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サッチャー女男爵'''マーガレット・ヒルダ・サッチャー'''({{lang-en-gb|Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher,}} [[ガーター勲章|LG]], [[メリット勲章|OM]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]]、[[1925年]][[10月13日]] - [[2013年]][[4月8日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[一代貴族]]。旧姓は'''ロバーツ'''(Roberts)。 |
サッチャー女男爵'''マーガレット・ヒルダ・サッチャー'''({{lang-en-gb|'''Margaret Hilda Thatcher''', Baroness Thatcher,}} [[ガーター勲章|LG]], [[メリット勲章|OM]], [[枢密院 (イギリス)|PC]], [[王立協会|FRS]]、[[1925年]][[10月13日]] - [[2013年]][[4月8日]])は、[[イギリス]]の[[政治家]]、[[一代貴族]]。旧姓は'''ロバーツ'''(Roberts)。 |
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[[保守党 (イギリス)|保守党]]初の女性党首(在任:1975年2月11日 - 1990年11月27日)、イギリス初の女性[[イギリスの首相|首相]](在任:1979年5月4日 - 1990年11月28日)。1992年6月30日からは[[貴族院 (イギリス)|貴族院議員]]を務めた。 |
[[保守党 (イギリス)|保守党]]初の女性党首(在任:1975年2月11日 - 1990年11月27日)、イギリス初の女性[[イギリスの首相|首相]](在任:1979年5月4日 - 1990年11月28日)。1992年6月30日からは[[貴族院 (イギリス)|貴族院議員]]を務めた。 |
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[[保守]]的かつ強硬なその政治姿勢から「'''[[鉄の女]]'''(てつのおんな、{{lang-en |
[[保守]]的かつ強硬なその政治姿勢から「'''[[鉄の女]]'''(てつのおんな、{{lang-en|Iron Lady}})」の異名を取ったことで知られる<ref>{{Cite news |
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|title = イギリスのサッチャー元首相死去 英メディア伝える |
|title = イギリスのサッチャー元首相死去 英メディア伝える |
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|url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/t10013770101000.html |
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=== 生い立ち === |
=== 生い立ち === |
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[[File:Margaret Thatcher aos 13 anos de idade (2).jpg|thumb|220px|13歳の頃のサッチャー]] |
[[File:Margaret Thatcher aos 13 anos de idade (2).jpg|thumb|220px|13歳の頃のサッチャー]] |
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1925年10月13日 |
1925年10月13日に[[イングランド]]の[[リンカンシャー]]州[[グランサム]]で、食糧雑貨商の家に誕生する。父のアルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。 |
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サッチャーの生家は代々[[メソジスト]]の敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父のアルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。 |
サッチャーの生家は代々[[メソジスト]]の敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父のアルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。 |
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[[1974年]]の選挙で保守党は敗北を喫し、翌[[1975年]]2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内[[右翼|右派]]の[[キース・ジョセフ]]を支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。 |
[[1974年]]の選挙で保守党は敗北を喫し、翌[[1975年]]2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内[[右翼|右派]]の[[キース・ジョセフ]]を支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。 |
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教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、[[エドワード・ヒース]]を破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35か国で調印 |
教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、[[エドワード・ヒース]]を破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35か国で調印・採択された[[ヘルシンキ宣言_(全欧安全保障協力会議)|ヘルシンキ宣言]]を痛烈に批判した。 |
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これに対し、[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦国防省|国防省]][[機関紙]]「[[クラスナヤ・ズヴェズダ (新聞)|クラスナヤ・ズヴェズダ]](「赤い星」、現在でも[[ロシア連邦]][[ロシア国防省|国防省]]機関紙として刊行)」は[[1976年]]1月24日号の記事の中で、頑固なサッチャーを「'''鉄の女'''」と呼び、非難した<ref>http://www.margaretthatcher.org/speeches/displaydocument.asp?docid=102939</ref>。この「[[鉄の女]]」の呼び名は、サッチャーの強硬な[[反共主義]]を揶揄するためのものだったが、サッチャー自身も気に入り、その後あらゆる[[報道機関|メディア]]で取り上げられたために、サッチャーの代名詞(愛称)として定着した。 |
これに対し、[[ソビエト連邦]]の[[ソビエト連邦国防省|国防省]][[機関紙]]「[[クラスナヤ・ズヴェズダ (新聞)|クラスナヤ・ズヴェズダ]](「赤い星」、現在でも[[ロシア連邦]][[ロシア国防省|国防省]]機関紙として刊行)」は[[1976年]]1月24日号の記事の中で、頑固なサッチャーを「'''鉄の女'''」と呼び、非難した<ref>http://www.margaretthatcher.org/speeches/displaydocument.asp?docid=102939</ref>。この「[[鉄の女]]」の呼び名は、サッチャーの強硬な[[反共主義]]を揶揄するためのものだったが、サッチャー自身も気に入り、その後あらゆる[[報道機関|メディア]]で取り上げられたために、サッチャーの代名詞(愛称)として定着した。 |
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サッチャーは[[新自由主義]]に基づき、[[ブリティッシュ・テレコム|電話]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[イギリス空港会社|空港]]・[[ブリティッシュ・エアウェイズ|航空]]・[[自動車]]・[[水道]]などの[[国有企業]]の民営化や[[規制緩和]]、[[金融]]システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行した。さらに改革の障害になっていた[[労働組合]]の影響力を削ぎ、[[所得税]]<ref>25 |
サッチャーは[[新自由主義]]に基づき、[[ブリティッシュ・テレコム|電話]]・[[ガス燃料|ガス]]・[[イギリス空港会社|空港]]・[[ブリティッシュ・エアウェイズ|航空]]・[[自動車]]・[[水道]]などの[[国有企業]]の民営化や[[規制緩和]]、[[金融]]システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行した。さらに改革の障害になっていた[[労働組合]]の影響力を削ぎ、[[所得税]]<ref>25パーセントから80パーセントの11段階から、25パーセントと40パーセントの2段階へ。</ref>・[[法人税]]<ref>50パーセントから35パーセントへ。</ref>の大幅な税率の引き下げを実施した。一方、[[消費税|付加価値税]](消費税)は[[1979年]]に従来の8パーセントから15パーセントに引き上げられた。 |
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* 1979年8月27日に[[ルイス・マウントバッテン]]が暗殺されてから数か月後、[[イングランド銀行]]は[[公定歩合]]を17パーセントへ引き上げた<ref>公定歩合は厳密には市場原理で決定されるため、17パーセントという数値は[[ビッグバン (金融市場)|ビッグバン]]に向けて外資が積極的に受け入れられた結果とも考えられる。</ref>。公約であったインフレの抑制には成功した。しかし、首相就任から |
* 1979年8月27日に[[ルイス・マウントバッテン]]が暗殺されてから数か月後、[[イングランド銀行]]は[[公定歩合]]を17パーセントへ引き上げた<ref>公定歩合は厳密には市場原理で決定されるため、17パーセントという数値は[[ビッグバン (金融市場)|ビッグバン]]に向けて外資が積極的に受け入れられた結果とも考えられる。</ref>。公約であったインフレの抑制には成功した。しかし、首相就任から間も無くイギリスの失業者数は倍増し、[[1982年]]には300万人を上回る。サッチャー政権において、イギリスの[[失業率]]は[[世界恐慌]]以降最悪の数字を記録した<ref>O.J. Blanchard and L.H. Summers, NBER Macroeconomics Annual Vol. 1 (1986) </ref>。失業率はその後も[[1986年]]半ばまで減少せず(1986年以降は1990年まで減少)、これによりサッチャーの支持率は低下した。そのため小さな政府の柱のひとつであった完全[[マネタリスト|マネタリズム]]を放棄し、[[リフレーション]]政策に転じた結果、[[イギリスの経済|イギリス経済]]は回復した。[[ミルトン・フリードマン]]ら[[新自由主義]]を唱える経済学者はサッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。 |
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* [[1988年]]、教育法を改定した。[[イギリスの教育|イギリスの教育機関]]は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた[[教科書]]の1つ「[[人種差別]]はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、[[イギリス帝国|植民地支配の歴史]]を批判的に扱う内容)が[[自虐史観|自虐]]的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった{{要出典|date=2015年6月}}。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通の[[カリキュラム]]を作り、非[[キリスト教徒]]に対しても[[キリスト教]]の授業を必修とするなど『自虐的』内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府とともに、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させ、大胆な[[教育改革#イギリス|教育改革]]も実行した{{要出典|date=2015年6月}}。 |
* [[1988年]]、教育法を改定した。[[イギリスの教育|イギリスの教育機関]]は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた[[教科書]]の1つ「[[人種差別]]はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、[[イギリス帝国|植民地支配の歴史]]を批判的に扱う内容)が[[自虐史観|自虐]]的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった{{要出典|date=2015年6月}}。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通の[[カリキュラム]]を作り、非[[キリスト教徒]]に対しても[[キリスト教]]の授業を必修とするなど『自虐的』内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府とともに、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させ、大胆な[[教育改革#イギリス|教育改革]]も実行した{{要出典|date=2015年6月}}。 |
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2021年2月8日 (月) 15:13時点における版
マーガレット・サッチャー Margaret Thatcher | |
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生年月日 | 1925年10月13日 |
出生地 |
イギリス イングランド リンカンシャー州グランサム |
没年月日 | 2013年4月8日(87歳没)[1] |
死没地 | イギリス ウェストミンスター |
出身校 | オックスフォード大学 |
所属政党 | 保守党 |
配偶者 | デニス・サッチャー |
子女 | 2人 |
公式サイト | Margaret Thatcher Foundation |
在任期間 | 1979年5月4日 - 1990年11月28日 |
女王 | エリザベス2世 |
在任期間 | 1992年6月30日 - 2013年4月8日 |
在任期間 | 1975年2月11日 - 1990年11月27日 |
副党首 | ウィリアム・ホワイトロー |
選挙区 | フィンチリー選挙区 |
在任期間 | 1959年10月8日 - 1992年6月30日 |
サッチャー女男爵マーガレット・ヒルダ・サッチャー(イギリス英語: Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、一代貴族。旧姓はロバーツ(Roberts)。
保守党初の女性党首(在任:1975年2月11日 - 1990年11月27日)、イギリス初の女性首相(在任:1979年5月4日 - 1990年11月28日)。1992年6月30日からは貴族院議員を務めた。
保守的かつ強硬なその政治姿勢から「鉄の女(てつのおんな、英語: Iron Lady)」の異名を取ったことで知られる[2]。
経歴
生い立ち
1925年10月13日にイングランドのリンカンシャー州グランサムで、食糧雑貨商の家に誕生する。父のアルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。
サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父のアルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。
大学時代から研究者に
オックスフォード大学で化学を修学し、1947年に卒業。一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義(ネオ・リベラリズム/Neoliberalism)的な経済改革、いわゆるサッチャリズム(Thatcherism)の源流になった。
その後研究者の道に進み、ライオンズに就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究したことがある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。
庶民院議員(下院議員)・教育科学大臣
1950年に保守党から下院(庶民院)議員選挙に立候補するが落選。翌、1951年に10歳年上のデニス・サッチャーと結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得する。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。
1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。このとき、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは、学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し「ミルク泥棒(Margaret Thatcher, Milk Snatcher)」と非難されるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした[3]。
保守党党首
1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念した。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。
教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35か国で調印・採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。
これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナヤ・ズヴェズダ(「赤い星」、現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、頑固なサッチャーを「鉄の女」と呼び、非難した[4]。この「鉄の女」の呼び名は、サッチャーの強硬な反共主義を揶揄するためのものだったが、サッチャー自身も気に入り、その後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞(愛称)として定着した。
総選挙
1979年の選挙では、20世紀以後に継続されてきた高福祉の社会保障政策、社会保障支出の拡大継続[5][6][7][8][9]、経済の規制緩和、組合対策で疲弊した水道・電気・ガス・通信・鉄道・航空(ブリティッシュ・エアウェイズ)、そして自動車(ブリティッシュ・レイランド)の民営化によるイギリス経済の競争力強化を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。
なお総選挙の際、2週間で体重を9キログラムも減量するダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に、首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し、実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、「卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つ」といった内容だった[10]。
イギリス首相
内政
保守党が政権を奪還した総選挙後の1979年5月4日、バッキンガム宮殿に参内してエリザベス2世女王より首相への任命を拝受する。労働党政権ジェームズ・キャラハンに代わって女性初のイギリス首相に就任した。そしてダウニング街10番地(首相官邸)に入居した際、フランシスコの平和の祈りを取り上げて発言した。
分裂のある所に、和合を置かせてください。
誤りのある所に、真実を置かせてください。
疑いのある所に、信頼を置かせてください。
絶望のある所に、希望を置かせてください。
Where there is discord, may we bring harmony;
Where there is error, may we bring truth;
Where there is doubt, may we bring faith;
And where there is despair, may we bring hope.[11]
サッチャー内閣はイギリス経済の再建を図り、公約通りに政府の市場への介入・過剰規制を抑制する政策を実施した。こうした経済に対する思想は、新自由主義あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。
エドワード・ヒース内閣での教育大臣だった時代、サッチャーは中道政策に反対しなかった[3]。しかし1979年に首相になるころには、タカ派のマネタリズム支持者になっていた。27パーセントを記録したインフレーション率は、非効率な国営産業とその巨大な組合、混合経済の失敗が原因だと流言することに成功した。そのインフレ率は第四次中東戦争とその後のイラン革命などで、原油価格が高騰したことと大きく関係していたにもかかわらずである[3]。
サッチャリズム
サッチャリズム |
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サッチャーは新自由主義に基づき、電話・ガス・空港・航空・自動車・水道などの国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行した。さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ、所得税[12]・法人税[13]の大幅な税率の引き下げを実施した。一方、付加価値税(消費税)は1979年に従来の8パーセントから15パーセントに引き上げられた。
- 1979年8月27日にルイス・マウントバッテンが暗殺されてから数か月後、イングランド銀行は公定歩合を17パーセントへ引き上げた[14]。公約であったインフレの抑制には成功した。しかし、首相就任から間も無くイギリスの失業者数は倍増し、1982年には300万人を上回る。サッチャー政権において、イギリスの失業率は世界恐慌以降最悪の数字を記録した[15]。失業率はその後も1986年半ばまで減少せず(1986年以降は1990年まで減少)、これによりサッチャーの支持率は低下した。そのため小さな政府の柱のひとつであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じた結果、イギリス経済は回復した。ミルトン・フリードマンら新自由主義を唱える経済学者はサッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。
- 1988年、教育法を改定した。イギリスの教育機関は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた教科書の1つ「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う内容)が自虐的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった[要出典]。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通のカリキュラムを作り、非キリスト教徒に対してもキリスト教の授業を必修とするなど『自虐的』内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府とともに、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させ、大胆な教育改革も実行した[要出典]。
IRAテロ
1984年10月12日、保守党党大会開催中のブライトンにて、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人あまりが負傷した。
外交
外交では冷戦下でアメリカのロナルド・レーガン大統領と日本の中曽根康弘総理などのサミット国を中心に、西側諸国の首脳と共同歩調をとり、冷戦終結までのプロセスではソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ大統領と協力し、冷戦の終結に大きな影響を与えたとされている。しかし、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)の早期の「ドイツ再統一」には懐疑的だった。
ERM参加
サッチャーが欧州懐疑論の立場をとっていたことは通説であるが、サッチャーは1975年のEEC離脱を問う国民投票では残留を主張した[16]。サッチャー政権下においても、1986年にEECを強くするための単一欧州議定書に署名した。
ユーロ加盟の前段階となるERM加入には強く反対の立場であったことは事実である。「事がうまく運んだとしてもERM加入はプラスにはならない。事がうまく運ばなかった場合はERM加入は状況を悪化させるだろう」とサッチャーは考えていた。アラン・ウォルターズ(サッチャーの経済アドバイザー)も、ERM加入はスターリング・ポンドへの投機攻撃の圧力を強くするだろうと懸念していた。ERMは為替レートの安定どころか不安定化の要素だとし、ERMに加入すべきではないとウォルターズは考えていた[17]。
とはいえ、財務大臣ナイジェル・ローソンとその後任ジョン・メージャーらの働きかけに押され、英国をERMに加入させたことも事実である。ローソンは1987年ごろから為替レートの安定化政策を主張し始めた。1988年にはサッチャーとローソンの関係は悪くなっていた。1980年代後半からの拡張型金融政策によってイギリス経済が成長していた状況下、インフレ抑制を好むサッチャーと安定な為替レートを好むローソンの対立が次第に顕在化し始めた。それでもEMUに対するサッチャーとローソンの見解は一致していた。両者ともにEMUには反対していた。その年の中ごろ、ジェフリー・ハウが閣内不一致となるスピーチをするようになった。ハウはERMに関してローソンとほぼ同じ意見であった。
1989年にはレオン・ブリタンがERM加入のメリットをサッチャーに力説した。イギリスがERMに加入することでERMの発展をイギリス主導で行えるとブリタンは主張した。その年の5月にはウォルターズが公式にサッチャーの助言役として復帰し、これによってサッチャーとローソンとの間の確執は決定的になった。ローソンはドイツマルクとの為替レートを見ながらイングランド銀行の利上げを主張、一方のウォルターズは景気を悪化させるとして利上げには反対だった[17]。サッチャーは内閣改造により、ハウを下院院内総務にし、ローソンを留任させた。しかし、結局ローソンは辞任し、ウォルターズも辞任することになる。サッチャーは後任人事としてジョン・メージャーが適任と考えた。いつかはメージャーがサッチャーの後任を務めるだろうとサッチャーは考えていた。メージャーに経験を積ませたいとサッチャーは考え、メージャーを財務大臣にした。
しかし、メージャーはERM参加に熱心になり始めた。1990年には、ERM参加のメリットは為替レートの安定だけでなく金利を下げることでもあるとメージャーは主張した。さらには(ローソンらとの対立で顕在化した保守党内の内部抗争について)ERM参加によって保守党が団結でき、(それが経済にもよい影響を与え)次回の総選挙に勝てるのだともメージャーは主張した[17]。最終的にサッチャーはメージャーらに譲歩し、変動幅(%)でのERM参加を検討した。その年にイギリスはERMに加入した。
フォークランド紛争
1982年に南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発する。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪を入れず艦隊・爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの、アメリカの協力をうけた2か月の戦闘の結果、6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価がきわめて高い。しかし、貧弱な装備のアルゼンチン軍に最新鋭のフリゲート艦を撃沈されられたことなどは、軍事専門家からは懐疑的な論文がサイエンスに発表されている。
この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意味)と述べた。
イギリス経済の低迷から、支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73パーセントを記録する。フォークランド紛争をきっかけに、保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。
香港譲渡問題
1982年9月にはサッチャーが中国を訪問し、ここに英中交渉が開始されることになった。鄧小平は「港人治港」の要求で妥協せず、イギリスが交渉で応じない場合は、武力行使や水の供給の停止などの実力行使もありうることを示唆した。当初、イギリス側は租借期間が終了する新界のみの返還を検討していたものの、イギリスの永久領土である香港島や九龍半島の返還も求める猛烈な鄧小平に押されてサッチャーは折れた恰好となった。
1984年12月19日に両国が署名した英中共同声明が発表され、イギリスは1997年7月1日に香港の主権を中華人民共和国に返還し、香港は中華人民共和国の特別行政区となることが明らかにされた。この譲渡及び返還決定は、フォークランド紛争の際と対照的なその弱腰な姿勢が国内外から大きな批判を浴びた。
南アフリカ共和国
1986年のコモンウェルスゲームズ大会では、サッチャー政権の南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議した32か国が、大会をボイコットした。イギリス連邦に属する国家や地域が、アパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え、経済制裁には反対していた。
ドイツ
サッチャーは若年期に、第二次世界大戦によるナチス・ドイツとの激しい戦争を経験しており、そのためドイツに対して強い警戒心を持ち続けていた。ドイツ再統一に当たっては、フランスのミッテランとともに強い懸念を持っており、特にサッチャーは、「統一が実現すれば、英雄となるコールが第2のヒトラーとなり、第二次世界大戦前までのドイツの領土全てを要求してくる」という考えに囚われていた[18]。また、「コールはドイツが分割された理由を分かっていない」と憤り、「ベルリンの壁崩壊の翌日、連邦議会で西ドイツの議員たちが自発的にドイツ国歌を歌ったという報告を聞いて戦慄した」という[19]。
イラク
1990年8月1日のイラクのクウェート侵攻の際に起きたブリティッシュエアウェイズ149便乗員拉致事件では、当該のBA149便がクウェートに着陸した経緯についてイギリス議会で問題とされたものの、サッチャーは「着陸後1時間経ってから侵攻が行われた」と証言をした。しかしこのことは、サッチャーの回顧録内で嘘の証言であったことが明らかにされている[20]。
首相辞任
保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税(community charge)の導入を提唱してイギリス国民の強い反発を受け、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示した。
このため財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15パーセント以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に首相および保守党党首を辞任する意向を表明した。11月28日にダウニング街10番地(首相官邸)から退居した。後任には、ジョン・メージャーが就任した。
首相在任期間は「11年と208日間」であった。これは、20世紀以後の歴代イギリス首相では最長記録であり、初代首相ロバート・ウォルポールからの歴代首相の中でも7番目の長期政権を記録した(「en:List of prime ministers of the United Kingdom by length of tenure」)。
首相辞任後とその晩年
1992年からは貴族院議員を務め、政治の表舞台から退いた。2008年に長女キャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の『メール・オン・サンデー』紙が詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている[21]。一方でサッチャーの功績に関する書籍を出版したイアン・デールは、2010年にサッチャーと面会した際には目の前の出来事を把握するのに難があったものの、首相時代の記憶ははっきりしていたと証言している[22]。2012年12月21日、膀胱にできた腫瘍を取るため入院し手術を受けた[23]。
2013年4月8日、脳卒中のため満87歳で死去したことが、サッチャー家のスポークスマンより発表された[24][1]。87歳没。
死去後
サッチャーの死去が報道されると、イギリス国内からはデーヴィッド・キャメロン首相や労働党のトニー・ブレア元首相から、また国外からアメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領、日本の安倍晋三総理、ドイツのアンゲラ・メルケル首相といった現職の指導者らが相次いで、深い追悼の意を表明した。
ほかに彼女と同時代の指導者である旧ソ連のゴルバチョフ元大統領、日本の中曽根康弘元首相などからも深い追悼の意が寄せられた[22][25][26][27]。また中国外務省も定例記者会見で「香港返還に大きな役割を果たした」と哀悼の意を示した。しかしサッチャー政権期の1982年にフォークランド紛争をイギリスと戦い敗北したアルゼンチンのキルチネル大統領は、サッチャー死去に関して沈黙している。なお、フォークランド諸島の住民はサッチャーの死去を深く悲しんでいる[28]。
イギリス政府は、「マーガレット・サッチャーの葬儀を4月17日にセントポール寺院で、エリザベス2世女王とエディンバラ公フィリップ王配の参列を賜る準国葬にする」と発表した。サッチャーの棺は霊柩車でウエストミンスター宮殿からトラファルガー広場のあるホワイトホール地域を通過しセント・クレメント・デインズ教会で大砲馬車に乗り換え、セントポール寺院に至る。首相経験者の葬儀に国王(エリザベス2世女王)が参列するのは、1965年に死去したウィンストン・チャーチル以来48年ぶりであった[29]。
その一方で、イギリス各地では首相在任中のいわゆる「サッチャリズム」政策によって圧迫された、労働者階級や元教員の間で「彼女の死を祝賀するパーティ」が見られた[30][31]。さらにネット上には「(サッチャーによって)地獄が民営化されようとしています」「(サッチャーが)地獄に落ちてわずか20分で地獄のかまどが3つ廃炉になった」などと、首相在任時期の小さな政府政策と絡めて批判するコラージュが登場した[32]。また「鐘を鳴らせ!悪い魔女は死んだ」(映画『オズの魔法使』の挿入歌)が、英国音楽ダウンロードチャートの1位となった[33]。また死者にささげる言葉「RIP」を「鉄の女」の異名にかけて「安らかに朽ちよ(Rust In Peace)」として批判する者もいた[34][35]。
4月16日午後、サッチャーの棺はウェストミンスター宮殿に運ばれた。宮殿内の教会に棺は安置され、近親者による葬儀が執り行われた。翌4月17日、サッチャーの棺は宮殿からホワイトホールを経てクレメントディーン教会まで運ばれ、そこで大砲馬車に乗り換えられた。ユニオンジャックで包まれたサッチャーの棺の上には、2人の子からの花が置かれていた。棺の後には海軍軍楽隊が音楽を演奏しながら追従した。サッチャーの家族やデーヴィッド・キャメロンはじめ首相経験者など要人らが待つセントポール寺院前で、儀仗兵に担がれて棺は内部に運ばれ安置されると、国歌『女王陛下万歳』が流れるなか、エリザベス2世女王とエディンバラ公フィリップ王配を乗せた御料車が到着した。女王夫妻が司祭の先導で聖堂内に姿を現すと、出席者から拍手が起きた。そのあとロンドン大司教に司式による葬儀が行われた。多くのロンドン市民が沿道に詰めかけ、「鉄の女」の最後の別れを見送る一方で、「サッチャーの葬儀のために我々の血税を使うな」という抗議デモもロンドンで起きた[36]。
評価
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イギリスでの評価
- その非常に強硬な政治方針と信念から、在任中もその後も、イギリス国内では非常に毀誉褒貶の激しい二分された評価がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主[要出典]として国内外の新保守主義・新自由主義の政治家・経済論者からはいまだに高い評価を受けているが、一方で失業者を増大させ、地方経済を不振に追いやった血も涙もない人間としての評価もある。富裕層優遇政策をとったことから、リベラリズムや労働者からの評価は低い。旧来の保守勢力からも、古き良き英国の伝統を破壊した政治家として批判に晒されることがある。
- その後、保守党から政権を奪取した労働党のブレア政権が成立すると、サッチャーによって廃止された地方公共団体や公企業が復活し、民営化によるサービス低下への対策が図られた。また教育政策においても、サッチャー政権が導入した競争型の中等学校が事実上廃止され、公立学校の地位向上が図られるなど、サッチャリズムの弊害除去がイギリスの重要な政策になった(第三の道)。その福祉政策も、またイギリス暴動の遠因となる結果になっている[37]。
日本での評価
- サッチャーの首相就任からまもなく、1980年に選出されたアメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンも新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらにニュージーランドでもデビッド・ロンギが新自由主義を主導し、1980年代はアングロサクソン各国において新自由主義が台頭する時代となる。またこの時期、日本においても、1982年に首相に就任した中曽根康弘により、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。
- また日本では、安倍晋三、平沼赳夫、藤岡信勝など、現在の歴史教育は「自虐的」と考える論者から、「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」とされた[38]。2006年に行われた教育基本法改正や教育バウチャー制度導入の動きは、サッチャーを模範としたものである。
語録
- 「あなたの旗は赤旗でしょう? 私の旗はユニオンジャックです」
- 「我々は核兵器のない世界ではなく、戦争のない世界を目指すべきです」
- 「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」
- 「私はコンセンサスというものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから」
- (議会で動物擁護法案が通過する際、野次を飛ばす野党議員に対して)「お黙りなさい!これはあなた方のためにもなる法律なんですからね!」
- (「長期政権は民主主義に反するのでは」と質問した記者に対して)「あなたはミッテランのことを批判するのですか?」
- (フォークランド紛争開戦に反対する閣僚たちに向かって)「この内閣に男は1人しかいないのですか?」
- 「言ってほしいことがあれば、男に頼みなさい。やってほしいことがあれば、女に頼みなさい」
- 「金持ちを貧乏にしても、貧乏人が金持ちにはなりません」[39]
家族
夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。
デニス・サッチャーは、1991年に準男爵(Baronet)になり、サーと呼ばれる。マーガレットの政治活動についても助言を行い、妻は夫の助言に素直に従っていたが、あくまで家庭内での夫婦関係に留め、これを公にせず、賢い妻に対して愚かな夫であるように演じていたと言われる。
1982年、長男のマークはダカール・ラリーに出場中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒動になる。その際、サッチャーは「息子が見つからなかったらレースを中止にさせる」と発言したと言われる。最終的にマークは無事に発見・保護され、ラリーは世界的に認知された。
2004年8月には当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されたが、すぐに200万ランド(約4,000万円)の保釈金により保釈され、イギリスへの帰国を認められた。2005年1月に南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予つき)と300万ランド(約6,000万円)の罰金を支払った。また娘のキャロルも、コンゴ系フランス人テニス選手のジョー=ウィルフリード・ツォンガに対して差別的発言を行い問題となった。
授爵・叙勲
- 1992年、一代貴族として男爵位を授爵し、女男爵(Baroness)として貴族院議員になる。1995年、ガーター勲章を受ける。
- 2007年2月21日、在世中の元首相では初めて、英国議会議事堂(ウェストミンスター宮殿)内に銅像が建立された。なお、建立に際しサッチャーは、「鉄の像(「鉄の女」にかけている)になるかと思ったのですが、銅像ですね…銅もいいですよね、錆びないから」と述べ、周囲の笑いを誘った。
- 1995年(平成7年)5月、日本から勲一等宝冠章が贈られている。儀礼的な叙勲でなく、個人的な功績によって同章の勲一等が授与された、きわめて珍しい例である。
サッチャーを扱った作品
ドキュメンタリー・映画
- シリーズ 世界のリーダーたち その成功と挫折 マーガレット・サッチャー 〜裏切られた“鉄の女”〜(2010年)
- ドキュメンタリー マーガレット・サッチャー 鉄の女の素顔(2012年)
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙(2012年)主演:メリル・ストリープ
- 奇跡体験!アンビリバボー 鉄の女サッチャー激動87年人生(2013年)
ドラマ
- ザ・クラウン シーズン4 (2020年) 演:ジリアン・アンダーソン(日本語吹替:高島雅羅)
書籍
- サッチャー回顧録―ダウニング街の日々〈上・下〉(1993年)
- サッチャー 私の半生〈上・下〉(1995年)
脚注
- ^ a b "Live coverage: Margaret Thatcher dies after stroke" The Times. 2013年4月8日閲覧
- ^ “イギリスのサッチャー元首相死去 英メディア伝える”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年4月8日). オリジナルの2013年4月8日時点におけるアーカイブ。 2013年4月8日閲覧。
- ^ a b c How Margaret Thatcher built the myth of The Iron LadyP. Vallely, The Independent, News, 8 Aprl 2013
- ^ http://www.margaretthatcher.org/speeches/displaydocument.asp?docid=102939
- ^ United Kingdom>Government>Public Expenditure Statistical Analyses 2010>60page>Table 4.2 Public sector expenditure on services by function, 1987–88 to 2009–10
- ^ UK Public Spending>Health Care 1900 - 2010
- ^ UK Public Spending>Welfare 1900 - 2010
- ^ UK Public Spending>Pension 1900 - 2010
- ^ UK Public Spending>Total Spending 1900 - 2010
- ^ “鉄の女・サッチャー元英首相、卵ダイエットしてた”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年1月31日) 2010年1月31日閲覧。
- ^ “Remarks on becoming Prime Minister (St Francis's prayer)”. Margaret Thatcher Foundation (1979年5月4日). 2017年3月21日閲覧。
- ^ 25パーセントから80パーセントの11段階から、25パーセントと40パーセントの2段階へ。
- ^ 50パーセントから35パーセントへ。
- ^ 公定歩合は厳密には市場原理で決定されるため、17パーセントという数値はビッグバンに向けて外資が積極的に受け入れられた結果とも考えられる。
- ^ O.J. Blanchard and L.H. Summers, NBER Macroeconomics Annual Vol. 1 (1986)
- ^ Five myths about Margaret ThatcherC. Berlinski, The Washington Post, Opinions, 22 Dec 2011
- ^ a b c M. Thatcher, The Downing Street Years, Harper
- ^ http://www.youtube.com/watch?v=VE-92rfpHgk
- ^ http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20130415/246635/
- ^ 「湾岸戦争 MI6人質奪還作戦」ディスカバリーチャンネル
- ^ 認知症と戦う「鉄の女」 ニュース:@nifty 2008年8月25日閲覧
- ^ a b “「米国の真の友人」 サッチャー氏死去、世界から追悼の言葉”. CNN.co.jp (CNN). (2013年4月9日) 2013年4月9日閲覧。
- ^ (日本語) “サッチャー元首相が手術”. ロシアの声 (2012年12月22日). 2012年12月23日閲覧。
- ^ “Ex-Prime Minister Baroness Thatcher dies”. BBC News (2013年4月8日). 2013年4月8日閲覧。
- ^ サッチャー元英首相死去:各国指導者らの追悼コメント
- ^ 中曽根元首相「傑出した政治家だった
- ^ 安倍首相「偉大なリーダーだった」
- ^ Argentina will not 'shed a tear' Kirchner stays silent as leaders pay tribute to Thatcher
- ^ サッチャー元英首相の葬儀は17日、国葬級の扱い-女王も参列 ブルームバーグジャパン 2013年4月8日閲覧
- ^ Margaret Thatcher's death greeted with street parties in Brixton and Glasgow The Guardian 2013-4-8
- ^ サッチャー氏死去:哀悼も批判も…分かれる英国世論
- ^ [1]
- ^ 英音楽チャート1位に「悪い魔女は死んだ」、サッチャー氏死去で AFPBB 2013-4-11
- ^ [2]
- ^ Demotix.com: Anti-Thatcher graffiti appears on walls in West Belfast
- ^ Margaret Thatcher funeral: live coverage
- ^ あの暴徒達は何者なのか
- ^ 新しい歴史教科書をつくる会 PR:『大人が知らない こどもの教科書』[リンク切れ]、古屋圭司 サッチャー改革に学べ!教育再興の任は国家にあり(産経新聞社「正論」1月号対談)(『正論』より。椛島有三司会、安倍晋三、古屋圭司、下村博文、山谷えり子による座談会)
- ^ The poor will not become rich even if the rich are made poor.
関連項目
- ロナルド・レーガン
- フリードリヒ・ハイエク
- エドマンド・バーク
- ミハイル・ゴルバチョフ
- バッキンガム大学:総長、名誉総長を務めた。
- リバプールFC:"When Maggie Thatcher dies we,re all having a party"(サッチャーが死んだら、みんなでパーティだ)というチャントがある。
外部リンク
- Margaret Thatcher Foundation - マーガレット・サッチャー財団
- Margaret Thatcher Japan Foundation - マーガレット・サッチャー財団(一般財団法人・日本)
公職 | ||
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先代 ジェームズ・キャラハン |
首相 第71代:1979年5月4日 - 1990年11月28日 |
次代 ジョン・メージャー |
先代 エドワード・ヒース |
野党第一党党首 1975年2月11日 - 1979年3月4日 |
次代 ジェームズ・キャラハン |
先代 エドワード・ショート (en) |
教育科学大臣 1970年6月20日 - 1974年3月4日 |
次代 レジナルド・プレンティス (en) |
議会 | ||
先代 アルフレッド・クラウダー |
庶民院議員 フィンチリー選挙区選出 1959年10月8日 - 1992年6月30日 |
次代 ハートリー・ブース |
受賞 | ||
先代 ボブ・ホープ |
ロナルド・レーガン自由賞 1998年 |
次代 ビリー・グラハム |
党職 | ||
先代 エドワード・ヒース |
保守党党首 第13代:1975年2月11日 - 1990年11月27日 |
次代 ジョン・メージャー |