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[[愛知県]][[中島郡 (愛知県)|中島郡]]起町(現・[[一宮市]]小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家に生まれた。旧姓は吉田。母・菊は、[[安政の大獄]]で死罪となった[[水戸藩]]士・[[鵜飼吉左衛門]](幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。節子も、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。
[[愛知県]][[中島郡 (愛知県)|中島郡]]起町(現・[[一宮市]]小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家に生まれた。旧姓は吉田。母・菊は、[[安政の大獄]]で死罪となった[[水戸藩]]士・[[鵜飼吉左衛門]](幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。節子も、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。


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[[1954年]]に息子黄太郎が留学していた[[フランス]]に渡り、[[1968年]]には[[南フランス]]の[[カーニュ=シュル=メール|カーニュ]]に、[[1974年]]には[[ブルゴーニュ地方]]の農村{{仮リンク|ヴェロン|en|Véron}}に定住した。息子の黄太郎とともに[[ヨーロッパ]]の各地を巡って[[風景画]]の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 [[1989年]]に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は[[神奈川県]][[大磯町]]の自宅兼アトリエにて制作を続けた。
[[1954年]]に息子黄太郎が留学していた[[フランス]]に渡り、[[1968年]]には[[南フランス]]の[[カーニュ=シュル=メール|カーニュ]]に、[[1974年]]には[[ブルゴーニュ地方]]の農村{{仮リンク|ヴェロン|en|Véron}}に定住した。息子の黄太郎とともに[[ヨーロッパ]]の各地を巡って[[風景画]]の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 [[1989年]]に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は[[神奈川県]][[大磯町]]の自宅兼アトリエにて制作を続けた。

2021年2月11日 (木) 01:55時点における版

三岸 節子
(みぎし せつこ)
三岸節子、1960年頃
本名 吉田 節子
誕生日 (1905-01-03) 1905年1月3日
出生地 日本の旗 日本
愛知県中島郡起町
死没年 (1999-04-18) 1999年4月18日(94歳没)
死没地 日本の旗 日本
神奈川県中郡大磯町
国籍 日本の旗 日本
配偶者 三岸好太郎
流派 洋画
芸術分野 画家
教育 女子美術学校
受賞
  • 第一回芸能選奨(1951年)
  • 勲三等宝冠章(1986年)
ウェブサイト http://s-migishi.com
会員選出組織 女流画家協会(創立発起人)
新制作協会
メモリアル 三岸節子記念美術館
影響を受けた
芸術家
岡田三郎助
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三岸 節子(みぎし せつこ、1905年1月3日 - 1999年4月18日)は、日本の女性洋画家で、新制作協会会員。

生涯

愛知県中島郡起町(現・一宮市小信中島)の尾張物工場を営む裕福な家に生まれた。旧姓は吉田。母・菊は、安政の大獄で死罪となった水戸藩士・鵜飼吉左衛門(幼名は菊三郎)の一族であった(節子生家近くの頓聴寺住職も鵜飼家の人物であった)。しかし、吉田家は不況のあおりで倒産した。節子も、この大きなショックからこの頃興味を抱いていた絵の道へと向かっていく。当時の画壇における女性画家の地位向上に努め、生涯にてたくましい精神力で生命を賛歌する作品を描き続けた。

名古屋市の淑徳高等女学校(現・愛知淑徳高等学校)卒業後上京し、本郷洋画研究所岡田三郎助に師事[1]。女子美術学校(現・女子美術大学)の2年次に編入学し[1]、首席で卒業した[2]1924年三岸好太郎と結婚し[2]1930年に長男黄太郎を出産するも、1934年に夫と死別[2]。生活は苦しかったが、太平洋戦争中も疎開をせず、明るい色調の静物画を多数描いた[3]1946年女流画家協会を創立。1948年から菅野圭介と事実上の婚約関係にあったが、1953年に破局。

1954年に息子黄太郎が留学していたフランスに渡り、1968年には南フランスカーニュに、1974年にはブルゴーニュ地方の農村ヴェロンに定住した。息子の黄太郎とともにヨーロッパの各地を巡って風景画の傑作を生み出し、言葉の通じない異国での孤独感や老化による体の衰えと闘いながら絵を描いた。 1989年に帰国した時、節子は84歳になっていた。以降は神奈川県大磯町の自宅兼アトリエにて制作を続けた。

年譜

作品紹介

花へのこだわり

節子の作品の中には“花”という名前の作品がいくつも残されている。節子にとって花とは生命力を感じさせるもの。花を愛し、生涯に亘り描き続けた。花の作品からは節子の人生がうかがえるほど作品が変化している。

1950年代までは花瓶に挿した花を画面全体に描いている。このころは日本にいるため室内画が多い。1970年代アトリエころからは(フランス)の庭にある花を描いている。このころは日本から海外に舞台を移したことにより、風景画を描くようになった。

備考

三岸節子記念美術館
  • かつて名古屋市に存在したヒマラヤ美術館には三岸節子作品室が設けられ、多数の作品が収蔵されていた。しかし同館の運営母体であるヒマラヤ製菓の経営危機に伴い大半が流出し、所在が不明になった。その中には、節子の代表作といわれる『ヴェネチア』も含まれている。その後の調査によると、ヒマラヤ製菓の収蔵していた三岸作品の多くは名古屋の堀美術館にあるとのこと。
  • 三岸節子画伯の功績を讃え、生涯にわたる作品を収集、展示することによりその画業を永く後世に伝えるとともに市民の美術への関心を高め、芸術に対する深い知識と理解を持ってもらうことを目的として、三岸の生家跡に三岸節子記念美術館が建設された。

脚注

  1. ^ a b 花美術館 Vol.32
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 笹本恒子『素顔の三岸節子』p.59
  3. ^ 三岸節子回顧展:命燃やし、咲き誇る花”. 毎日新聞. 2020年6月18日閲覧。

外部リンク