「維新の三傑」の版間の差分

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2020年1月9日 (木) 09:18時点における版

維新の三傑(いしんのさんけつ)は、倒幕・維新に尽力した、志士西郷隆盛大久保利通木戸孝允の3人を指す。

概要

木戸孝允の命日1877年5月26日で、京都病没

西郷隆盛の命日は1877年9月24日で、鹿児島戦没

大久保利通の命日は1878年5月14日で、東京紀尾井坂の変にて倒れた。明治10年前後に時期を同じくして死去している。

3人の死後間もない1878年11月には既に、大久保・木戸・西郷の伝記をまとめた岩村吉太郎編『皇国三傑伝』が刊行されている。

1884年3月刊、山脇之人『維新元勲十傑論』には、「西郷隆盛君の如きは木戸、大久保の二君と相並びて一時は明治の三傑とも称せられ……」[1]の記載があり、1892年11月刊の内山正如編『維新元勲三傑詩文集』では西郷・木戸・大久保について「蓋し明治復古の鴻業偉蹟は首として三氏の忠誠に出つ故に世称して明治維新の三傑と云ふ」[2]と解説している。

一方、獲鹿野史『薩長幕三傑伝』(1900年12月、上田屋書店。1909年2月、盛林堂より『明治三傑伝』として再刊)が三傑を「西郷・大村益次郎勝海舟」としたような異説もあった[3]。また前述の『維新元勲十傑論』は、「十傑」として三傑に続けて、江藤新平横井小楠・大村益次郎・小松帯刀前原一誠広沢真臣岩倉具視を挙げている。

この三傑の遺族のうち、木戸の養子・正二郎と大久保の長男・利和は、大名・公家以外の出身者(すなわち幕末まで無位無官であった家)としてはただ二家のみ、華族令発布当初より侯爵(他に武家で列せられたのは15万石以上の旧大名家のみ)に列せられた。(明治12年(1879年)には維新の功を賞し、先に没した木戸・大久保の遺族とともに、維新十傑の一人である広沢真臣の広沢家は華族に列せられた。当時の華族は旧藩主公家に限定されており、華族令制定以前にこの3例を除いて士族から華族に昇ることはなかった。明治17年(1884年)、嫡子金次郎伯爵が授けられた。早く斃れた広沢の名は今日では三傑に比べて影が薄いものの、当時は死してなお木戸に準ずる畏敬を受けていたことが伺われる。)

西郷の遺児だった嫡男の寅太郎は少し遅れて1902年に維新の功で伯爵と扱いが低いが、これは隆盛が逆賊として最後を遂げた経緯を考えれば(死後名誉回復された際も他の二人の贈従一位より劣る贈正三位であった)むしろ破格であり、この三人が功臣としては死後も別格扱いであった証左となっている。

ちなみに、発布当事(1884年)に残る功臣の筆頭格として政府の権勢を握っていた伊藤博文山縣有朋黒田清隆らはいずれも伯爵であり(伊藤と山縣は最終的には公爵)、まだ二十代前半で何の実績もない木戸正二郎と大久保利和に対し、あえて自分達より格上の侯爵で遇したことになる。

徳富蘇峰が生涯をかけた大著『近世日本国民史』最終巻に、三者を論じた『明治三傑』(講談社学術文庫1981年、元版は第100巻『近世日本国民史 明治時代』時事通信社)がある。

脚注

  1. ^ 『維新元勲十傑論』、16頁
  2. ^ 『維新元勲三傑詩文集』「凡例」1頁
  3. ^ これを取り上げた宮武外骨は双方に、「依怙の選定」「偏見の一つ」と辛辣な評を与えている(宮武外骨『明治奇聞』(河出文庫、1997年)、101〜2頁)

関連項目