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[[第2次山本内閣]]にて[[司法大臣]]として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、[[平沼内閣]]を組閣した。これにより、[[三権の長]]のうち2つ(司法と行政)を務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、[[第2次近衛内閣]]にて国務大臣や内務大臣を務めた。[[太平洋戦争]]後、[[極東国際軍事裁判]]で[[A級戦犯]]として訴追される。[[終身刑]]の判決を受け、獄中で死去した。
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政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの[[大東文化大学]])総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、[[皇典講究所]]([[國學院大學]]の設立母体)副総裁などを務めた。
政治以外の活動としては、[[慶應義塾大学]]法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの[[大東文化大学]])総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、[[皇典講究所]]([[國學院大學]]の設立母体)副総裁などを務めた。


また、[[国本社]]の創設者であり、第2代[[修養団]]団長でもある。[[無窮会]]の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、[[東洋文化学会]]でも第2代会長を務め、後に[[東洋文化研究所]]を創設して、初代所長を務めた<ref group="注釈">他方、ラルフ・ドライヤーによれば、[[ドイツ]]([[プロイセン王国]]~[[ワイマール共和政]])で[[:s:ナチスの法制及び立法綱要(刑法及び刑事訴訟法の部)|ナチス法制]]を容認した法哲学者{{仮リンク|ユリウス・ビンダー|en|Julius Binder|preserve=1}}([[ハンス・ヴェルツェル]]の師)は、[[エアランゲン大学]]、[[ヴュルツブルク大学]]および[[ゲッティンゲン大学]]の学長、エアランゲン大学哲学部および[[ソフィア大学]]法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議と[[ドイツ法学術会議]]の委員、[[ドイツ哲学会]]、[[ドイツ国家学会]]および[[国際ヘーゲル連盟]]の創設者の一人であった([[:de:Ralf Dreier|Ralf Dreier]]『[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/13-4/dhonda.pdf ユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者]』)。</ref>。
また、[[国本社]]の創設者であり、第2代[[修養団]]団長でもある。[[無窮会]]の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、[[東洋文化学会]]でも第2代会長を務め、後に[[東洋文化研究所]]を創設して、初代所長を務めた<ref group="注釈">他方、ラルフ・ドライヤーによれば、[[ドイツ]]([[プロイセン王国]]~[[ワイマール共和政]])で[[:s:ナチスの法制及び立法綱要(刑法及び刑事訴訟法の部)|ナチス法制]]を容認した法哲学者{{仮リンク|ユリウス・ビンダー|en|Julius Binder|preserve=1}}([[ハンス・ヴェルツェル]]の師)は、[[エアランゲン大学]]、[[ヴュルツブルク大学]]および[[ゲッティンゲン大学]]の学長、エアランゲン大学哲学部および[[ソフィア大学]]法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議と[[ドイツ法学術会議]]の委員、[[ドイツ哲学会]]、[[ドイツ国家学会]]および[[国際ヘーゲル連盟]]の創設者の一人であった([[:de:Ralf Dreier|Ralf Dreier]]『[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/13-4/dhonda.pdf ユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者]』)。</ref>。
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過去、[[第2次若槻内閣]]や[[浜口内閣]]に対する攻撃、[[天皇機関説排撃事件]]などで、[[元老]][[西園寺公望]]に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。
過去、[[第2次若槻内閣]]や[[浜口内閣]]に対する攻撃、[[天皇機関説排撃事件]]などで、[[元老]][[西園寺公望]]に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。


なお西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。辞職を希望する[[一木喜徳郎]]枢相が後任に平沼を推す一方、平沼派は一木枢相の後任に平沼でなく[[清浦奎吾]]を推していた。
なお西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。辞職を希望する[[一木喜徳郎]]枢相が後任に平沼を推す一方、平沼派は一木枢相の後任に平沼でなく[[清浦奎吾]]を推していた(ただし清浦は西園寺とほぼ同世代で天皇機関説事件当時85歳)


ただ西園寺は、1932年に首相[[犬養毅]]が武装[[海軍]]青年将校らに殺害された[[五・一五事件]]の後も、まだ[[政党内閣]]を続けるつもりであり、また、[[立憲政友会]]右派の[[森恪]]らも、総裁に[[鈴木喜三郎]]を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「[[憲政の常道]]」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への[[大命降下]]となる)。
ただ西園寺は、1932年に首相[[犬養毅]]が武装[[海軍]]青年将校らに殺害された[[五・一五事件]]の後も、まだ[[政党内閣]]を続けるつもりであり、また、[[立憲政友会]]右派の[[森恪]]らも、総裁に[[鈴木喜三郎]]を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「[[憲政の常道]]」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への[[大命降下]]となる)。
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そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から[[塩野季彦]]法相兼逓相、[[荒木貞夫]]文相、[[木戸幸一]]内相、[[有田八郎]]外相、[[八田嘉明]]商工相兼拓務相、[[米内光政]]海相、[[板垣征四郎]]陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『[[アサヒグラフ]]』はこれを「平沼・近衛交流内閣」と皮肉っている。
そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から[[塩野季彦]]法相兼逓相、[[荒木貞夫]]文相、[[木戸幸一]]内相、[[有田八郎]]外相、[[八田嘉明]]商工相兼拓務相、[[米内光政]]海相、[[板垣征四郎]]陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『[[アサヒグラフ]]』はこれを「平沼・近衛交流内閣」と皮肉っている。


しかし同時に、[[末次信正]]、[[有馬頼寧]]、[[風見章]]らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは[[観念右翼]]と評される平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型[[国家社会主義]]の亜流として警戒していたことを意味している。
しかし同時に、近衛系の人材でも[[末次信正]]、[[有馬頼寧]]、[[風見章]]らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは[[観念右翼]]と評される平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型[[国家社会主義]]の亜流として警戒していたことを意味している。


最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という[[近衛声明]]に基づき、[[汪兆銘政権]]を成立させ、これと外交的解決を図ることで[[日中戦争]]の幕引きを狙ったが、意図したような[[中国国民党]]内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という[[近衛声明]]に基づき、[[汪兆銘政権]]を成立させ、これと外交的解決を図ることで[[日中戦争]]の幕引きを狙ったが、意図したような[[中国国民党]]内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。

2021年8月2日 (月) 11:54時点における版

平沼 騏一郎
ひらぬま きいちろう
大礼服を着用した平沼
生年月日 慶応3年9月28日
1867年10月25日
出生地 日本の旗 日本 美作国津山城南新座
(現・岡山県津山市
没年月日 (1952-08-22) 1952年8月22日(84歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 帝国大学法科大学卒業
前職 大審院検事局検事総長
称号 正二位
勲一等旭日桐花大綬章
男爵
法学博士
親族 平沼晋(父)
平沼淑郎(兄)
平沼赳夫(養子・曾姪孫)
サイン

内閣 平沼内閣
在任期間 1939年1月5日 - 1939年8月30日
天皇 昭和天皇

日本の旗 第21代 枢密院議長
在任期間 1945年4月9日 - 1945年12月3日

日本の旗 第62代 内務大臣
内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年12月21日 - 1941年7月18日

内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年12月6日 - 1940年12月21日

日本の旗 第17代 枢密院議長
在任期間 1936年3月13日 - 1939年1月5日

その他の職歴
日本の旗 第11代 枢密院副議長
1926年4月12日 - 1936年3月13日)
日本の旗 第27代 司法大臣
1923年9月6日 - 1924年1月7日
日本の旗 貴族院議員
(1924年1月9日 - 1924年2月7日
日本の旗 第8代 検事総長
1912年12月21日 - 1921年10月5日
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平沼 騏一郎(ひらぬま きいちろう、1867年10月25日慶応3年9月28日〉- 1952年昭和27年〉8月22日[1])は、日本司法官僚政治家位階正二位勲等勲一等爵位男爵学位法学博士機外

大審院検事局検事総長(第8代)、大審院長(第11代)、日本大学総長(第2代)、大東文化学院総長(初代)、財団法人大東文化協会会頭(第3代)、司法大臣第26代)、貴族院議員、枢密院副議長(第11代)、枢密院議長(第17・21代)、内閣総理大臣第35代)、国務大臣内務大臣第62代)などを歴任した。

概要

フロックコートを着用した平沼

東京控訴院部長や大審院検事局検事を務めたのち、司法省にて民刑局の局長などを経て次官に就任した。その後、大審院検事局にて検事総長に就任し、さらに、大審院の院長を務めた。法曹界で権力を持ち、保守・右派勢力の中心人物として暗躍し、帝人事件企画院事件の黒幕ではないかと見なされた。

第2次山本内閣にて司法大臣として入閣を果たす。貴族院議員、枢密顧問官などを経て、枢密院の副議長や議長を務めた。内閣総理大臣に指名され、平沼内閣を組閣した。これにより、三権の長のうち2つ(司法と行政)を務めたことになる。内閣総理大臣退任後は、第2次近衛内閣にて国務大臣や内務大臣を務めた。太平洋戦争後、極東国際軍事裁判A級戦犯として訴追される。終身刑の判決を受け、獄中で死去した。

政治以外の活動としては、慶應義塾大学法学部教授、日本大学総長、大東文化学院(のちの大東文化大学)総長、大東文化協会(大東文化大学の設立母体)会頭、皇典講究所國學院大學の設立母体)副総裁などを務めた。

また、国本社の創設者であり、第2代修養団団長でもある。無窮会の創立者として、相談役、第2代会長、理事などを歴任し、東洋文化学会でも第2代会長を務め、後に東洋文化研究所を創設して、初代所長を務めた[注釈 1]

生涯

生い立ち

1867年10月25日慶応3年9月28日)、津山城南新座(のちの岡山県津山市)に津山藩だった平沼晋1832年 - 1914年)の次男として生まれる。

1872年に上京して同郷・箕作秋坪の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学び、1878年東京大学予備門入学。在学中、明治十六年事件に関与する[2]

1888年帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業し、その後司法界で出世していった。

首相就任まで

1937年5月31日内大臣湯浅倉平(右)と

明治年間の第1次桂内閣末期、実業界の資金不足のために民間から資金を集める方法が議論され、社債の相談を持ちかけられた司法部の平沼が、社債信託法採用の意見を述べた。当時はまだ先進国でも英国のみに存在する法律であったが、曾禰荒助大蔵大臣に直に頼まれて、池田寅二郎試補を相手にほとんど平沼一人で社債信託法を立案し、審査を経て成立させた。

1907年3月、鈴木喜三郎とともに司法制度の取調のため欧米各国に派遣される[3]

1908年刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となった。

1910年幸徳事件大逆事件)では、検事として幸徳秋水らに死刑求刑した[4]。この裁判は「暗黒裁判」として今でも批判があるが、当時の左翼思想に対する危機感・恐怖感を考慮しなければならないという指摘もある[5]

1913年4月、司法大臣の松室致と協力し、「裁判所廃止及名称変更ニ関スル法律」「判事及検事ノ休職並判事ノ転所ニ関スル法律」を成立させ、229人の判事・検事を一挙に休・退職とし、443人にのぼる異動を発令した。それまでの大逆事件などでの功績から、特に1910年代以降、司法部内での検察権の独立が公然と実態化し、絶対的優位化した。平沼が大審院長となった1921年には、これに伴い裁判所構成法改正で検事総長の地位が司法大臣大審院長と同レベルに引き上げられた。また1922年改正の刑事訴訟法には起訴便宜主義が取り入れられ、検察官の権限は大幅に拡大された[6]1923年には法曹会会長として同会の会報『法曹記事』を改題し『法曹会雑誌』を創刊し、判例に準ずる「法曹会決議」の発表を開始した。同年の関東大震災直後には大審院長を辞任したが、その翌日には治安維持法の前身となる勅令治安維持の為にする罰則に関する件が下った、俗に、平沼 - 鈴木喜三郎 - 小山松吉 ラインが思想検事系列の礎として形容されていった[7]

政治姿勢はきわめて保守的かつ国粋主義的であり、民主主義社会主義、またナチズムファシズム共産主義といった外来思想を、常に危険視していた。自身の経歴を生かして主に司法界と枢密院に大きな影響力を持ち、これに国本社を中心とした大衆的な支持を加えて、教化運動や自己の秩序観の高調を行ったが、特に国本社は政界の惑星を頭目とする点で、世人の注目を浴びた。

過去、第2次若槻内閣浜口内閣に対する攻撃、天皇機関説排撃事件などで、元老西園寺公望に嫌われており、本人の強い希望にもかかわらず首相候補に推されることがなく、また枢密院議長に就任できずに副議長に留め置かれたままであった。

なお西園寺側は天皇機関説事件の黒幕を平沼と誤認していたが、当時平沼は枢密院議長ではなく内閣総理大臣として軍部を統制することを目指しており、平沼の陰謀とすることは難しい。辞職を希望する一木喜徳郎枢相が後任に平沼を推す一方、平沼派は一木枢相の後任に平沼でなく清浦奎吾を推していた(ただし清浦は西園寺とほぼ同世代で天皇機関説事件当時85歳)。

ただ西園寺は、1932年に首相犬養毅が武装海軍青年将校らに殺害された五・一五事件の後も、まだ政党内閣を続けるつもりであり、また、立憲政友会右派の森恪らも、総裁に鈴木喜三郎を選出し、次期首相に推していた(いわゆる「憲政の常道」では首相死去による内閣総辞職の場合は与党の後継党首への大命降下となる)。

ここで斎藤実が、シーメンス汚職事件によって海軍大臣を引責辞任したという経歴を持ちながらも[8]総理大臣外務大臣に任命された主な理由は、犬養内閣陸軍大臣でもあった荒木貞夫が元老の西園寺に、政党内閣拒絶の意を伝えていたことと、親英米派だった昭和天皇の意向があったという。

斎藤内閣が発足した後の9月15日には、前年の陸軍関東軍による満州事変をうけ、満洲国の間で日満議定書が締結され、翌1933年には国際連盟を脱退するに至った。

平沼は1934年、西園寺と彼が育てた立憲政友会斎藤内閣を潰すため、帝人事件を起こして司法省検察庁国策捜査(当時でいう「検察ファッショ」)を行わせたという説がある。他方、司法省は同年の機関紙でプロシア邦の司法大臣ハンス・ケル『ナチスの刑法』を翻訳出版している。

ただ、司法省の裁判官の石田和外らは4月、起訴内容は無実無根であるとして被告ら全員に無罪判決を言い渡した(司法大臣は小山松吉)。平沼の意向を受けた検事達の捜査が政友会幹部らの逮捕を優先したため、裏付けとなる証拠収集が杜撰であったとも言われる。しかし、この無罪判決によっても政権批判の世論が収束に向かうことはなく、斎藤内閣は7月、内閣総辞職した。

平沼は、この事件以降は慎重を期し、高齢化した西園寺が政治の表舞台から一歩引いた後は、1936年3月に枢密院議長に就任して国本社を解散するなど、親英米派と妥協することで首相の座に就いたという。枢密院議長となって2カ月後の5月には、思想犯保護観察法が成立し、司法省(大臣林頼三郎)からはハンス・フランクナチスの法制及び立法綱要』を翻訳出版されている(司法省『司法資料』)。なお、この時期に郷土津山の人々が旧平沼家跡に旧邸を復元し(1937年~1938年)、平沼に贈呈している。この施設は知新館(旧平沼騏一郎別邸)として現存している[9]

平沼騏一郎の旧別邸。現在は知新館として利用されている。

なお、平沼は戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語ったことがあるとされ、西園寺を敵視していたことが窺える[10]

平沼内閣

1939年1月5日班列近衛文麿(最前列右)ら平沼内閣の閣僚と
1939年、衆議院予算総会審議にて陸軍大臣板垣征四郎(中列左)、海軍大臣米内光政(中列中央)と

1939年1月に発足した平沼内閣は、基本的に第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列(無任所大臣)として残留してこれに協力した。

そのうえ議会が近いという事情から、近衛内閣から塩野季彦法相兼逓相、荒木貞夫文相、木戸幸一内相、有田八郎外相、八田嘉明商工相兼拓務相、米内光政海相、板垣征四郎陸相の七閣僚が留任、あたかも首のすげ替えの様相を呈した。週刊『アサヒグラフ』はこれを「平沼・近衛交流内閣」と皮肉っている。

しかし同時に、近衛系の人材でも末次信正有馬頼寧風見章らのような熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。これは観念右翼と評される平沼が、新体制運動・制度改革論者をナチス型国家社会主義の亜流として警戒していたことを意味している。

最大の懸案である対中問題では「爾後國民政府ヲ對手トセズ」という近衛声明に基づき、汪兆銘政権を成立させ、これと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。

一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えていった。

しかし、1939年(昭和14年)4月9日に親日的とみなされていた程錫庚海関(開港場の税関)監督を抗日ゲリラに暗殺狙撃される事件がおこり、犯人が潜伏した天津イギリス租界での事件調査をめぐってイギリスが犯人の引き渡しを拒否して対立した。本間雅晴天津軍防衛司令部の名で陸軍が英仏租界の交通を制限し、英租界を事実上封鎖するという問題に発展していく(天津英租界封鎖事件)。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、1939年7月26日に日米通商航海条約を廃棄を通告され、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する(野村・グルー会談にのる新条約、暫定条約の試みも成功せずに日米通商航海条約は1940年1月26日に失効)。

さらに1939年8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫する国境紛争がおきた(ノモンハン事件)。また8月23日独ソ不可侵条約が締結され、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としつつ軍事同盟をドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視した容共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ、8月28日欧洲の天地は複雑怪奇」という声明とともに総辞職した。

なお独ソ不可侵条約締結の発表前から、独ソ接近の情報は世界的にも広まっており、1939年7月7日に日支事変二周年の記念式典にて平沼に対し新聞記者が「独ソ接近説について如何」と意見を求め、平沼は「通商等の経済上の問題で接近が無いとは断言が出来ない。しかし、政治的に独ソの間の接近があるなぞとは認めない」と返答していた[11]。外交的な敗北といえよう。

退陣後

1939年8月31日総理大臣官邸にて後任の内閣総理大臣である阿部信行(右)と

近衛文麿の新体制運動に関しては皇道派軍人とともに批判的な立場をとった(二・二六事件以降、皇道派勢力は弱体化していたが、この時期には陸軍の反主流派としていくらか勢力を回復していた)。これは観念右翼の総帥であった平沼が、新体制運動をナチスドイツの模倣と見做し反発していたからである。後述のように平沼は、ナチスを社会主義思想の一種として軽蔑していた。

1940年、11月の下旬に新体制推進派から距離を置くことを考え始めた近衛は、第2次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を司法相、平沼を内相とした。これは近衛の観念右翼への屈服、新体制運動からの後退を意味するものであった。

内相に就任した平沼は財界から批判のあった経済新体制要綱を骨抜きにし、新体制推進派から協力的であるとして賞賛されていた矢野兼三富山県知事を休職処分したのを手始めに内務省の人事を一新、この原案を作成した企画院の官僚らを共産主義運動・人民戦線運動にかかわったものとして逮捕を指令し(企画院事件)、その余波で岸信介商工次官を辞職に追い込んだ。こうして平沼はナチス型統制経済を目指す官僚グループを次々に追放した。また平沼は大政翼賛会を公事結社として政治活動を禁じ、有馬頼寧らを辞職させ、新体制推進勢力をさらに後退させる。また平沼は米国駐日大使であるジョセフ・グルーらと面会して、悪化していた米国との関係修復を目指している。「親ドイツ色」を中央政界から取除くことがこの時期の平沼の行動目的であった。

このような平沼の行動は革新勢力の批判を浴び、ドイツ・ソ連から帰国した松岡洋右外相は平沼を強く非難し、松岡と平沼は閣内で対立した。

しかし、松岡は陸海軍とも対立し天皇からも不興を買って、松岡を排除するためだけに第3次近衛内閣が組閣され松岡洋右は閣外に追放される。

1941年第3次近衛内閣においては平沼は内閣参議・無任所国務大臣となり、自分の代わりとして田辺治通を内務大臣に据えた。こうして平沼は対米関係修復を目指す第3次近衛内閣での実力者と目され、右翼団体勤王まことむすびから狙撃される。弾丸6発を被弾する重傷だったが一命をとりとめた。開戦の賛否を討議する開戦直前の重臣会議では、平沼は開戦に消極的な見解を表明した。

戦時下では重臣として岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎らとともに東條内閣倒閣に活躍。内務省、検察、右翼勢力などに影で大きな権力をもつ平沼の存在は、和平派重臣にとって大きな力であり、平沼の邸宅で反東條派の重臣の秘密会合が開かれることもあった。

東條内閣辞職後の重臣会議では「敬神家」として小磯國昭を推し、小磯内閣辞職後には他の重臣とともに鈴木貫太郎を推した。

1945年4月には首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。

しかし平沼は戦時下、一貫して和平派重臣だったかというと必ずしもそうではなく、彼は和平派と協調するかと思えば降伏反対を唱えることもあり、天皇への上奏の折には明確な主張を見せないなどその立場は一貫していない。たとえば枢密院議長であった平沼は、広島へ原爆投下・ソ連参戦直後、ポツダム宣言受諾を決定する御前会議のメンバーであったが、会議の直前、和平派の米内光政海相は「平沼男爵は和戦どちらにつくか、危ないぞ、大丈夫か」と心配している。この御前会議では平沼は曖昧な表現ながらポツダム宣言受諾側に一票を投じ米内の心配は杞憂におわった。

しかし、東郷茂徳外相が受諾案において天皇の扱いを「国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる了解の下受諾する」としていたことに異議を唱え、「国家統治の大権に変更を加うるが如き要求は之を包含し居らざる」に変更させ、連合国から当初の受諾案を拒絶される結果も招いた[注釈 2]

こうした曖昧な態度は『昭和天皇独白録』で昭和天皇に厳しく批判され「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている。世論全体や強硬派からは和平推進派とみなされており、このため終戦決定に反発する横浜警備隊長であった佐々木武雄陸軍大尉を隊長とした横浜高等工業学校の学生らによって構成された「国民神風隊」のテロリズムによって終戦未明、自宅を焼き討ちされた(宮城事件)。平沼も鈴木貫太郎同様に二度も強硬派に命を狙われかけた。

A級戦犯

太平洋戦争後、A級戦犯として東京裁判終身禁錮を宣告され、刑務所内では深夜に泣き叫ぶなどの奇行が多かったという。1952年に病気のため仮釈放を赦されたものの、同年8月22日に死去した。享年84(満84歳没)。

読売新聞朝日新聞は、平沼の「戦犯の罪」は死去により消滅した、と報じた[12][13]

1978年靖国神社に合祀された。

逸話・語録

  • 「外交は建国の皇謨に則り、道義を基礎として世界の平和と文化とに寄与するを第一義とし、この方針の下に対欧政策を考慮し、屡次これを闕下に奏聞し来ったのであります」(昭和14年8月28日)
  • 「どうも日本人は西洋かぶれをしたがる。殊に地位に在る人―政治家と云はれる人、学者と云はれるやうな人がさうである。一時は民主説とか国際説とかにかぶれた。近頃は米英崇拝をやめて独逸崇拝となり、ナチスにかぶれている。そしてあんなものを作らねばならぬと言つて居るが、それは国体に反する」「これは国家社会主義で、ソ聯のとそんなに距たりがあるものでない。日本の国体に反する点は殆ど同様で、共々に害を流すものと思ふ」(昭和17年5月19日)
  • 「日本は君主国であると云ふ。君主国なら西洋にもあるでないかと反問される。すると日本は万世一系であると云ふ。さう云ふことならエチオピヤが日本より古いではないかと反駁される。君主は統治権をもつとか、万世一系とか、そんな形式的なことでは国体は明らかにされない。どこに万世一系があるか、皇室と国民との関係を明らかにせねばならぬ。日本で親子の関係は自然であるから誰でも判る。日本の国体もその方面から論じなければならぬ」(昭和17年5月19日)
  • 「非常に危機に瀕したのは維新当時である。それから我々が覚えて危機であつたのは欧洲大戦である。知識階級はデモクラシーにインターナショナルである。国家主義などは古い、国際主義でいかねばならぬ、皇室は存してもデモクラシーでいかねばならぬと立派な人でも言つてゐた。真向から之に反対したのは私だらう。その故に頭が古い奴だと言はれた。皇室はあつても置物にしやうとした。そこで私は皇室神聖を説いたので、迷信家だとか、頑迷だとか西園寺から言はれた」(昭和18年2月23日)

年表

栄典・授爵

位階
授爵・勲章等
外国勲章佩用允許

その他

家族

終生独身(2020年現在内閣総理大臣を務めた人物の中で唯一)であった。

祖父織右衛門保信は能書家で津山藩士で祐筆をつとめている。騏一郎の父は津山藩(儒学者)の沼織右衛門保信の子で詩書に堪能で、廃藩置県までは旧藩主松平慶倫の教育係をつとめた。騏一郎はその二男で、妹もいる。祖母千鶴は、子守歌として孫たちに唐詩を唄っていたという。

なお、元衆議院議員で騏一郎の養子平沼赳夫は、騏一郎の兄である経済史学者で早稲田大学学長(注:総長ではない)を務めた平沼淑郎の曾孫であり、騏一郎の曾姪孫である。赳夫の父は大協石油勤務の中川恭四郎で、彼は石川県金沢市出身の内務官僚・中川友次郎の四男であった。また、赳夫の母は淑郎の孫娘節子(東京裁判で平沼の代理として証言台に立つ)である。つまり、赳夫は平沼家とは女系繋がりとなる。当初は赳夫のみ養子にする予定だったが、結局、恭四郎一家を養子として平沼姓を名乗らせた。

系譜

平沼家

平沼家は江戸時代津山藩士として藩主松平家に仕えた武士家系だった。平沼家について『日本現今人名辞典』(明治33年)によれば、「…其先詳ならず八代の祖織右衛門延良駿府[注釈 3]與力たり弓術に長ず享保[注釈 4]津山藩士籍に列す」という。騏一郎から7代前に駿府から津山に移った。平沼家は代々養子が家督を相続していたが、騏一郎の父・が初めての実子であった。

平沼騏一郎を演じた人物

著書

  • 『法律教科書 債権法総則』東京専門学校出版部、1901年9月。 NCID BA30741782全国書誌番号:40025535 
  • 『民法総論』日本大学有斐閣、1905年5月。全国書誌番号:40026036 
  • 『刑事訴訟法改正案要旨』日英堂・松華堂、1917年5月。 NCID BN13042392全国書誌番号:72013360 
  • 『新刑事訴訟法要論』日本大学、1923年3月。全国書誌番号:43038330 
  • 『建国の精神と修養団の使命』修養団〈愛と汗叢書 第6輯〉、1925年12月。全国書誌番号:42013587 
  • 『建国之精神と修養団之使命』修養団〈修養団叢書 第6輯〉、1929年6月。 NCID BB25735573 
  • 『債権法総則』日本大学出版部、1932年11月。 NCID BA38122911全国書誌番号:46091422 
  • 『建国の精神と融和問題』中央融和事業協会〈融和資料 第9輯〉、1927年12月。 NCID BA38313272 
    • 『建国の精神と融和問題』(再版)中央融和事業協会〈融和資料 第9輯〉、1928年5月。全国書誌番号:44019634 
    • 『建国の精神と融和問題』(3版)中央融和事業協会〈融和資料 第6輯〉、1932年8月。全国書誌番号:44025456 
  • 『満洲新国家と修養団』修養団、1933年6月。全国書誌番号:44032249 
  • 『国体に関する訓辞』農村自治研究倶楽部、1935年3月。 NCID BB23515168全国書誌番号:44019793 
  • 『国体に関する訓辞 附・非常時の意義』修養団、1935年4月。 NCID BB25735835全国書誌番号:44023079 
  • 『祭祀と事業に就て』東京市下谷区、1938年11月。全国書誌番号:44026107 
  • 『祭祀と事業』修養団、1938年4月。 NCID BN16110659全国書誌番号:46054550 
  • 『機外清話』修養団、1939年7月。 NCID BA30080691全国書誌番号:46048719 
  • 『日本精神発揚講演集』国民精神総動員中央連盟、1939年3月。 NCID BA44850593全国書誌番号:46068694 
  • 『我が国体と祭政一致』神祇院、1940年12月。 NCID BB08871203全国書誌番号:20581916 
  • 『国体と祭政一致』修養団、1941年7月。 NCID BB25735664 
  • 『平沼騏一郎回顧録』平沼騏一郎回顧録編纂委員会、1955年8月。 NCID BN04495228全国書誌番号:56003912 

脚注

注釈

  1. ^ 他方、ラルフ・ドライヤーによれば、ドイツプロイセン王国ワイマール共和政)でナチス法制を容認した法哲学者ユリウス・ビンダー英語版ハンス・ヴェルツェルの師)は、エアランゲン大学ヴュルツブルク大学およびゲッティンゲン大学の学長、エアランゲン大学哲学部およびソフィア大学法学部名誉博士、ゲッティンゲン学術会議とドイツ法学術会議の委員、ドイツ哲学会ドイツ国家学会および国際ヘーゲル連盟の創設者の一人であった(Ralf Dreierユリウス・ビンダー(1870 - 1939年) — 帝国とナチスの間の法哲学者』)。
  2. ^ 枢密院は条約の批准権を持っていたため、条約の一種と見なされたポツダム宣言受諾は平沼の同意がなければ正式決定できなかった。
  3. ^ 駿府は今の静岡市
  4. ^ 享保江戸時代中御門天皇桜町天皇の時代。西暦1716年から1735年までの期間。

出典

  1. ^ 平沼騏一郎 | 近代日本人の肖像
  2. ^ 平沼 騏一郎”. 岡山県立図書館. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月10日閲覧。
  3. ^ 国立公文書館蔵「司法省民刑局長兼検事平沼騏一郎外一名欧米各国ヘ被差遣ノ件」任B00464100
  4. ^ 幸徳事件 Archived 2009年6月6日, at the Wayback Machine.
  5. ^ 『いわゆるA級戦犯』(小林よしのり幻冬舎、2006年6月) P144
  6. ^ なお、この法案が提出された2月7日には、憲法の番人であった枢密院の議長は空き席であった
  7. ^ 『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P13~P14
  8. ^ 斎藤実は、その後の朝鮮総督の時期に子爵となっていた。
  9. ^ [1]津山瓦版 - 知新館(旧平沼騏一郎別邸)
  10. ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年(1952年)8月号掲載)より。
  11. ^ 事変はどう片付くか,小林一三,実業之日本社 1939年7月発行 pp.4
  12. ^ 「平沼騏一郎氏」(訃報)『朝日新聞』昭和27年8月22日。
  13. ^ 「平沼元首相死去」『読売新聞』昭和27年8月23日。
  14. ^ 『官報』第3427号、大正13年1月29日。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 法廷証第107号: [平沼騏一郎關スル人事局履歴書]
  16. ^ 『官報』第2547号「叙任及辞令」1891年12月24日。
  17. ^ 『官報』第2850号「叙任及辞令」1892年12月26日。
  18. ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
  19. ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
  20. ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
  21. ^ 『官報』第5839号「叙任及辞令」1902年12月18日。
  22. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  23. ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
  24. ^ 『官報』第1148号「叙任及辞令」1916年5月31日。
  25. ^ 『官報』第658号「叙任及辞令」1921年6月11日。
  26. ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
  27. ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1934年12月29日。
  28. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  29. ^ 『官報』第5995号「叙任及辞令」1903年6月27日。
  30. ^ 『官報』第6450号「叙任及辞令」1904年12月28日。
  31. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
  32. ^ 『官報』第510号「叙任及辞令」1914年4月14日。
  33. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  34. ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」1916年1月20日。
  35. ^ 『官報』第90号「叙任及辞令」1927年4月20日。
  36. ^ 『官報』第393号「叙任及辞令」1928年4月23日。
  37. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  38. ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。
  39. ^ 『官報』第3899号「叙任及辞令」1940年1月9日。
  40. ^ 『官報』第4106号「叙任及辞令」1940年9月11日。

参考文献

研究一覧

  • 藤野豊「国本社における水平運動観―平沼騏一郎,中央融和事業協会会長就任の背景」、『部落問題研究』通号84、1985年8月
  • 加藤陽子「昭和一四年の対米工作と平沼騏一郎」、『史学雑誌』第94編11号、1985年11月
  • 滝口剛「満州事変期の平沼騏一郎―枢密院を中心に―」、『阪大法学』通号151、1989年8月
  • 滝口剛「平沼騏一郎と太平洋戦争―対外態度における2重性を中心に」、『阪大法学』通号159、1991年7月
  • 高橋勝浩「首相平沼騏一郎と「道義外交」―防共協定強化問題と「支那事変」処理―」、『国史学』通号164、1998年2月
  • 高橋勝浩「重臣としての平沼騏一郎―終戦と国体護持へむけて」、『軍事史学』通号142、2000年9月
  • 鈴木望「平沼騏一郎博士と神習文庫―帝室制度審議委員会との関連に就きて―」、『東洋文化』復刊第100號(通巻第332號)、平成20年4月
  • 柴田紳一「平沼騏一郎の枢相再任と御前会議参列」、『栃木史学』第二十六号、2012年3月

関連項目

外部リンク

公職
先代
近衛文麿
日本の旗 内閣総理大臣
第35代:1939年
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先代
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日本の旗 枢密院議長
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次代
近衛文麿
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司法職
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