「アブデュルメジト1世」の版間の差分
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[[1843年]]、アブデュルメジト1世は宮廷に仕えるアルメニア人建築家に、イスタンブールを征服したオスマン帝国の[[メフメト2世]]によって造成された庭園に従来あった木造宮殿を取り壊し、新たな宮殿を建築するように命じた。同年に着工されたこの[[ドルマバフチェ宮殿]]は実に13年の歳月の後、[[1856年]]に完成した。以降、[[1922年]]に末子で最後の皇帝メフメト6世が退去するまで、ドルマバフチェ宮殿は[[トプカプ宮殿]]にかわってオスマン帝国の王宮として利用された。 |
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[[1845年]]にイギリス支配下の[[アイルランド]]で[[ジャガイモ飢饉]]が起きたときには1万ポンドの寄付をイギリス政府に申し出た。イギリス政府は[[ヴィクトリア女王]]の2000ポンドの寄付を上回る寄付に対して1000ポンドに留めるようにと返答した。するとアブデュルメジト1世は1000ポンドの寄付に加え、穀物を満載した3隻の貨物船をアイルランドへ派遣し、アイルランド東部の[[ドロヘダ]]で積み荷を降ろした。 |
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[[画像:Abdulmecid I by Rupen Manas.jpg|thumb|アブデュルメジト1世]] |
[[画像:Abdulmecid I by Rupen Manas.jpg|thumb|アブデュルメジト1世]] |
2021年2月24日 (水) 11:41時点における版
アブデュルメジト1世 Abdülmecid I | |
---|---|
オスマン帝国第31代皇帝 | |
アブデュルメジト1世 | |
在位 | 1839年7月2日 - 1861年6月25日 |
出生 |
1823年4月23日あるいは4月25日 イスタンブール、ベシクタシュあるいはトプカプ宮殿 |
死去 |
1861年6月25日 イスタンブール、ドルマバフチェ宮殿 |
埋葬 | イスタンブール |
子女 |
ムラト5世 アブデュルハミト2世 メフメト5世 メフメト6世 |
家名 | オスマン家 |
王朝 | オスマン朝 |
父親 | マフムト2世 |
母親 | ベズミャレム・スルタン |
宗教 | イスラム教(スンナ派) |
サイン |
アブデュルメジト1世(Abdülmecid I, 1823年4月23日あるいは4月25日 - 1861年6月25日)は、オスマン帝国の第31代皇帝(在位:1839年 - 1861年)。第30代皇帝マフムト2世の子で、第32代皇帝アブデュルアズィズの兄。子に第33代皇帝ムラト5世、第34代皇帝アブデュルハミト2世、第35代皇帝メフメト5世、第36代皇帝メフメト6世。
生涯
1839年、第二次エジプト・トルコ戦争中、父マフムト2世の崩御により、後を継いで即位する。翌1840年7月にはイギリスの調停のもとでロンドン条約を結び、ムハンマド・アリーと和睦しエジプトの世襲権を認めた。
治世前半から中盤は、アブデュルメジト1世自身が才能に長けて改革に対する熱意も強かったこと、加えて父の治世から改革の基盤が整っていたこと、名宰相と称されたムスタファ・レシト・パシャの補佐と彼の西欧化改革や近代化への建言もあって、積極的な近代改革に取り組んだ。まず、即位した直後にはムスタファの協力と共にギュルハネ勅令を出した。これにより、行政・軍事・文化・財政・司法・教育の様々な面に対しての改革(タンジマート)を表明したのである。
1843年、アブデュルメジト1世は宮廷に仕えるアルメニア人建築家に、イスタンブールを征服したオスマン帝国のメフメト2世によって造成された庭園に従来あった木造宮殿を取り壊し、新たな宮殿を建築するように命じた。同年に着工されたこのドルマバフチェ宮殿は実に13年の歳月の後、1856年に完成した。以降、1922年に末子で最後の皇帝メフメト6世が退去するまで、ドルマバフチェ宮殿はトプカプ宮殿にかわってオスマン帝国の王宮として利用された。
1845年にイギリス支配下のアイルランドでジャガイモ飢饉が起きたときには1万ポンドの寄付をイギリス政府に申し出た。イギリス政府はヴィクトリア女王の2000ポンドの寄付を上回る寄付に対して1000ポンドに留めるようにと返答した。するとアブデュルメジト1世は1000ポンドの寄付に加え、穀物を満載した3隻の貨物船をアイルランドへ派遣し、アイルランド東部のドロヘダで積み荷を降ろした。
ムスタファと協力してトルコの近代化に務めていたさなか、ロシア帝国のニコライ1世がトルコ領内のギリシア正教徒の保護を理由として1853年、トルコに戦争をしかけてくる。これがクリミア戦争である。
当初は強力なロシア軍の攻撃を受けて連戦連敗したが、やがてロシアの進出を恐れたイギリス・フランスのナポレオン3世・サルデーニャ王国などの援助を受けて盛り返し、1856年には勝利した。そして、ムスタファを全権大使として派遣し、パリ条約を結んだ。これにより、トルコの国際的地位を高めたのである。また、この戦争の反省からギリシア正教徒の社会的平等を承認している。同年には非キリスト教徒の外国君主としては初めて、イングランド最高位の勲章であるガーター勲章を授与された。
しかし、1858年に補佐役のムスタファが死去すると政治に対する関心を失い、改革を取りやめて自身の快楽に対して乱費を行なうようになる。また、晩年にはキリスト教徒に対して寛容策(改革勅令)を表明したことによって、かえって反キリスト教徒的な一派からの不満が上がり、国内各地で暴動が起きてしまう。
このような中で1861年、アブデュルメジト1世は39歳で崩御し、後を弟のアブデュルアズィズが継いだ。
評価
アブデュルメジト1世が名君かそれとも暗君かは、それぞれ評価するうえで難しい。しかし、その治世における改革タンジマートによって、トルコがある程度は持ち直したことを見れば、評価されるべき皇帝の一人と考えられる。