「天寧寺 (会津若松市)」の版間の差分
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[[天正]]14年([[1586年]])、[[蘆名亀王丸]]の死によって[[蘆名氏]]は血統が途絶え、[[伊達氏]]と[[佐竹氏]]の争いとなったが、結局は[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]の次男・[[蘆名義広|義広]]が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国[[白河市|白河]]の[[白河結城氏]]を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが、天正15年([[1587年]])、[[蘆名盛隆]]の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った。 |
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義広は、天正17年([[1589年]])の[[摺上原の戦い]]の敗北により[[米沢城|米沢]]の[[伊達政宗]]によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時焼亡している。当時の遺構として残っているのは[[本堂]]の[[礎石]]のみである。 |
義広は、天正17年([[1589年]])の[[摺上原の戦い]]の敗北により[[米沢城|米沢]]の[[伊達政宗]]によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時焼亡している{{refnest|group="注釈"|[[京都]]の[[天寧寺 (京都市)|天寧寺]]は当時の住職[[祥山曇吉]]がこの戦いで会津を追われて京都に避難した際に、本尊を安置するために仮に建てた仏堂が会津での再興後も門人に継承されたものであり、今日では[[金森重近|金森宗和]]・[[滋野井公麗]]らの墓所のあることで知られている。}}。当時の遺構として残っているのは[[本堂]]の[[礎石]]のみである。 |
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会津を追われた蘆名義広は実兄・[[佐竹義宣 (右京大夫)|義宣]]を頼って[[常陸国]]に逃れ、のち、[[豊臣秀吉]]から常陸国[[江戸崎藩|江戸崎]]4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の[[蒲生氏郷]]を封じた。氏郷の死後は[[上杉景勝]]を[[越後国]]より加増のうえ転封した。 |
会津を追われた蘆名義広は実兄・[[佐竹義宣 (右京大夫)|義宣]]を頼って[[常陸国]]に逃れ、のち、[[豊臣秀吉]]から常陸国[[江戸崎藩|江戸崎]]4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。義広(盛重)は、[[関ヶ原合戦]]ののち、[[慶長]]7年([[1602年]])に父の佐竹義重・佐竹義宣とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、[[仙北郡]][[角館]]に1万6,000石を与えられた。角館では町割りをおこない、同地に会津天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに城下東方の花場山の麓に[[天寧寺 (仙北市)|天寧寺]]を創建、菩提寺とした{{refnest|group="注釈"|これにより、会津、京都、出羽角館の3か所に同名の「萬松山天寧寺」が存在することとなった。}}。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の[[蒲生氏郷]]を封じた。氏郷の死後は[[上杉景勝]]を[[越後国]]より加増のうえ転封した。 |
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後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている。 |
後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている。 |
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== 近藤勇の墓 == |
== 近藤勇の墓 == |
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[[ファイル:Grave_of_Isami_Kondo.JPG|thumb|天寧寺内の近藤勇の墓]] |
[[ファイル:Grave_of_Isami_Kondo.JPG|thumb|right|300px|天寧寺内の近藤勇の墓]] |
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境内裏手には、[[戊辰戦争]]に敗れ刑死した[[新選組]]局長[[近藤勇]]の墓がある。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は[[土方歳三]]が遺体の一部を葬ったとされている。[[4月25日]]の命日には、墓前祭りが開催される。 |
境内裏手には、[[戊辰戦争]]に敗れ刑死した[[新選組]]局長[[近藤勇]]の墓がある<ref name="kondoh">[https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/shinsengumi/shiseki/kisamihaka.html 天寧寺「近藤勇の墓」] - [[会津若松市]]公式サイト</ref>。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は[[土方歳三]]が遺体の一部を葬ったとされている<ref name="hijikata">[https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/shinsengumi/jinbutsu/htoshizo.html 「土方歳三」] - 会津若松市公式サイト</ref>{{refnest|group="注釈"|土方は、東山温泉湯治の折、斬首された近藤の首(あるいは遺髪)が会津に届いたところから、藩主[[松平容保]]に近藤の戒名「貫天院殿純忠誠義大居士」を贈ってもらった上で天寧寺に葬ったと伝わっている<ref name="kondoh" /><ref name="hijikata" />。}}。[[4月25日]]の命日には、墓前祭りが開催される<ref>[https://www.aizukanko.com/event/126 「近藤勇墓前祭」] - 会津観光ナビ</ref>。 |
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== 関連寺院 == |
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* [[天寧寺 (京都市)]] |
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== 外部リンク == |
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* [https://www.aizukanko.com/ 会津若松観光ナビ] |
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* [http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/kanko/kanko/buke/#tennei 会津武家屋敷] |
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2020年12月13日 (日) 00:23時点における版
天寧寺 | |
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所在地 | 福島県会津若松市東山町石山天寧208 |
位置 | 北緯37度29分24.8秒 東経139度57分10.9秒 / 北緯37.490222度 東経139.953028度座標: 北緯37度29分24.8秒 東経139度57分10.9秒 / 北緯37.490222度 東経139.953028度 |
山号 | 萬松山 |
宗旨 | 曹洞宗 |
創建年 | 文安4年(1447年) |
開山 | 蘆名盛信 |
法人番号 | 8380005008522 |
天寧寺(てんねいじ)は,福島県会津若松市東山町石山天寧に所在する曹洞宗寺院。山号は萬松山。
沿革
文安4年(1447年)に蘆名盛信が大瞞行果禅師 南英謙宗のために陸奥国会津黒川東山に開いたといわれる。勧請開山は傑堂能勝であった。かつては会津曹洞宗の僧録司を兼ね、末寺33カ寺、僧堂12を数えたとされる。
蘆名家中興の英主とされ、会津地方に大勢力を築いた蘆名盛氏が銭100貫文を寄進した記録があり、最盛期には雲水1,000名を擁する蘆名氏の菩提寺であった。
天正14年(1586年)、蘆名亀王丸の死によって蘆名氏は血統が途絶え、伊達氏と佐竹氏の争いとなったが、結局は佐竹義重の次男・義広が跡を継いだ。義広は、当初陸奥国白河の白河結城氏を継いで結城義広あるいは白河義広と称していたが、天正15年(1587年)、蘆名盛隆の娘と結婚して正式に蘆名家を継ぎ蘆名義広を名乗った。
義広は、天正17年(1589年)の摺上原の戦いの敗北により米沢の伊達政宗によって会津黒川を追われ、天寧寺もこの戦いで一時焼亡している[注釈 1]。当時の遺構として残っているのは本堂の礎石のみである。
会津を追われた蘆名義広は実兄・義宣を頼って常陸国に逃れ、のち、豊臣秀吉から常陸国江戸崎4万5,000石を与えられ、名を蘆名盛重と改めた。義広(盛重)は、関ヶ原合戦ののち、慶長7年(1602年)に父の佐竹義重・佐竹義宣とともに秋田領に入り、名を義勝(よしかつ)と改め、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。角館では町割りをおこない、同地に会津天寧寺の末寺として山号・寺号をそのままに城下東方の花場山の麓に天寧寺を創建、菩提寺とした[注釈 2]。なお、会津は伊達政宗には与えられず、秀吉は配下の蒲生氏郷を封じた。氏郷の死後は上杉景勝を越後国より加増のうえ転封した。
後援者を失った天寧寺であるが、その後も周囲の人びとの尽力によって維持され、現代につづいている。
近藤勇の墓
境内裏手には、戊辰戦争に敗れ刑死した新選組局長近藤勇の墓がある[1]。近藤勇の墓は日本各所にあるが、天寧寺の墓は土方歳三が遺体の一部を葬ったとされている[2][注釈 3]。4月25日の命日には、墓前祭りが開催される[3]。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 秋田魁新報社編 編『秋田のお寺』秋田魁新報社、1997年5月。