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==賭け、旅の準備==
==賭け、旅の準備==


ジャクソンは31歳。自動車はまだ所有していなかったがすでに心は囚われていた。当時一般にはまだ『単なる流行で金持ちの道楽』と思われていた自動車だったが、ジャクソンはそうは思っていなかった。1903年5月18日、ジャクソンはサンフランシスコ大学のクラブにゲストとして招かれていた。そこで彼は自動車が国を横断できるかどうか50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円)で賭けをする。彼は車を持っていなかったし、十分な自動車の運転の経験もなかった。たどるべき地図ももちろんなかった。バーリントンの家へは数日後に帰る予定だったのだが、ジャクソンはその賭けにのった。ジャクソンとバーサは二人共、このサンフランシスコ滞在中に運転の教習を受けていたところだった。ジャクソンが自動車での冒険に挑むことになったためバーサは列車で家に帰ることにした。
ジャクソンは31歳。自動車はまだ所有していなかったがすでに心われていた。当時一般にはまだ『単なる流行で金持ちの道楽』と思われていた自動車だったが、ジャクソンはそうは思っていなかった。1903年5月18日、ジャクソンはサンフランシスコ大学のクラブにゲストとして招かれていた。そこで彼は自動車が国を横断できるかどうか50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円)で賭けをする。彼は車を持っていなかったし、十分な自動車の運転の経験もなかった。たどるべき地図ももちろんなかった。バーリントンの家へは数日後に帰る予定だったのだが、ジャクソンはその賭けにのった。ジャクソンとバーサは二人共、このサンフランシスコ滞在中に運転の教習を受けていたところだった。ジャクソンが自動車での冒険に挑むことになったためバーサは列車で家に帰ることにした。


ジャクソンは、同行のメカニック兼ドライバーを探した。まだ若い22歳のセワール・クロッカー(Sewall K. Crocker)を説得し旅の供とする。クロッカーは『[[ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー]]』の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、ホームタウンの名『バーモント』と名付ける。『バーモント』は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーだった。最高時速30マイル(48キロ)。そして、オープンカーである。屋根はない。風防もない。もちろんサイドウインドウも。
ジャクソンは、同行のメカニック兼ドライバーを探した。まだ若い22歳のセワール・クロッカー(Sewall K. Crocker)を説得し旅の供とする。クロッカーは『[[ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー]]』の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、ホームタウンの名『バーモント』と名付ける。『バーモント』は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーだった。最高時速30マイル(48キロ)。そして、オープンカーである。屋根はない。風防もない。もちろんサイドウインドウも。

2006年9月20日 (水) 14:33時点における版

ホレィシォ・ネルソン・ジャクソン(Horatio Nelson Jackson) (1872年-1955年1月14日) は、アメリカ合衆国を自動車で横断した最初の人物。 "マッド・ドクター(The Mad Doctor)"ともよばれた。

100年前、アメリカには舗装された道路はほとんどなく、自動車は一般大衆にはまだ認識もされていない。わずかに知る人でさえ"馬の要らない車"は新しいが奇妙な乗り物であり"実用には使えない単なるおもちゃ"と思っていた。そういう時代の話である。

1903年の春、サンフランシスコのある大学のクラブに集っていた男たちは、ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンが「『自動車で大陸横断ができる』方に50ドルを賭ける」というのを聞いた。ジャクソンは宣言した。「自分で運転をする。サンフランシスコから合衆国を横断しニューヨークに行く。3ヶ月以内だ。」ジャクソンの側に付いたものも何人かおり、その後たった4日で自動車の調達から何からの旅の支度を済ませたのだった。

旅以前

牧師の子として1872年に生まれる。1893年、バーモント大学医学部を卒業後、バーモント州のブラットルボローで開業、その後バーリントンに移る。1899年にバーサ・リチャードソン・ウェルスと結婚。バーサの父は20パーセントグレインアルコールの特効薬、ペインズ・セレリー・コンパウンドの創業者であり、バーモントでも指折りの富豪だった。

ジャクソンは軽度の結核にかかり1900年には医業を中断していたが、ヨーロッパに新婚旅行に行き、チャンプレイン湖畔のプロビデンス島の別荘を購入し、炭鉱に投資し、競争馬まで購入していた。それもこれもすべて妻バーサの資金のおかげだった。そして、自動車で国を横断するという当時はありえない旅に資金をだしたのもバーサだったのである。

賭け、旅の準備

ジャクソンは31歳。自動車はまだ所有していなかったがすでに心奪われていた。当時一般にはまだ『単なる流行で金持ちの道楽』と思われていた自動車だったが、ジャクソンはそうは思っていなかった。1903年5月18日、ジャクソンはサンフランシスコ大学のクラブにゲストとして招かれていた。そこで彼は自動車が国を横断できるかどうか50ドル(現在の約1000ドル、約十数万円)で賭けをする。彼は車を持っていなかったし、十分な自動車の運転の経験もなかった。たどるべき地図ももちろんなかった。バーリントンの家へは数日後に帰る予定だったのだが、ジャクソンはその賭けにのった。ジャクソンとバーサは二人共、このサンフランシスコ滞在中に運転の教習を受けていたところだった。ジャクソンが自動車での冒険に挑むことになったためバーサは列車で家に帰ることにした。

ジャクソンは、同行のメカニック兼ドライバーを探した。まだ若い22歳のセワール・クロッカー(Sewall K. Crocker)を説得し旅の供とする。クロッカーは『ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニー』の車を使うことを提案。ジャクソンは、かなり使い込まれたウィントンの中古を購入し、ホームタウンの名『バーモント』と名付ける。『バーモント』は20馬力2気筒エンジンを載せた2人乗りツーリングカーだった。最高時速30マイル(48キロ)。そして、オープンカーである。屋根はない。風防もない。もちろんサイドウインドウも。

妻に別れを告げ、サンフランシスコのパレスホテルを発ったのが5月23日。コート、あて布で補強した服一式、寝袋、毛布、炊事道具、水袋、斧、シャベル、望遠鏡、工具類、スペアパーツ、予備のガソリン缶、オイル缶、カメラ、ライフル銃、ショットガン、ピストル、そして150フィート(約46m)の麻縄(ヘンプロープ)が付いた滑車装置(ブロック&タックル)を携帯した。この滑車装置は、溝にはまった時、車を引っ張り出すのにかなり頻繁に使ったという。

ジャクソンは、ウィントン社の創業者アレクサンダー・ウィントンがサウスウエスタン砂漠を横切るのに失敗した話を知り、もっと北側のルートを取るようにした。それはサクラメントバレーからオレゴントレイルへ抜けるルートで、これならロッキー山脈の高所も通らなくてすむ。

旅立ち

1903年ジャクソンのアメリカ大陸横断(クロスカントリードライブ)中の写真

車はまずサンフランシスコからオークランドまでフェリーで運び、そこから東に向かった。ところが15マイル言ったところでタイヤがパンクしてしまった。ジャクソンとクロッカーは所持しているたった一つのスペアタイヤ初日で使うことになった。サンフランシスコで探しに探してやっとみつけた唯一この車に合うサイズのスペアだったのにだ。

旅の2日目の夜、サイドのランタンを交換する。最初の夜の走行で暗すぎることがわかったからだ。二人は次の到着地サクラメントでは自転車に乗っていたサイクリストたちに出会いサクラメントを案内をしてもらう。しかも彼らはロードマップをくれた。新しいタイヤは手に入らなかったが、インナーチューブを何本か買うことができた。

サクラメントを出て北に向かったが、車がうるさく、炊事用具が落ちたのに気が付かなかった。しかも、道を聞いた女に違う道を108マイル走らされてしまう。家族に自動車を見せたかったからだという。

ジャクソンは一日の走行距離をおよそ200マイル(320キロ)と踏んでいた。しかし結局それができたのは数回のみで、しかも、夜中も運転してのことだったのである。それを毎日はとても無理だった。

オレゴンにつながる荒れた道では、深い川を滑車装置でひっぱりながら渡った。このルートの途中でめがねも紛失してしまった。土地をとおらせてもらうために4ドル(約85ドル、約一万円弱)を払わされたりもした。タイヤがパンクしたときにはホイールをロープでぐるぐる巻きにして走った。交換用タイヤをサンフランシスコから立ち寄り地点まで送ってくれるよう電信することがやっとできた。

カリフォルニア・アルチューラスにたどり着き、タイヤを待つ。ワイルド・ウエスト・ショーを見るのと引き換えにそこの住民を車に乗せてやった。三日間待ったが、結局タイヤはとどかず、旅を続けることにした。

6月6日、車が故障し、近くの牧場までカウボーイに引っ張ってもらった。クロッカーが修理をしたが、燃料漏れのためガソリンを全て失ってしまっていた。ジャクソンは自転車を借り、25マイル先のオレゴン、バーンズまで調達にいった。燃料を携えて戻ってくると、今度は満タンにするためバーンズに向かった。

6月9日、オレゴン、バーレの近くでオイルが切れた。ジャクソンは歩いて、今通ってきた一番近くの町へ戻ったが、バーレの方がすぐ近くにあったことを知るのはその街についたときだった。次の日、オレゴン、オンタリオに到着。タイヤが待っていた。

バド(Bud)

アイダホ、カルドウェル近くで、ジャクソンとクロッカーはアメリカン・ブルドックを手に入れ、バド(Bud)と名づける。当時の新聞はジャクソンがどうやってバドを入手したのかについて様々に書いているが、盗んだというものまであった。妻の手紙によれば、ある男が15ドル(今日320ドル)で売るといったという。埃っぽいアルカリ性の道なので、バドの目がやられた。ジャクソンはバドにゴーグルをかけてやることにした。(ウィントンには屋根も風防もなかった) このとき、バドは悪い水を飲み病気になったが、元気をとりもどした。

この時点で、2人と1匹は有名人になっていた。新聞は彼らの着くところいたるところで写真をとり、インタビューをおこなった。アイダホ、マウンテンホームでは、オレゴントレイルの東側はよくないと住民が教えてくれたので、ジャクソンとクロッカーは、当初のコースをソートゥースマウンテンの南麓沿いに変更。クロッカーは電信でウィントン社に部品をもっとほしいと依頼。

6月16日、アイダホのどこかで、旅の資金を仕舞いこんでいたジャクソンのコートが落ちてしまい探したが見つからなかった。次の停車地点でジャクソンは妻に電信でワイオミング、シャイアンまで金を送るように伝えた。しかし車のホイルベアリングがやられてしまい、クロッカーは農家に頼み込んで芝刈り機からホイールベアリングをもらいなんとかまにあわせた。

7月12日、一行は、ついに、ネブラスカ、オマハにたどり着いた。ここからは、すこしは舗装された道を通ることができる。旅は楽になるぞ。そして1903年7月26日にニューヨークシティーに到着する。サンフランシスコを発って63日、約2ヶ月だった。8000ドル(17万ドル、約2000万円)を費やした。

旅の途中でのトピック

  • ガソリンスタンドなどなかったが、ガソリンはコンロやポンプ、農作業機械用のものが一般の店で販売されていた。自動車用品店などあるわけがない。
  • アイダホに入る手前で車のメーターが落ちてしまった。このため、彼らがどのくらいの速度で走ったのか、どのくらいの距離をすすんだのか知るすべがなくなった。
  • 砂地を横切るのにヨモギを100フィート(約30メートル)敷き並べ、その上をゆっくり走った。車を止め、歩いてスタート地点に戻り、ヨモギを拾い集めてまた車の前方100フィートに敷いた。これを繰り返してようやく砂地を通り越した。
  • もうすぐニューヨークというある日、障害物にぶつかり、二人と一匹は車の外に投げ飛ばされた。だれもけがはなかった。これが旅における唯一の事故だった。
  • 彼らが旅を始めてしばらくして、パッカードとオールズモビルの車が、それぞれ別々にサンフランシスコからニューヨーク市を目指し出発している。運転は熟練ドライバーでそれぞれの車の会社の後ろ盾をもらっての出発だった。北側のルートを通ったジャクソンたちを追い越せるようもっと中央部のルートを通っていた。早いペースで車を進め、ジャクソンたちを抜くかもしれないと思われたのだが、岩の多い山道に行く手を阻まれたり、車が持たなかったりで、どちらの車も途中であきらめてしまった。
  • ウィントン・モーター・キャリッジ・カンパニーが、自社の車がアメリカ横断に使われていると知ったのは、中西部を過ぎてパーツが必要になったとき、ジャクソンがパーツを要求した電信を直接ウィントン社宛てに打った時だった。以降は、ウィントン社も協力し、最終ゴールであるニューヨーク市のホテルまでのウイニングランにも参加している。

その後の人生

ジャクソンはバーリントンで企業家となる。

旅が終わり、ホレィシォ・ネルソン・ジャクソンはバーモント、バーリントンでバーサとバドと暮らす。バーリントンで、ジャクソンは、セオドア・ルーズベルト大統領と会っている。第一次世界大戦が起こり42歳という年齢にもかかわらず陸軍に志願する。そのままではとてもいけないため、ルーズベルトに連絡をとった。結果オフィサーとして任命され欧州に渡る。戦争が終わり米陸軍から『殊勲十字章(Distinguished Service Cross)』、フランスから『戦功十字章(Croix de Guerre)』を授かり、英雄として帰郷。その後、米国在郷軍人会(American Legion)の創設にも携わる。バーモント州知事選には二度立候補したがかなわなかった。新聞社バーモント・デイリー・ニュースの発行や街の最初のラジオ局WCAX(のちのWVMT)開設をおこない銀行の頭取でもあった。彼は一度だけバーリントンで時速10マイルを超えるスピード違反でチケットを切られている。

1944年、72歳になったジャクソンは車と、当時の新聞のスクラップ、バドのゴーグルをワシントンスミソニアン博物館に寄贈する。晩年は、聞きたいというなら誰にでも、1903年ウィントン社製でウィントンが『バーモント』と名付けた車での大陸横断冒険物語を語り聞かせることを楽しみとしていた。

1955年1月14日、世を去る。82歳だった。

ドキュメンタリー

Horatio's Drive: America's First Road Trip (2003) 

2003年、ドキュメンタリー映画製作者、ケン・バーンズがホレィシォの番組を制作。2003年10月3日、PBSで放映された。この番組はデイトン・ダンカン(Dayton Duncan)の同名タイトルの本(ISBN 037541536X)を基にしたもの。この番組にはグッド・オールド・ソングもちりばめられている。この番組はDVDとして現在米国で発売されている。

この作成の過程でケンはジャクソンの孫娘からジャクソンが旅の途中に書いた手紙を見せてもらっている。手紙からは、ジャクソンの人生に対する考え方と、思い立ったらやらないと気がすまない性格がよくわかったという。

PBSPBSのホレィシォ・サイト:多くの情報とさらに詳細な情報のための多くのリンクが含まれている。

トリビア

ホレーショ・ネルソンといえば、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争、トラファルガー海戦で活躍したイギリス海軍提督のネルソン提督の名前として有名。


名前の日本語読みについて

Horatioの日本語読みには、ホレーショ、ホレーショー、ホレイショ、ホラティオ、ホラチオ、ホレイティオ、ホレイシオなど様々で統一はない。この項では米語発音に近いホレィシォとした。

参考

英語版Wikipedia Horatio Nelson Jackson