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なお、この移動の後、ウィキペディア日本語版に残っている元の[[:ファイル:Oi no Matsubara.jpg]]は、[[Wikipedia:即時削除の方針#ファイル1-5]]に従いまもなく削除されますので併せてお知らせいたします。 --[[利用者:MGA73|MGA73]]([[利用者‐会話:MGA73|会話]]) 2020年6月21日 (日) 20:46 (UTC)
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承知しました。ご連絡感謝します。[[利用者:Aboshi|Aboshi]]([[利用者‐会話:Aboshi|会話]]) 2020年6月22日 (月) 02:36 (UTC)

2020年6月22日 (月) 02:36時点における版

渡辺崋山の件。 田原の隣町、豊橋に住み始めて10年近く。もともとが西日本なんで、地元の人がどうとらえているか、ちょっと分かりかねるんだけど、郷土史研究家のような人は多いんですよね。FM豊橋でもよく郷土再発見みたいな番組をやってるから、自然に情報が。 田原は、トヨタの車の積出港で、アウディの荷揚げ港でもあるので、もちろん、スズキ、ホンダなどもですが、市の財政収入がとっても大きいし、企業からの寄付もあるようです。道路は有り余ってるし、その金の行き先のひとつが博物館で、これはこんなに小さい町の博物館でここまでやるか、というようなものです。資料は田原だけじゃなく、豊橋の公立図書館でも見れたはず。ご要望なら、調査します。6/19までは休刊中なのでその後ということで。Mishika 00:31 2004年6月11日 (UTC)

ありがとうございます。
私自身が田原中心部に生まれたために、子供のころは濃厚に崋山を感じさせられてきました。ノートに書いた崋山劇は私自身合唱隊として歌いました。地元作成の崋山についての読本も何冊もあったし、郷土史研究家の人から聞く機会もありました。崋山の菩提寺(城宝寺)ではよくセミやカブトムシを取ったし、崋山自刃の地は中学時代の部活動でのランニングコースでした。
大学以降、長期間にわたって田原から離れていたのですが、仕事の関係で最近戻りました。田原市のHPなんかを見ると、やっぱり崋山崋山と宣伝しています。では田原の人(愛知大学の郷土研なども熱心に関わっているようだが)にとって崋山はどんな存在で、崋山が死んで160年間どのように扱われてきたか、考えてみたくなったのです。観光商売という面もあるでしょうが、それだけにとどまらない深さがあるように感じるもので。少なくとも今、京都が新撰組で商売するような安っぽさではないはずです(ほとんどの京都人は新撰組を毛嫌いしていたはずでは?)。
テーマを大きくすれば、「郷土の偉人(史跡などでもよい)をその地元ではどのように扱ってきたか」ということでしょうか。地域教育・文化・観光などに関わりますが、この事典だからできるテーマでもあると思います。まだ私自身地元に帰ったばかりで心もとないし、知識もありませんが、一歩一歩学び進めてみたいです。
Mishikaさん、お申し出ありがとうございました。とてもうれしいです。私も少しずつ勉強していくつもりですが、Mishikaさんが提示する資料がどんなものか、とても興味があります。ぜひとも、お願いします。
P.S. FM豊橋でそういうことをやってるんですね。今度聞いてみます。
ちなみに他地域で気になるのは、一時期アテルイを売り出そうとした宮城県水沢市(ほかにも高野長英後藤新平斎藤実など、当地出身の歴史上の人物は多い)や、HPを見るに近代史で売り出そうとしている京都府舞鶴市(軍港に関わる施設が多く残る)などです。
----Aboshi 12:41 2004年6月12日 (UTC)拝

私は三河も河内も詳しくはありませんが偶々です。それ以外の田原城などは詳しい方に加筆していただかないと赤リンクを作っただけになってしまいます。但「有名でない」事柄でも事実であれば加筆できるといいのですが、情報を得るのは難しいですね。johncapistrano 2004年7月21日 (水) 16:07 (UTC)[返信]

張作霖

加筆お疲れです。最後の節便衣兵云々の後にtypoがありますが、信用され「るはずはな」かった、でよいでしょうか? 念の為。johncapistrano 2004年9月3日 (金) 15:28 (UTC)[返信]

拝謝です。誤字脱字にはもっと気をつけなければなりませんね。--Aboshi 2004年9月3日 (金) 15:32 (UTC)[返信]

ご意見どうもです。ただ削除依頼では反対意見しかなく処理上は存続になりそうです。johncapistrano 2004年9月6日 (月) 14:53 (UTC)[返信]

うーん、そういうものなんですねえ。そりゃあ韓国起源に書いてあることはある程度そうだし、最近の韓国人が日朝交流史を説明する際にいちいちの事象に極端な付会を行って「韓国が日本に文化を伝えてやった」とする史観は率直に不快です。この件で大学時代に先方とけんかしたこともあります。だからといって、実証作業を怠って2ちゃんねる的な決め付けのみで「韓国人はこれじゃあ」とやるのはもっと不快だし、韓国人自身の侮蔑を買うことになるだけです。
もし韓国起源(いや、元はウリナラ起源でしたっけ)で韓国人の批判的な面を書くなら、韓国人がみたときにきちんとけんかできるだけの質を持たせたいですよ。
しかし2ちゃんねるの負の面を痛感しますねえ、こういうのにでくわすと。--Aboshi 2004年9月7日 (火) 11:06 (UTC)[返信]
誤解を招いてしまう部分がありますね。当サイトのガイドラインもさることながら、中立的な視点とは詰まるところ地道な実証の積み重ねで少しずつ近づいていくものと私は思っています。--Aboshi 2004年9月7日 (火) 12:00 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼の修正について

本日、AboshiさんがWikipedia:投稿ブロック依頼 2004年11月に投稿した後、後半部分が欠落していましたので、1つ前のAboshiさんの投稿(21:28の版)にrevertしました。21:29の版が欠落していますのでご確認願います。Miketsukunibito 2004年12月2日 (木) 13:23 (UTC)[返信]

伊良湖水道を隔てて失礼します(志摩の方でしたよね)。本件、確認いたしました。ありがとうございました。まさかわが身にブロックが関わるとは思わず、ただいまちょっとビクビクとしております。
しかし、teesは豊橋市か田原市(の一部)にしか展開していないわけで、我が家から程近いところに荒らしの犯人がいるということなのに、こちらからはなかなかわからないというのはアナログ脳な私ではすごくやきもきしてしまいます。teesに連絡してなんとかしたいものです。
繰り返しになりますが、ありがとうございました。また何かでニアミスした際にはよろしくおねがいします。Aboshi 2004年12月2日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

こちらこそよろしく。近いですね・・FM豊橋もアンテナをちょっと上げれば聞こえます。UHFのTVもアンテナを上げればバッチリ。今朝聞いた話ですが、田原町の前町長が町長選の当選祈願にこちらの方の波切神社を訪れて戦勝祈願として土を持って帰ったら当選したと言う話を聞きました。(また波切神社の選挙がらみの逸話が増えました)意外と文化的に近いみたいですね。これからもよろしくお願いします。Miketsukunibito 2004年12月2日 (木) 13:50 (UTC)[返信]

ごあいさつありがとうございます

お世話になります。

メッセージどうもありがとうございます。自分の投稿用のページを編集しておらず、お見苦しいところがあり申し訳ございません。

さて、自分はときどき気が向いたら用語を投稿する、という感じです。末の歴史をwikipediaで読んでいて、鄭成功はあるのに呉三桂がない、というところから用語の追加に少し取り組んでいました。歴史上の政治や軍事面で重要な人物だけではなく文化人も書いてみようということで考証学の祖とよばれる黄宗羲顧炎武などの項目を追加してみました。

歴史には昔から非常に興味があります。しかし大学の専攻は全然違う分野であり、かつ思想史に関しては高校のセンター試験どまりです(笑)。我ながら稚拙ながらこういう文章がよく書けたと感心しております。

その気になったら、また考証学や公羊学に関連した用語の書き込みを行いたいと思いますが、普段はゲームの分野であるファイナルファンタジーなどの加筆も行っております。その時はよろしくお願いします、また間違いや疎漏などありましたらご指摘いただけますと幸いです。

利用者:Komi3 2005年4月10日

うわっ、専門ではない方だったのですか。それであの記事の内容・・・重ねて驚嘆です。
私もなかなか書くヒマのない身ですが、また近場に出没しました際にはよろしくお願いします(私はFFよりドラクエ派ですが)。Aboshi 2005年4月13日 (水) 10:10 (UTC)[返信]

こんにちは。#「西蔵自治区」要約文(案) の編集をお手伝いいただけませんか? Dalaibaaturさんは思い入れがありすぎてかえって他の人はひいてしまいそうな気がしたので こんなことを書きました。でも私には専門知識がないので、Aboshiさんに私のタワゴトを全面改訂していただければ幸いです。miya 2005年4月23日 (土) 02:42 (UTC)[返信]

すいません。職場が[1]に巻き込まれてえらいことになってます。とりあえず今日明日は難しいです。Aboshi 2005年4月23日 (土) 05:00 (UTC)[返信]
清代の漢籍で、「西蔵」というタイトルでチベット情報をのべたもっとも古いものは「西蔵記」でしょう。撰撰人未詳ですが、「西蔵」の権力者たちとして、1721-1727年ごろに任にあった閣僚達から、1750年に謀略で殺害されたギュルメナムギャルまでが描かれているので、この時期に西蔵に赴任していた清朝役人の手になると思われます。台北、商務印書館の叢書集成簡編に収録され、1961年に発行されたバージョンが、見つけやすいかと思われます。領域については「疆圉」の節で詳述されています。
清代のチベット文献で、以後の類書の情報源となったとおもわれるのが、欽定外版蒙古回部王公表伝です。以後の類書にみえる「西蔵」の概要を描写する記述には、ここに収録された情報をなぞったものが多いです。巻九十一が「西蔵部総伝」です。「唐古特」はたとえば1724年の「青海善後事宜」ではチベットの総称としてつかわれていますが、この「総伝」では「西蔵即唐古特」とされています。
あと、活字本もでていて利用しやすい資料としては、西蔵志、西蔵図考、衛蔵通志、西招図略など非常にたくさんありますが、いずれも1724年の「雍正のチベット分割」以降の編纂のばかりであり、著者が直接見聞した事項についてはともかく、「西蔵」そのものの領域については、古い物をなぞっているだけの印象があります。
とりあえず、以上でご参考になりますでしょうか。--Dalaibaatur 2005年4月23日 (土) 17:55 (UTC)[返信]
「西蔵」は、元明から清初にかけて用いられた「烏斯蔵」と入れ替わるかたちで、康煕の後期から登場してきます。その範囲は、ウー、ツァンのみ、もしくはこれにガリとカム東部をあわせた領域に限定する用例がほとんどですね。--Dalaibaatur 2005年4月24日 (日) 12:33 (UTC)[返信]

お早いお返事感謝します。田舎在住の悲しさ、地元の図書館でモロハシを見るくらいしか今は対応ができないのですが、西蔵の語は「チベットの一地域を示すツァン」に「中国本土から見て西」を加えたみたいな書き方をしていましたね。まあしかし、漢族を極力チベット(のみならず藩部全体)に入れさせなかったことを考えたら、地理概念があいまいかつテキトーになってしまうのは仕方ないことでしょうね。ちょっと違うのですが、1900年に張之洞が「満州」改革についての文章を劉坤一とやりとりするのですが、その地域概念があいまいだったり、対象区域を表す呼称として「満州」「遼東」がぶれながら登場します(遼東なんて、ほんの一部地域に過ぎないのに)。西蔵の場合は、その手の問題を現代までひきずっているのかなあ、などと今はぼんやり思ったりしています。

仕事を持つ身なのでなかなか勉強できない悲しい身ですが、またご教示ください。ありがとうございました。Aboshi 2005年4月24日 (日) 16:13 (UTC)[返信]

こんにちは。お忙しいのに無理を言って申し訳ありませんでした。Aboshiさんの案をほぼそのまま「#「西蔵自治区」とする意見の要約」に転記の上、忙しい人のため「要約の要約」を冒頭に付け加えました。ご査読の上、必要があれば適宜加筆・修正(要約の要約についても)していただければ幸いです。お骨折りをありがとうございました。miya 2005年4月25日 (月) 03:37 (UTC)[返信]
よい案文をありがとうございました。Miya氏の短いものも、Aboshiさんのものも、私には気づきえなかった視点からの記述が効果的に提示されており、いまアップされている文面にたいしては、もう、なにも申し上げることはありません。もしご要望があれば、上記でご紹介した文献の該当部分を画像ファイルでどこかにアップしてご覧入れようか、とも考えておりましたが、必要ないですね。自分自身の心情としてはこれを支持したいところですが、将来のウィキペディアンからこの投票を後ろ指さされないものにする、という目的で「プー・ランキョンジョン」という選択肢の執筆者となりました。私なりにベストを尽くして書くつもりです。--Dalaibaatur 2005年4月25日 (月) 13:36 (UTC)[返信]

こんにちは。第2回の投票に向けて要約文の改定をお願いしてよいでしょうか?第1回でいただいたコメントも織り込みたいと思っています(うまくまとまらなかったら、いっそ後ろに箇条書きでぶらさげてしまおうかと・・・)。Wikipedia:チベット自治区/投票まで、どうぞよろしくお願いします。--miya 2005年5月15日 (日) 02:42 (UTC)[返信]

要約文をありがとうございました。大変興味深く読ませていただきました。ただ、Wikipedia‐ノート:チベット自治区/投票を見ていただくとお分かりのとおり、結果的にAboshiさんのおっしゃりたかった両呼称併記案をコメントアウトせざるを得なくなりました。申し訳ありません。--miya 2005年5月19日 (木) 06:27 (UTC)[返信]
とんでもない。miyaさんにはお世話をかけました。逆にチベット自治区方に「チベット(西蔵)」を入れても面白そうではありましたが、ここでやると中途半端になりますしね。Aboshi 2005年5月19日 (木) 07:05 (UTC)[返信]

丁寧にありがとうございます。

ノートへの書き込み、ありがとうございます。(署名も(^^)v)

あの一連の依頼は私も瞬間Aboshiさんと同じように思っていました。皆さんがされていた会話の中で疑問(「他の方が言われていた記事の人物を依頼者が知っていない」とは本当だろうか?)が出来て、すこし冷静に考えられました。Aboshiさんを含めた方々の内容があのコメントとなったので、私のほうこそ感謝しています。

あと、チベット自治区の投票、気になっていたのですが、なかなか考えがまとまっていなかったので後々に廻していました。Aboshiさんの書き込みがいいキッカケとなりました。これもお礼をいいたいと思います。これからもよろしくお願い致します。--Toto-tarou 2005年5月9日 (月) 13:09 (UTC)[返信]

ありがとうございます。私自身も大学時代に中国史を専攻にしただけで、特にチベットに深いわけでもないのにあの場に立つのはまことに戦々恐々で、震えつつやっております。ただ、これだけ票が割れてしまうとあとは落としどころだなあと思いつつ、良案が思い浮かばずにおります。Wikipedia‐ノート:チベット自治区/投票にご意見などいただけましたらうれしく思います。Aboshi 2005年5月10日 (火) 05:00 (UTC)[返信]
Aboshiさん、お疲れ様です。たしかに死に票が多く、落としどころは大変そうですね。(他の投票でもそうかもしれませんが。。。)
名称の正当性は論点が拡大するので、名称の利便性などの他の理由による落としどころを考えたほうがいいかと思いますが、論議経過を深く知らないので投票における疑問を感じたときにはノートへの意見を書かせていただきたいと思います。--Toto-tarou 2005年5月10日 (火) 10:31 (UTC)[返信]

利用者ページに書かれたまとめ(混乱のチベット/西蔵自治区の呼称問題を考えた)を読みました。中国史については何も知りませんが、前回の投票ページにあった説明とは違う視点から問題が理解できたように思います。ありがとうございます。Hareno 2005年5月17日 (火) 16:31 (UTC)[返信]

こんにちは。1973年刊のビクトリア現代新百科でも、「チベット(西蔵)自治区」という表記だったので、Aboshiさんの案はなるほどと思いました。--Ligar 2005年5月19日 (木) 06:48 (UTC)[返信]

Harenoさん、ありがとうございます。お恥ずかしい限りです。Ligarさん、はじめまして。この名称問題については私は揉めて当然と考えており、おとしどころはどこかなあ、「西蔵(チベット)ないしチベット(西蔵)」くらいがかなあ、とここしばらく考えていました。ただ、私自身は現在この件には深く入り込んでしまって視野が狭くなっている状態です。Harenoさん・Ligarさんの広い視点からのご意見が賜れれば幸いです。Aboshi 2005年5月19日 (木) 07:01 (UTC)[返信]


西蔵の記事で、「西蔵」の初期の用例を「西蔵記」「欽定外藩蒙古回部王公表伝」に基づいて紹介してみました。ご意見、ご批評などいただけますなら幸甚に存じます。--Dalaibaatur 2005年6月18日 (土) 00:12 (UTC)[返信]

画像ライセンス記入のお願い

Aboshiさん初めまして、Reggaemanと申します。アップしておられる画像に「著作権放棄」の文言を付けておられますが、Wikiでは投稿画像について、パブリックドメインに置くなら{{PD}}、GFDLなら{{GFDL}}を、投稿者自身が付けるルールとなっています。Aboshiさんの場合、「著作権放棄」とされていますので{{PD}}に当たると思います。自動でテンプレートが入りますので、面倒でしょうがご記入お願いします。Reggaeman 2005年6月19日 (日) 3:44 (UTC)

うわわ・・・すいませんでした。ここの決まりを知る以前の私の投稿を、ずぼらにそのままにしていました。おそらく多くは{{GFDL}}にしないと、著作権放棄のできない日本の法律上まずいですよね。申し訳なかったです。
ありがとうございます。助かりました。今後ともよろしくお願いします。Aboshi 2005年6月19日 (日) 04:27 (UTC)[返信]
早速対応頂きありがとうございます(私が言うのもナンなんですが・・・)。せっかく投稿されても、ライセンス未記入で削除された・・・なんて、もったいないですもんね。Reggaeman 2005年6月20日 (月)11:35 (UTC)

移動

移動させるのはよいけれども、リダイレクトの面倒も見てくれないと困るのねん。Sionnach 2005年7月10日 (日) 06:59 (UTC)[返信]

お初です。もうしわけない、ちょっと時間がなかったもので。記事の全体の兼ね合いもみつつ整理します。Aboshi 2005年7月10日 (日) 13:22 (UTC)[返信]

質問

三国志は、男性が戦いにでて争うのが、ふつうだと思うのですが、女性が戦場に出て戦うことってあるのでしょうか。利用者:219.162.7.243 2005年7月17日 (日) 9:20 (UTC)

こんにちは。早速本題ですが、ないでしょうね。日本の戦国時代では籠城戦の指揮を行った女性(多くは城主婦人)の話がいくつかありますが、正史『三国志』では私の記憶の限りではありませんし、お国柄からもちょっと考えづらそうです。で、私にその問いを振られた理由はなんですか?やや唐突で、私自身の投稿に落ち度があったのではないかとあわててしまいます。Aboshi 2005年7月17日 (日) 02:18 (UTC)[返信]

いいえ、そんなことは、ありません。でも、私の言葉使いがよくなかったかも知れません。質問した理由は、よくゲームなどで、女性が戦うというシーンがあったからです。答えてくださり、ありがとうございました。利用者:219.162.7.243 2005年7月17日 (日) 14:53 (UTC)

あ、そういうことでしたら。変な疑い方しちゃって、ごめんなさいね。今後ともよろしくお願いします。Aboshi 2005年7月17日 (日) 08:04 (UTC)[返信]

阿部定事件に付いて

2005年6月24日 (金) 09:58の阿部定事件の書き込みに付いて、Aboshiさんは私が書いた部分を削除していましたが、改訂履歴に「現在100歳を排除(こんな理由で定期保守場所を増やしたくありません)」と書かれていましたが、「こんな理由で」とはどんな理由でなんでしょうか?教えて下さい。私が納得出来る答えをお願いします。今まで、この旨を書き込むのを我慢していたのですが、矢張り私は、自分が納得出来る答えが欲しいと思い、書き込みました。--ウッでやんす高橋 2005年8月7日 (日) 19:02 (UTC)[返信]

こんにちは。私の要約欄に記述で気分を損なわれたとしたら、申し訳ありません。
ともあれ回答しておきますと、まず簡潔を旨とする百科事典の記述において、全体の内容から考えて、「現在100歳になる」は必要な内容であったでしょうか?私は蛇足に属するかな、と感じました。さらに、定期保守と申し上げたのは、「現在100歳」を毎年変更する必要が発生することです。市町村の人口・世帯数の要覧などは重要であり、その手間を惜しむべきではないものですが、当該記事のこの内容は毎年改変を加える手間を考えるほどのものでしょうか?
記事の内容全体を踏まえて、お返事を賜れれば幸甚です。Aboshi 2005年8月8日 (月) 07:09 (UTC)[返信]

考えて見れば、確かに、毎年改変しなければ行けないと思いますし、改変する方の身にもなれば、面倒だと思います。納得出来ました。此方こそ考えないで書き込んで、済みませんでした。--ウッでやんす高橋 2005年8月10日 (水) 22:22 (UTC)[返信]

いえいえ、こちらこそ恐縮です。本件は私の説明不足から起こったことですしね。また何かどこかでニアミスした際にはよろしくお願いします。Aboshi 2005年8月11日 (木) 05:44 (UTC)[返信]

おねがい

Aboshiさん、こんにちは。宏観異常現象の履歴で「オカルティスト」扱いされてしまって苦笑しています。中国語で「宏観異常現象」とは「広く見られる異常現象」だと思い込んでいたのですが、この理解でよいでしょうか?お教えいただければ幸いです。--miya 2005年10月26日 (水) 23:06 (UTC)[返信]

取り急ぎ。「宏観」は日本語だと「マクロ」と訳すと一番しっくり来ることが多いです。なんでわざわざ日本語で死後と化した言葉を引っ張ってくるのかなあとは思いつつ。Aboshi 2005年10月27日 (木) 01:32 (UTC)[返信]

劉冀と呂布②を記した者だが

君はまさか陳寿が書いた正史が全て正しいと思ってるの? 悪いけど、君の思想は偏りすぎてますね。 世の中はいろんな人がいるんですよ。 正史・演義をまとめて柔軟に解釈する人も多いんですよ。 正史だって、時の権力者の意向で抹殺された事項も結構あるんですよ。 ま、ちうちょっと柔軟な頭を持ちましょうね。

2005年11月6日 (木) 6:54 (UTC)

横から失礼します。ウィキペディアは既存の知識を要約して提供する場であり、研究発表の場ではありません。我々無名の執筆者の推測は、ここでは正誤以前に言及に値しないのです。柔軟な解釈の発表のためには、それにふさわしい別の場所を探してください。Kinori 2005年11月6日 (日) 10:18 (UTC)[返信]
ええと、こんにちは。
はい、そのとおりです。権力者によって抹殺された内容なんていくらでもあるでしょうね。でも、例えば『三国志』において、正史を補うものは演義であるとおっしゃってる学者さんをまずは教えてください。また、あなたが独自に書き込まれた多くの人物の生年の根拠も聞きたいです。ついでに、ノート:袁買において勝手に人の書き込みを消していますが、その理由なんかもついでに。Aboshi 2005年11月6日 (日) 10:24 (UTC)[返信]

こんばんわ

わたしのノートページのメッセージと袁崇煥の外部リンクや子孫等の加筆ありがとうございます。またいろいろご教示ください。m(_ _)mSiyajkak 2005年11月24日 (木) 10:42 (UTC)[返信]

恐縮です。私自身もあわて者の勘違い者なので、なにかあったらまた教えてください(いいですねえ。ラテンアメリカ)。袁崇煥の子孫のその後は袁の子を題材にした金庸の小説(『碧血剣』)などよりはるかにドラマチックで、好きだったので加筆してしまいました。日本軍と袁崇煥の子孫が戦ってるんですよね。Aboshi 2005年11月24日 (木) 12:31 (UTC)[返信]

田原市・三河国など

承知です。内容からちょっと知恵をつけ始めた中学生くらいかなとは思っていたのですが、それはまずいですね。寝る前に見ておきます。Aboshi 2005年12月27日 (火) 15:31 (UTC)[返信]

三国志に登場する人物の生没年

表題の件について議論がある事をどこかで拝見しました。「三国志全人名事典」という本があります。

  • 正史三国志英傑伝・別巻 三国志全人名事典
  • 初版第一刷:1994年11月30日
  • 編著者:『中国の思想』刊行委員会
  • 発行所:株式会社徳間書店
  • ISBN 4-19-860204-2

この本には正史三国志とその註に登場する人物が約1000名収録されています。かなり参考になりますよ。私も三国志に興味があったのですがウィキペディアでは漢字の壁(一部環境で表示されないがカタカナ置き換えには抵抗がある)があるので断念しています。個別の登場人物に関する情報は同書を参考に提供することも可能です。3500円(税込)。発売当時(今も)安月給の私の小遣いでは大きな負担でした。--代言人 2006年1月1日 (日) 16:50 (UTC)[返信]

ありがとうございます。私も、大学時代の専攻が三国時代というわけではないので、結構苦戦しております。また見てみます。今後も何かあったらお声をかけていただくとうれしいです。Aboshi 2006年1月2日 (月) 15:17 (UTC)[返信]
Aboshiさん、こんばんは。らりたです。
利用者‐会話:Aboshi/三国志関連人物の生没年記録についての方にいくつか追加と、スタイルに付いての雑事がございますので、一読お願いします。短いですが、これで失礼します。らりた 2006年1月14日 (土) 15:33 (UTC)[返信]

ここは貴殿の出番です。どうかお願いします。

中国の民族自治行政体を列挙表示する場合のフォーマット変更のための投票に関する事項をノートページ保護につきWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 中華人民共和国の行政区分/投票に関する決定事項についてにて協議しています。

当該ページにて私はDalaibaatur氏が衆議により決定したというフォーマットがウィキペディアの信頼性を損ねる様な結果を生む事を指摘しました。というのもこのフォーマットの決定過程は行政区画名の構成要素を一旦バラバラにした後、それぞれの構成要素について投票を行なって決定したもので、学術的に信頼の置ける誰かがこのような方式にせよと唱えているものではありません。しかもその投票は極めて少人数により行なわれたもので信頼に足りません

もしこのフォーマットにDalaibaaatur氏の解釈通りに従うと書籍に一切出てこない様なありえない項目名にしなければなりません。ウィキペディアの信頼性を保持するためにもご協力をお願いいたします。

投票にご参加できなくとも投票開始に関する是認だけでもご協力お願いいたします。私には中華人民共和国の行政区画記事の最大功労者としての自負があり、協議を主導して行きたいのですがWikipedia:投稿ブロック依頼/Dalaibaatur氏とSionnach氏によってブロックされてしまえば参加ができませんのでどうか投票の世話を御願い致します。Sionnach 2006年1月13日 (金) 14:52 (UTC)[返信]

観点

さてさて突然ですがノート:衛カンによるとどうも中立性が損なわれている模様です。衛カンも中文も浅薄な知識しか持ち合わせていないのでお忙しいところ申し訳ありませんがご助力お願いします。--代言人 2006年2月2日 (木) 10:24 (UTC)[返信]

拙訳をつけてみました。大変ごもっともなことをおっしゃっていると思いますよ。Aboshi 2006年2月2日 (木) 10:42 (UTC)[返信]
ありがとうございます。早速因果応報を消してみます。--代言人 2006年2月2日 (木) 11:03 (UTC)[返信]
Thank you. 謝謝。 --Nlu 2006年2月2日 (木) 17:35 (UTC)[返信]
別客気。Aboshi 2006年2月3日 (金) 02:04 (UTC)[返信]


裏柳生について

柳生宗矩は家康から家光の3代にわたって仕えた剣術指南役です。しかし当時、剣客に対する評価は低いもの(同時代の小野忠明は600石)でした。その中で宗矩は1万2500石の所領を家光時代の1639年に与えられています。しかも、それより前の1632年には、井上政重秋山正重と共に惣目付(のちの大目付)に抜擢されています。ただの剣術指南役が、大目付に抜擢されたということは、宗矩が暗に裏の諜報活動を行なっていたからに他なりません。だからこそ、その功績が認められて大名に出世したのです。ちなみに裏柳生とは、宗矩配下の諜報活動隊のこと、昔で言うところの忍者ですね。

徳川氏の忍者といえば伊賀者(服部半蔵)が有名ですが、半蔵が1596年に死去し、後を継いだ服部半三が無能だったため、伊賀者は9000石の伊賀同心としてしか扱われず、諜報員としては役立たずとなりました。そのために、宗矩ら大和国の裏柳生が家康らに重用されるようになったのです。

納得がいかないようであれば、裏柳生の部分だけを削除することにしますので、それで悪しからず。それから、浅野幸長は享年38の、しかも突然の急死だったため、家康による暗殺説が疑われているのは事実です。それから家康は晩年、民政では悪政を強いていた(本多正信の進言に基づいて(このことは本佐録でも記されている)のは事実です。なのになぜ、全部の記事を差し替えるのですか?

百の理屈より一つの根拠です。今おっしゃっている全てのことについて史料ないし先行研究を提示してください。唯一『本佐録』を提示されてますが、そのどの部分から、それを読み解いたのか、また実際に代官として民政を行った大久保長安・伊奈・多羅尾・江川らが実際に酷政を行ったと確認できる資料はあるのでしょうか?Aboshi 2006年2月7日 (火) 06:53 (UTC)[返信]

Aboshiさんは、私に恨みでもあるのでしょうか? 史料の提示を求める……そして逃げるな……とありましたが……。私が投稿した記事である大久保長安事件岡本大八事件会津攻めにおいては、「徳川実紀」や「直江状」をはじめとする史料の一文を載せています。そちらをぜひ、ご覧ください。それから、私の記事にご不満があるようですが、Aboshiさんのような天才と違って、私のような能無し記事は評価されなくて当然、あるいは非難あってしかるべきと思います。Aboshiさんのような天才が書かれた記事の出来と、私のような馬鹿が書いた記事の出来が違うのは当然のことだと思うので……そちらのほうは私が能無し、知識無しの馬鹿だからということでお許しください。Aboshiさんのような天才、秀才様がうらやましい限りです。私のほうは何も言うことはありません。これからもご高名なご提言、ご助言のほどをお願いいたします。--シェーラ 2006年2月9日 (木) 09:24 (UTC)[返信]

Aboshi様は色々な史料を使っておられるようで、うらやましい限りです。私の徳川家康に対する評価は、「徳川実紀」などに記されている内容を中心に書かせていただきました。能無しながら私が書いた大久保長安事件を読んでいただければわかると思いますが、「徳川実紀」の部分をいくらか抜き出しているはずです。大久保忠隣は家康覇業の大功臣でありながら、家康の粛清にあって失脚させられています。このあたりにも、家康の非道なやり方があると思います。実紀でさえ、この家康の忠隣に対するやり方は、本多正信・正純親子と同様に疑問を抱かれています。他に史料としては、徳川十五代記、武徳編年集成などを利用しています。 --シェーラ 2006年2月9日 (木) 09:46 (UTC)[返信]

投票が仕切りなおされています。

Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 中華人民共和国の行政区分/投票で日本時間11日9時まで投票を行っております。Sionnach 2006年2月6日 (月) 20:56 (UTC)[返信]

IP氏から注意(Aboshi表題)

シェーラさんも言葉が過激すぎますが、Aboshiさんも多少やりすぎだと思います。歴史に詳しくないあくまで第3者から見た感想です。少々、お互いに控えて仲良くすべきではないでしょうか?--210.157.239.98 2006年2月10日 (金) 03:13 (UTC)[返信]

ありがとうございます。こういったご心配とご意見をちょうだいし、とてもうれしく同時に恥ずかしく思っております。正直なところ、私も本件では苦しいことをやってるという自覚はあります。ただ、先方氏の根拠を伴わない(一部転載が実証されてますしね)記述が延々と続く限り、なんとかせねばという思いが先に立ってしまっております。先方氏の穏便な止め方さえわかれば、こんな不器用なマネはせずにすむのですが・・・Aboshi 2006年2月10日 (金) 06:17 (UTC)[返信]

お互いにこのあたりで言い争いみたいなことをするのはやめませんか。他人(第3者)の眼から見れば、見苦しく見えるんだと思います。たとえどちらが正しかろうと。確かに私の記事は役に立たない投稿記事かも知れませんが、それでも無い知識を懸命に出して書いているつもりです。そのあたりだけはご理解ください。三国志の人物についてはすみませんでした。--シェーラ 2006年2月10日 (金) 10:40 (UTC)[返信]

あなたが問いにもうすこしまともに答えていただければ、いつでも私はこの問題を引き揚げる準備があります。それだけです。私の投稿履歴をざっと見ていただければわかりますが、東日本国際さん相手以外は、地味な歴史系記事いち投稿者にすぎませんよ。Aboshi 2006年2月10日 (金) 12:49 (UTC)[返信]

三宅康直のことについてですが、本は「江戸時代の名君たち」という本を参考にさせていただきました。それと崋山関係の史料も多少、引用しました。江戸時代の名君たちでは、康直自身は決して能力で優れていたわけではないけれど、崋山を用いて改革を行なったこと、崋山の意見を重用したことにおいては、名君として評価されていました。崋山と友人と記されていたわけですが、その本では崋山が養子縁組のときに三宅氏の血が絶えることを惜しんで、康直に対して家督を三宅氏の一族に譲るように生前から約束していたようです。その約束を守ったことや、そして崋山と二人三脚で改革を行なったことが、ある程度は名君として評価されていました。確かその本では、康直自身は有能とは言いがたいが、古代の斉の桓公のように、賢人を用いたことを評価していたようですよ。だから、そのように書かせていただきました。なお、その本を私はすでに紛失しており、作者とか出版社を書くことはできません。--シェーラ 2006年2月11日 (土) 12:09 (UTC)[返信]

何度も言いますが、かなり前に本を紛失しており、覚えてないんです全く。本のサイズは普通のサイズで、文庫版ではなかったと思います。それ以外は本当に覚えてないんです。1年か2年前に出た本だと思います。--シェーラ 2006年2月11日 (土) 23:51 (UTC)[返信]

シェーラさんの参考文献の調査について

お世話になっております。シェーラさんの件ですが、個人での調査には限界があるので、ウィキプロジェクトを立ち上げて、複数人で協力して調査すればどうかと思いました。率直に伺わさせていただきますが、プロジェクトを立ち上げたとしたら、協力していただけますでしょうか。--Tamago915 2006年2月12日 (日) 23:50 (UTC)[返信]

本当に紛失したんですよ。しかもかなり前に。だから、本当に記憶があいまいで覚えてないんです。でも、江戸時代の名君たちという表題だったと思うんだけどなあ。--シェーラ 2006年2月12日 (日) 23:56 (UTC)[返信]

だからこちらで調べるということです。転載の疑いがあって、参考資料が明らかになっていないので、参考資料を特定して転載があるかどうかを調査するということです。シェーラさんにも協力していただければと思っていますが。--Tamago915 2006年2月13日 (月) 00:14 (UTC)[返信]

ノート:東陵

こんにちは。ノート:東陵にコピペではないかと意見が寄せられたのですが、よくよく調べるとどうも逆に外部サイトのほうが無断転載したのではないかという気がします。ご意見をお寄せいただければ幸いです。--miya 2006年4月15日 (土) 01:30 (UTC)[返信]

あれまあ、困ったなあ。確認しますが、少なくとも私の書いた部分のある張氏帥府については無実です。証明が難しいですが、「日本と親しい楊宇霆らが処刑されたのもここの前庭である」とかは、楊宇霆という人物の知名度と観光案内という内容からいっても、何かを参考にしなければ不自然なかなとは思いますが。Aboshi 2006年4月15日 (土) 05:05 (UTC)[返信]

義和団事変

こんにちは、らりたです。ご無沙汰しています。以前にAboshiさんが大幅に加筆して下さった義和団事変なのですが、初版が転載であったようです。Wikipedia:削除依頼/義和団事変を一度ご参照ください。消されてしまうのは非常に残念なので、どうにか特定版削除でいけないかと思っているのですが、どうも難しいようです。らりた 2006年4月16日 (日) 09:09 (UTC)[返信]

見ました。無念です。出しなおします。ああ・・・Aboshi 2006年4月16日 (日) 09:25 (UTC)[返信]

九鬼

Spinningcatと申します。「九鬼」の項目を九鬼 (アダルトビデオメーカー)に名称変更されたようですが、Category:日本のアダルトビデオメーカーにおいては「@@ (アダルトビデオ)」という記述にするのが通例になっています。今回の名称変更の趣旨に対して反対はしませんが、ノートでの提案も改名Templateの貼り付けもなしに名称変更を行うのは絶対にやめてください。既に関連リンクを修正されている方もおり、再修正のため余計な手間ばかりがかかります。項目名変更にあたっては、Wikipedia:ページ名の変更を熟読され、基本的な方針を踏まえた形で実行されることを要望します。とりあえず今回のみ差し戻しをせずに当方で関連リンクを修正します。Spinningcat 2006年4月22日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

了解です。申し訳なかったです。あまり踏み込んだことのない分野でしたが、それだけに注意すべきでしたね。Aboshi 2006年4月22日 (土) 09:48 (UTC)[返信]
所用で途中で作業を中断していましたが、残っていた要修正箇所を直していただいたようで、ありがとうございます。Spinningcat 2006年4月22日 (土) 17:51 (UTC)[返信]

唐突ですが

Aboshiさん、こんにちは。Complex01です。いつも興味深い記事の執筆をありがとうございます。突然ですが、貴殿を管理者に推薦させていただいても宜しいでしょうか?--Complex01 2006年4月23日 (日) 13:37 (UTC)[返信]

こんにちは。私からもお願いします。お忙しいことは承知しています。管理者権限を行使するのは「主として荒らしに遭遇したとき」、普段は「目標週末に1件程度」というのでもよいのでぜひ。--miya 2006年4月23日 (日) 23:58 (UTC)[返信]
もうしわけないですが、お断りします。ウィキペディア内の目の前の問題すら解決する力も時間もない者に、その一端であっても管理などできるとは到底思えません。逆にいえば、細々とであればこそこうして2年間近くもウィキペディアに携われたわけで、このままの立場でいたいです。Aboshi 2006年4月24日 (月) 02:37 (UTC)[返信]
ご返事ありがとうございます。左様でございますか……残念です。今後とも、Aboshiさんのご活躍をお祈り申し上げます。--Complex01 2006年4月24日 (月) 12:58 (UTC)[返信]
私のノートで罵倒するような方が管理人になると恐怖を感じてしまいますので、管理人になるのは止めておいた方が宜しいと思います。これはあくまで私個人の意見ですが。king-wise 2006年4月28日 (金) 06:24 (UTC)[返信]

脅迫ご苦労様です

らりたさんの意見をコピペしたあげくに仕舞いにゃ話し合いを強引に強要して下さり、ご苦労様だと思います。私はあくまでらりたさんと話し合いたくないだけで私の利用者のノートを削除したまでです。どうもAboshiは話し合いをしたいみたいですが、私はAboshiのような他人の意見をコピペしたあげくに脅迫まがいなことをするような人と話がしたくないだけですから。ですので、もう二度とAboshiとは話し合いは行いませんのでご了承下さいね。ですので、私のノートにも投稿しないで下さいね。king-wise 2006年4月28日 (金) 06:12 (UTC)[返信]

お断りします。私もらりたさんの同様の疑問を抱いておりますしね。お答えになるまで問い続けます。Aboshi 2006年4月28日 (金) 07:00 (UTC)[返信]

一連の騒動に関して

こんばんは、Aboshiさん。らりたです。彼の方に関して、巻き込んでしまった形になってしまって申し訳ありませんでした。
正直申し上げて、彼の方に関しては「言っても無駄」と言う印象を持っているので、「彼の方が編集した記事を修正。今後も続けるようなら何度か忠告。それでも無駄ならブロック依頼。」と言う方式をとろうと思っています。
今度のことで、なんと言うか執筆のやる気を殺がれていたところでしたが、Aboshiさんが味方してくださったことは大変嬉しかったです。ありがとうございました。
えーと、それで些事なのですが。私の発言をそのまま署名だけ変えて彼の方の質問にした事に関して、私自身はこれで「Aboshiさん、ナイス!」などと笑っていたのですが。2chの方で見た書き込みを見て、冷静に考えてみるにやはりあまり推奨されることではないと思います。上で彼の方がこれを責めていることを見てもやはり…。ご気分を害されたらすいません。
それでは失礼いたします。らりた 2006年4月28日 (金) 12:00 (UTC)[返信]

こんばんは。ちょっと悪ノリだったかな、と反省しているところでした。揚げ足を取られる材料になっちゃいましたしね。それはさておき、答えるべきことには答えてほしいところですが。らりたさんの質問された3つのうち1つは『史記』に明記されていることなのに(king-wiseさん、見てる?)。
ともあれ、今後ともよろしくお願いします。らりたさんのような近い分野の書き手のかたがいればこそ、やはりやりがいもあろうものです。Aboshi 2006年4月28日 (金) 12:40 (UTC)[返信]
私も今回はAboshiさんに苦言を呈させていただきたい。らりたさんが相手に忠告しても無視されているという非礼極まりない状況には私としても大いに憤慨するところではありますしお気持ちも分かりますが、だからといって「ちょっと脅しておきますが、そうそう敵を増やさないほうがいいですよ。」と言う発言はやはり暴言・脅迫と取られても仕方が無いのではないのでしょうか(私がそんな事を言われたとしたら本気で怒りますよ)?
Wikipedia:個人攻撃はしないには「ノートページでの議論はインターネット上の誰からも見ることができることを忘れないでください。あなたがウィキペディア上でとったすべての行動の結果はあなたとコミュニティの評価に反映されるでしょう。」という言があります。例え相手が荒らしであろうが対話拒否者であろうが、いかなる相手に対しても相手に対する礼節を欠いた発言はあなたの評価を貶めるだけで結局相手に利する事だけになるのではないでしょうか?
私はそれを憂慮する次第です。--水野白楓 2006年5月2日 (火) 09:27 (UTC)[返信]
耳に痛いです。お言葉を厳しく受け止め、今後の戒めとします。Aboshi 2006年5月2日 (火) 12:43 (UTC)[返信]

キヨンネです

 了解しました。ノートを見ると賛成してくださる方も増えてきたようなので恐る恐るアップしてみました。もう2・3日様子見と致します。アーネストサトーをアップしてしまいましたが、これは貴兄のご指摘に気がつく前にアップしたものでお気を悪くなさらないでください。キヨンネ

関羽の生年に付いて

こんばんは、Aboshiさん。らりたです。以前から疑問であった関羽の生年に付いて件の書籍を読んでみて、所見をノート:関羽の方で述べてみました。宜しかったらご意見をお願いします。それでは短いですかこれで。らりた 2006年5月21日 (日) 12:28 (UTC)[返信]

管理者立候補依頼

こんにちは。KMTです。Aboshi様にお願いがあります。管理者に立候補して頂けないでしょうか?未処理案件の増加に現状の管理者の人数では対応できません。もう無理です。どうかご検討頂けますよう、宜しくお願い申し上げます。KMT 2006年6月17日 (土) 12:54 (UTC)[返信]

一晩考えましたが…もうしわけない、お引き受けしかねます。「恒産なき者に恒心なし(産は時間とも能力ともとってください)」、やはりリアル空間で待ち受ける現実を考えるとウィキペディアで管理者となることはできません。Aboshi 2006年6月18日 (日) 03:43 (UTC)[返信]

ありがとうございます。もしリアル空間の現状が変わられましたら、どうかよろしくお願いします。KMT 2006年6月19日 (月) 09:00 (UTC)[返信]

Image:画像 017.jpgへの出典とライセンス明記のお願い

一週間後、この画像は削除されます。

こんにちは。Image:画像 017.jpgをアップロードして頂き、ありがとうございます。しかし、この画像(ファイル)には出典が明記されていないため、著作権の状態が明らかでありません。出典とライセンスのないファイルは、削除されます。

このファイルがあなたによる著作ではない、あるいはそのようなファイルをあなたが加工したものならば、ファイルの(原)著作者、ウェブサイトへのリンクなどファイルの入手先、そしてこのファイルがウィキペディアの画像利用の方針に沿っているという根拠を示す必要があります。あなた自身が撮影した写真である等、あなた自身の著作であるならば、その旨を明記してください。

加えて、画像の著作権表示タグを貼付していない場合は、左のリンク先を参照して、適切なライセンスを表すタグを貼付してください。どうぞよろしくお願いします。

重要: あなたがこのファイルの他にもファイルをアップロードされているならば、あなたのアップロード記録を見て、他のファイルにも同様に出典とライセンスが明記されているかどうか今すぐ確認してください。それらのファイルや、今後あなたがアップロードされたファイルに出典やライセンスが記載されていなければ、同様に削除されますKenpei 2006年6月21日 (水) 13:47 (UTC)[返信]

こんにちは。始めまして。すいません。ウィキペディアを始めたばかりのころの私の重複アップロードの消し忘れです。削除依頼しておきます。ありがとうございました。Aboshi 2006年6月21日 (水) 13:59 (UTC)[返信]

こんにちは、Complex01です。上記の画像の即時削除依頼が出されていたので削除しようと思ったのですが、残念なことにどのファイルとの重複なのかが分かりませんでした。画像:矢崎川河口(吉良町).jpg画像:矢崎川河口.jpgがあやしいなぁ、とは思ったのですが……。できれば重複してるファイルを示してくれると嬉しいです。--Complex01 2006年6月21日 (水) 14:07 (UTC)[返信]

あああ、たびたびすいません。理由が中途半端だったので、修正しました。Aboshi 2006年6月21日 (水) 14:12 (UTC)[返信]
Complex01さん、お手数かけてすいませんでした。Aboshi 2006年6月21日 (水) 14:20 (UTC)[返信]
すばやい対応ありがとうございました^^ --Complex01 2006年6月21日 (水) 14:25 (UTC)[返信]

柴田勝家

ご指摘ありがとうございました。柴田勝家、コモンズのほうに説明をしてござます。後補足説明がなされているようです。キヨンネ ヘボンもアップさせていただきました。説明はこれでよろしいでしょうか。キヨンネ 2006年7月1日 (土) 10:09 (UTC)[返信]

拝見しました。うーん…私自身もちょっとすぐに探せなかったのでいけませんが、できるだけ情報を付加してほしいですね(柴田勝次郎氏所蔵だけだと、おそらくどのことか断定できません)。いつごろどこで誰によって書かれた、まで。難しいところです。
ウィキペディアでは投稿者が現実ではいったい誰か、どれほどの力を持っているかなどほとんどわからりません。そのため、記載内容は宿命的に信用がおけません。ただし、できる限りソースを記すことでその記事や画像に一定の信頼性を担保させることは可能です。私も実はなかなかできていないのですが、キヨンネさんにもできるだけお心がけくださるよう、お願いします。Aboshi 2006年7月3日 (月) 14:59 (UTC)[返信]

了解いたしました。ありがとうございます。キヨンネ 2006年7月5日 (水) 07:10 (UTC)[返信]

惠州→恵州

Aboshiさん、初めまして。

rikuo240です。

ご指摘ありがとうございました。 日本の旧字と同様でしたのでそちらを使用した次第です。 日本では一般的に恵州を使用していることが多いですよね。

自分は長野県上伊那郡出身ですが、現在は上海に居ます。 その前は恵州市に住んでいました。 これからも広東省の投稿を続けていこうと思います。

今後とも宜しくお願い致します!

躑躅ヶ崎館について

はじめまして、Nubolariといいます。 躑躅ヶ崎「館」とはいいますが、曲輪だけでも主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪等あり また、枡形虎口等武田の築城術の特徴となる遺構もあり、その規模からも一概に「館」とも言えないと思うのですが・・・。 武田家滅亡後の、例えば天主台などもあり微妙なところだとは思うのですが、どうでしょうか?

こんにちは。よろしくお願いします。
うーん…中世の武士の居住・政庁施設としての居館と、詰めの城として城郭は別に考えるというのが一般的な城郭研究における考え方ですし、あくまで名前も躑躅ヶ崎「館」ですよね。もちろん構築後にさまざまな城郭的な付帯設備は備わっていますが、城か館かと言われれば、「館」として捉えたほうがいいように思います。また、中世の武士の居住・防衛を兼ねた施設の呼び方に「城館」という便利な言葉もあります。むしろこちらのほうがよさそうかなあと今は思い始めており、Nubolariさんのお考えもうかがいたく思います。
と言いつつ、私もまだ「調べている」とはとても言いがたい状態なので、いい参考書などありましたらぜひとも教えてください。Aboshi 2006年8月7日 (月) 12:14 (UTC)[返信]
Nubolariです。御回答ありがとうございます。躑躅ヶ崎館は、付帯設備の度重なる追加によって時代を重ねるごとに整備されていった感があります。これにより類別するのが微妙になっていると思います。
実際、詰の城があることからも所謂「根小屋」とも捉えられるとも思います。
ちなみに私が参考にしたのは、山梨県考古学協会の2001年の「武田系城郭研究の最前線」というフォーラムの資料集です。城館という括りが案外正鵠を射ているのかもしれませんね。


小早川秀秋についてなど

2006年8月28日 (月) 04:38にAboshiさんが私のノートに、「あなたが小早川秀秋に書き込んだ以下のことについて、根拠として先行研究か史料を挙げてください。あなた自身の推測にすぎない場合は抹消してください。

>しかし、同年同日同所で秀秋の兄弟2人も死亡しており、暗殺された可能性が非常に高いと思われる。」 と書かれていますが、あの記事は私が書いたものではありません。あの記事を初めに書いたのは、 2006年4月29日 (土) 18:06に「Kuma83さん」によって書かれています。小早川秀秋の記事履歴をちゃんと調査されましたか? あまりに失礼ではないですか? 

私が書いたほかの記事についても、「徳川実紀」や「信長公記」、「名将言行録」などを引用して書いています。もし、私の記事について不満があるのなら、それは私の書いた記事がその程度のものでしかないということでしょう。その節については申し訳ありません。 ただし、それだけ私の書いた記事に不満があるのなら、Aboshiさん自身でその人物を調査して、記事にしたらどうでしょうか? 

それにしても、きちんと調査もせず、「私、ドルチェットが小早川秀秋の記事を書いた」と決めつけるのはあまりに失礼です。今後、Aboshiさんは私のノートに書き込みしないようにお願いします。また、このように何もしていないのに書き込まれて私を傷つける行為をされるのは嫌ですから。小早川秀秋の記事については、Kuma83さんに対して申し出てください。--ドルチェット 2006年8月31日 (木) 07:18 (UTC)[返信]

たしかに、Aboshiさんの間違いのようですが、相手が明らかに間違えた部分だけ回答して被害者ぶるのもどうかと思いますよ。(通りすがり)より。61.125.230.185 2006年8月31日 (木) 09:53 (UTC)[返信]
こんにちは、ドルチェットさん。早速ですが、もうしわけありませんでした。私の見落としです。Aboshi 2006年8月31日 (木) 10:44 (UTC)[返信]

私はもう、あなたに書き込みはしないでくださいとお願いしているはずです。それからなぜ、私であるならノートにこのような書き込みをするのに、同じ書き込みをKuma83さんにはしないのですか? 不公平です。それとも、私を特定的にいじめているのですか? 私はきちんと調査した上で記事を投降しています。秀秋の弟2人が死んでいるかどうかなどは知りませんし、調べていません。

Kuma83さんに対して、同じ書き込みをするようにお願いします。--ドルチェット 2006年8月31日 (木) 12:17 (UTC)[返信]

しばらく自重したらどうですか? このような間違いをする自体、あなたが疲れている証拠だと思いますよ。--ドルチェット 2006年8月31日 (木) 12:28 (UTC)[返信]

それから見落としではすまないと思います。今後、あなた個人による私の批判・注意はやめてください。また同じように大して調査もしないのに、一方的に犯人と決め付けられるのはこちらとしても迷惑です。最初、あなたが書かれている記事を見て、こちらは「そんなこと書いた覚えはないけれど……ねえ」とさえ思いましたよ。私は史料を調査した上で投稿しています。

それから、あなたはどうも渡し個人に対する攻撃・中傷が多いですが、なぜ他の人には同じ行為をしないのですか?Kuma83さんにも同じ行為をすべきではないのですか?--ドルチェット 2006年8月31日 (木) 12:26 (UTC)[返信]

今回はかなり抑えて書いておりますが、読んでいただけましたかね?私があなたにこだわるのは、あなたの投稿内容が質量ともに多いからです。ご自分がいかに飛びぬけた投稿数を持っているか、気づいています?Aboshi 2006年8月31日 (木) 12:41 (UTC)[返信]

拉薩を「らさつ」と読む事は明らかな誤りです。

理由は利用者‐会話:Dalaibaaturに述べた通りにございます。なお「拉致」は元々は「ラツチ」、「らっち」などと表記・発音していました。元々「拉」の字へ「ラ」の音を充てるのは近世以降、入声の消滅以降に日本語へ入った所謂唐音となり、中国の地名を日本語読みするのには聊か不適当なものとなります。ペキン・ナンキン・シャンハイ等の例外でも純粋に唐音です。拉薩を「らさつ」などと唐音漢音ごた混ぜにして読む例は寡黙にして存じません。宝珠蓮華 2006年10月2日 (月) 16:29 (UTC)[返信]

こんにちは。ご指摘ありがとうございます。そう書き込んでくだされば納得します。
ただし、先の書き込みの際に確認した手元の新字源の漢和辞典に「ら(唐)」とあった時点でなんとなくその結論だろうなあと思いつつ、あえてああいう書き方にした私の意図もご理解ください。宝珠蓮華さんに文句を言う筋合いではありませんが、人に誤りを指摘するのであれば、明確にあってほしいものです。Aboshi 2006年10月3日 (火) 15:10 (UTC)[返信]

Lord_nihonです

こんにちは、小生の小説「愛刀物語」についての間違いを指摘してもらえるということでここにきました。 もし明らかな間違えがあれば指摘してもらえるとうれしいです。 小説ということで幾人かの架空の人物とストーリー上では少々事実を捻じ曲げていますが 目にあまる間違いがあれば指摘してください。 私のノートはもう落書き状態ですのでよろしければここか、もしくは小生のURLの掲示板に書き込んでください。 それでは来訪をお待ちしております。--43.244.233.237 2006年10月22日 (日) 03:17 (UTC)[返信]

こんにちは、Aboshiです。
さて、早速ですがウィキペディアにリンクをかけるには以前申し上げたとおりまずは「「歴史学」を踏まえた内容にすること、歴史的事象・フィクション・己の史観がきちんと閲覧者から区別できる内容にすること」に尽きます。現在これらがごちゃまぜなのはLord_nihonさんも認められますよね。
以下は、Lord_nihonさんのページををサンプルに具体的な指摘をさせていただきます。
  1. まず、どこが歴史でどこが脚色か区別しましょう。『鉄金剛の鉄二』という寓話集を使われていると言うことですが、出典を明確に書いたほうがいいでしょう。また、寓話を引用するのなら脚色をしないほうが読者のためになるでしょう。
  2. いくつかの画像について、著作権侵害の可能性が高いようです。加工すれば免れるというものではありません。また、画像にせよ文章にせよ、出典明示は原則です。ウィキペディアでもなかなか守られていないことで私も心せねばと思っていますが、Lord_nihonさんもお気をつけください。
  3. 「日清戦争後 軍は5つにわかれていた」とありますが、大変な誤解を招きます。清朝にはそれだけしか軍隊がなかったかのようです。現に各地の総督・巡撫・提督は独自に軍隊を持っていましたし、特に湖広総督の張之洞は当時近代化した軍隊を数千揃えており、Lord_nihonさんの提示する5つの軍隊に劣るものではないですが、いかがでしょうか。当時の清朝の軍隊で特に注意すべきなのは軍隊のあるなしではなく、袁世凱の新建陸軍に代表されるような近代化された「装備と訓練と将校」で、そちらに言及しないと誤解を招きます。
  4. 義和団(拳)と白蓮教のかかわりがよくわかりにくく、読者に誤解を招きます。現在は義和団と白蓮教を切り離して考え、義和団は山東省の地域性にもたれて発生したとするジョゼフ・W・エシェリック氏らの説が主流ですが、一方で日本や中国の一部の研究者は義和団は白蓮教の流れを色濃く引き継いだものであるという旧来説を主張する方も多くいらっしゃいます。ウィキペディアにリンクをかけたいのであればそのあたりをあいまいにせず、一歩踏み込んでみてほしいです。
  5. ページ下に3枚ほど「画像イメージ」がありますが、実際どうかよくわからないものをあえてイメージ化するのはどうでしょうか。袁世凱のイメージについては実際に撮られた宣統3年ころの写真(袁世凱のトップにあります)と12年の差があるとはいえあまりに隔たりすぎです。また、下二枚については著作権侵害の可能性もあります。
ひとまず、ぱっと思いつくところは以上です。作品を世間に流布する際のルールを守ることも重要ですので、付け加えておきますね。
ただし、ウィキペディアにリンクをかける、という条件のみで私は申し上げているので、もしLord_nihonさんがウィキペディアへのリンクを希望なさらなければ私の書いたことは読み流してください。
長くなりましたが、よろしくお願いします。Aboshi 2006年10月23日 (月) 16:23 (UTC)[返信]

諏訪原城について

Aboshiさんは諏訪原城の縄張図を見たり、現地へ行ったことがおありなのでしょうか?完全に平山城です。また諏訪原城の構造についての記事が大幅に変更され消去されてますが、どのような理由ででしょう?記事の訂正・復旧を要望いたします。Nubolari 2006年12月12日 (火) 07:56 (UTC)[返信]

構造に関する記事については、此方の勘違いでした。すいません。Nubolari 2006年12月12日 (火) 08:01 (UTC)[返信]

こんにちは。はじめまして。お尋ね及びご抗議の件について、実は私はちょうど本丸跡が発掘中ということを聞いて二日前に城跡をみてきたばかりですが、城の南側・旧東海道沿いにある案内板には「扇状の形をした山城」と明記されています。少なくともこの看板を立てた金谷町教育委員会(現在は合併したために島田市教育委員会)の見解は「山城」であるということです。私は城郭のことについてはかなりの素人ですが、確かに南側が城外に対してほぼ平面のこの城を「山城」というのかなあという疑問はあります。しかし、城跡を整備し、公開している当事者が「山城」としている事実にかんがみ、ウィキペディアにおいてもそう改めました。ただし私は現時点では専門家の見解を見ていません。もし諏訪原城を「平山城」と分類している近年の研究があれば、どちらにするか考慮にいれるべきかと思います。 蛇足ですが、ウィキペディアにおいてはインターネットという性質上書き手自身の信用が全く担保されません。特に専門性のある内容では、我々自身の見解よりも通説や先行研究が必ず優位に立ちます。そのあたりにご理解を賜れば幸いです。Aboshi 2006年12月12日 (火) 14:26 (UTC)[返信]

私もずぶの素人ですが、一般的山城の定義が「険阻な山を利用して築かれた城」、平山城の定義が「平野の中にある山、丘陵等に築城された城」ということを考えれば、明らかに平山城に分類されるものではないでしょうか?そうでなければ、ウィキペディア上の城の形態の認識との整合性が取れません。諏訪原城が平城・山城・平山城という分類で山城に該当するなら、非常に似通った構造の新府城・大島城・小山城・岡城などもすべて山城ということになります。上田城・小諸城等もそうなります。平城か山城かという二極で分類するのであればその限りではありませんが、ウィキペディア上では二極で分類していません。平山城という分類そのものがなくなってしまいます。Nubolari 2006年12月12日 (火) 15:44 (UTC)[返信]

ご説は承りました。しかし、今回の「平山城⇔山城」の問題は私とNobulariさんの対立ではなく、島田市教育委員会とNobulariさんの対立です。また、金谷町(当時)教育委員会の学芸員さんが山城・平山城・平城という江戸時代初期以来の区分を知らずに諏訪原城を「山城」と分類したとはとても考えられません。ウィキペディアでの整合性云々の問題は、はっきり申し上げてNobulariさんが諏訪原城を平山城と分類している先行研究を持ち出さない限り非常に区々たる問題です。昨日書いたことを言い直して繰り返しますが、いったい何者なのかも読み手に保証できない私どもの意見などより、先行研究や通説が常に優先されることを理解してください。Aboshi 2006年12月13日 (水) 13:09 (UTC)[返信]

お上が言うなら白いものも赤いということであれば、余りにも寒々しいですね。Nubolari 2006年12月17日 (日) 16:22 (UTC)[返信]

その通りですね。私も相当いやな書き方をしていると思います。 ただし、これだけは理解していただきたいのですが、何者かも読み手にわからない私どもが学術的な判断を下してはいけないのです。なぜなら、新たな学術的な知見というのは本来丹念な発掘作業や研究論文などの地道な作業で世間にやっと影響力を与えられるものなのです。ところが、ウィキペディアはある種不健全なまでに多くの人に「知識」を与えてしまいます。「ど素人」のあなた(とおっしゃってましたね)や私ごときの独自の知見を書くということは、今まで行われてきた地道な知の作業を踏み潰すような傲慢な所業なのです(私が先行研究が別にあれば、と繰り返した理由です)。Aboshi 2006年12月18日 (月) 03:15 (UTC)[返信]

山本勘助

築城技術者云々はこちらの勇み足だったので、どうぞ訂正してください。実際のことを言えば、前文の「近年の研究によれば」という部分を見落としていたわけですが。まぁ、あなたのような見識高く知識溢れる方からすれば、私の駄文などは何の価値もないでしょうから、一々断り等いれずに書き直していただいてかまいません。それと、これが一番重要なのですが、あなたの物言いは私にとって非常に不快です。なので御返事等は全く不要です。あなたに関わりたくないので、宜しくお願いします。Nubolari 2007年1月14日 (日) 01:28 (UTC)[返信]

こんにちは。お厳しいお言葉、ありがたく頂戴します。雑な物言いをしましたね。反省しております。Aboshi 2007年1月14日 (日) 11:56 (UTC)[返信]

均田制の査読お願い

こんばんは、Aboshiさん。らりたです。今回、均田制査読依頼に出しており、Aboshiさんの知識に基づいた意見が頂きたいと思いました。長らくの無沙汰をしておきながら唐突な物言いで失礼極まりないかと思いますが、ご足労頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。らりた 2007年1月20日 (土) 13:00 (UTC)[返信]

すいません。お返事遅くなりました。
学生時代、法制史はとってもおざなりにしたところで(社会に出て仕事をしてみて法制が「思いのほか」重要なことを痛感しています)、特に査読依頼まで出て行ってどうということは恥ずかしくてできません。おこがましいながらここでこそっと申し上げれば、ウィキペディアで記事を書く際に、何よりも研究史が一番書き手にとって裁量権が大きくできる部分ではないでしょうか。決まりきったことがあるわけではなく、一人の研究者の先行研究の概括のみを参照するのもあまり望ましいものではないかと思いますし。本来は研究史こそ、最も書き手同士の意見をぶつからせることでいいほうへ導いていかなければいけないんでしょうね。
と書くとらりたさんの記述内容への批判にもなっていてすさまじく恐縮してしまうのですが、ただ「均田制」のレベルに到達した記事は少数ですし、私自身恥ずかしながらそこまで調べ上げて作った記事はありません。記事の目指すべき方向として、らりたさんの「均田制」の加筆は正しいし、他の記事もこの方向で進めていくべきだと思います。「いい加筆」が望めるような加工も大事です。
さて、「均田制」の現状の記事を向上させるためには、ひたすら別の視点を求めることだと思います。気賀沢先生以外の研究の概括を見つけるのは大変に困難なようですが、記事の厚みが変わってくると思いますよ。欧米・中国本土の先行研究もきっとありますし。
なにやら恥知らずにえらそうに書いてばかりですが、ほぼそのまま自戒を込めた内容です。ドルチェットさんなどが相変わらずの記事を量産するのを見ながら、いくつもの記事を小出しに作るより、しっかりした記事を一つしっかり作るほうが本当は積み上げになるのではと思いつつ何もしないうちに、らりたさんがそういう記事を作成されたのを見てちょっと悔しいというが正直なところです。Aboshi 2007年1月28日 (日) 16:57 (UTC)[返信]
Aboshiさんには私の不躾なお願いに答えていただき、まことにありがとうございました。
うーむ、中国の研究状況に付いてはノートで出した丹氏の論文が水先案内人になってくれると思いますが、欧米となるとまさしく地図も持たずに大海に乗り出す羽目になってしまいそうで躊躇する次第です。
日本の研究状況においても気賀澤氏以外の概括が見つけられるまではとりあえず他の項目に力を注ぎたいと思います。とりあえず唐繋がりで府兵制を充実させようと思っています。また図々しくもお願いにあがることがあるかもしれませんが、そのときはよろしくお願いいたします。らりた 2007年2月2日 (金) 12:43 (UTC)[返信]

戸田家の宗家の問題

こんにちは。戸田氏宗家の問題提起を受けたウィキ豊です。二連木城#築城後につきまして仁連木戸田家が宗家となった記述を戸田康長以後の所に変更しました。徳川幕閣の下では仁連木戸田家が宗家扱いを受けているのは間違いなく、これならば問題が無いと思いますが。不正確な点はこれからも訂正させて頂きます。--ウィキ豊 2007年2月9日 (金) 04:14 (UTC)[返信]

了解です。私も確認不足ですのでもう少し調べなおそうと思っていますが、これでいいでしょうね。お早い対応を感謝いたします。Aboshi 2007年2月9日 (金) 04:25 (UTC)[返信]

挨拶

こんにちは。私はKalzといいます。 ウィキペディアを彷徨っていて、「崋山劇」の項目から来ました。 私は旧田原町生まれの田原市育ちで、Aboshiさんと同じです。 「こんな事もあるのか」と私は思ってしまいました。 私はまだ小学生なので、文章の構成も下手ですみません。 また機会があったら来させてもらいますね。--Kalz 2007年7月21日 (土) 07:16 (UTC)[返信]

いらっしゃいませ。ここで田原の方にお会いしたのは初めてで、かなりうれしいです。実際にもどこかで顔を合わせているかもしれませんね。
またウィキペディアのどこかで見かけたときは声をかけてくださいね。Aboshi 2007年7月26日 (木) 10:45 (UTC)[返信]

一色政照の出典

こんにちは。一色政照の記事で要出典の指摘をうけたGAVVAです。記事修正しましたが(ログインし忘れました)、こんなもんでよろしいですかね?--GAVVA 2007年8月19日 (日) 11:41 (UTC)[返信]

はじめまして、GAVVAさん。今後ともよろしくお願いします。
さて、ありがとうございます、というか私などの言葉に応じていただけるとは、大変恐縮です。ただし、出典名の史料はマイナーなもので、専門にしている人だけでは信用性はわかりませんよね。以下はGAVVAさんだけが責められる話ではなく、私も、他のウィキペディアの書き手にいえることですが、人物や事件の記事よりも、史籍解題の重要性を感じてやみません。ウィキペディアの特質上、書き手が何者かわからないため、記事の信用性を担保するためには結局出典とその史料の質を明らかにするしかありませんものね。私自身今後の自戒としつつ、なかなかウィキペディアに関われなくなっているところでもどかしく感じているところです。Aboshi 2007年8月19日 (日) 12:40 (UTC)[返信]

城のテンプレに関して(ご連絡)

ご連絡を頂きましたReggaemanです。たまたま岩屋城の編集をおこなっていたら貴殿よりメッセージを頂きました。城テンプレの遺構については、私が追加したと記憶しております。確かに再建物については「遺構」とは言えないですね。しかし、遺構の欄に「再建○○」と記載することで逃れています。テンプレに項目を追加するのもあまりにもゴチャゴチャするので、ま、これでいいかなと、編集を続けている次第です。「再建物」についての項目は、正直、増やしたくないなと言うのが今の私の気持ちです。「文化財」等の項目追加についてはあってもよいかなと思います。が、城のテンプレ貼付も随分と数多くなりましたので、今から追加というのも二の足を踏んでいます。少し時間を下さい。多分、そのうち追加するでしょうけど(笑)。--Reggaeman 2007年10月21日 (日) 13:18 (UTC)[返信]

遺構でない建物を

城の項目で、遺構でない建造物を遺構欄に加えないでください。新たにテンプレート、指定文化財はcultural asset = |、再建築物は rebuilding things = | が加わりましたので、そちらにお願いします。--Satoshin 2007年12月27日 (木) 00:56 (UTC)[返信]

すいません

私が編集した項目を差し戻していらっしゃいますが、それは別にあなたの考えなので結構ですが他の部分も編集してますので、差し戻すのは冒頭だけにしてもらえないでしょうか。また編集しなくてはならず迷惑です。--Satoshin 2007年12月27日 (木) 01:12 (UTC)[返信]

こんにちは。一項前も含めて失礼しました。気を付けます。
さて、Satoshinさんのノートでお話した件ですが、見るポイントの違いだけで、意見の相違そのものではなさそうなので、私から申し上げることはありません。また次回、何かありましたらお願いします。Aboshi 2007年12月28日 (金) 14:30 (UTC)[返信]


諏訪原城改名提案の件

Aboshiさん、こんにちは、故城一片之月と申します。はじめてノートにお邪魔します。

ページ:諏訪原城改名提案について、発議者は反対意見を受け入れる意志を表明されました。ほかに、同提案に賛成意見は出ていませんので、一応ここまでの議論経過とまとめ(現行名維持の方向で)をしておきましたので、ノート:諏訪原城を御覧のうえ合わせて承認いただければ幸いです。--故城一片之月 2008年1月30日 (水) 15:15 (UTC)[返信]

ご連絡感謝します。付言しておきました。Aboshi 2008年1月31日 (木) 14:57 (UTC)[返信]
途中で議論を強引にさえぎるような印象をお掛けしてお気を悪くされたかも知れません。ただ、原提案者がページ名維持でよいと言った以上、改名提案テンプレートを貼りっぱなしだと、他の利用者のかたが誤解してしまいそうなので処置しました。未了の質疑を妨げるものではありませんので、あしからず。--故城一片之月 2008年2月1日 (金) 15:18 (UTC)[返信]

江源武鑑について

おばんです。氏名不詳者です。江源武鑑の件、これを評価する佐々木哲氏の著作その他について、江源武鑑の頁に追記しておきましたのでご確認ください。Aboshiさんのほうでも何か発見がありましたら、追記よろしくお願いします。では、よろしゅう。--氏名不詳者 2008年2月16日 (土) 15:07 (UTC)[返信]

はじめまして。またごゆっくりお返事差し上げます。Aboshi 2008年2月17日 (日) 12:58 (UTC)[返信]
よろしくお願いしますわ。Aboshiさんは愛知県在住、近場ということで情報も集めやすいかと思います。何か新しい参考書籍など見つかりましたら、ぜひ追記をお願いします。では、よろしゅう。--氏名不詳者 2008年2月17日 (日) 18:50 (UTC)[返信]

どうもです

どうもこんばんは。お話しするのはかなりお久しぶりかと思いますが、らりたです。

Aboshiさんのご指摘くださったノート:甄氏の件ですが、全く持って恥ずかしいことですが私は氏と姫との使い分けについて知りませんでした・・・。穴があったら入りたいとはこのことですね・・・。

でまあ、今回恥をかきながらもAboshiさんの会話ページに伺ったのはノート:甄氏に於けるAboshiさんのおっしゃり方が少々きっついのではないかと思ったからです。

>「中国関連記事の劣化でも目指しているのですか?」

という言葉は私が言われたらかなりヘコんでしまうと思います。Uraiosさんはそういった(言葉は悪いですが)「変な編集」もありますが、年号の変更など「地味で有用な編集」も数多くしてくだ去っている方だと思います。私にしても中国史関連・特に三国関連では変な執筆者が沸いてきてイラつくことが多いので、Aboshiさんのお気持ちも解るのですが。もう少し他の言い方をされたほうが良いのでは?と思いました。僭越ながら。らりた 2008年3月16日 (日) 13:20 (UTC)[返信]

そうですね。言い方が悪すぎました。反省しています。
ただ、Uraiosさんに私が求めたかったのは、らりたさんのある意味おっしゃる通りで、自分の書いたことを真っ向から否定されたら、怒るかヘコむかする程度のプライドを持ってほしいということを言いたかったのです(彼が反論してきたらそういう意味で受けて立つつもりでした)。また、今回の件でらりたさんが知らないまでも「おかしい」と思ったように、ある程度そのことを知っていると、ある種のカンが働いてきます(実は私も知らないなかったのですが、「夏姫、虞姫、戚姫、薄姫」と並べてみて、あれ、と思って調べてみてわかったことにすぎません。らりたさんの穴に私も入れてもらわねばならない身です)。そのへんのカンの重要性に気がつかないまま特攻してあっちこっちで問題を起こすUraiosさんに、どうかしてブレーキをかけたかったのですが…
ノート:純宗 (朝鮮王)のUraiosさんの言動を見ると、私のきつい言葉は完全に意味がなかったようで、無駄に恥をさらした思いです。そういう意味でも反省ですね。
あ、蛇足ですが、氏と姫は使い分けではなく、薄氏なら諱不詳ながら薄さんというだけで誰にでも使います。日本なら系図で「◎〇氏女」と書かれるのと似たようなものです。Aboshi 2008年3月16日 (日) 15:29 (UTC)[返信]

出典不明人物について

基禮の件でコメントありがとうございます。これは別件なのですが、士陸士漆についても同様に未検証テンプレを貼っておりますので、できましたらコメントなどいただけると幸いです。こちらについては、ベトナム側にそういった情報などがある可能性も否定はできないでしょうが、いずれにせよ出典不明のままであれば削除すべきと思いますので、よろしくお願いします。--てぃーえす 2008年5月10日 (土) 01:07 (UTC)[返信]

こんにちは。基禮は疑わしいにおいがぷんぷんしたので書き込んでみましたが、正直本当に気になります。士陸、士漆は、うーん、ベトナムはわかりませんねえ。…まあでも士「陸」(六)、士「漆」(七)って命名も変な感じもしますが(士壱は一世代上ですし)。ひとまず「出典なし」で削除でもいいかもしれません。Aboshi 2008年5月10日 (土) 03:53 (UTC)[返信]

大順 (李自成)改名議論への参加をお願いいたします。

お久しぶりですが、御元気そうで何よりです。 実は本日はお願いがあって参りました。 実は李自成政権を表す大順 (李自成)という記事名では、一見見た限り、李自成の政権の呼称なのか、それともそこの元号の名称なのか判然としないのではないかということで、ノート:大順 (李自成)に改名議論を提議しました。現在、当方の試案としては移動先を大順 (王朝)という案を出させていただきましたが、やはり中国史については詳しいご見識をお持ちのAboshiさんに、改名の是非や改名後の記事名についてご意見を伺う必要があると思い、お願いに上がった次第です。

お忙しいとは存じますが、是非ともご意見をいただければ幸いであると考えております。

勝手なお願いであることは承知しておりますが、宜しくお願いいたします。--水野白楓 2008年5月11日 (日) 10:54 (UTC)[返信]

これはご無沙汰です。お元気ですか?
ご依頼の件はちょっと難しそうですが、了解です。考えてみます。Aboshi 2008年5月18日 (日) 14:26 (UTC)[返信]


「ファイル:Taibeidaxue1.jpg」がコモンズへ移動されました

ウィキペディア日本語版にアップロードして頂いたファイル:Taibeidaxue1.jpgですが、このたびウィキメディア・コモンズcommons:File:National Taiwan UNIV 001.jpgへ移動されました。 この移動によりあなたの投稿されたファイルは、ウィキペディア日本語版だけでなく、他の言語版やその他の姉妹プロジェクトなどでもより広く利用することが可能になりました。

なお、この移動の後、ウィキペディア日本語版に残っている元のファイル:Taibeidaxue1.jpgは、Wikipedia:即時削除の方針#ファイル1-5に従いまもなく削除されますので併せてお知らせいたします。--hyolee2/H.L.LEE 2011年1月23日 (日) 23:58 (UTC)[返信]

こんにちは。Hyolee2さんのご活躍は常々拝見しています。
ご報告の件、了解です。表題を誤ってアップデートしてしまったので、これでこの不名誉も消えるのかしら?Aboshi 2011年1月24日 (月) 05:26 (UTC)[返信]


「ファイル:Oi no Matsubara.jpg」がコモンズへ移動されました

ウィキペディア日本語版にアップロードして頂いたファイル:Oi no Matsubara.jpgですが、このたびウィキメディア・コモンズcommons:File:Oi no Matsubara.jpgへ移動されました。 この移動によりあなたの投稿されたファイルは、ウィキペディア日本語版だけでなく、他の言語版やその他の姉妹プロジェクトなどでもより広く利用することが可能になりました。

なお、この移動の後、ウィキペディア日本語版に残っている元のファイル:Oi no Matsubara.jpgは、Wikipedia:即時削除の方針#ファイル1-5に従いまもなく削除されますので併せてお知らせいたします。 --MGA73会話2020年6月21日 (日) 20:46 (UTC)[返信]

承知しました。ご連絡感謝します。Aboshi会話2020年6月22日 (月) 02:36 (UTC)[返信]