「オルドス高原」の版間の差分
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オルドス砂漠 2021年8月22日 (日) 01:16 の序文、概要節の第一文と最終段落「オルドスという地名は・・・漢族が多い。」の部分を転記。(ノート:オルドス盆地#記事内容の整理の提案) タグ: 差し戻し済み 曖昧さ回避ページへのリンク |
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'''オルドス地方'''([[モンゴル語]]:{{mongol|ᠣᠷᠳᠣᠰ}} Ordos、オルドスちほう、鄂爾多斯)とは、[[中国]]・[[内モンゴル自治区]]南部の[[黄河]]屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を[[万里の長城]]に囲まれた地方。行政区分としてはイフ・ジョー(伊克昭)盟が2002年に[[オルドス市]]となり、オルドス地方の大半を占める。黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、'''[[河套]]'''(かとう)ともいう。 |
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大部分が海抜1500メートル前後の[[高原]]([[準平原]])で'''オルドス高原'''と呼ばれ、南側は[[黄土高原]]に続く。 |
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オルドスという地名は、[[明]]代以降この地に住み着いた[[モンゴル人]]の部族「[[オルドス部]]」に由来する。それよりはるか前、[[旧石器時代]]から人が住み、特に紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族による[[オルドス青銅器文化]]が栄えた。[[匈奴]]、[[趙 (戦国)|趙]]、[[秦]]、[[漢]]によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や[[突厥]]系などの遊牧民が住み、遊牧民族王朝([[遼]]、[[西夏]]、[[元 (王朝)|元]]など)あるいは中華王朝([[唐]]、[[明]]など)による支配を受けた。[[清]]代から漢族が入植し、現在の住民は漢族が多い。 |
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2021年8月22日 (日) 01:26時点における版
オルドス盆地(オルドスぼんち、中国語: 鄂爾多斯盆地、英語: the Ordos Basin)または陝甘寧盆地(せんかんねいぼんち、中国語: 陕甘宁盆地)、英・独・仏語などではよくオルドス高原(英語: the Ordos Plateau)[1]のように呼ばれる地域は、中国の陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区、山西省、内モンゴル自治区にまたがる地域を指す。
黄河上・中流が「几」の字のような形で大きく時計回りに湾曲して流れて、黄土高原を削ってできた大きな盆地で、内モンゴル高原の南にあり、東北西は黄河に囲まれて、南は長城を境としていて(漢代の長城は楡林市を通っていた)、黄土高原に接している。位置は北緯37度20分~40度50分、東経106度24分~111度28分にあり、面積は12万平方メートルに及んでいる。
「オルドス」とは、モンゴル語の「オルド」に由来している。
オルドス地方(モンゴル語:ᠣᠷᠳᠣᠰ Ordos、オルドスちほう、鄂爾多斯)とは、中国・内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。行政区分としてはイフ・ジョー(伊克昭)盟が2002年にオルドス市となり、オルドス地方の大半を占める。黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、河套(かとう)ともいう。
大部分が海抜1500メートル前後の高原(準平原)でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。
オルドスという地名は、明代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。それよりはるか前、旧石器時代から人が住み、特に紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えた。匈奴、趙、秦、漢によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系などの遊牧民が住み、遊牧民族王朝(遼、西夏、元など)あるいは中華王朝(唐、明など)による支配を受けた。清代から漢族が入植し、現在の住民は漢族が多い。