「側室」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
3行目: 3行目:


== 側室の実態の多様性 ==
== 側室の実態の多様性 ==
本来は正室の位置づけが「家族の一員」であるのに対し、側室の位置づけは「使用人」である<ref name="nipponica">[[稲垣史生]]「側室」『[[日本大百科全書]]』 小学館。</ref>。この点で「本妻=正室」が家族の一員であるのとは厳密には異なる<ref name="nipponica"/>。{{要検証|date=2017年1月}}
本来は正室の位置づけが「家族の一員」であるのに対し、側室の位置づけは「使用人」である<ref name="nipponica">[[稲垣史生]]「側室」『[[日本大百科全書]]』 小学館。</ref>。この点で「本妻=正室」が家族の一員であるのとは厳密には異なる<ref name="nipponica"/>


男女の情や同居人同士の親近感、その家の当主や家政の方針が絡んでくるため、上述の区分けは厳密には守られない事が多く、時代や身分によって正室と側室との関係は多様であり、君主と下僕のような厳格な差があったケースから、まるで実の姉妹のように扱いに大差がないケースまでいろいろであった。[[儒教]]倫理に基づく建前としては「正室が一人で側室が複数」が正格であったが、日本では稀に側室を複数あるいは一人もちながら正室を置かなかった例や、逆に複数の正室を置いて側室をもたなかった例などがあり、かなり変則的であった。
男女の情や同居人同士の親近感、その家の当主や家政の方針が絡んでくるため、上述の区分けは厳密には守られない事が多く、時代や身分によって正室と側室との関係は多様であり、君主と下僕のような厳格な差があったケースから、まるで実の姉妹のように扱いに大差がないケースまでいろいろであった。[[儒教]]倫理に基づく建前としては「正室が一人で側室が複数」が正格であったが、日本では稀に側室を複数あるいは一人もちながら正室を置かなかった例や、逆に複数の正室を置いて側室をもたなかった例などがあり、かなり変則的であった。

2020年5月25日 (月) 11:54時点における版

側室(そくしつ)とは、一夫多妻制の下の身分の高い階層における夫婦関係において、夫たる男性の本妻である正室に対する概念で、本妻以外の公的に認められた側妻やにあたる女性を指す[1]

側室の実態の多様性

本来は正室の位置づけが「家族の一員」であるのに対し、側室の位置づけは「使用人」である[2]。この点で「本妻=正室」が家族の一員であるのとは厳密には異なる[2]

男女の情や同居人同士の親近感、その家の当主や家政の方針が絡んでくるため、上述の区分けは厳密には守られない事が多く、時代や身分によって正室と側室との関係は多様であり、君主と下僕のような厳格な差があったケースから、まるで実の姉妹のように扱いに大差がないケースまでいろいろであった。儒教倫理に基づく建前としては「正室が一人で側室が複数」が正格であったが、日本では稀に側室を複数あるいは一人もちながら正室を置かなかった例や、逆に複数の正室を置いて側室をもたなかった例などがあり、かなり変則的であった。

中国の諸王朝では正室である皇后が死去、または何らかの理由により正室の身分を剥奪されて正妻が存在しなくなると、継室として新しく皇后を立てるが、この際新たに迎えるのではなくその時点で多数いる側室の中から事実上の格上げとして新たに選ばれる場合がほとんどである。しかし我が国においてはこの例は基本的に存在せず、新しく迎えるかそのまま正妻を置かないままである。このように正室と側室の身分の差は厳然としており、また側室が子を生んだ場合の側室本人の扱いも時代や身分によって大きく異なるが、側室出生の子が後継者になる際には、名義上は正室の養子という形式にされていた。

例えば、江戸時代皇室では、側室は出産後、わが子を抱く間もなくただちに子と切り離され、本人の身分は低いままに置かれ、御役御免になって追放されることすらあり、自由に我が子に会うことも出来なかった。その一方、江戸時代将軍家大奥においてはまったく逆に、男子を出産した側室は「御部屋様」、女子出産の場合は「御腹様」として主人扱いとなった[2]。また、参勤交代を義務付けられていた大名も国元に「御国御前」と称される側室を置いたが、お家騒動の原因になることもあって、基本的に側室には権力を持たせないようにしていた[2]

男系男子の維持

儒教において、直系の男子が先祖の祭祀を守ることが重視された。また、婚姻制度にも、子孫繁栄、男系相続者の存在が重要視される。古代中国では正室が生んだ長男子を「伯」といったが、側室の生んだ男子のほうが年長である場合その長男子を「孟」といった。

一夫一妻制の下では、女性一人が生涯に出産できる子供の数は限られる。また、妻の健康状態、不妊、夫婦の不仲問題から、子ができないこともある。そのため、男系男子の子孫が安定的に確保できるとは限らない。その問題を防ぐため、かつては側室を持つことにより、男系男子の子孫を絶やさないことが重視された。

しかし、男性側の健康問題や不妊等により子ができないこともあり、この場合側室を持ってしても子を確保することはできない。だが、伝統的に一夫多妻制が採られていれば当該男性に異腹の兄弟などがいる可能性が高くなり、その者を養子とすることで男系男子による祭祀の承継を維持できる方法がとられてきた。

備考

  • 日本の戦国時代では配偶者の死去により他家に嫁ぐ例はあるが(例としてお市の方)、配偶者の死に関係なく疎遠となった結果、側室としてではなく別の配偶者の継室(正室)になった例として、一の台豊臣秀吉の側室から秀次の継室となる)がいる。
  • 日本の皇室において、側室が廃止されたのは大正期(中野信子 『不倫』 文春新書 2018年 p.188)。

注釈

脚注

  1. ^ 大辞泉
  2. ^ a b c d 稲垣史生「側室」『日本大百科全書』 小学館。

関連項目