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**「現代語訳 [[智顗|法華玄義]]釈籤」東哲叢書・仏典現代語訳(上下) [[東洋哲学研究所]] 2020-、[[菅野博史]]・松森秀幸 訳注(下は未刊) |
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2020年12月14日 (月) 05:54時点における版
湛然 | |
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711年 - 782年 | |
尊称 | 妙楽大師 |
生地 | 常州晋陵県 |
宗派 | 天台宗 |
師 | 左渓玄朗 |
弟子 | 道邃・行満 |
著作 | 『止観輔行伝弘決』 |
湛然(たんねん、711年(景雲2年) - 782年3月23日(建中3年2月5日))は中国・唐代の天台宗の僧侶。荊渓湛然(けいけい たんねん)と呼ばれ、また、妙楽大師と称された。天台宗の第6祖。
事績
俗姓は戚氏。生家は儒教を奉ずる家柄であったが、早くより仏教を志向し、17歳の時に仏教、とりわけ天台教義を修学し始めた。20歳の時に左渓玄朗に入門し、出家前にその奥義を受けた。
出家したのは、38歳の時であり、以後、更に研鑽に勤めた。天宝13年(754年)に玄朗が没すると、その継嗣として、天台宗門の再興に尽力した。当時の華厳宗・法相宗・禅宗など、勢いの盛んな宗派に対抗し、盛んに講筵を張り、またその一方で述作にも専心した。よって、天台中興の祖と称せられる。
門弟子には、道邃・行満ら39名が数えられるが、道邃・行満の二人は、最澄に天台法門を伝えたことで知られる。
著書
- 『止観輔行伝弘決』10巻
- 『法華玄義釈籤』10巻
- 『法華文句記』10巻 ほか多数
伝記資料
- 『宋高僧伝』巻6
参考文献
- 日比宣正「荊渓湛然の研究:著述の製作年次に関する考察」(1964年)
- 池田魯参「荊渓湛然に及ぼした華厳教学の影響」(『華厳学論集』、大蔵出版, 1997年)ISBN 4804305378
- 池麗梅著『唐代天台仏教復興運動研究序説:荊渓湛然とその『止観輔行伝弘決』』(大蔵出版、2008年)ISBN 9784804305714
師:左渓玄朗 | 天台宗(中国) | 弟子:道邃・行満 |