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1997年は清原が開幕から4番に座って最終的には[[打率]].249・32本塁打・95[[打点]]の成績を残したが、当時の[[セントラル・リーグ]]新記録<ref>{{Cite web|url=http://bis.npb.or.jp/history/ssb_so.html|title=三振 【シーズン記録】|work=NPB公式サイト|accessdate=2013年10月9日}}</ref>となる152[[三振]]を記録するなどしたために批判され続け、後半戦にはファンから応援を[[ボイコット]]される屈辱を受けた。松井は{{by|1998年}}に[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠を獲得し、{{by|1999年}}は無冠ながら[[ロベルト・ペタジーニ]]と争って自己最高の42本塁打を記録した。清原は1998年から下半身の故障に苦しんだ<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67661.html|title=清原日本新、原抜く13年連続20号|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>。特に1999年は春先から細かい故障が相次ぎ<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67664.html|title=清原「来季は誰にも文句言わせない」|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>、自身初の[[規定打席]]未到達シーズンとなった。{{by|2000年}}は負傷復帰後から清原が活躍を続け<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67685.html|title=渡辺オーナー、清原と会談し謝罪|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>、開幕から4番を務めた松井はいずれも自己最高の打率3割1分6厘・42本塁打・108打点を記録して本塁打王と打点王、[[最優秀選手 (日本プロ野球)|シーズンMVP]]、日本シリーズMVP等を獲得して巨人の6年ぶり日本一の原動力となった。{{by|2001年}}は清原は打率.298・29本塁打・121打点の成績で打点王争いも繰り広げ、松井は打率.333・36本塁打を記録して自己初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得した。{{by|2002年}}は清原は途中に故障で離脱して55試合出場に終わるが、打率.314・12本塁打の成績を残し、松井は自己最高の打率.334・50本塁打・107打点の成績で本塁打王と打点王の二冠を獲得した。
1997年は清原が開幕から4番に座って最終的には[[打率]].249・32本塁打・95[[打点]]の成績を残したが、当時の[[セントラル・リーグ]]新記録<ref>{{Cite web|url=http://bis.npb.or.jp/history/ssb_so.html|title=三振 【シーズン記録】|work=NPB公式サイト|accessdate=2013年10月9日}}</ref>となる152[[三振]]を記録するなどしたために批判され続け、後半戦にはファンから応援を[[ボイコット]]される屈辱を受けた。松井は{{by|1998年}}に[[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]と[[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]の二冠を獲得し、{{by|1999年}}は無冠ながら[[ロベルト・ペタジーニ]]と争って自己最高の42本塁打を記録した。清原は1998年から下半身の故障に苦しんだ<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67661.html|title=清原日本新、原抜く13年連続20号|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>。特に1999年は春先から細かい故障が相次ぎ<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67664.html|title=清原「来季は誰にも文句言わせない」|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>、自身初の[[規定打席]]未到達シーズンとなった。{{by|2000年}}は負傷復帰後から清原が活躍を続け<ref>{{Cite web|url=http://www5.nikkansports.com/baseball/kiyohara/reprint/giants/entry-67685.html|title=渡辺オーナー、清原と会談し謝罪|work=日刊スポーツ|accessdate=2013年10月9日}}</ref>、開幕から4番を務めた松井はいずれも自己最高の打率3割1分6厘・42本塁打・108打点を記録して本塁打王と打点王、[[最優秀選手 (日本プロ野球)|シーズンMVP]]、日本シリーズMVP等を獲得して巨人の6年ぶり日本一の原動力となった。{{by|2001年}}は清原は打率.298・29本塁打・121打点の成績で打点王争いも繰り広げ、松井は打率.333・36本塁打を記録して自己初の[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]を獲得した。{{by|2002年}}は清原は途中に故障で離脱して55試合出場に終わるが、打率.314・12本塁打の成績を残し、松井は自己最高の打率.334・50本塁打・107打点の成績で本塁打王と打点王の二冠を獲得した。


同年オフに松井が[[メジャーリーグベースボール]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]へ移籍したため、松井と清原のMK砲は終焉を迎え、以後は清原の巨人退団までの間、高橋とのKT砲となった。
同年オフに松井が[[メジャーリーグベースボール]]の[[ニューヨーク・ヤンキース]]へ移籍したため、松井と清原のMK砲は終焉を迎え、以後は清原の巨人退団までの間、高橋との'''KT砲'''となった。


== 松中と小久保のMK砲 ==
== 松中と小久保のMK砲 ==

2019年11月10日 (日) 12:24時点における版

MK砲(MKほう)とは、主にかつての読売ジャイアンツにおける松井秀喜清原和博や、福岡ソフトバンクホークスにおける松中信彦小久保裕紀のコンビを指す言葉である。『MKアベックアーチ(アベック弾)』とも称していた。

松井と清原のMK砲

読売ジャイアンツへ移籍した清原和博は前年に打率.314・38本塁打を記録して急成長を遂げた松井秀喜1997年からコンビを組み、MK砲と呼ばれて注目された。1998年からは高橋由伸も加えてMKT砲とも呼ばれた。

1997年は清原が開幕から4番に座って最終的には打率.249・32本塁打・95打点の成績を残したが、当時のセントラル・リーグ新記録[1]となる152三振を記録するなどしたために批判され続け、後半戦にはファンから応援をボイコットされる屈辱を受けた。松井は1998年本塁打王打点王の二冠を獲得し、1999年は無冠ながらロベルト・ペタジーニと争って自己最高の42本塁打を記録した。清原は1998年から下半身の故障に苦しんだ[2]。特に1999年は春先から細かい故障が相次ぎ[3]、自身初の規定打席未到達シーズンとなった。2000年は負傷復帰後から清原が活躍を続け[4]、開幕から4番を務めた松井はいずれも自己最高の打率3割1分6厘・42本塁打・108打点を記録して本塁打王と打点王、シーズンMVP、日本シリーズMVP等を獲得して巨人の6年ぶり日本一の原動力となった。2001年は清原は打率.298・29本塁打・121打点の成績で打点王争いも繰り広げ、松井は打率.333・36本塁打を記録して自己初の首位打者を獲得した。2002年は清原は途中に故障で離脱して55試合出場に終わるが、打率.314・12本塁打の成績を残し、松井は自己最高の打率.334・50本塁打・107打点の成績で本塁打王と打点王の二冠を獲得した。

同年オフに松井がメジャーリーグベースボールニューヨーク・ヤンキースへ移籍したため、松井と清原のMK砲は終焉を迎え、以後は清原の巨人退団までの間、高橋とのKT砲となった。

松中と小久保のMK砲

西武ライオンズに所属していた秋山幸二、清原和博のAK砲のように、チームの一角を象徴する松中信彦小久保裕紀はチームの主砲として活躍してきた。この2人は1999年、2000年にチームを優勝へと導く2人へと成長していった。しかし、2003年に小久保が怪我でシーズンを棒に振った上に、2004年シーズンは無償トレード事件で巨人に移籍したため、松中と小久保によるアベック弾は一旦見られなくなってしまう。

ところが、2006年シーズンオフに小久保がFA権を行使し、再びホークスに戻って来たため、MK砲が復活し、それと同時に、横浜ベイスターズから多村仁が交換トレードでソフトバンクに入団し、2006年に弱っていたソフトバンクの打線が復活する。2007年4月8日に実に4年半ぶりとなるMKアベックアーチが飛び出した。また、同年4月21日には東京ドーム、(対日本ハム戦)で多村、松中、小久保がそれぞれホームランを放ち、TMK砲が完成した。

このアベックアーチにはAK砲のように『敵地で飛び出すと負けない』という『ビジター不敗神話』があったが、2008年4月23日の対楽天戦(クリネックススタジアム宮城)でソフトバンクが3-4で敗れてしまい、MKアベックアーチが飛び出したビジターゲームの連勝は18でストップした。

2012年を以って小久保が現役を引退したため、MK砲は消滅となった。

脚注

  1. ^ 三振 【シーズン記録】”. NPB公式サイト. 2013年10月9日閲覧。
  2. ^ 清原日本新、原抜く13年連続20号”. 日刊スポーツ. 2013年10月9日閲覧。
  3. ^ 清原「来季は誰にも文句言わせない」”. 日刊スポーツ. 2013年10月9日閲覧。
  4. ^ 渡辺オーナー、清原と会談し謝罪”. 日刊スポーツ. 2013年10月9日閲覧。

関連項目