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'''三岸 節子'''(みぎし せつこ、[[1905年]][[1月3日]] - [[1999年]][[4月18日]])は、日本の女性[[洋画家]]で、[[新制作協会]]会員。
'''三岸 節子'''(みぎし せつこ、[[1905年]][[1月3日]] - [[1999年]][[4月18日]])は、日本の女性[[洋画家]]で、[[新制作協会]]会員。
== 生涯 ==
== 生涯 ==
[[愛知県]][[中島郡 (愛知県)|中島郡]]起町(現・[[一宮市]]小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた<ref name ="Shura38"/>。旧姓は吉田。母菊は、[[安政の大獄]]で死罪となった[[水戸藩]]士・[[鵜飼吉左衛門]](幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性[[股関節]]脱臼を患っており<ref name ="Shura">[[林寛子 (作家)|林寛子]]『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.38</ref>、両親に抑圧されて育った節子も<ref name ="Shura38">[[林寛子 (作家)|林寛子]]『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.39</ref>、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
[[愛知県]][[中島郡 (愛知県)|中島郡]]起町(現・[[一宮市]]小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた<ref name ="Shura38"/>。は吉田永三郎、母は菊<ref name ="kira167">吉良智子『女性画家たちの戦争』[[平凡社]]、p.167</ref>。母菊は、[[安政の大獄]]で死罪となった[[水戸藩]]士・[[鵜飼吉左衛門]](幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性[[股関節]]脱臼を患っており<ref name ="Shura">[[林寛子 (作家)|林寛子]]『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.38</ref>、両親に抑圧されて育った節子も<ref name ="Shura38">[[林寛子 (作家)|林寛子]]『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.39</ref>、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。


[[名古屋市]]の淑徳高等女学校(現・[[愛知淑徳中学校・高等学校|愛知淑徳高等学校]])卒業後上京し、[[本郷洋画研究所]]で[[岡田三郎助]]に師事<ref name ="hanabi32">花美術館 Vol.32</ref>。女子美術学校(現・[[女子美術大学]])の2年次に編入学し<ref name ="hanabi32"/>、首席で卒業した<ref name ="sugao"/>。[[1924年]]に[[三岸好太郎]]と結婚し<ref name ="sugao"/>、[[1930年]]に長男黄太郎を出産するも、[[1934年]]に夫と死別<ref name ="sugao"/>。生活は苦しかったが、[[太平洋戦争]]中も疎開をせず、明るい色調の[[静物画]]を多数描いた<ref>{{Cite web|title=三岸節子回顧展:命燃やし、咲き誇る花|url=https://mainichi.jp/articles/20160420/ddf/012/040/007000c|website=毎日新聞|accessdate=2020-06-18|language=ja}}</ref>。[[1946年]]、[[女流画家協会]]を創立。[[1948年]]から[[菅野圭介]]と事実上の婚約関係にあったが、[[1953年]]に破局。
[[名古屋市]]の淑徳高等女学校(現・[[愛知淑徳中学校・高等学校|愛知淑徳高等学校]])卒業後日本画をすすめる両親を説得したうえで洋画を学ぶため上京し<ref name ="kira168">吉良智子『女性画家たちの戦争』[[平凡社]]、p.168</ref>、[[本郷洋画研究所]]で[[岡田三郎助]]に師事<ref name ="hanabi32">花美術館 Vol.32</ref>。女子美術学校(現・[[女子美術大学]])の2年次に編入学し<ref name ="hanabi32"/>、首席で卒業した<ref name ="sugao"/>。[[1924年]]に[[三岸好太郎]]と結婚し<ref name ="sugao"/>、[[1930年]]に長男黄太郎を出産するも、[[1934年]]に夫と死別<ref name ="sugao"/>。生活は苦しかったが、[[太平洋戦争]]中も疎開をせず、明るい色調の[[静物画]]を多数描いた<ref>{{Cite web|title=三岸節子回顧展:命燃やし、咲き誇る花|url=https://mainichi.jp/articles/20160420/ddf/012/040/007000c|website=毎日新聞|accessdate=2020-06-18|language=ja}}</ref>。[[1946年]]、[[女流画家協会]]を創立。[[1948年]]から[[菅野圭介]]と事実上の婚約関係にあったが、[[1953年]]に破局。


[[1954年]]に息子黄太郎が留学していた[[フランス]]に渡り、[[1968年]]には[[南フランス]]の[[カーニュ=シュル=メール|カーニュ]]に、[[1974年]]には[[ブルゴーニュ地方]]の農村{{仮リンク|ヴェロン (フランス)|en|Véron|label =ヴェロン}}に定住した。息子の黄太郎とともに[[ヨーロッパ]]の各地を巡って[[風景画]]の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 [[1989年]]に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は[[神奈川県]][[大磯町]]の自宅兼アトリエにて制作を続けた。
[[1954年]]に息子黄太郎が留学していた[[フランス]]に渡り、[[1968年]]には[[南フランス]]の[[カーニュ=シュル=メール|カーニュ]]に、[[1974年]]には[[ブルゴーニュ地方]]の農村{{仮リンク|ヴェロン (フランス)|en|Véron|label =ヴェロン}}に定住した。息子の黄太郎とともに[[ヨーロッパ]]の各地を巡って[[風景画]]の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 [[1989年]]に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は[[神奈川県]][[大磯町]]の自宅兼アトリエにて制作を続けた。
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* 1936年 [[佐伯米子]]、[[長谷川春子]]ら6人の女性画家とともに七彩会を結成。
* 1936年 [[佐伯米子]]、[[長谷川春子]]ら6人の女性画家とともに七彩会を結成。
* [[1938年]] 独立美術協会を脱退、翌年新制作協会に参加。
* [[1938年]] 独立美術協会を脱退、翌年新制作協会に参加。
*[[1947年]] 「女流画家協会」創立の発起人となる。
*[[1947年]] 「女流画家協会」創立の発起人となるもその後脱退<ref name ="kira177">吉良智子『女性画家たちの戦争』[[平凡社]]、p.177</ref>
*1948年 菅野圭介と別居結婚<ref name ="sugao"/>。
*1948年 菅野圭介と別居結婚<ref name ="sugao"/>。
*[[1951年]] 第一回芸能選奨(現・[[芸術選奨]])文部大臣賞を受賞<ref name ="sugao"/>。
*[[1951年]] 第一回芸能選奨(現・[[芸術選奨]])文部大臣賞を受賞<ref name ="sugao"/>。
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*さいたさいたさくらがさいた
*さいたさいたさくらがさいた
*くちなし
*くちなし

== 画風 ==
当時の社会にあった女性らしい作品像の押し付けに反発し、[[アンリ・マティス]]や[[ピエール・ボナール]]、[[ジョルジュ・ブラック]]など近代[[フランス]]の{{仮リンク|フランスの美術|en|French Art|label=絵画}}を取り入れた作風であった<ref name ="kira171">吉良智子『女性画家たちの戦争』[[平凡社]]、p.171</ref>。


== 花へのこだわり ==
== 花へのこだわり ==
節子の作品の中には“花”という名前の作品がいくつも残されている。節子にとって花とは生命力を感じさせるもの。花を愛し、生涯に亘り描き続けた。花の作品からは節子の人生がうかがえるほど作品が変化している。
節子の作品の中には“花”という名前の作品がいくつも残されている。節子にとって花とは生命力を感じさせるもの。花を愛し、生涯に亘り描き続けた。花の作品からは節子の人生がうかがえるほど作品が変化している。


[[1950年]]代までは花瓶に挿した花を画面全体に描いている。このころは日本にいるため[[室内画]]が多い。[[1970年]]代アトリエころからは(フランス)の庭にある花を描いている。このころは日本から海外に舞台を移したことにより、[[風景画]]を描くようになった。
[[1950年]]代までは花瓶に挿した花を画面全体に描いている。このころは日本にいるため[[室内画]]が多い<ref name ="kira176">吉良智子『女性画家たちの戦争』[[平凡社]]、p.176</ref>。[[1970年]]代アトリエころからは(フランス)の庭にある花を描いている。このころは日本から海外に舞台を移したことにより、[[風景画]]を描くようになった。


== 著書 ==
== 著書 ==

2021年2月11日 (木) 06:23時点における版

三岸 節子
(みぎし せつこ)
三岸節子、1960年頃
本名 吉田 節子
誕生日 (1905-01-03) 1905年1月3日
出生地 日本の旗 日本
愛知県中島郡起町
死没年 (1999-04-18) 1999年4月18日(94歳没)
死没地 日本の旗 日本
神奈川県中郡大磯町
国籍 日本の旗 日本
配偶者 三岸好太郎
流派 洋画
芸術分野 画家
教育 女子美術学校
受賞
  • 第一回芸能選奨(1951年)
  • 勲三等宝冠章(1986年)
ウェブサイト http://s-migishi.com
会員選出組織 女流画家協会(創立発起人)
新制作協会
メモリアル 三岸節子記念美術館
影響を受けた
芸術家
岡田三郎助
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三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。

生涯

愛知県中島郡起町(現・一宮市小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家の十人兄弟の6番目(4女)に生まれた[1]。父は吉田永三郎、母は菊[2]。母の菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。先天性股関節脱臼を患っており[3]、両親に抑圧されて育った節子も[1]、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。

名古屋市の淑徳高等女学校(現・愛知淑徳高等学校)卒業後日本画をすすめる両親を説得したうえで洋画を学ぶため上京し[4]本郷洋画研究所岡田三郎助に師事[5]。女子美術学校(現・女子美術大学)の2年次に編入学し[5]、首席で卒業した[6]1924年三岸好太郎と結婚し[6]1930年に長男黄太郎を出産するも、1934年に夫と死別[6]。生活は苦しかったが、太平洋戦争中も疎開をせず、明るい色調の静物画を多数描いた[7]1946年女流画家協会を創立。1948年から菅野圭介と事実上の婚約関係にあったが、1953年に破局。

1954年に息子黄太郎が留学していたフランスに渡り、1968年には南フランスカーニュに、1974年にはブルゴーニュ地方の農村ヴェロン英語版に定住した。息子の黄太郎とともにヨーロッパの各地を巡って風景画の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 1989年に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は神奈川県大磯町の自宅兼アトリエにて制作を続けた。

年譜

主要作品

1974 第6回潮展(銀座・三越)

  • 「スペインの白い町」 - 1972年昭和47年)
  • 「飛ぶ鳥」 - 1973年(昭和48年)

1974 花とヴェネチア展(日本橋・三越)

  • 「下弦の月」 - 1973年(昭和48年)
  • 「石だたみ」 - 1973年(昭和48年)
  • 「プチカナル」 - 1973年(昭和48年)
  • 「霧」 - 1973年(昭和48年)
  • 「ヴェネチアの家」 - 1973年(昭和48年)
  • 「細い運河」 - 1973年(昭和48年)
  • 「ヴェネチア」 - 1973年(昭和48年)
  • 「花(3)」 - 1973年(昭和48年)
  • 「花(10)」 - 1973年(昭和48年)

1980 三岸節子展<画業55年の歩み>(日本橋・三越)

  • 「崎津の天主堂」 - 1956年(昭和31年)
  • 「飛ぶ鳥(火の山にて)」 - 1962年(昭和37年)
  • 「村落の地図」 - 1979年(昭和54年)
  • 「赤い土」 - 1979年(昭和54年)

1989 三岸節子展(日本橋・三越)

  • 「崖の上(アンダルシアの)」 - 1987年(昭和62年)
  • 「イル・サンルイの秋」 - 1987年(昭和62年)
  • 「小さな村」 - 1988年(昭和63年)
  • 「アルカディア」 - 1988年(昭和63年)
  • 「春遠からじ」 - 1979-88年(昭和54-63年)
  • 「タオルミナのテアトルより」 - 1989年(平成元年)
  • 「花 ヴェロンにて」 - 1989年(平成元年)
  • 「花 ヴェロンにて」 - 1989年(平成元年)
  • 「花 ヴェロンにて」 - 1989年(平成元年)

出展不明作品

画風

当時の社会にあった女性らしい作品像の押し付けに反発し、アンリ・マティスピエール・ボナールジョルジュ・ブラックなど近代フランス絵画英語版を取り入れた作風であった[10]

花へのこだわり

節子の作品の中には“花”という名前の作品がいくつも残されている。節子にとって花とは生命力を感じさせるもの。花を愛し、生涯に亘り描き続けた。花の作品からは節子の人生がうかがえるほど作品が変化している。

1950年代までは花瓶に挿した花を画面全体に描いている。このころは日本にいるため室内画が多い[11]1970年代アトリエころからは(フランス)の庭にある花を描いている。このころは日本から海外に舞台を移したことにより、風景画を描くようになった。

著書

  • 三岸節子『美神の翼 随筆集』朝日新聞社、1949年。全国書誌番号:60011030  のち求龍堂
  • 三岸節子『三岸節子』美術出版社〈日本現代画家選 第8〉、1954年。全国書誌番号:60011030 
  • 三岸節子『花より花らしく』求龍堂、1977年6月。全国書誌番号:78001945  のちちくま文庫
  • 三岸節子『三岸節子画集 [第1集] (1925-1979)』求龍堂、1980年2月。全国書誌番号:82024189 
  • 三岸節子『三岸節子画集 [第2集] (1938-1980)』求龍堂、1981年9月。全国書誌番号:82024190 
  • 三岸節子『黄色い手帖』求龍堂、1983年2月。全国書誌番号:84015083  のちちくま文庫
  • 三岸節子『三岸節子 花のデッサン帖』求龍堂、1984年3月。ISBN 476308402X全国書誌番号:85002021 
  • 三岸節子『三岸節子画集1990』求龍堂、1990年11月。ISBN 4763090186 
  • 三岸節子『三岸節子作品集』ビジョン企画出版社、1991年4月。ISBN 4-938249-12-X全国書誌番号:92026503 
  • 三岸節子『未完の花 三岸節子画文集』求龍堂、1994年7月。ISBN 4763094181全国書誌番号:94062779 
  • 三岸節子『花こそわが命 三岸節子自選画文集』求龍堂、1996年10月。ISBN 4-7630-9630-3全国書誌番号:97072523 
  • 三岸節子『旅へのいざない 三岸節子ヨーロッパデッサン集 1954-1989』求龍堂、1997年4月。ISBN 4763097105全国書誌番号:98037090 

備考

三岸節子記念美術館
  • かつて名古屋市に存在したヒマラヤ美術館には三岸節子作品室が設けられ、多数の作品が収蔵されていた。しかし同館の運営母体であるヒマラヤ製菓の経営危機に伴い大半が流出し、所在が不明になった。その中には、節子の代表作といわれる『ヴェネチア』も含まれている。その後の調査によると、ヒマラヤ製菓の収蔵していた三岸作品の多くは名古屋の堀美術館にあるとのこと。
  • 三岸節子画伯の功績を讃え、生涯にわたる作品を収集、展示することによりその画業を永く後世に伝えるとともに市民の美術への関心を高め、芸術に対する深い知識と理解を持ってもらうことを目的として、三岸の生家跡に三岸節子記念美術館が建設された。

脚注

  1. ^ a b 林寛子『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.39
  2. ^ 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.167
  3. ^ 林寛子『三岸節子 修羅の花』女性文庫 p.38
  4. ^ a b c d 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.168
  5. ^ a b 花美術館 Vol.32
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 笹本恒子『素顔の三岸節子』p.59
  7. ^ 三岸節子回顧展:命燃やし、咲き誇る花”. 毎日新聞. 2020年6月18日閲覧。
  8. ^ 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.169
  9. ^ 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.177
  10. ^ 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.171
  11. ^ 吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、p.176

参考文献

外部リンク