「越嶲郡」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み
1行目: 1行目:
'''越郡'''(えつすい-ぐん、{{Lang-zh|越巂郡}})は、[[中国]]の[[漢|漢代]]から[[唐|唐代]]まで、現在の[[四川省]]西南部と[[雲南省]]東北部にまたがって置かれた[[郡]]である。'''粤'''嶲郡({{Lang-zh|粵巂郡}})とも書く<ref>粤巂の表記は『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、14頁。</ref>。
'''越郡'''(えつすい-ぐん)は、[[中国]]の[[漢|漢代]]から[[唐|唐代]]まで、現在の[[四川省]]西南部と[[雲南省]]東北部にまたがって置かれた[[郡]]である。'''粤'''巂郡とも書く<ref>粤巂の表記は『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、14頁。</ref>。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
秦末から漢の初めにかけて、現在の[[雲南省]]の一帯には西南夷と総称される諸族が小さな国に分かれて住んでおり、後の越郡の地は邛と呼ばれていた。現在の[[広東省]]及び[[広西チワン族自治区]]には[[南越国]]があり、西南夷諸国は漢と南越の両方に通交していた。[[元鼎]]4年([[紀元前113年]])頃に南越と漢が戦争状態に入ると、漢は西南夷諸国を動員して南越と戦わせようとしたが、諸国は従おうとしなかった。元鼎6年([[紀元前111年]])に独力で南越を滅ぼした漢軍は、雲南地方に侵入して小国の王を殺し、各地に郡を立てた。その一つが邛都に建てられた粤郡である<ref>班固『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、13-14頁。南越滅亡については同じく27-32頁。元鼎6年に置かれたことは。『漢書』地理志第8上、ちくま学芸文庫『漢書』3、357頁。</ref>。
秦末から漢の初めにかけて、現在の[[雲南省]]の一帯には西南夷と総称される諸族が小さな国に分かれて住んでおり、後の越郡の地は邛と呼ばれていた。現在の[[広東省]]及び[[広西チワン族自治区]]には[[南越国]]があり、西南夷諸国は漢と南越の両方に通交していた。[[元鼎]]4年([[紀元前113年]])頃に南越と漢が戦争状態に入ると、漢は西南夷諸国を動員して南越と戦わせようとしたが、諸国は従おうとしなかった。元鼎6年([[紀元前111年]])に独力で南越を滅ぼした漢軍は、雲南地方に侵入して小国の王を殺し、各地に郡を立てた。その一つが邛都に建てられた粤郡である<ref>班固『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、13-14頁。南越滅亡については同じく27-32頁。元鼎6年に置かれたことは。『漢書』地理志第8上、ちくま学芸文庫『漢書』3、357頁。</ref>。


[[邛都県|邛都]]・[[遂久県|遂久]]・[[霊関道]]・[[台登県|台登]]・[[定莋県|定莋]]・[[会無県|会無]]・[[莋秦県|莋秦]]・[[大莋県|大莋]]・[[姑復県|姑復]]・[[三絳県|三絳]]・[[蘇示県|蘇示]]・[[闌県|闌]]・[[卑水県|卑水]]・[[灊街県|灊街]]・[[青蛉県|青蛉]]の15県を擁した。前漢末に6万1208戸、40万8405人があった。郡は[[益州]]に属した<ref>班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357-358頁。</ref>。
[[邛都県|邛都]]・[[遂久県|遂久]]・[[霊関道]]・[[台登県|台登]]・[[定莋県|定莋]]・[[会無県|会無]]・[[莋秦県|莋秦]]・[[大莋県|大莋]]・[[姑復県|姑復]]・[[三絳県|三絳]]・[[蘇示県|蘇示]]・[[闌県|闌]]・[[卑水県|卑水]]・[[灊街県|灊街]]・[[青蛉県|青蛉]]の15県を擁した。前漢末に6万1208戸、40万8405人があった。郡は[[益州]]に属した<ref>班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357-358頁。</ref>。


[[新]]の時に'''集郡'''(しゅうすいぐん、{{Lang-zh|集巂郡}})と改称した<ref>班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357頁。</ref>。新の皇帝[[王莽]]に対する反乱が国内外で広がると、雲南地方も離反した。新が滅亡した[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])に、越郡では蛮夷の[[任貴]]が[[太守]]の[[枚根]]を殺し、自ら邛谷王を名乗った。やがて内戦の中国で[[後漢]]の[[光武帝]]が抜きん出てくると、任貴は[[建武 (漢)|建武]]14年([[38年]])に使者を遣わし、越太守の印綬を授かった<ref name="gokanjo">范曄『後漢書』光武帝紀第1下、南蛮西南夷列伝第76。</ref>。建武19年([[43年]])、漢の将軍[[劉尚]]が西南平定の軍を進めて来ると、任貴はこれを欺き叛こうとしたが、12月に劉尚に殺された<ref name="gokanjo"></ref>。
[[新]]の時に'''集郡'''(しゅうすいぐん)と改称した<ref>班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357頁。</ref>。新の皇帝[[王莽]]に対する反乱が国内外で広がると、雲南地方も離反した。新が滅亡した[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])に、越郡では蛮夷の[[任貴]]が[[太守]]の[[枚根]]を殺し、自ら邛谷王を名乗った。やがて内戦の中国で[[後漢]]の[[光武帝]]が抜きん出てくると、任貴は[[建武 (漢)|建武]]14年([[38年]])に使者を遣わし、越太守の印綬を授かった<ref name="gokanjo">范曄『後漢書』光武帝紀第1下、南蛮西南夷列伝第76。</ref>。建武19年([[43年]])、漢の将軍[[劉尚]]が西南平定の軍を進めて来ると、任貴はこれを欺き叛こうとしたが、12月に劉尚に殺された<ref name="gokanjo"></ref>。


後漢の越郡は邛都・遂久・霊関道・台登・青蛉・卑水・三縫・会無・定莋・闡・蘇示・大莋・莋秦・姑復の14県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志五</ref>。
後漢の越郡は邛都・遂久・霊関道・台登・青蛉・卑水・三縫・会無・定莋・闡・蘇示・大莋・莋秦・姑復の14県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志五</ref>。


[[三国時代 (中国)|三国時代]]に入って、越郡は王朝の支配から離れていた<ref>『三国志』蜀書馬忠伝</ref>。[[240年]]([[延熙 (蜀)|延熙]]3年)、[[蜀漢]]が越太守の[[張嶷]]を派遣して、越郡を平定した<ref>『三国志』蜀書後主伝</ref>。
[[三国時代 (中国)|三国時代]]に入って、越郡は王朝の支配から離れていた<ref>『三国志』蜀書馬忠伝</ref>。[[240年]]([[延熙 (蜀)|延熙]]3年)、[[蜀漢]]が越太守の[[張嶷]]を派遣して、越郡を平定した<ref>『三国志』蜀書後主伝</ref>。


[[晋 (王朝)|晋]]のとき、越郡は会無・邛都・卑水・定莋・台登の5県を管轄した<ref>『晋書』地理志上</ref>。
[[晋 (王朝)|晋]]のとき、越郡は会無・邛都・卑水・定莋・台登の5県を管轄した<ref>『晋書』地理志上</ref>。


[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、越郡は邛都・新興・台登・晋興・会無・卑水・定莋・蘇利の8県を管轄した<ref>『宋書』州郡志四</ref>。
[[宋 (南朝)|南朝宋]]のとき、越郡は邛都・新興・台登・晋興・会無・卑水・定莋・蘇利の8県を管轄した<ref>『宋書』州郡志四</ref>。


[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、越獠郡が置かれていた<ref>『南斉書』州郡志下</ref>。
[[斉 (南朝)|南朝斉]]のとき、越獠郡が置かれていた<ref>『南斉書』州郡志下</ref>。


[[北周]]のとき、越郡は[[厳州]]に属した。
[[北周]]のとき、越郡は[[厳州]]に属した。


[[583年]]([[開皇]]3年)、[[隋]]が郡制を廃すると、越郡は廃止されて、厳州に編入された。[[586年]](開皇6年)、厳州は西寧州と改称された。[[598年]](開皇18年)、西寧州は[[州]]と改称された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、州は越郡と改称された。越郡は越・邛都・蘇祗・可泉・台登・邛部の6県を管轄した<ref>『隋書』地理志上</ref>。
[[583年]]([[開皇]]3年)、[[隋]]が郡制を廃すると、越郡は廃止されて、厳州に編入された。[[586年]](開皇6年)、厳州は西寧州と改称された。[[598年]](開皇18年)、西寧州は[[州]]と改称された。[[607年]]([[大業]]3年)に州が廃止されて郡が置かれると、州は越郡と改称された。越郡は越・邛都・蘇祗・可泉・台登・邛部の6県を管轄した<ref>『隋書』地理志上</ref>。


[[618年]]([[武徳]]元年)、唐により越郡は州と改められた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、州は越郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、越郡は州と改称され、越郡の呼称は姿を消した<ref>『旧唐書』地理志四</ref>。
[[618年]]([[武徳]]元年)、唐により越郡は州と改められた。[[742年]]([[天宝 (唐)|天宝]]元年)、州は越郡と改称された。[[758年]]([[乾元 (唐)|乾元]]元年)、越郡は州と改称され、越郡の呼称は姿を消した<ref>『旧唐書』地理志四</ref>。


== 越太守 ==
== 越太守 ==
*[[枚根]] - 〜[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])
*[[枚根]] - 〜[[更始 (漢)|更始]]2年([[24年]])
*郡の消滅 - 更始2年(24年)〜建武14年(38年)。邛谷王任貴の支配。
*郡の消滅 - 更始2年(24年)〜建武14年(38年)。邛谷王任貴の支配。

2020年9月5日 (土) 14:48時点における版

越巂郡(えつすい-ぐん)は、中国漢代から唐代まで、現在の四川省西南部と雲南省東北部にまたがって置かれたである。巂郡とも書く[1]

歴史

秦末から漢の初めにかけて、現在の雲南省の一帯には西南夷と総称される諸族が小さな国に分かれて住んでおり、後の越巂郡の地は邛と呼ばれていた。現在の広東省及び広西チワン族自治区には南越国があり、西南夷諸国は漢と南越の両方に通交していた。元鼎4年(紀元前113年)頃に南越と漢が戦争状態に入ると、漢は西南夷諸国を動員して南越と戦わせようとしたが、諸国は従おうとしなかった。元鼎6年(紀元前111年)に独力で南越を滅ぼした漢軍は、雲南地方に侵入して小国の王を殺し、各地に郡を立てた。その一つが邛都に建てられた粤巂郡である[2]

邛都遂久霊関道台登定莋会無莋秦大莋姑復三絳蘇示卑水灊街青蛉の15県を擁した。前漢末に6万1208戸、40万8405人があった。郡は益州に属した[3]

の時に集巂郡(しゅうすいぐん)と改称した[4]。新の皇帝王莽に対する反乱が国内外で広がると、雲南地方も離反した。新が滅亡した更始2年(24年)に、越巂郡では蛮夷の任貴太守枚根を殺し、自ら邛谷王を名乗った。やがて内戦の中国で後漢光武帝が抜きん出てくると、任貴は建武14年(38年)に使者を遣わし、越巂太守の印綬を授かった[5]。建武19年(43年)、漢の将軍劉尚が西南平定の軍を進めて来ると、任貴はこれを欺き叛こうとしたが、12月に劉尚に殺された[5]

後漢の越巂郡は邛都・遂久・霊関道・台登・青蛉・卑水・三縫・会無・定莋・闡・蘇示・大莋・莋秦・姑復の14県を管轄した[6]

三国時代に入って、越巂郡は王朝の支配から離れていた[7]240年延熙3年)、蜀漢が越巂太守の張嶷を派遣して、越巂郡を平定した[8]

のとき、越巂郡は会無・邛都・卑水・定莋・台登の5県を管轄した[9]

南朝宋のとき、越巂郡は邛都・新興・台登・晋興・会無・卑水・定莋・蘇利の8県を管轄した[10]

南朝斉のとき、越巂獠郡が置かれていた[11]

北周のとき、越巂郡は厳州に属した。

583年開皇3年)、が郡制を廃すると、越巂郡は廃止されて、厳州に編入された。586年(開皇6年)、厳州は西寧州と改称された。598年(開皇18年)、西寧州は巂州と改称された。607年大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、巂州は越巂郡と改称された。越巂郡は越巂・邛都・蘇祗・可泉・台登・邛部の6県を管轄した[12]

618年武徳元年)、唐により越巂郡は巂州と改められた。742年天宝元年)、巂州は越巂郡と改称された。758年乾元元年)、越巂郡は巂州と改称され、越巂郡の呼称は姿を消した[13]

越巂太守

  • 枚根 - 〜更始2年(24年
  • 郡の消滅 - 更始2年(24年)〜建武14年(38年)。邛谷王任貴の支配。
  • 任貴 - 建武14年(38年)〜建武19年(43年)。後漢の外臣。

脚注

  1. ^ 粤巂の表記は『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、14頁。
  2. ^ 班固『漢書』西南夷両粤朝鮮伝第65、ちくま学芸文庫『漢書』8、13-14頁。南越滅亡については同じく27-32頁。元鼎6年に置かれたことは。『漢書』地理志第8上、ちくま学芸文庫『漢書』3、357頁。
  3. ^ 班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357-358頁。
  4. ^ 班固『漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、357頁。
  5. ^ a b 范曄『後漢書』光武帝紀第1下、南蛮西南夷列伝第76。
  6. ^ 『後漢書』郡国志五
  7. ^ 『三国志』蜀書馬忠伝
  8. ^ 『三国志』蜀書後主伝
  9. ^ 『晋書』地理志上
  10. ^ 『宋書』州郡志四
  11. ^ 『南斉書』州郡志下
  12. ^ 『隋書』地理志上
  13. ^ 『旧唐書』地理志四

参考文献