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'''織田昌澄'''(おだ まさずみ、[[天正]]7年([[1579年]]) - [[寛永]]18年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[1641年]][[5月5日]]))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[津田信澄]]の長男。生母は[[明智光秀]]の娘。別名、信重。通称庄九郎、三左衛門、主水、道半斎。
'''織田昌澄'''(おだ まさずみ、[[天正]]7年([[1579年]]) - [[寛永]]18年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[1641年]][[5月5日]]))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[津田信澄]]の長男。生母は[[明智光秀]]の娘。別名、信重。通称庄九郎、三左衛門、主水、道半斎。


[[藤堂高虎]]の家来として[[文禄の役]]に出陣する。後に[[藤堂氏|藤堂家]]を去り、[[豊臣氏|豊臣家]]に仕える。[[大坂冬の陣]]で藤堂などと戦い、[[豊臣秀頼]]から褒賞を受ける。なお、大坂の陣に際し、長男勘七郎は戦死している。[[大坂城]]落城後、徳川方に出頭するものの、[[徳川家康]]は助命する。以後、剃髪して道半斎と号する。
[[藤堂高虎]]の家来として[[文禄の役]]に出陣する。後に[[藤堂氏|藤堂家]]を去り、[[豊臣氏|豊臣家]]に仕える。[[大坂冬の陣]]で藤堂高虎の部隊などと戦い、活躍し、[[豊臣秀頼]]から褒賞を受ける。なお、大坂の陣に際し、長男勘七郎は戦死している。[[大坂城]]落城後、徳川方に出頭するものの、[[徳川家康]]は助命する。以後、剃髪して道半斎と号する。


[[元和]]4年([[1618年]])11月、将軍[[徳川秀忠]]に旗本として召し抱えられて、[[近江国|近江]][[甲賀郡]]内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。寛永18年(1641年)3月26日死去、享年63。
[[元和]]4年([[1618年]])11月、将軍[[徳川秀忠]]に旗本として召し抱えられて、[[近江国|近江]][[甲賀郡]]内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。寛永18年(1641年)3月26日死去、享年63。

2006年10月24日 (火) 00:31時点における版

織田昌澄(おだ まさずみ、天正7年(1579年) - 寛永18年3月26日1641年5月5日))は江戸時代旗本津田信澄の長男。生母は明智光秀の娘。別名、信重。通称庄九郎、三左衛門、主水、道半斎。

藤堂高虎の家来として文禄の役に出陣する。後に藤堂家を去り、豊臣家に仕える。大坂冬の陣で藤堂高虎の部隊などと戦い、活躍し、豊臣秀頼から褒賞を受ける。なお、大坂の陣に際し、長男勘七郎は戦死している。大坂城落城後、徳川方に出頭するものの、徳川家康は助命する。以後、剃髪して道半斎と号する。

元和4年(1618年)11月、将軍徳川秀忠に旗本として召し抱えられて、近江甲賀郡内などで2000石を与えられる。以後、束髪して主水と称する。寛永18年(1641年)3月26日死去、享年63。

正室は安西氏。子女は2男9女。次男信高が家督を相続する。

先代:
津田信澄

織田信行系昌澄流
初代

次代:
信高