介 昭和16年9月13日
17 難波晴太郎 昭和20年10月16日
18 難波晴太郎 昭和22年4月5日
19 難波晴太郎 昭和26年4月23日
20 平野茂武 昭和30年4月30日
21 小山真三郎 昭和34年4月30日
23 小山真三郎 昭和38年4月30日
24 小山真三郎 昭和42年4月30日 昭和46年3月8日
庄村が倉敷市へ編入合併

歴代助役

氏名 就任年月日 備考
平松明治 明治22年9月7日
2 平松明治 明治26年9月5日
3 犬飼源太郎 明治26年9月5日
4 犬飼源太郎 明治30年10月1日
5 中村偕三郎 明治31年11月18日
6 中村偕三郎 明治33年4月1日
7 犬飼里十郎 明治35年4月18日
8 中村偕三郎
犬飼里十郎
明治39年4月13日 二人制
9 犬飼里十郎 明治43年4月18日
10 平松玖馬太
内田孫六
明治45年4月6日 二人制
11 平松玖馬太
内田孫六
大正5年3月31日 二人制
12 平松玖馬太 大正9年4月8日
13 犬飼琴二 大正11年3月27日
14 犬飼琴二 大正15年4月2日
15 犬飼琴二 昭和5年3月28日
16 目黒文七 昭和5年9月20日
17 目黒文七 昭和9年9月25日
18 目黒文七 昭和13年9月13日
19 目黒文七 昭和17年9月29日
20 森田寿治 昭和21年4月30日
21 森田寿治 昭和25年4月24日
22 森田寿治 昭和29年4月19日
23 三宅尚 昭和33年5月1日
24 三宅尚 昭和37年5月1日
25 三宅尚 昭和41年5月1日
26 三宅尚 昭和45年5月1日 昭和46年3月8日
庄村が倉敷市へ編入合併

歴代収入役

氏名 就任年月日 備考
内田弥太郎 明治22年8月10日
2 中村祥三 明治23年10月31日
3 中村祥三 明治27年11月1日
4 中村祥三 明治31年11月1日
5 難波九一郎 明治35年10月23日
6 難波九一郎 明治39年10月18日
7 難波九一郎 明治43年10月1日
8 難波九一郎 大正3年10月21日
9 三宅治郎 大正7年8月13日
10 三宅治郎 大正11年8月10日
11 三宅治郎 大正15年8月17日
12 三宅治郎 昭和5年8月11日
13 三宅治郎 昭和9年8月17日
14 三宅治郎 昭和13年8月17日
15 三宅治郎 昭和17年8月17日
16 森田寿治 昭和18年4月30日
17 平松斐太 昭和21年5月4日
18 平松斐太 昭和25年4月29日
19 平松斐太 昭和29年4月19日
20 坪井富貴雄 昭和33年5月1日
21 坪井富貴雄 昭和37年4月23日
22 内田泰助 昭和40年1月29日
22 内田泰助 昭和44年1月29日 昭和46年3月8日
庄村が倉敷市へ編入合併

歴代村議会議長・副議長

昭和22年4月の地方自治法施行以降を記す。

議長氏名 副議長氏名 就任年月日 備考
真辺近治 山崎益治
赤木一太 多田幾二 昭和22年4月30日
井上寛一 千田左馬雄 昭和26年4月23日
秋山泰蔵 吉田謙三 昭和30年4月30日
小野美能吉 小田吉治 昭和34年4月30日
小田吉治 内田圭雄 昭和38年4月30日
小田吉治 板谷寅夫 昭和42年4月30日 昭和46年3月8日
庄村が倉敷市へ編入合併

参考文献

  • 庄村誌編纂委員会『庄村誌』1971年、倉敷市

脚注

注釈

  1. ^ 山陽本線と伯備線は、JR岡山駅〜JR倉敷駅間が相乗りしているので、特に倉敷駅以西・以北での各線単独区間に比べると、圧倒的な運行本数となっている。
  2. ^ ただし、西側の松島地区からは少し北側に反れている。
  3. ^ 庄支所が窓口となり、年一回ほど庄地区内の10地域毎の指定場所で配給される。ただし、庄新町地区はほぼ大規模分譲地で出来た区域のために、配給希望は皆無に比としい。
  4. ^ 特に薄板に関しては数年で朽ちて土圧に耐えられなくなるので、一部の農家や川沿いの民家では自費で各種の波板や古い看板など(今では珍しくなった昔ながらのホーロー看板などは、多くの農家の母屋や小屋で沢山見受けられていた)で補強してしのいでいた。
  5. ^ 一例として、2021年8月16日閲覧のグーグル衛星画像では、下庄地内の庄楠遊園(#観光地・名所を参照)と、西側に隣接する空き地を含めて、東西に流れる北側用水路と、続く西側端で曲がって南北に流れる西側用水路のいわゆる、L字方向に渡り改修されている。また、工区のL字角辺りには、ブルーシートで覆われ、遊園西側空き地は資材と残土置き場として利用されている風景が写っている。
  6. ^ 長年、別居する若手の帰省時や、地区の有志がボランティアで敷地や水田脇護岸の補強をしていたが、近年のボランティア作業中の事故による補償問題など安全意識の激変により、土木会社などへ有償依頼する流れに変わって行った。しかし、市から現物支給される木材料での応急的な工事となるために、数年後にまた朽ちるために金銭的な負担が重荷になって、結局は放置されて次第に護岸が荒れ始めてきた。この影響で、崩れた土砂で水深が浅くなったり変形するなど、水路によっては計画した水量が流れにくくなり、結果的には決められた配水日程にも大きな影響も与えていた。
  7. ^ イグサ生産の衰退と共にイグサ組合は解散し、その後は長らく賃貸倉庫空家を経て2010年頃に取り壊され、現在の眼科医院(まんだい眼科ホームページ内、「ごあいさつ」欄より推計)が新規開業した。
  8. ^ 数年前までは、上東地区に二件の中規模の農機具店があったものの、農機具需要減退で廃業してしまった。この影響で大型の農機具は各社の近隣地区代理店から出張しているが、小型機器は出張費倒れになるために、自前で持ち込むのが現状となっている。
  9. ^ 古くからの慣習により、地主(いわゆる、水田の持ち主)が他人に貸し与えた水田は、例え地主が『もう自分では継続できないから、代わりに稲作を作って、水田管理を一切してくれ』と拝み倒す様な自己都合でも、理由を問わず借家同様に借主から年一回、小作料として面積に応じて現金または、収穫した米の現物(通常は25キロ入り小袋を1~数俵)を受け取る。しかし、小作側にはこれらの借地料とは別に稲代や農薬肥料代のほか、高額な農機具(最低でも、耕作用のトラクター田植え機・刈取り用のコンバイン)や、収穫した米を乾燥させる専用の大型乾燥機なども必要となる。対して、米の買い取り価格は低迷するばかりの現状では、地主の立場は極端に弱くなって来ている。この影響により、特にJAの子会社による代理耕作に関しては、地主に対して逆に年間二万円弱程度の管理料を徴収するほか、収穫した米は一粒残らず管理会社の総取りとなる。さらに、変形した水田や、仮に四角または、長方形などの耕作しやすい整った水田でも、傾斜面に面していたりすると、割増金なども掛かる場合がある。そのほか、最低委託面積は一(1000m2)からなどの数々の条件が付くので、諦めて放棄地にする事もしばしば起こっている。
  10. ^ 下庄地区のマツサカプラザ庄店の北側
  11. ^ 上東地区は旧、庄村時代より原則、三階建て以上の建築物が規制されているため、数棟の三階建ての小規模な建築物が例外的にあるのみである。
  12. ^ 発掘された上東遺跡は、西日本の大動脈となる山陽新幹線という特殊な立ち位置と、「新幹線ルートは直線が基本」という事からルート変更は無論、建設日程を遅らせることすら出来ないという厳しい状況下にあった。この影響で、長期間に渡る詳細な発掘調査が出来なくなった。そこで旧・国鉄との妥協案として、多くの高架橋区間で採用されている四角い(その後の耐震化工事で鉄板などを取り付けて、円びた姿となっている)二本一組幅の柱を、乗用車2~3台ほどの間隔で無数に並べる工法を急遽、出来るだけ長いサイズの河川や幅広道路を渡るような、コンクリート橋岡山県道242号川入巌井線沿いの『ポンヌフ』東側~『ファミリーマート』間の、約300m区間を8本の橋で施工。※ストリートビューで確認)とした。これにより、将来部分的に再調査を実地する(現実には高架の両側を幅広道路があるために、発掘は不可能)際に備えて、遺跡の破損を出来るだけ最低限度に抑えるという苦肉の妥協案により、古代住居跡を含む広範囲で発掘は行なわれたものの、最低限度の発掘品の収集と簡単な記録にとどめられた。
  13. ^ 現在の同地日畑にあたる。日畑村東組は現在の岡山市北区納所にあたる。
  14. ^ 10階建てマンションは、松島地区と二子地区に点在。
  15. ^ 庄地区から倉敷駅方面へ続く旧・国道2号沿いの両備バス倉敷営業所東隣の地域(現在のドラッグコスモス倉敷駅前店ほか、隣接マンション建物地内など)に開設していた。しかしその後のマイカー普及による大打撃により、古い車庫を段階的に取り壊し、余剰となった敷地の一部を切り売りしながら規模を縮小した。その後、最後の路線となっていた「岡山倉敷線」の廃止となった2003年平成15年)3月31日限りで閉鎖となる。
  16. ^ 「現、中国JRバス岡山支店」の敷地および、西側に隣接する「くすりのレデイ撫川店」を併せた敷地。
  17. ^ キリスト系学校のために、教員とシスターを兼ねた職員も多数在籍していたため。
  18. ^ ただし、学年単位あるいはクラス単位の特別登校日や学園行事によっては、事前に学校からの連絡により1台のみの場合もあった。
  19. ^
    岡山駅または、倉敷駅何れからも【庄新町下撫川】となる表示。
    後部乗降口は、後輪の更に後ろに付いている。
    2003年1月3日岡山営業所にて撮影)
    それまでのバスは、岡山で始めて開業した倉敷市内の旧、岡山営業所時代では、車掌が同乗し乗降口が車体の中央一箇所のみの、旧式ボンネットタイプ(いわゆる、ボンネットバス)から始まり、時代とともに完全ワンマン化後は乗降口が前輪より前側となる最前部位と、車体の中央部位との二箇所に分かれて設置されているタイプであった。また、その後の岡山市撫川地区へ移転後も、同様の流れで営業してきた(ただし、すでにボンネットタイプではなかった)。しかし、前側と中央側に別れたタイプは、前側乗降口からの乗車時(いわゆる「前乗り」)に、前払いとなる料金均一区間では例え満員状態でも、前側と中央側乗降口を同時に開いて乗客を効率よく裁ける。身近な事例として、岡電バスが伝統的に岡山市内中心部で「市内均一料金」として実地している。これとは対照的に、岡山県内の多くの事業社が取り入れている中央側乗降口より整理券を受け取る、いわゆる後乗り不均等区間での混雑時は、後部側(特に最後部席など)の下車乗客が前方に移動する流れと、途中の中央口から乗り込んでくる流れが狭い通路でぶつかることとなる。これにより朝夕の混雑が激しい路線では、大幅な遅延の原因となりうる。
  20. ^ 開業当初から昭和末期ごろまでは、下庄地内の『備中庄』バス停(現、ファマリーマート倉敷下庄店前のバス停)、その後の温泉施設開業により、現在は岡山市との境界線手前に新らたに設置された『瀬戸大橋温泉』バス停まで約500メートル延長された。
  21. ^ 最盛期の岡山駅発、【金光駅】行きや【矢掛】行きが夫々の終点となる。また、旧・駅舎を取り壊し、北口駅前ロータリーのバス停を含め、1994年平成6年)2月10日に全面的に生まれ変わったJR中庄駅前を発着して、庄地区内全てのバス停を結ぶ【中庄駅】行きの便も含む。
  22. ^ 実際は営業所建屋の真横に電話ボックスが設置されており、地元のタクシー会社の電話番号も掲示されていた。
  23. ^ 運行本数は岡電バスが主体となっている。また、JRバスと共用していた両備バスも、同時に両備グループ系列の岡電バスに移管。
  24. ^ 当時は吉備水道局として、簡易水道ではなく浄水池を備えて独立した水道局が、現在のRSKバラ園東側の足守川土手下に施設されていた。
  25. ^ し尿汲み取り業者は、岡山市ながらも現在でも便宜上、倉敷市の指定業者としての認可料金で、下水道のない地区で重宝されている。
  26. ^ この直線区間は岡山県道389号吉備津松島線や、旧・岡山県道73号箕島高松線の各県道の一部区間になっている。
  27. ^ 開設当初はあまりマイカーも普及していなかったほか、後のコンビニ戦争状態や医療飽和(特に歯科医院)となるような劇的な商業環境の変化もなく、南部の上東地区に集中する役場・農協・公民館・幼稚園(当時は、小中学生の利用は禁止されていた)などへ出向くほか、備中庄交差点で国鉄バスに乗り換えての通勤・通学や吉備町地区の地元スーパーへの買出し、さらには合併2年半後に開院した川崎医科大学附属病院への通院者などが多数利用していた。このために便数も多く、また当初から大型バスで運行していた。しかし、その後の世間情勢が大きく変わるとともに利用者数も年を追う毎に激減し、本数も末期には朝・昼・夕数本までに削減されていった。また、交通量が劇的に増え道路事情も悪くなり、バス車体はその後に中型バス、さらにはほぼ空車状態が続いていた為に、市営バス末期には十数人乗りのマイクロバスに切り替わっていた。
  28. ^ 下電バスはマイクロを持っていなかったために、やむを得ず中型バスで運行していた。特に栗坂地区内を東西に横断する「東栗坂バス停」〜「西栗坂バス停」間は一部で道が細くなり、道一本で途中での迂回路が全くない。
  29. ^ 小さな休憩室と、三台程度しか収容出来なかった車庫施設。
  30. ^ ちなみに、車体の両側に黒字で(086-460-××××)の表記のあるタクシーは、かつての中庄営業所に所属していた車両で、庄地区近辺に精通したドライバーに当たる確立が高い。
  31. ^ 旧・2号線上の岡山市と、倉敷市境界線
  32. ^ 国内の二階建てバス]仕様の観光バスまたは、高速バスと同じ高さ。
  33. ^ (465局)以降および、(460局)はすでにほか地区で割り当てられており、また交換局も全く違うので物理的にも割り当て不可能であった。
  34. ^ 「川崎城下町」とも言われるように、多くの学生はスマートフォン一台のみという定番スタイルのほか、近年の独居老人問題も例外ではなく、固定電話を解約して生活費の切りつめで定額制の携帯への乗り換えや、離れた家族が安否確認で携帯に切り替えて持たせるなどで、庄地区における固定電話の伸びはほか地区同様に頭打ちとなってきている。
  35. ^ 庄地区最南部を、東西2kmに渡って小高い丘が広がっているため。
  36. ^ 清心女子高等学校などのいわゆる、清心学園が立地する小高い丘の北西部方面裏側となる地区。
  37. ^ 建物敷地と、L字状に隣接する小さな駐車場の敷地部分。ただし、西側の細い小道を挟んだ西側の大駐車場を除く。

続き

  1. ^ 例えば、正面左側ヘッドライトの右側角上および、車体右側外の縦長バックミラー上部には運転手。右側ヘッドライト真上には独り又は2人組みの生徒が写っている。
  2. ^ 現在の大規模なロータリーが、ほとんど拡張すること無く設置できたほどの基礎的な敷地を、開設当時は人家の少ない田園地域ながらも既に有していた。また、川崎医大病院が開院するまでの旧2号の入口(現在のハローズ中庄店前の交差点)から駅前までの道路周りは、途中の集落と交わる十字路付近に数件程度の民家が点在する以外は、両側ともにほぼ一面の水田が広がっていた。
  3. ^ 管轄地区は、上東・下庄・栗坂・松島・二子となっている。
  4. ^ 管轄地区は、山地・西尾・庄新町・矢部・日畑となっている。
  5. ^ 現在の局社は、3代目となる。初代は、北東側の3件隣の2階建て民家(現在の民家とは無関係)を使った、「松島簡易郵便局」であった。また2代目は、道路北西反対側のコンクリート造り平屋で、「松島郵便局」であった。
  6. ^ サンライフ倉敷内、市職員常駐。
  7. ^ 特別養護老人ホーム庄の里内、市職員常駐。
  8. ^ かつて旧・庄村時代より庄農業協同組合の直営で、旧・三菱石油のガソリンスタンド(フルサービス店舗)として、一号店の下庄地区(現在の、JA-SS 庄SSセルフ店)・二号店の松島地区(現在の、ベッセルホテル倉敷敷地の一部)・および、合併後に三号店となる矢部地区(ファミリーマート倉敷庄パークヒルズ店向かいの更地)の3店舗を維持していた。しかし、その後の農協合併によりスタンド直営事業からの撤退となり、一号店の下庄地区店舗を農協関連子会社に移転して、独立系スタンドとして継続している。
  9. ^ 今年8月に完成した新社屋は、旧・庄村時代から数えて3代目となる。
  10. ^ わずかな職員が常駐するも窓口業務はなく、設置されているATMのみで対応している。
  11. ^ わずかな職員が常駐するも窓口業務はなく、設置されているATMのみで対応している。
  12. ^ 元・片山産婦人科医院廃業に伴い、医院建屋の一階で新たに開院。また、片山産婦人科医院の廃業に伴い、庄地区内には数年前より「川崎医科大学付属病院」以外の産婦人科医院は、事実上消滅してしまった。
  13. ^ 東西に横長の建屋全ての敷地と、建屋南側前の一帯に広がる旧・二号線沿いの、西端ミスタードーナツ店舗と、東端トヨタレンタカー店舗横道路間の駐車場区画部部。なお、建屋西側一体に広がる駐車場は、元々の水田を拡張した区域。
  14. ^ 庄新町地区の入口かど地と、地の利もよくまた店舗大きさの割に広大な駐車場を確保して当時、人口が急増する庄パークヒルズの住人を当て込んで1987年(昭和62年)9月9日開店。その後、経営が悪化して2004年(平成16年)1月5日付けで閉店・倒産となった。現在のサークルK店舗の駐車場が広大なのは、元・スーパー跡地を全て使っているためである。また、会社自体が、小売業者の共同仕入れ団体であるCMC傘下に入っていたために、比較的安く野菜や食料品をふくめて日用雑貨品は、この店舗だけでほぼ事足りていた。しかし、倒産の影響は大きくこの店舗以外に一通り日用品の揃う店舗は、庄小学校南側のスーパーシュフレ(下庄地区/現在のマツサカプラザ庄店)がもっとも隣接していた店舗であった。その後、この店舗も倒産・再建と数度の混乱で、一時的ながらもスパー不在エリアが広がるなど、庄新町地区住人への影響は大きかった。
  15. ^ その後、2010年代に入ってからオーナーの高齢化とコンビニ間の激戦により廃業し、残った当時の店舗で現在はリサイクルショップの、『ベクトル中庄店』が営業している。
  16. ^ 元々、親会社でもありまた主力工場ともなる山崎製パン岡山工場(中四国地区最大)が、近隣の総社市内に古くから立地している関係で、鮮度の高い商品の供給力を生かしてデイリーヤマザキは、岡山県南を中心として広範囲に店舗数を伸ばしていた。しかし、その後の市場の変化と方針変更によりコンビニエンスストアー事業は、急速に廃れてしまった。この影響により2000年初頭には、全て撤退して店舗は他業種へ転業してしまった。
  17. ^ ふもとの栗坂地内からは、通勤用に私道として普通車がやっと通れる程度の幅で、急坂のルートしかない。このために、十数件の中小企業が集結して一定の規模を誇り、店舗や企業が極端に少ない栗坂地区内では群を抜いる施設ながらも、日々の入出荷物流は、当鉄工団地へ原料の鉄製品を運ぶトレーラでも通行できる進入路が、道一本で南側で隣接する早島町内の大規模な流通団地に繋がっている。この地理的環境の影響で、早島町の一角と混同されるために、庄地区内でも関係者以外には意外と知られていない、いわゆる隠れ施設となっている。
  18. ^ 倉庫建屋の敷地は、配達用ボトラーカーの駐車場および、露天の広大な空ビン保管地と、片隅に小規模な製品保管庫があった。また、倉庫南側に隣接している、古びたうすいピンク色の2階建て建屋は営業所時代の事務所兼、独身寮だった。現在も倉庫を使っている運送会社が、関連施設としてそのまま使用している。

出典

  1. ^ 倉敷市は2011年(平成23年)3月に策定した「都市計画マスタープラン」[1]の「地域別まちづくりの方針<地域別構想>」[2]において、庄支所管轄範囲を庄地区と設定している。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 庄村誌編纂委員会『庄村誌』1971年、倉敷市
  3. ^ 【整理番号 MCG702X・コース番号 C2・写真番号 3・(1970/05/30(昭45))・未開発/白黒】 ※白黒画像の中央部のやや右斜め45度下方向に、縦長ジグソーパズルのピース状の黒い地域が、開発数年前の姿。(「国土地理院の空中写真」より)
  4. ^ 【整理番号 MCG742X・コース番号 C1・写真番号 26・(1974/05/06(昭49))・造成済/白黒】 ※白黒画像のほぼ中央部に、ジグソーパズルの大きめピース状に広がる白い地域が、現在と変わらぬ全地域に渡って一気に切り開き、建築を待つばかりの区画整理が出来上がっている。(「国土地理院の空中写真」より)
  5. ^ 【整理番号 ・コース番号 C16B・写真番号 5・1975/01/31(昭50)・建築開始/カラー】 ※前回の一軒も建っていない建築直前の撮影後、わずか一年弱の短期間ですでに屋根の見える建物が、約百数十軒ほど写っている。物件に対する人気の高さが伺える。(「国土地理院の空中写真」より)
  6. ^ 1985年(昭和60年)4月17日撮影では、まだ数十件分の空き地が点在するも、おおよその完成イメージが出来つつあった。(「国土地理院の空中写真」より)
  7. ^ この時点では、学校南側へのグラウンド拡張下準備の痕跡すら見当たらず、小学校のプールも西隣の中学校の施設(中学校敷地の西端)を共有していた、従来からの変わらない風景が広がっている。(1975年(昭和50年)2月24日撮影。「国土地理院の空中写真」より)
  8. ^ 小学校側の元々のグランド内には、うっすら(高度6000mからの撮影のため)ながらも、プレハブ校舎と新築校舎の一部が伺える。また、これを裏付ける状況として、中学校も含めて南側の田地を埋め立てた、広大なグランドが完成している風景もみえる。さらにこのグランドの東南角地に新設された、小学校専用のプールもみえる。(1979年(昭和54年)5月23日撮影。「国土地理院の空中写真」より)
  9. ^ 南側校舎(川沿い)はすでに完成し、中央の校舎も半分ほど完成している。ただし、中学校寄りの講堂(現・体育館)と北側に並ぶ、旧・小中学校の共同調理場(現・拡張した共同調理場)は、従来からの古い建屋のままである。(1979年(昭和54年)5月23日撮影。「国土地理院の空中写真」より)
  10. ^ 国民健康保険における「世帯主」の取扱いについて 2001年(平成13年)12月25日 厚生労働省 保険局長 通知。2019年08月20日(火)閲覧。アーカイブ。「世帯」に関する定義は無いが、以下、世帯主の法律上の定義の部分を一部太字化して引用。
    "「世帯主」とは、通常「社会通念上世帯を主宰する者」と定義されており、「世帯を主宰する者」とは、「主として世帯の生計を維持する者であって、その世帯を代表する者として社会通念上妥当とみとめられる者」と解されている。
    そこで、地方税法第703条の4の規定による国民健康保険税の納税義務者である「世帯主」については、「主として世帯の生計を維持する者であって、国民健康保険税の納税義務者として社会通念上妥当とみとめられる者」と解することとしており(昭和26年7月9日付け保発第56号都道府県知事あて厚生省保険局長・地方財政委員会税務部長通知)、国民健康保険法にいう「世帯主」の定義についても、これに準じて取り扱うこととしているところである(昭和26年7月9日付け保発第56号の2都道府県知事あて厚生省保険局長通知)。"
    ※ 以上の文言は、世帯主ページ内より抜粋。
  11. ^ 人口月報|倉敷市
  12. ^ 水谷昌義「国鉄自動車路線網の盛衰(1)」、東京経済大学会誌No.230(平成14年7月発行)、pp.139-162より。
  13. ^ 「岡山県バス沿線ガイド」、社団法人岡山県バス協会(昭和63年発行)
  14. ^ [3] 「国土地理院の空中写真」の中庄駅前ロータリーに写っている。(1967年(昭和42年)3月2日に撮影)
  15. ^ 本館真前に揃ったラッピングバス|清心学園ホームページ
  16. ^ 青バスが今日で廃車|清心学園ホームページ
  17. ^ 庄新町地区コミュニティタクシー | 倉敷市役所ホームページ 都市計画部交通政策課
  18. ^ 敷地北側の東西に細長く伸びる薄緑の建物と、続く3区画に分かれた黄色ブロック(空き瓶を入れた、無数に積み上げられた黄色いケースの塊)の場所が、現店舗の北より位置となる。(1975年(昭和50年)2月24日撮影。「国土地理院の空中写真」より)
  19. ^ 『1999年版 日本スーパー名鑑』株式会社商業界、1998年11月20日。
  20. ^ 「国土地理院の空中写真」の、左端上部付近に既に完成している姿がみえる。(1967年(昭和42年)3月2日撮影)
  21. ^ 史跡・楯築遺跡(たてつきいせき)|倉敷市ホームページより。
  22. ^ 史跡・王墓山古墳(おうぼさんこふん)|倉敷市ホームページより。
  23. ^ 史跡・日畑廃寺(ひばたはいじ)|倉敷市ホームページより。
  24. ^ くらしきの巨樹・老樹(クスノキ)欄|倉敷市ホームページより。
  25. ^ 庄支所はすでに完成しているが、横断歩道前の水色の四角い建物が、当時の庄駐在所であった。(1975年(昭和50年)2月24日撮影。「国土地理院の空中写真」より)

関連項目

外部リンク