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[[広島市]]生まれ。[[広島大学附属高等学校|旧制広島高等師範学校附属中学校]]、[[第三高等学校|旧制第三高等学校]]を経て[[1925年]](大正14年3月)[[東京帝国大学]][[工学部]][[電気工学科]]卒業、同年[[大同電力]]株式会社入社。
[[広島市]]生まれ。[[広島大学附属高等学校|旧制広島高等師範学校附属中学校]]、[[第三高等学校|旧制第三高等学校]]を経て[[1925年]](大正14年3月)[[東京帝国大学]][[工学部]][[電気工学科]]卒業、同年[[大同電力]]株式会社入社。


[[1939年]](昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により[[日本発送電]]が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。
[[1939年]](昭和14年)[[国家総力戦]]体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により[[日本発送電]]が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。


[[1951年]](昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い[[帰郷]]、発足したばかりの[[中国電力]][[株式会社]]に入社し、理事および技術研究所長に就任。[[1952年]](昭和27年)工務部長を経て、1953年(昭和28年)取締役に就任。その後中国電力において常務取締役、取締役副社長を経て、[[1967年]](昭和42年)[[中電工|中国電気工事]]社長に就任、[[1975年]](昭和50年)会長を経て、[[1982年]](昭和57年)相談役に退く。
[[1941年]]の[[配電統制令]]を経て、[[1951年]](昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い[[帰郷]]、発足したばかりの[[中国電力]][[株式会社]]に入社し、理事および技術研究所長に就任。[[1952年]](昭和27年)工務部長を経て、1953年(昭和28年)取締役に就任。その後中国電力において常務取締役、取締役副社長を経て、[[1967年]](昭和42年)[[中電工|中国電気工事]]社長に就任、[[1975年]](昭和50年)会長を経て、[[1982年]](昭和57年)相談役に退く。


その間[[1969年]](昭和44年)から[[1973年]](昭和48年)まで[[広島商工会議所]]会頭を務め、地元自動車メーカーである[[マツダ|東洋工業]](現[[マツダ]])のマツダ車をはじめ、地元製品の購入を呼びかける「バイマツダ」運動を進め、後に郷心会という組織に発展した。
その間[[1969年]](昭和44年)から[[1973年]](昭和48年)まで[[広島商工会議所]]会頭を務め、地元自動車メーカーである[[マツダ|東洋工業]](現[[マツダ]])のマツダ車をはじめ、地元製品の購入を呼びかける「バイマツダ」運動を進め、後に郷心会という組織に発展した。

2021年3月7日 (日) 07:41時点における版

村田 可朗(むらた よしあき、1900年〈明治33年〉2月15日 - 1989年〈平成元年〉9月15日)は日本の実業家。中国電力副社長、中国電気工事社長、広島商工会議所会頭を歴任した。

人物

広島市生まれ。旧制広島高等師範学校附属中学校旧制第三高等学校を経て1925年(大正14年3月)東京帝国大学工学部電気工学科卒業、同年大同電力株式会社入社。

1939年(昭和14年)国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策により日本発送電が発足するに伴い入社、関東支店工務部長、山梨支社長、電力技術研究所長、理事を歴任。

1941年配電統制令を経て、1951年(昭和26年)電気事業再編成令による日本発送電解散に伴い帰郷、発足したばかりの中国電力株式会社に入社し、理事および技術研究所長に就任。1952年(昭和27年)工務部長を経て、1953年(昭和28年)取締役に就任。その後中国電力において常務取締役、取締役副社長を経て、1967年(昭和42年)中国電気工事社長に就任、1975年(昭和50年)会長を経て、1982年(昭和57年)相談役に退く。

その間1969年(昭和44年)から1973年(昭和48年)まで広島商工会議所会頭を務め、地元自動車メーカーである東洋工業(現マツダ)のマツダ車をはじめ、地元製品の購入を呼びかける「バイマツダ」運動を進め、後に郷心会という組織に発展した。

その他にも、母校である広島大学附属中学校・高等学校同窓会であるアカシア会の会長も長く務めた。