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'''基王'''(もといおう、[[神亀]]4年[[9月29日 (旧暦)|閏9月29日]]([[727年]][[11月16日]] - 神亀5年[[9月13日 (旧暦)|9月13日]]([[728年]][[10月20日]]))は、[[奈良時代]]の[[皇族]]。[[聖武天皇]]の第1皇子。'''基皇子'''(もといのみこ)とも。また『[[本朝皇胤紹運録]]』にはただ「[[親王]]」とのみ掲げられており、その説明書きとして「[[諱]]基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ[[親王宣下]]の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。
'''基王'''(もといおう)は、[[聖武天皇]]の第1皇子。'''基皇子'''(もといのみこ)とも。また『[[本朝皇胤紹運録]]』にはただ「[[親王]]」とのみ掲げられており、その説明書きとして「[[諱]]基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ[[親王宣下]]の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。
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2020年11月21日 (土) 03:28時点における版

基王
皇太子
在位 神亀4年11月2日727年12月22日)-神亀5年9月13日728年10月20日

時代 奈良時代
生誕 神亀4年閏9月29日727年11月16日
薨御 神亀5年9月13日728年10月20日
別名 基皇子
墓所 大和国那保山(伝:那富山墓)
父母 父:聖武天皇、母:光明皇后
兄弟 孝謙天皇井上内親王不破内親王安積親王
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基王(もといおう)は、聖武天皇の第1皇子。基皇子(もといのみこ)とも。また『本朝皇胤紹運録』にはただ「親王」とのみ掲げられており、その説明書きとして「基王」と記されていることから、これは「諱某王」の誤記であり、実名は不明であるとする説もある。「基」と命名されたのであれば、まだ親王宣下の慣行が存在しない当時、誕生とともに自動的に「基親王」とされたはずだからである。

生涯

聖武天皇光明皇后とのあいだに生まれた唯一の男子である[1]。待望の男子を得た天皇の喜びはひととおりではなく、生後わずか32日、11月2日12月22日)には皇太子に立てられた。天皇はもちろん皇太子にも成人であることが求められた当時としてはきわめて異例な措置であった。しかし、翌年には病気となり、生後1年に満たずに夭逝する。

死後は那保山(なほやま)[2]に葬られ[3]奈良市法蓮佐保山3丁目[4]の「那富山墓」と呼ばれる陵墓と伝わる[5]

この早すぎる死は、現代の視点から見れば、古代の天皇家で神聖さを維持するために代々繰り返されてきた近親婚の結果として、天武天皇の男系子孫の多くが抱えた遺伝病もしくは虚弱体質であったことが影響しているといわれるが、当時においては、左大臣長屋王の呪詛と噂された。それは、長屋王の持つ有力な皇位継承権者としての立場ともあいまって、わが子を強く哀惜する聖武天皇に長屋王への不信感を生じさせ、讒言による政治的粛清である長屋王の変へとつながってゆくことになる。

系譜

補注

  1. ^ ただし、のちに聖武天皇には県犬養広刀自との間に男子安積親王が生まれている。
  2. ^ 奈良市北部の山。佐保山、那富山とも書く。
  3. ^ 『続日本紀』神亀5年9月19日条
  4. ^ かつて奈良ドリームランドがあった付近。
  5. ^ 橿原考古学研究所 2001, p. 101.

参考文献

  • 図録 石の文化 古代大和の石造物」『橿原考古学協会調査研究成果』第5巻、橿原考古学研究所、2001年9月1日、101-109頁、NAID BA54760690識別子"BA54760690"は正しくありません。 

関連項目

  • 隼人石 - 基王陵墓とされる「那富山墓」内にある獣頭人身の存在が彫られた石造物。