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* [[東海道]]'''興津'''宿旧[[旅籠]][[脇本陣]]「水口屋〈みなぐちや〉(一碧楼水口屋)」([[静岡市]][[清水区]])-[https://www.visit-shizuoka.com/spots/detail.php?kanko=484 水口屋ギャラリー] |
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2021年5月13日 (木) 07:30時点における版
興津(おきつ)は、静岡県静岡市清水区の地名。この辺りの海辺は、古来から清見潟と呼ばれ、歌枕として名を馳せた。
興津という地名は、興津宗像神社祭神の1柱・興津島姫命(おきつしまひめのみこと)がこの地に住居を定めたことからといわれている[1]。また、平安末期から興津氏が居住していたのでその名を地名にしたとの説もある。古代での呼び名は奥津 (おくつ) 、息津(おきつ)、沖津 (おきつ) ともいわれている。現在、興津と呼ばれる区域は1961年に当時の清水市と合併した旧興津町と重なる。
歴史
風光明媚で知られた清見潟は、古代、清見関(きよみがせき)と息津(おきつ)駅が置かれた。この場合の息津は現在の興津と異なり、西寄りの横砂あたりではないかと言われている。江戸時代には興津宿として東海道五十三次の17番目の宿場町として発展し、明治以降は鉄道が開通したことにより、西園寺公望などの元勲の別荘が建ち、避寒地として全国的にも知られていた。現在、清見潟の海岸寄りは埋め立てられ、清水港の興津埠頭となっている。
- 680年頃-東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、清見関と呼ばれた。のち関所の鎮護として仏堂が建立され、この仏堂を以って清見寺の始めと伝えている。
- 927年-延喜式が奏進され、その中の諸国駅伝馬条に息津の駅家には駅馬が十匹配されたとある。
- 興津氏が宿の長者として一帯を支配した。
- 1601年-宿駅伝馬制度により興津宿駅が制定される。(東海道五十三次の17番目の宿場町、興津宿)
- 1663年-府中に駿府代官所が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。承元寺は清見寺領。
- 1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所の支配となる。
- 最終的に東海道五十三次興津宿の旅籠は、本陣・脇本陣含めた38軒前後存在した。(その後、脇本陣であった水口屋は一新講社で全国的に知られる様になった。)
- 明治維新から第二次大戦まで
- 三十六区(洞村、薩埵村、承元寺村)
- 三十八区(中宿町、興津宿、清見寺町、濁沢村、八木間村、谷津村、横山村)
- 1879年-地方三新法が施行される。大区小区制が廃止され庵原郡全部を一郡役所の所管とし、清見寺本堂が仮の役所となる。
- 1884年-庵原郡役所を新築し(現在はマックスバリュが位置する)、清見寺本堂から移る。
- 1889年-東海道線 国府津~静岡間の開通と同時に興津駅開業。
- 1889年-町村制施行により興津宿外八か町村を合併し、興津町と定める。
- 1890年-庵原郡役所が江尻に移転する。
- 1902年-農商務省農事試験場園芸部園芸試験場が開設。
- 1912年-農商務省農事試験場園芸部園芸試験場で東京市長からの要請によりワシントンに寄贈する桜が作成される。(全米桜祭りの元となる外交の桜)
- 1914年-興津町役場落成。
- 1919年-元老・西園寺公望が別荘・坐漁荘を建てる。
- 1928年-興津川から清水市の上水道施設計画が決まる。
- 1947年-地方自治法施行により興津町が地方公共団体となる。
- 1961年-袖師町、庵原村、小島村、両河内村と共に清水市と合併する。同年、一碧楼水口屋(東海道五十三次興津宿旅籠脇本陣水口屋)について書かれた小説、東海道の宿 JAPANESE INN 水口屋物語-Oliver Statler(ニッポン歴史の宿)が米国ベストセラーになる。
- 1962年-興津埠頭の整備工事が着手され、清見潟の埋め立てが始まる。
- 1975年-興津地区内の静清バイパスが供用開始。
- 1979年-駿河製紙の跡地に県営興津団地ができ入居が開始される。
- 1985年-一碧楼水口屋(東海道五十三次興津宿旅籠脇本陣水口屋)400年の歴史に幕を下ろす。
- 2004年-坐漁荘が復元され、興津坐漁荘の名で一般公開される。
- 2012年-寄贈100周年を記念してアメリカ政府からポトマック河畔の桜の穂木が寄贈され、日本国内で育成された苗木が「里帰り桜」として興津清見潟公園に植栽される。(全米桜祭りの元となった外交の桜)
名所・旧跡・観光スポット
- 東日本で一番早くアユ漁を解禁する。(5月20日頃)旧清水市の水源。
- 西園寺公望の別邸で、現地にあるのは復元されたもの。オリジナルは博物館明治村に移築されている。
- 清見ヶ関に天台宗の寺院として置かれ、鎌倉時代からは、十刹。正式名称は、巨鼇山清見興国禅寺。名前の由来から、古くから海沿いに切り立った山があり、それを清見潟に寄りかかる蓬莱山を背負う霊亀に見立てたと推測できる。「東海名區 清見潟」の由来はここから来たのだとわかる。また、富士山信仰に三保松原と共に度々、描かれる。
- 東海道興津宿旧旅籠脇本陣「水口屋〈みなぐちや〉(一碧楼水口屋)」(静岡市清水区)-水口屋ギャラリー
- 清見潟-静岡市清水区興津の辺りにあった景勝地、歌枕。駿州 清見関、東海名區 清見潟と称される。清見寺の門前。三保松原と共に、和歌や日本画の題材にされた。東海道五十三次興津宿の海沿い。「興津詣」の舞台。古代から風光明媚な場所として文人墨客を始め、武家、宮家、帝までもが訪れ名を馳せた。「清見潟 富士の煙や消えぬらん 月影磨く 三保の浦波(金葉和歌集後鳥羽院御製)」清見オレンジの名はこの地の柑橘試験場で作成された為につけられた。
産業・名産品
隣の宿
脚注
参考文献
- 『興津地区年表』 清水市合併20周年記念実行委員会 1981年6月
- 『興津三十年誌』 興津地区誌編集委員会 1992年3月
- 『東海道薩埵峠―東と西の出会う道』 建設省静岡国道工事事務所 1994年2月
関連項目
- 興津駅(JR東海道本線)
- 興津バスストップ
- 国道1号
- 国道52号 - 興津中町交点=国道1号交点が起点
- 静清バイパス
- 東海道五十三次
- 駿州往還
- 静岡市立清水興津中学校
- 静岡市立清水興津小学校
- 中根淑 - 遺骨を残すことを嫌い、興津の浜で火葬し灰を海に流した
- 坐漁荘
- 清見寺
- 清見潟-この辺り一帯は、「万葉集」の頃から三保松原と共に歌枕に使われる。「清見潟 富士の煙や消えぬらん 月影磨く 三保の浦波(金葉和歌集後鳥羽院御製)」
- 東海道興津宿旧旅籠脇本陣「水口屋〈みなぐちや〉(一碧楼水口屋)」(静岡市清水区)-水口屋ギャラリー
- 東海道五十三次興津宿旧旅籠「岡屋」〈東海道興津宿割烹旅館 岡屋〉(静岡市清水区)-東海道興津宿割烹旅館岡屋
外部リンク
- 興津宿小さな博物館
- 近代和風住宅を通した景勝地の形成に関する史的研究 - 常葉学園大学造形学部造形学科土屋研究室のページ。別荘地としての興津の項目がある。
- 1976年の興津 - スミソニアン博物館人類学映像保管庫