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'''織田 信則'''('''おだ のぶのり'''、[[慶長]]4年([[1599年]]) - [[寛永]]7年[[1月2日 (旧暦)|1月2日]]([[1630年]][[2月13日]]))は、[[丹波国|丹波]][[柏原藩]]の第2代藩主。初代藩主・[[織田信包]]の三男で、[[織田信長]]の甥に当たる。官位は従四位下侍従、式部少輔、刑部大輔。 |
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[[1614年]]、父の死去により後を継ぐ。1616年10月25日、従五位下侍従に叙任する。後に従四位下侍従に昇進した。1620年1月18日、大坂城の修築工事を命じられる。[[1626年]]、[[徳川家光]]の上洛に付き従った。1630年正月2日、32歳で死去した。法号:陽岩徳公恵照院。墓所:[[東京都]][[渋谷区]]恵比寿南の松泉寺。 |
[[1614年]]、父の死去により後を継ぐ。遺領の相続にあたって、兄[[織田信重|信重]]から異論が出されるものの、幕府によってしりぞけられた。1616年10月25日、従五位下侍従に叙任する。後に従四位下侍従に昇進した。1620年1月18日、大坂城の修築工事を命じられる。[[1626年]]、[[徳川家光]]の上洛に付き従った。1630年正月2日、32歳で死去した。法号:陽岩徳公恵照院。墓所:[[東京都]][[渋谷区]]恵比寿南の松泉寺。 |
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正室は[[岡部長盛]]の娘。一男二女あり。 |
正室は[[岡部長盛]]の娘。一男二女あり。 |
2006年10月24日 (火) 00:20時点における版
織田 信則(おだ のぶのり、慶長4年(1599年) - 寛永7年1月2日(1630年2月13日))は、丹波柏原藩の第2代藩主。初代藩主・織田信包の三男で、織田信長の甥に当たる。官位は従四位下侍従、式部少輔、刑部大輔。
1614年、父の死去により後を継ぐ。遺領の相続にあたって、兄信重から異論が出されるものの、幕府によってしりぞけられた。1616年10月25日、従五位下侍従に叙任する。後に従四位下侍従に昇進した。1620年1月18日、大坂城の修築工事を命じられる。1626年、徳川家光の上洛に付き従った。1630年正月2日、32歳で死去した。法号:陽岩徳公恵照院。墓所:東京都渋谷区恵比寿南の松泉寺。
正室は岡部長盛の娘。一男二女あり。
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