「吉武高木遺跡」の版間の差分

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{{注意|この記事は、[https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/2690 文化庁のサイト]から転載したもので、[[文部科学省]]による[https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/about 政府標準利用規約]に基づいているため、[[著作権]]などの問題は発生しないことになっています。}}'''吉武高木遺跡''' (よしたけたかぎいせき) は、[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]大字吉武にある[[弥生時代]]の[[遺跡]]。[[1993年]]10月4日に一部が国史跡に指定され、[[2000年]]9月21日に追加で一部が国史跡となった。
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== 出典 ==
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2020年11月21日 (土) 05:28時点における版

吉武高木遺跡 (よしたけたかぎいせき) は、福岡県福岡市西区大字吉武にある弥生時代遺跡1993年10月4日に一部が国史跡に指定され、2000年9月21日に追加で一部が国史跡となった。

概要

福岡市の西部に位置する早良平野は、南方の脊振山地とそれから派生した丘陵によって三方を限られ、北の玄界灘に向かって扇形に開く独立した自然空間を形成している。吉武高木遺跡は、早良平野の中央部を貫流する室見川の中流左岸に広がる吉武遺跡群の一部を構成する弥生時代の墳墓と建物跡からなる遺跡である[1]

昭和五十五年、吉武遺跡群が所在する飯盛・吉武地域において、圃場整備事業が計画されたため、昭和五十六年から六十年にかけて、福岡市教育委員会が五次にわたる事前調査を実施した。調査の結果、遺跡群が縄文時代から中世にかけて遺跡からなる大規模なものであることが判明した。遺跡群の最盛期は弥生時代で、前期末から中期後半にかけて甕棺を主体とした墳墓一二〇〇基、丹塗磨研土器を投入した土壙五〇基、竪穴住居掘立柱建物などが検出されている[1]

吉武高木遺跡はこの遺跡群の南端部に位置し、高木・大石の二地区から青銅器や玉類を副葬するなど、卓越した内容の墳墓群が発見された。特に高木地区の墳墓群は、共同墓地から離れて独立した墓域を形成しており、調査された三五〇平方メートルの範囲に、木棺墓四基、甕棺墓一六基、小型甕棺墓一八基が密集する。このうち小児用とみられる小型の甕棺は、墓域の東半部に集中し、西半部に成人用とみられる大形の甕棺墓と木棺墓が、墓壙の主軸を北東方向に揃えて、整然と配置されていた。これらの成人墓は、大型の墓壙を有しており、墓壙上に花崗岩や安山岩を配した墓標をもつなど、同時期の他の墳墓とは規模や構造上でも差異が認められる。副葬品はこのうちの木棺墓四基、甕棺墓七基で確認された[1]

甕棺墓はいずれも弥生時代前期末から中期初頭に位置付けられる金海式甕棺で、成人棺は特別に大型に作られ、蕨手状の刻目突帯文を施したものや、疾駆する二頭の鹿を描いたものがある。副葬品をもつ甕棺墓の構成は銅剣一口を基本に玉類が加わるもの四基、銅釧二点と玉類からなるもの一基、玉類のみのもの二基となっている[1]

四基の木棺墓も甕棺墓と同時期の所産で、大型の墓壙をもち、内部に組合式木棺や割竹形木棺を納めた痕跡が残る。特に墓域の中心近くに位置する二号木棺墓は、長さ四・八メートル、幅三・五メートルの長大な墓壙をもち、中に納めた割竹形木棺も長さ二・五メートル、幅一メートルの規模をもつ。これには、銅剣一口、硬玉製勾玉一点と碧玉製管玉九五点からなる頸飾り、碧玉製管玉四〇点からなる腕飾り、小壺などが副葬されていた[1]。また墓域南端部にある三号木棺墓は、二号木棺墓に比較すると墓壙はやや小規模であるが、硬玉製勾玉一点と碧玉製管玉九五点からなる頸飾りとともに、多鈕細文鏡一面、銅剣二口、銅戈・銅矛各一口が副葬され、他を圧倒する内容を有していた。高木地区の木棺墓は、他の二基の木棺墓にも銅剣が副葬されるなど、すべてに副葬品がみられ、甕棺墓に対する優位性が認められる[1]

高木地区の木棺墓と甕棺墓から出土した副葬品は、細形銅剣九口、細形銅戈一口、細形銅矛一口、多鈕細文鏡一面、銅釧二点、碧玉製管玉四六八点、硬玉製勾玉四点、ガラス製小玉一点、有茎式磨製石鏃一点、小壺などである。多鈕細文鏡と実用的な細形の青銅製武器は、朝鮮半島からの船載品と考えられるものである。これらの豊富な副葬品をもつ墓は、大型の石を地上標識とする点や、共同墓地から離れて独立した墓域をもつ点で、奴国王墓と推定される福岡県春日市須玖岡本遺跡や、伊都国王墓と推定される前原市三雲南小路遺跡の墳墓へと発展する要素が認められ、この墳墓の被葬者達が早良平野に出現した有力首長層であったことを推測させる[1]

青銅器を多量に副葬した墓群の東方四〇メートルの地点からは、大型の掘立柱建物と高床倉庫が発見されている。大型建物は、桁行五間(総長一二・五メートル)、梁行四間(総長九・五メートル)の身舎に西廂が付く南北棟建物で、北・東の二面には軒支柱が巡り、既発見の同時期の建物としては最大の規模を誇る。この大型建物は先の墓群の被葬者の居館の一部を構成する建物と考えられる。高床倉庫は大型建物の南方五〇メートルに七棟を確認している。桁行二間、梁行一間のもの五棟、桁行・梁行ともに一間のもの二棟からなる。なお一般集落を構成する竪穴住居はこの地区に存在せず、墓域同様、首長層の居住域が一般集落構成員の居住域から独立した可能性が高い[1]

以上のように吉武高木遺跡は、北部九州における弥生時代の階層分化の過程と王権の生長過程を解明する上で、また『漢書』「地理志」が伝える百余国に分かれた倭人社会の実態を追求する上で、極めて高い学術的価値を有しているため、国の史跡に指定されている[1]

所在地

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁(一部改変). 2020年11月20日閲覧。