「宋晃」の版間の差分

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'''宋 晃'''そう こうは、[[五胡十六国時代]][[前燕]]の人物<ref name="Kotobank">{{Kotobank|冬寿|2=世界大百科事典}}</ref>。[[本貫]]は[[西河郡]][[界休県|介休県]]。[[鮮卑]][[慕容部]]の大人[[慕容廆]]の長史[[宋セキ|宋奭]]の子。孫は[[宋隠]]
'''宋 晃''' (そう こう、生没年不詳) は、[[五胡十六国時代]][[前燕]]の人物<ref name="Kotobank">{{Kotobank|冬寿|2=世界大百科事典}}</ref>。[[字]]は不明。[[本貫]]は[[西河郡]][[界休県|介休県]]。[[鮮卑]][[慕容部]]の大人[[慕容廆]]の長史[[宋セキ|宋奭]]の子。


== 概要 ==
== 概要 ==

2020年11月27日 (金) 06:16時点における版

宋 晃 (そう こう、生没年不詳) は、五胡十六国時代前燕の人物[1]は不明。本貫西河郡介休県鮮卑慕容部の大人慕容廆の長史宋奭の子。

概要

高句麗4世紀以降の国家発展に無視できない役割を果たした中国人の高句麗流入者の一人であり、338年建武4年)に慕容皝の討伐にあい、游泓封抽らとともに高句麗に逃亡した[2]

宋晃は、高句麗に新文化をもたらし、国政の整備と軍備拡張と積極的な外交政策をすすめた[1]

脚注

  1. ^ a b 世界大百科事典『冬寿』 - コトバンク
  2. ^ 李成市『古代東アジアの民族と国家』岩波書店、1998年3月25日、24頁。ISBN 978-4000029032