「宣王 (楚)」の版間の差分

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* 『[[戦国策]]』楚策一
* 『[[戦国策]]』楚策一


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2021年3月29日 (月) 12:41時点における版

宣王 熊良夫
王朝
在位期間 前370年 - 前340年
都城
姓・諱 熊良夫
諡号 宣王
没年 紀元前340年
悼王

宣王(せんおう、生年不詳 - 紀元前340年)は、中国戦国時代の王。良夫悼王の子。紀元前370年、兄の粛王が死去すると、後を嗣いで楚王となった。

紀元前353年邯鄲を攻撃したため、趙は楚の援軍を求めた。楚の令尹昭奚恤は軍の派遣に反対したが、宣王は景舎の意見を容れて出兵を決めた。景舎に軍を率いさせて出兵させると、趙の邯鄲は魏軍に攻め落とされたものの、楚軍は睢水と澮水のあいだの地を魏から奪うことができた。ときに昭奚恤は楚の権臣として勢威を振るったが、江乙は昭奚恤を憎み、宣王に昭奚恤を憎ませようと、たびたび画策した。紀元前341年田忌が斉の相の鄒忌に憎まれて、楚に亡命してきた。紀元前340年、宣王は死去した。在位30年。

参考文献

先代
粛王
の王
紀元前370年 - 紀元前340年
次代
威王