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'''多久 茂富'''(たく しげとみ)は、[[江戸時代]]の[[武]]。[[肥前国]][[佐賀藩]]士。多久鍋島家(後多久氏)2代当主茂辰の父
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== 略歴 ==
== 略歴 ==
天正12年(1584年)、龍造寺家均(後藤家明)の子として生まれる。父家均は武雄領主[[後藤貴明]]の子で、天正5年([[1577年]])に[[龍造寺隆信]]と和睦の際に隆信の養子となった。
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万治2年(1659年)8月14日鳥坂で死去。享年75。茂富は[[葉隠]]の著者[[山本常朝]]の幼名「松亀」の名付け親で葉隠にも逸話が記載されている。
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== 参考文献 ==
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2020年3月9日 (月) 06:43時点における最新版

 
多久茂富
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正12年(1584年
死没 万治2年6月26日1659年8月14日
別名 慶法師、孫四郎、図書
墓所 佐賀県佐賀市八戸龍雲寺
主君 龍造寺高房鍋島勝茂
肥前佐賀藩
氏族 後藤氏後多久氏(多久鍋島家)、鍋島氏
父母 龍造寺家均龍造寺長信娘・真光院
多久安順
大田茂連娘・梅
茂辰
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多久 茂富(たく しげとみ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将肥前国佐賀藩士。

略歴[編集]

天正12年(1584年)、龍造寺家均(後藤家明)の子として誕生。父・家均は武雄領主後藤貴明の子で、天正5年(1577年)に龍造寺隆信と和睦の際に隆信の養子となった。

天正16年(1588年)母の兄・多久安順の養子となる。部屋住で大組頭となり大坂の陣にも出陣したが、寛永5年(1628年)養父・安順の勘気にふれて義絶し、増田村に蟄居して増田図書と名乗った。後に、藩主・鍋島勝茂より鍋島姓を許され鳥坂村に閑居した。寛永14年(1637年島原の乱に手勢を率いて出陣。寛永18年(1641年)閑居の身ながら出陣したことを賞され、勝茂より勘気を解かれる。

万治2年(1659年)8月14日鳥坂で死去。享年75。子・茂辰が跡を継いだ。

茂富は葉隠の著者山本常朝の幼名「松亀」の名付け親で葉隠にも逸話が記載されている。

参考文献[編集]